第十章 爆発
子どもを剛毅にまかせ、凪はひたすら沼を目指した。
怒り狂った妖魔の攻撃は凄まじいものであったが、凪はあちこち傷を作りながらも、沼へ向かってひた走った。
沼の中にいるはずの妖魔の本体を攻撃するためである。
いくら、触手を攻撃しても、妖魔にはさほどの痛手を与えることができぬからだ。
本体を攻撃する。
凪の頭の中には今、それしかなかった。
不意に、凪は足をすくわれた。
触手が足首に絡みつき、凪の身体を持ち上げたのだ。
一気に凪の身体にいくつもの触手がまとわりつき、凪を締め上げた。
思わず呻いたと同時に、凪は沼の中へと引きずりこまれた。
「兄ちゃん、助けてよ。凪が、凪が死んじゃう」
子どもは、剛毅の着物を掴んで揺さぶる。
「ねえ、凪を助けて」
必死の形相で叫ぶ子ども。
だが、剛毅は首を横に振る。
「駄目だ。俺はここを動けん」
「どうして?」
「俺はおまえを守ると凪と約束した。俺が動くと結界が解ける」
「でも、凪が」
また、凪の方へ走りだそうとする小さな身体を抱きとめながら、剛毅は言った。
「凪は大丈夫だ。辛いだろうがここで待て」
子どもへの言葉であったが、それは剛毅自身。自分に言い聞かせているようでもあった。
沼の中に引きずり込まれた凪は、水中で妖魔の姿を見た。
思っていたとおり、触手はこの妖魔の根の部分だったようだ。
大きな蓮の花が沼の中に沈んでいた。
その蓮の花の部分が、真っ二つに割れた様に、大きな穴があいていた。
それは、妖魔の口であった。鋭い歯が覗いている。
凪は、頭の中で、呪文を唱え始めた。
その間も、水中に沈んだ凪は、どんどんと妖魔の方へ引きずられていく。
息が続く間に終わらせなければならない。
『破邪刀よ。炎を纏え……』
凪は、まとわりつく触手から抜け出そうともがく。
しかし、そのまま凪は妖魔の大きな口の中へ入った。
触手が凪の身体から離れた瞬間。
刀を妖魔の舌へと突き立てる。
『爆火!』
凪が心の中でそう叫んだ刹那。
刀が光を発した。
凄まじい悲鳴が頭の中に響いた。
「伏せろ」
言いながら、剛毅は子どもの頭を地面に押さえつけ、自らも地に這った。
刹那。
沼の方から大音が轟いた。
爆風が山中の木々をなぎ倒す勢いで、通り過ぎて行く。
炎の障壁が爆風に攫われるように消え、身体に風が叩きつけられた。
一陣の風が通り過ぎ、剛毅はゆっくりと身を起こした。
「い、痛い」
子どもの声が、下から聞こえ、剛毅は慌てたように、子どもの頭の上に置いていた手を退けた。
「悪い。大丈夫か」
剛毅の言葉に子どもは頷き、手をついて身体を起こす。頬についた土を手で払い落しながら、辺りをせわしなく見回す。
「ねぇ、凪は?」
剛毅は答えない。
剛毅の目が、自然と沼のある場所へと向かう。
子どもが、ゆっくりと足を一歩前へ踏みだし、走り出した。
先ほどまで沼のあった場所に、今、大きな穴があいている。
沼から伸びてきたたくさんの触手も、水面に浮いていた蓮の花も、沼の中にいたはずの妖魔の姿もない。
沼が一つ無くなっていたのだ。
水一滴すら穴の中には残っていなかった。
まるで、最初からそこには何も無かったかのように。
大きな穴がただ、開いていただけのように。
「ねぇ、凪は? 凪はどこにいったの?」
背後から近づいてきた剛毅を振り返って、もう一度聞いた。
剛毅はそれには答えず、沼のあった場所に目を落とした後、子どもの腕を捉えた。
驚いて身体を震わせた子どもの腕を、剛毅はじっと見つめる。
「よかったな。印が消えている」
確かに、子どもの腕にあった黒い痣は消えていた。
安堵の声を発した剛毅の手を振り払い、子どもは辺りに向かって声を張り上げた。
「凪、凪ぃ。どこ? どこにいったの?」
凪がいない。
それが、もの凄く怖かった。
また、一人になる。
また、一人になってしまう。
子どもは、先ほどまで水がはっていた大穴の横を沿うように走り出した。
凪の名前を大声で叫ぶ。
怖い。
一人になりたくない。
凪。
凪。
凪!
「凪ぃ。どこ? いやだよ。いなくなっちゃいやだ」
子どもの視界が揺らいだ。涙が目の縁に溜まる。
「凪ぃ。一人にしないで。一人にしないでよぉ」
涙がこぼれた。
走ったせいで、乱れた息に嗚咽が混じる。
「凪ぃ。凪っ……あっ」
石に足をひっかけ、子どもが派手に転んだ。
「うぇぇ」
痛みと悲しみと絶望が、子どもの心を支配した。
子どもは、大声で本格的に泣き出した。
「おい、大丈夫か」
どこか焦ったような声が耳に届く、子どもは反射的に顔を上げた。
木々の間から現れた姿を見て、子どもがさらに泣きべそをかく。
「凪ぃ」
子どもは立ちあがって、走った。
足が、膝が痛い。
転んだ時に痛めたのだろう。
それでも懸命に走った。
「凪ぃ」
子どもは凪の身体に半ば体当たりするように抱きついた。
木々の間から現れた凪は、あちらこちらに擦り傷を作っているが、大きな怪我はなさそうだ。
「無事だったようだな。凪」
そう声をかけたのは剛毅だ。その声には安堵が滲みでている。
凪は、縋りつくように抱きついてきた子どもの背に、腰を少し屈めて手を添えた。
「ああ、奴を滅したはいいが、飛ばされて木の枝に引っかかってな。なかなか下りられなかった」
間抜けだなと言う剛毅に、煩いと応じて、凪は子どもの頭に片手を置いた。
「何を泣いているんだ。転んで痛かったか?」
子どもは凪の袴に顔を埋めたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
「なら、怖かったのか? 妖魔に襲われたのだからな」
その言葉に、さらに子どもは首を横に振った。
「ちっ、違っ。こ、怖かったけど、違うよぉ」
凪は子どもの肩に手を置いて、その身をゆっくりと引き剥がすと、膝をついた。
はらはらと涙をこぼし続ける子どもに、目線を合わせたのだ。
子どもの両頬に手をあて、親指でそっと子どもの涙をぬぐってやる。
子どもは泣き続けるばかりだ。
「凪ぃ。怖いよぉ。いなくなっちゃいやだぁ、いやだよぉ」
しゃくりあげながらの、子どもの言葉。
凪はどう反応していいか分からず、そっと近くに立つ剛毅に目を向ける。
剛毅は軽く肩をすくめただけだった。
「俺はここにいるだろう。俺が、死んでしまうとでも思ったのか?」
尋ねると、子どもはさらに声を上げて泣きだした。
「お、おい」
「死んじゃいやだぁ。死んじゃいやだよう。凪、いなくなっちゃいやだぁ」
拳を目にあてて、子どもはとめどなく流れる涙をぬぐう。
「もう一人はいやだぁ。いやだよう。一緒にいて、一緒にいてよ、凪ぃ」
凪は必死で訴え続ける子どもを抱きしめた。
細く華奢な身体が、涙で震えている。
「大丈夫。ここにいる。一緒にいる。絶対に、いなくなったりしない。もう一人にはしないから」
そう言って、自分の存在を分からせるように、凪は強く、強く子どもを抱きしめたのだった。