第九章 夢と現実
嫌な気配を感じて、凪は目を覚ました。
遠くで物音が聞こえた。凪は起き上がり、横で寝ていた剛毅に目を向けた。
剛毅も先ほどの気配を察したのだろう。すでに体を起こしていた。
「おい、凪」
「ああ。結界が破れた」
凪はさっと視線を走らせ、闇に慣れてきた目で子どもの姿を捜す。
いない。
どこにも。
何故、気づかなかった。
「やられた」
そう呟くと、凪は剛毅と共に家を飛び出した。
板垣の木戸が開いている。
子どもが自ら外へ出て行ったのだろう。
一体どこへ。
凪はそっと目の上に掌をかざした。
すると、夜闇に沈む山中の暗がりが、昼日中ほどではないが、常よりも鮮明に見えた。
術力を行使したのである。
凪と剛毅は山の中をひた駆けた。常人ではありえぬ速さで。
子どもの足で、そう遠くへは行くまい。
凪と剛毅は子どもの気配を必死で辿った。
だが、気配が、辺りに散らばる瘴気に紛れ、分かり辛くなっている。
凪の胸に焦りが生じた。
子どもは、常ではありえぬ速さで、山の中を歩いていた。木の根が蔓延る山中。
草履を履いていない足は草や木の根で傷つき、血が流れている。子どもは痛がるそぶりも見せず、前へ前へと進んでいった。
しばらくすると、木々の途切れた場所にでた。夜空に浮かぶ月がその場所を照らしだしている。
そこには、子どもの住んでいた村と似たような沼があった。紅色の蓮の花が、美しく咲いている。
子どもは、沼へ向かって行く。
子どもの目は相変わらず虚ろで、何も映していないようだった。
沼の中から、ゆっくりと触手のようなものが現れた。
それすらも気づかぬ様子で、さらに子どもは足を沼へ近づける。
触手は、一本、二本、三本と増えて行き、一気に子どもへ触れようとした。
刹那。
子どもの腕が動いた。
札の貼ってある腕が。
子どもの意思ではない。
腕に貼ってあった姫神子の札が、意思をもったように動き、腕を持ち上げたのだ。
札は腕から剥がれ、子どもと触手の間へ飛びだした。
まるで盾のように、子どもの腕にまかれていた札が、触手を阻んだ。
同時に、青白い光を放つ。
子どもへと伸びてきた触手が、慌てたように子どもから遠ざかる。
そして、こどもの目に正気の光が戻った。
山中に強い風が起こった。
その瞬間、木々の間から青白い光が洩れてきたのを、確かに目にした。
そして、子どもの叫び声を聞いた。
すさまじい程の妖気が辺りを覆い始めている。
「あっちだ」
凪は剛毅に声をかけ、木々の間をすり抜けながら、およそ常人では出せぬ速度で、山道を駆け抜けた。
子どもの姿を発見する。
木々の隙間から沼が見える。
東の村で見たものと同じ触手が飛び出し、今にも子どもを捉えようとしていた。
妖魔は怒り狂ったような声を上げている。
凪は駆けながら、両の手を打った。
その手に息を吹きかけると、掌から刀を引き抜く。
「凪、凪、凪ぃ!」
子どもが頭を抱えて、しゃがみこんだ。
「凪ぃ。凪ぃ」
自分の名を叫び続ける声が耳に届く。
凪は、間一髪子どもの前に躍り出た。
迫りくる触手を一閃のもとに切り捨てる。
落ちた触手が蠢き、地上でのたうちまわった。
切られた触手の先端が、即座にもとの形に再生する。
「凪、避けろ」
不意に声が聞こえて、凪は考えるよりも先に身体が動いた。
子どもを抱え、左に跳躍する。
先ほどまで凪と子どもが居た場所に、音を立てて触手が突き刺さる。そこへ、剛毅の呪術、炎華の炎が飛んできた。
燃える触手。妖魔の悲鳴が辺りに轟く。
「凪ぃ。怖いよ」
「妖魔の声が聞こえるのか」
凪の問いに、子どもが頷く。
呪術師でもない子どもに、妖魔の声が聞こえたことに少なからず驚いたが、今はそんな場合ではなかった。
触手は次から次へと沼から這い出てくる。
「凪っ」
悲鳴のような声をあげ、子どもが凪の着物を掴む。
怯えたように、凪を呼ぶ子どもに、凪は襲い来る触手を避け、あるいは刀で切り払いながら声をかける。
「大丈夫だ。心配するな」
凪は子どもを片腕に抱え直し、跳躍する。
触手に炎の術で応戦している剛毅を目の端に捉え、凪は叫んだ。
「剛毅」
凪は力任せに、子どもを放り投げた。
子どもの悲鳴が遠ざかって行く。
驚いたような剛毅の顔を一瞬捉え、すぐに凪は妖魔へと目を向けた。
「あっぶねぇな。大丈夫か」
木の幹にぶつかる寸前に、子どもの身体を捕まえて、剛毅は沼から遠ざかるように後退した。
そして、懐から札を取り出すと、呪文を唱える。
「炎よ、その姿を現せ。盾となり、我が身を守れ」
ごうっ、と大きな音を立てて、剛毅と子どもの周囲を囲むように真っ赤な炎が噴きあがった。
触手が炎の壁に阻まれて、二人に近づくことができない。
剛毅の頭の中に、妖魔の怒り狂う声が響く。
『おのれ、人間ども。許さぬ。許さぬぞ』
炎の壁の先に、触手を切り捨てながら沼へと進んでいく凪の姿が目に映る。
「凪の野郎。子ども投げるなら投げると言え。馬鹿者が」
吐き捨てるような剛毅の声を耳にしたのか、片腕に抱いていた子どもが、剛毅を振り仰いだ。
「兄ちゃん?」
「おう。もう大丈夫だ」
剛毅は子どもをゆっくりと地に下ろす。
「とりあえず、ここにいれば安心だ。奴はこっちには入ってこれねぇ。いいか、この炎の壁の外へは出るなよ」
子どもは頷いた。子どもの身体が震えている。よほど怖い思いをしたのだろう。
「ねぇ、凪は? どうしてこっちにこないの」
子どもはじっと炎の障壁をすかし見る。凪の後ろ姿が、沼へ入って行くのを見て、声を上げた。
「凪、凪、凪ぃ」
「おいこら、待て」
凪を追って、炎の障壁を突き抜けようとした子どもの襟を、剛毅は慌てて掴んだ。
それでも必死に、前へ行こうとする子どもを力ずくで引き寄せ、腕に抱きとめる。
「いや、離して。凪が行っちゃう。凪、凪ぃ」
暴れる子どもを、剛毅はより一層強く抱きしめた。