第一章 生贄
ほんの好奇心であった。
子どもらは、村の奥にある森を歩いていた。
大人達から、子どもだけでは決して入ってはならぬと言われている森の中に、入ってしまったのだ。
いいかい、あの森の奥には、沼があってな。
沼にはその昔、それはそれは怖い妖魔が住みついたのよ。
その妖魔は、沼に近づく村人を、たくさん、たくさん喰ろうた。それはもう、たくさんな。
村のお婆の昔語りを、子どもらは思い出していた。
その妖魔はな、悪さをしすぎた。だから、姫神子さまと仮面呪術師様に封印されてしまったのよ。
どこに封印されたのかって?
その、沼にさ。
沼には今も妖魔が住みついて、封印がとけるのを今か今かと待っておる。
だから決して、沼に入っちゃなんねぇ。
結界がとけてしまうからな。
いいかおめぇら。
沼に近づいちゃなんねぇ。結界をといちゃなんねぇだ。
それが、こん村の掟よ。
鬱蒼とした森の中、葉擦れの音が不気味な響きを持って子どもらの耳を打つ。
森の中の道なき道を、子どもらは進んだ。
お婆の言っていた沼を目指している。
誰が言い出したか、肝試しと称して。
さすがに夜に家を抜け出すことは出来ず、昼間に決行したが、森の中は薄暗く、充分に子どもらの恐怖心を煽った。
木洩れ日が少なく、薄暗い森の中はどこか湿り気を帯びていて、気持ちが悪い。
「ねぇ、もう帰ろうよ」
男の子が一人、泣きごとを言った。
「な、何を言うか。おまえ怖いのか」
一人がその子に向かって虚勢を張る。
「こ、怖くなんかないやい」
そう言って、泣きごとを漏らした子どもは、引き返す機会を失い、他の子らと共に森へ分け入る。
しばらく行くと、木々の途切れた場所へでた。
遮るものが無くなった太陽が、その場所を明るく照らしている。
子どもの一人が、開けたその場所に小さな沼を見つけた。
太陽の光を受け、水面がきらきらと輝いている。
沼には美しい紅色の花が、いくつも浮いていた。
絶景に、今までの怖さを忘れ、子どもらは歓声を上げ、沼に近づいた。
忘れてしまっていたのだ。
決して沼に近づいてはならぬ、決して沼に入ってはならぬという、村の掟を。
その後。
子どもらは、二度と村へ帰ることはなかった。
夜半過ぎ。村長の家に、村の男たちが集まっていた。
昼間遊びに出掛けた子どもら七人が、夜も更けたというのに、いまだ帰らぬからであった。
「一体、どこへ消えたのか」
男の一人が口火を切った。子どもらの行きそうな場所を散々捜しまわり、見つからなかった後なだけに、その声はどこか疲れをおびていた。
「村長。これだけ捜して、おらなんだ。まさかとは思うが、沼へ行ったんじゃなかろうか」
初老の男に話を向けられた村長は、黒く日焼けした厳めしい顔を、苦渋に滲ませた。いなくなった子の中に、村長の息子もいたのである。
「今、沼ぁ見に行かせている」
村長が告げた。辺りがざわつく。
まさか、沼に。
沼には決して入ってはならぬ。
それが村の掟。
もし、入ったりすれば……
「村長!」
ざわめきの中にあった部屋の戸が、勢いよく開けられた。
沼を見に行った男の一人が、部屋へ駆けこんできたのである。
「どうした、喜兵衛」
喜兵衛と呼ばれた男は、青ざめた顔で、ゆっくりと集まった男達を見回した。
「沼が、沼が……」
その後が続かぬ。
業を煮やした村長が、叩きつけるように声を上げた。
「沼がどうした!」
喜兵衛は唾を飲み込むと、言った。
「沼が、真っ赤に染まっとる。それから、太助が……」
言って、喜兵衛は一度部屋の外へ出ると、布に包まれた何かを持って部屋へ戻ってきた。
その布を捲る喜兵衛の腕が震えている。
捲られた布の中身を見た男たちは、奇声を上げ、あるいは腰を抜かした。
布に包まれていたのは、誰がどう見ても、人の腕であった。
一体どうしたのだろう。
上の方が騒がしい。
村長の家の地下にある一室に、幼子が一人座っていた。
生まれてこの方、ほとんど外へ出たことのない幼子は、そんなことを考えて、天井を見上げた。
窓もない部屋には、母の使っていたという鏡と、着物の入った行李が置いてある。
部屋にあるものはそれくらいであった。
ろうそくの明かり一つない部屋の隅で、上の喧騒を聞きながら、幼子は膝を抱えた。
どこか恐ろしい感じがする。
小さな胸にそんな思いが去来する。
何か恐ろしいことが起こっているような、そんな予感がするのだ。
カタンっと、音が聞こえた。地上へと通ずる階段を塞ぐ戸が、開かれた音だと知れた。
聞き慣れた音だ。
誰かが灯りと共に、階段を下りてくる。
「村長がお呼びだよ。出ておいで」
村長に仕える女の声だった。幼子の面倒を見てくれていた婆が死んだ後、現れるようになった小間使いだ。たびたび、幼子に食事を運んでくるこの女を、幼子は恐れていた。言うことを聞かぬと打たれるからである。
幼子は素直に従った。しばらくぶりに地下の部屋を出て、小間使いの後に続く。
村長のいる部屋の前についた。小間使いは、ゆっくりと部屋の戸をあけ、土下座する。
「連れてまいりました」
久方ぶりに見る村長は、小間使いに深く頷き返し、女の後に立っていた幼子を手招いた。
幼子は一定の距離まで近づくと、そこで正座する。
「お久しぶりでございます。父様」
幼子の声が部屋に静かに通った。
幼子に村長は答える様子を見せず、少し視線をずらしながら、言った。
「忌み子であるおまえにも、ようやく外へ出る機会ができたぞ」
幼子は目を見開いた。
外へ出ると聞き、驚いたからである。
忌み子。
母を殺して生まれてきた子どもを、この地方ではそう呼ぶ。
忌み子として生まれてきた子どもは元来、亡くなった母御と一緒に墓に埋められるのが習わしだ。しかし、死ぬ間際。幼子の母は、それを認めなかった。村長は仕方なく家の地下へと息子を隠し、育ててきたのである。
忌み子は妖術を持つと言われる。
そのため、幼子は村外へ秘匿されてきた存在だった。そんな自分を外へ出すなど、あり得るはずがない。
それくらいのことは、幼子にも分かった。
「何か、あったのですか」
幼子は静かな声で問うた。
自分を外へ出さなければならない何かがあったとしか思えない。
「水妖の話は知っておるか」
村長の言葉に、子どもは頷く。
「その妖魔の結界が解けたのだ」
幼子は息を飲んだ。今よりもずっと小さき頃、婆に聞いた昔語りが、幼子の頭の中に蘇る。
「人が、喰われたのですね」
「おまえは、年の割に聡いな。忌み子でさえなければ……」
そこまで言って、村長は堅く唇を引き結んだ。
その後、深く息を吐く。
一度目を瞑った後、幼子をしっかりと見据えた。
「おまえに村長として命ずる。妖魔の怒りを鎮めるため、生贄となれ」
幼子は息を飲んだ。小さな手を胸にあて、大きく息を吸い込んだ。
「はい。父様」
幼子はゆっくりと、父に頭を下げた。