そして幕は上がる・DC
重ねて言おう。金髪っ子あつまれーとは一切関係ありません。
此処は魔法が当たり前に存在する世界、アーステラ。だが、この名を知る人間は意外と少ない。今、この世界の一角で新しい運命が動こうとしていた。
「華ー梨ー」
緩いウェーブの長い金髪の少女、ティンが黒く長い髪の少女、華梨に後方から走り寄る。華梨は両の手に買い物袋を提げたままティンの方へと振り向いた。
「ティン、袋一つくらい持ってよ」
「えーだって買い物当番華梨じゃん。あたしじゃないしー」
ティンはそう言って後頭部を抱える。対する華梨は溜息を吐いて。
「全く、何の為について来たのよ」
「だって華梨が付いて来いって言うからじゃん」
「私は、買い物行くから手伝えって言ったの!」
「はいはい」
華梨はそう言って手に持った袋を見せ付ける。中身は野菜類が非常に多い。ティンはそれを見ても何処吹く風と持とうとさえしない。
二人はそんな言い合いを続けながら家路についていた。これが彼女達にとっての当たり前。彼女達にとってのいつもの日常。こんなやりとりが、ティンと華梨にとっては当たり前であった。そう、そのはず。
まだ、この時までは。
と。瞬間、華梨の頭に何かが引っ掛かる。
(何これ、熱源反応? こっちに――)
火の魔法使いである華梨の頭に何か熱いものが背後から突っ込んでくるのが分かった。狙いは、ティン。隣の馬鹿面晒した幼馴染はそんなことも知らずに暢気に歩いている。華梨は素早くティンを逃がす様に背中を押し、直後に身を返した彼女は素早く右手に間に合えと念じて魔力を込め、腹部に黒い何かが激突する。
「ごぶ」
「華、梨……?」
弾かれる様に吹き飛ぶ華梨。持っていた買い物袋も宙を舞って同時にアスファルトの上にブチまかれ、転がり、一種の惨状が広がる。ティンはその様子を立ったまま呆然と見ている。
「な、に、これ。何なの」
「――外したか」
ティンは声のする方へとゆっくりと顔を向ける。そこには黒いボロ布のマントに、漆黒の仮面、そして灰色の髪の人間らしきものが立っていた。仮面の人間からは、男の様な低い声が漏れる。
「お、お前、が。お前が、やったのか?」
怒りの表情を浮かべ、射殺すような視線を謎の者に叩きつける。彼女の中で一つ、何かが切れる。
「我らの目的は一つだ。貴様の持つ、神剣を頂く」
男は手から黒い波動をティンへと放ち、最小限の動きでかわす。
その瞬間。ピッ、と彼女の頬から熱い液体が流れた。
「――え?」
「……素早い娘だ」
ティンは驚きの表情を浮かべ、頬に触れ、触れた手を見る。赤い、粘着力のある、鉄の匂いを発する液体が、指に絡みついていた。それは、この世界の通りでは見る者さえ珍しい代物。魔力の制約により、同種族に外面的な怪我を与えられないこの世界において、闘いでは最も見られないモノ。
血だ。真赤な、命の水。鉄の匂いを放つ、真っ赤で燃えるような血。
「え、あ、う、え……」
「次は、仕留める」
男の言葉に目もくれず、ティンはゆっくりと横たわる幼馴染を見る。一見ピクリとも動かず、倒れ込んだ黒髪の幼馴染。さきほど、出血する攻撃を腹部に食らった、幼馴染。
ピシリと。そんな音がティンの脳内に響き渡る。彼女の中にある何かがもう一つ切れた。切ってはいけないもの。大事な宝物。彼女にとって何よりも大切な黄昏が、今日、このときを持ってずらされた。
「う、あ。あ、あ……うあ、あ……うああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
取り乱す様に、身体に溜め込んだ何かを吐き出す様に叫びあげる。それは、怒りの産声の様で、外に這い出た事を喜ぶような声で。
ティンの脳内に種のイメージが浮かんだ。そしてその種に罅が入り、やがて割れる。割れた種から光の芽が出て、芽は次々に枝分かれして、あちこちに咲き誇る。ティンは、そのイメージだけを見て意識を手放した。母親の腕に抱かれる様に。温かい布団に埋もれる様に。
ティンの身体から太陽に等しいと思うほどの光が溢れ出す。まるで天から舞い降りた聖女か、女神かの様な眩し過ぎる光を。それは正しく黄昏の輝き。黄金に輝く終焉の光。
「こ、これ、は……!」
仮面の者はそれを見て、まるで好奇心に心躍るような声を出す。だが、表情は欠片も見えない。光はやがてティンの右手に収束し、一つの十字架となる。神々の戦争の後に人間界に産み落とされたと言われる神の十字架。神剣、ラグナロック。ラグナロクの後、人間達の元に降り立った光の十字神剣。
「こ、これが、ラグナロック! これが、神剣! す、素晴らしい! 素晴らしい輝きだ! ははっ、はははっ! あの娘、ラグナロックを本召喚し」
男の言葉はこれ以上続かなかった。ティンは無表情で駆け出すと男に剣を振るう。軽く息を吐き、神剣を薙ぎ払い、振り下ろす。闘いは酷いくらい一方的だった。ティンは本能に身を任せるように剣を振るい続ける。獣が獲物をくいちぎる様に。
相手を切って地面に叩きつけ、跨って剣を叩きつけ、切り込み、薙ぎ払い、振り下ろし、突き刺し、何度も振り回し、何度も切裂き、何度も突き刺し、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。力の差を思い知らせる様に。何度も、その剣を振るい続ける。
「ぅ……ぐ」
華梨は呻き声を上げながら目を開ける。腹部をガードした右の手の感触を動かして把握する。
(結構、ぶじみたいだな……手が、焼ける様に、痛い)
身体を起こしながら周囲を見渡し、すぐ近くで起きている惨劇を目にする。
「……夕飯の材料が……いや、それよりティンは……え?」
ティンが、仮面の男を押し倒して光り輝く黄昏の剣を振るい続けていた。何度も叩き付け、何度も切り続け。
「お、おい、ティン。もうやめろ」
ティンは大振りで無抵抗の相手を遠慮も無く神剣で嬲り続ける。
「み、見ろ。私は無事だっ、ごほっ、ごほっ!」
咳き込みながらも華梨は自身の無事を訴える。ティンは聞こえた様子も無く、ただ無心に剣を振るい続ける。まるで壊れた機械のように。
「もういい、もう良いからごふっ、やめ、ろ! 止めるん、だっ」
立とうとして華梨は足が縺れて再び地に伏す。まともに立てない己を悔やむと同時に鬼神の如く、仮面の男を斬り続ける幼馴染を見据える。
「もう、止めてくれ……」
華梨は、力無く呟く。彼女が、何処か遠くへ行ってしまいそうで。そんな思いを無視するように、ティンは剣を振るい続ける。
「もう、良いから……」
ティンの剣は止まらず敵を切り続ける。薙ぎ払い、切り付け、叩き付け、叩き付け、一方的に攻撃を繰り出し続ける。
「やめ……ろ……ッ!」
華梨はティンの背中に手を伸ばし、声を訴え続ける。このまま続けさせれば何かがずれてしまうと、何かが壊れてしまうと。華梨は心のどこかで予感がする。だから静止の言葉を投げ続ける。だが、ティンは飽きた様に剣を一払いし、上段に構え。
「止めろ……っ!」
剣に力をこめ。
「止めろおおおおおおっ!」
振り下ろした。刀身が何かに食い込む様なおとが、周囲に響く。華梨の伸ばした手は虚しく虚空を掴むだけであった。
「――あ」
ティンは声を吐き出すと、それと同時に十字架も消え去る。やがて彼女は意識を手放す様に仰向けに倒れ込んだ。
「ティ、ン!」
華梨は無理やりに身体を起こし、倒れ込んだティンの元に駆け寄る。ティンは目を閉じたままきを失っていた。華梨は続いて仮面の男に目を配る。
男の顔は、分からない。こんなボロボロの状態だと言うのに、仮面だけは砕けてなかった。身体は元々ボロボロだったマントが更にぼろくなり、ずたずたで、ボロ雑巾と言う表現が似合っていた。それでも仮面は砕けて無く、数か所欠けているだけ。欠けて仮面から男の口が見えた。口元がつり上がり、にやけている。まるで、この結果を喜んだ様に。
(……マゾ?)
そして、数時間後の孤児院。まだ夕方になった頃だったさっきとは打って変わっての黄昏時。つまり、完全な夕方だ。
ティンはゆっくりと瞼を開き、右手を額の上に置き、前髪をかき上げる。
「ん……こ、こは……そうだ、華梨! あいつは!? あの仮面の男は!?」
「落ち着け、ティン」
意識を覚ましたティンは布団から飛び起きて周囲を見渡す様に首を回すと、無精髭を蓄えた、がたいの良い黒髪の男が制す。
「師範代……華梨は!? あいつ、大丈夫か!?」
「おいこら、勝手に殺すな」
ティンは声のする方へと首を動かすとそこには黒髪の少女、華梨が座っていた。その右手には包帯が巻かれているが、声色から無事が確認と思える。
「ぁ……華、梨……?」
「何情けない声だしてんだよ、ティン」
ふん、と華梨は不満げな声を上げると同時に自身の無事を認めさせる。やがてティンは布団を掴み、ぶるぶると震えだして手元にぽたぽたと水が落ちる。
「よがっ……た……ほんどっ、よが、っだ……!」
涙声で、震えながらの口調だった。なにより、彼女が幼馴染である彼女の無事を喜んで居る証拠でもあるのだ。華梨はそれを見て、安渡の息を吐く。
(良かった……元のティンだ……お調子者で明るい、いつもの)
そう、彼女から先ほど見せた鬼神の如き活躍を見せ付けたあの輝きも、気迫も存在しない。紛れも無く、何時もの彼女だ。そう、何時もの能天気でおばかな幼馴染の彼女。華梨はその姿を見て安堵の息を漏らす。何かが消えてしまうと思ったことは、結局杞憂だったのだから。
「良かった……か」
一人、師範代だけは慎重な面持ちでティンを見つめていた。
「ティン、話は聞いた」
「話し? あ、そうそう! いきなり変な仮面の男があたし達を襲ってきてさ、もう大変だったんだよ!」
ティンが起き出して皆と同じ長机に席につくと師範代は真剣な表情で口を動かす。ティンは自慢げにどれだけ大変なめにあったかを身振り手振りで話し始める。その姿を見た師範代は、彼女の言葉をどうでも良さそうに
「……お前、魔力が暴走したそうだな」
「魔力? んーなんだろ。華梨がぶっとばされた途端、なんだこいつって思ってたらさ、あいつの攻撃で血まで出て来てあたし何が何だか頭ん中めっちゃくちゃになっちゃってさ! ……それでもうさ、何かさ、うがーってなって、なって……なって、何したん、だっけ?」
ティンは最初こそは調子良かったものの、徐々に勢いは失って一番重要な問題にぶつかった。師範代はゆっくりと息を吐いて言葉を口にする。
「……良いか、ティン。よく聞け。これから聞く話はお前の親が、深く関わる」
「……え?」
ティンは鳩につままれた様な顔をする。当然だ、彼女は孤児。つまり、親に捨てられたか、両親が死んだか、どちらかによって親と共に育つ事無く、両親の顔さえしらずに育った少女。つまり、これから聞く話は彼女が捨てられるに至る話。
「お前の魔力が暴走した時、華梨から聞いたんだよ。そん時のお前の様子とかをな。そこでふと気になる事を聞いた」
「気に、なる事?」
「模様だ」
その時まで静寂を貫いていた華梨が口を開いた。華梨の表情は硬く、何かを決意したかのようでもある。
「あの時は身体中痛くてきにもならなかったけど……今思い出すとティンの身体中に線が光っているのが見えたんだ」
「そんで、悪いとは思ったがお前が眠って居る間に知り合いの魔導師に頼んでお前の身体を調べて貰った。そしたらよ、俺でさえ吃驚する様な話しを聞いた」
「は、話しって、何?」
ティンは恐る恐る、話しを促す。
「そいつがさ、昔にお前に会ったと言ったんだ。自分のマークになる術式も有ったそうだし間違いないらしい」
「そ、そいつとあたしが会ってるのが、なんだって……」
「良いから聞けっ! そいつによると、お前と会ったのは約十九年前、とある夫婦に連れられた赤ん坊だ。その赤ん坊がお前だったんだよ。当時のお前は、赤ん坊が有するには余りある程の膨大な魔力を持って居たんだとよ」
師範代の言葉は徐々に重みを増していき、自然と険しい顔となった。
「え……どういうこと?」
「魔力って言うのは、ある程度からだが成長すればあらかた大丈夫になるが、生まれたばかりの子供には猛毒だ。魔力乖離現象って知ってるか?」
「何、それ」
「魔力と言うのは、小さい物質に集まると原子レベルで分解されてしまうのよ。それが、魔力乖離現象と言うものよ」
そこに口を挟んだのこの孤児院の長の一人で、道場主の一人でもある老婆だ。通称ばーさま。ばーさまは続けて口を開く。
「つまり、小さい赤ん坊に膨大な魔力は危険なのよ。防ぐ方法は現在二つあるわ」
「その一つが、赤ん坊の魔力回路と魔力を大量に消費量の高い術式を刻むって奴だ。お前の両親が取った方法だな」
ばーさまの言葉を引き継ぐ様に師範代が喋り出す。周囲の子供達まで、固唾を呑んで見守っている。
「お前の両親は、その魔導師に出会った時は相当酷い有様だったそうだ。ボロボロの服装で、光輝く赤ん坊を抱いて来てな。そいつも始めは追い返そうとしたが、夫婦の顔を見て頼みを聞く気になったそうだ」
「なんで?」
「そいつは、当時じゃちょっとした資産家だったそうでな。金だけは間違いなく持ってると分かったからだ。だが、夫婦は金は持っていたが……他に何も持って居なかった。お前を救う為に、尽くす限りの手を尽くし、持ってる金はかなりのもんだったが……家も、後に生活して行くだけの基盤さえもなかった。
本当に、金と衣類、赤ん坊のお前と自分の命と体以外持ってなかったんだ」
ティンも、華梨も孤児院の子供達も、皆絶句している。華梨が声を絞り出す様に、師範代に問う。
「な、何で、そこまで……?」
「一重に、愛だな。俺もそうとしか言えねえ。我が子を思う、親の愛としか……正直、俺も信じられん。子供の為に、そこまでの事が出来るなんて、な」
「……じゃあ、ティンはずっと、両親の愛で、生かされてたの、か? あの、仮面の男に襲われた時も? 両親が刻んだ術式のおかげ、で?」
「そうとも言えるが、その愛情のおかげで狙われたとも言えるがな」
ティンは俯いて話を聞いている。一言も発さず、黙って静かだ。
「ともかく、両親はティンに術式を刻む様にそいつに願った。願ったのは、神剣ラグナロックの召喚の術式。そいつを選んだのは単なる偶然らしい。光の魔力を抑える術式を刻んでくれって言われて、丁度手元にあったのがラグナロック召喚の術式だったそうだ。作業は成功、見事ティンは救われた……が、問題はその後、だ。お前の両親は金を支払い、去ったが……その後、夫婦の行方を知ってるのは誰もいない」
「え、何でお金を」
華梨は反射的に聞き返す。何故その人は、そんな非情な事をしたのかと。
「そいつだって、それを仕事にして生きてるんだぜ? そういう別次元の存在を召喚する術式を扱って言うのは、非情に危険な仕事だ。相手の事情なんざ、そいつはしらねえ。まあ、夫婦の状況を聞いたのは全部終わった後、夫婦の去り際だそうだ。その後色々探ってみたが、分かるのは夫婦がとある街に子供を捨てて行った事だけだ……多分、相当悩んだだろうな」
「どう、して?」
「じゃあ華梨、お前ならどうする?
自分の全てを犠牲にしてでも助けたかった物が、自分の側に置けば確実に不幸になると知ったら? もしも、誰かに委ねれば、確実に今よりましな生活が約束されるとしたら? お前ならどうする。それでも側におくか? それとも手放すか?」
華梨は思わず息を呑んだ。彼女はまだ十九。二十に満たない少女に、その問いはきつい物がある。捨てるべきか、側におくべきか? 自分でさえ、自分を見失う程だ。家を捨ててまで子供を救おうとしたその夫婦の悩みはどれほどだった? 何もかも失ってまで、我が子の命を救った夫婦は、この非常な現実にどう向き合った?
華梨では、答えが見つからない。
「そういうことだ。夫婦が選んだのは……譲るだ。我が子の幸せを願って、な」
華梨は思わずティンを見た。当事者である彼女は今の話をどう感じただろう? 最後の最後まで、自分と違い親に確実に愛された彼女は。
華梨は戦争孤児だ。赤ん坊の頃、住んでた村が戦火に塗れ、そこから師範代に救われて此処に来た。だから自分も両親の顔も知らない。愛されてたかさえ分らない。
だけど、彼女は、ティンは。間違いなく、両親に今日まで愛されているのだ。
「ティン……お前……」
華梨は俯いたまま無言の幼馴染に語り掛ける。でも、言葉が見つからない。華梨は何を話そうか迷っているうちに、ティンが動く。
「――そう。で?」
見上げた彼女の顔に動きはない。寧ろ、それが何なのだと言わんばかりだ。
「うん、あたしの何? 出自? それは分かったけどさ。それがどうしたの?」
「ティ、ティン? 何いってんだお前? 嬉しくないのか?」
「嬉しいって、何が?」
「だ、だって、お前、お前はちゃんと両親に愛され」
「それがどうしたの? それが一体何だって言うの? それでも、両親があたしを捨てたってことに変わりはないじゃん。それで良いよ、めんどくさい。それよりお腹空いた」
「ティンッ!」
華梨はティンの胸倉を掴み、声を荒げた。ティンは興味無さそうに華梨を見る。
「お前、それはないだろ?」
「無いって、何が?」
「今の発言だよっ! ふざけんなよ、此処に居るお前の妹達はな、皆親に見放される様に捨てられた奴ばっか何だぞ!? そんな中で、お前はちゃんと愛され」
「どっちがふざけてんだよッ!」
ティンが華梨の腕を掴み返し、声を荒げる。華梨はその対応に思わず引き下がる。
「何だよそれ、何なんだよそれ。あたしだけ特別って言いたいのか? ふざけんなっ! あたしも、妹達も、変わんない! 親の都合で捨てられた、これは変わんないだろっ! あたしも皆と同じだ、同じ孤児なんだよ! 孤児院の仲間なんだよ!」
「で、でもティン姉ちゃん」
妹分の一人が立ち上がり、一歩歩み寄る。
「今のは、あたしも酷いと思うよ。だって、折角お父さんとお母さんのことがわかったって言うのに」
「なんだよ……お前まで、あたしが悪いって言うの? ねえ、皆?」
周囲の妹分達も、気まずそうにティンから目を離す。
「何だよ……あたし、そんな、悪い事言った? 皆思ってるでしょ? あたしだって特に変わらないよ? 親なんてどうでも良いって……いいって……」
言えば言うほど、ティンは孤立する。
「な、なんだよ、皆して……皆、あたしが悪いの? あたしが?」
「お、おい、ティン」
「もういいッ!」
ティンは華梨を突き放すと道場から走り出す。華梨はそんな彼女を追いかけるの一瞬戸惑いを覚えながらも駆け出す。
ティンは鍛え抜いた足腰を生かし、木の枝から木の枝に跳び移り、夕陽に沈む森の中を跳ぶ。その少し後を追うように華梨がティンと同じように跳びながら続く。
「おい、ティン待て!」
「くんな!」
「ティンッ!」
「五月蝿いッ! もうお前なんか顔も見たくない!」
「ティーンッ!」
華梨はティンの言葉に思わず足を滑らせ、動きが止まる。その間にどんどん引き離される。華梨はそれでも叫ぶ。思ったことが現実になったことを否定したくて。その引き金を引いたのは自分ではないと思いたいから。
「畜生……」
ティンは涙を零しながら駆ける。何処までも、何処までも。やがて、森の中の広場に躍り出る。
「ちく、しょぅ……」
目に涙を溜め、ティンは広場の中央に立った。
「ちく、しょおおっ!」
涙を流し、叫びあげて彼女は動き出そうとする。その時だった。
「どうしたの?」
羽根だ。白い羽根が、ティンの周りに舞い落ちる。一つや二つではない、もっと沢山だ。数え切れ無いほどの羽根が地面に満ちる。見上げれば、純白の四枚翼を背にした少女が居た。金髪の長い髪に、青く羽根のマークや羽根の飾り付けが目立つ服装を見にまとった少女。
(――まるで、天使みたい、だ)
ティンはふと、そう思った。
「ねえ、貴方は誰? わたし、浅美」
「あ、さみ?」
「うん、浅瀬が美しいと書いて、浅美。貴方の名前は?」
「え、えっと、ティン」
「ティン? ……何か、遠くからティンって呼んでるけど?」
ティンはその言葉ではっとした様に駆け出す。
「ねえ、どうしたの?」
「うるさい、ついてくんな!」
「もしかして、追われてるの?」
浅美と名乗る少女はティンの最後にピタリとついて来る。ティンはそんな彼女に目もくれず、踊るように木の枝から枝へと移る。
「じゃあ助けてあげよっか?」
「あ? 何だよ!?」
気が付くと、ティンはふと足が地につかない事に気が付いた。視線を動かすと、浅美がティンの両脇を抱え込んで飛んでいる。その顔は少し勇ましさが垣間見える。何処か誇らしげで、自信に満ちた。
「え、え?」
「少しの間黙ってて。舌噛むよ」
「な、なん」
ティンはそれっきり口を空ける事が出来なくなる。いや、口が動かせなくなる。何故かと問われれば体が縦から横に変わるほどの強烈な風圧を叩きつけられたからだ。あまりの風圧に目さえ開けられない。同時に何かに守られている様な感じさえして来る。分かるのは、永遠にも等しく一秒にも等しい時間の間、物凄い勢いの飛行移動を体験している事だけ。
何秒経ったか分からぬ間に移動は終わり、周囲の風景は森から街へと変わった。夕陽に照らされたビル郡、下に目を向ければ人に群れが東西南北へと動いてる。思わず下を見たティンは思わず震え上がり、少しパ二クる。
「う、動かないで! 落ちたら幾らわたしでもフォロー出来ないよ! 死んじゃうよ!」
浅美の慌てた言葉を聞くと同時にティンが石像の様に止まる。ティンが大人しくなるのを確認すると浅美は一度旋回してから公園の方へと向かい、人の居ない広場に静かにティンを下ろし、彼女もゆっくりと着地する。
「うん、街二つ分くらいはすっ飛ばしたかな? 向こうに風魔導師が居たって追い付けっこ無いよ。ちゃんと風のジャミングもしたし、もう追って来れないよ」
「え……?」
と、浅美は自信満々に得意げに語る。ティンはそれを呆然と聞いていたが、浅美の説明に聞き捨てならない単語が混ざっている事に気が付く。
「街、二つ? え、待ってじゃあ、此処何処?」
ティンはくびを回して周囲の風景を見る。目に映るもの全てが、彼女には真新しく、見覚えが一切ない。つまり――。
「え……此処、あたし知らない。し、知らない街に来ちゃった!? 嘘、どうしよ!? あたし、どうやって帰れ……いや、帰らなくて……良い、かな?」
ティンは少し俯いた様に呟いた。あんな風に飛び出したのだ、どうしても戻り難い。
(何だか、そう思うと少し楽、かな?)
やがてティンは取り合えず道路の方へと歩き出す。
「あ、ねえティンさん」
「何だよ、ついてくんなよ」
「何で?」
ティンは後に振り返り、ついて来ようとした浅美と向き合う。対する浅美の顔は笑顔だった。ティンは鬱陶しそうに声を荒げながら。
「うっさい! お前には関係ないだろ!」
「何で? わたし達、もう友達でしょ?」
と、浅美は自棄に親しげに対応する。その表情には友好一つであり、敵意は無いどころか歩み寄ろうとしているのがよく分かる。対するティンは。
「は、はぁ!? 何で!?」
「だって、名前教えあったでしょ? じゃあもう友達だよ」
「ふ、ふざけんなよ! な、何でお前なんかと」
「ねえねえ、それよりさ」
「何だよ!」
「お腹空かない?」
浅美が言うと同時にぐぅぅ~と音が鳴り響く。二人の間に一瞬だけ静寂が訪れ浅見が先行する。
「ねえ」
「何」
「何食べたい?」
「……え?」
「だからさ、何食べたい? 友達だもの、夕飯くらいごちそうするよ。
お肉が良い? それともお魚?」
浅美は純粋な笑顔をティンに見せながら聞く。ティンは申し訳なそうな声で「肉……」と空腹を訴える腹を抑えて呟いた。
浅見は手慣れた手付きでホテルの手続きを行い、ティンと一緒にあてられた部屋に向かう。ホテル側から託された鍵で部屋を空け、浅美はティンと共に部屋に入った。
「じゃあ台所もあるみたいだし、直ぐに作っちゃうね」
言うと浅美は荷物を適当な場所に置き、部屋に備え付けられた簡易キッチンの前に立ち、来る途中で買った物を広げた。鼻歌交じりに分厚い肉を二枚取り出し、塩とコショウを振り荷物から取り出したフライパンをコンロの上に置き、術式を発動させ発火させる。
次に浅美は荷物の中から油を取り出してフライパンの中に注ぎ、塩とコショウを振った肉を二枚中に入れティンの方へ振り返る。
「焼き加減はどうする? 柔らかい? 普通? 固い?」
「……ちょっと、固め」
「じゃあミディアムだね」
笑顔で答えるとフライパンの蓋をし、流れる様にまな板の前に戻り、野菜を中に放り投げては練達の包丁捌きを見せつける様に野菜を刻み、再び振り返る。
「ソース要る?」
「ソース?」
「うん、お肉にかけるソース。塩コショウだけでもおいしいよ?」
「……要る」
「じゃあ甘いソースと辛いソース、どっちが良い?」
「……甘いの」
「分かったよ」
ティンは空腹で気が滅入ってるのか、先ほどの事を引きずっているのか、沈んだ表情を見せる。
浅美は次に刻んだ野菜のいくつかを別の鍋に移して煮込み始め、続いてフライパンの蓋をあけて中の肉をひっくり返して。
「もう少しだね」
とだけ言うとフライパンに蓋をし、再びまな板の元戻るとボールを取り出して色々取り出してはボールの中へと注ぎ込むとかき混ぜ、続いて煮込むんでいる鍋の方に向うと中身をかき混ぜ、小皿に移して味を見る。
「うん、良い感じ」
とだけ言うと蓋をして発火の術式を消して消火し、となりのフライパンの前に移動して耳をすませる。
「こんなもんかな?」
そう言ってフライパンの蓋をあけ、荷物の中から皿を二枚取り出して発火の術師を消してから皿を洗って磨き、ステーキを盛り、刻んだ野菜を盛り、更にソースをかけ、部屋に備え付けられた簡易テーブルを取り出し、それぞれの皿にフォークとナイフを載せて自分の側に一つ、ティンの側に一つ置く。
そして浅美はステーキの肉を切って一口ほおばり。
「……ん、おいし。さあどうぞ、召し上がれ」
と、ティンに言った。
(……ま、まるで、踊るような調理だったな、うん)
鮮やかな調理法に目を奪われている内に料理が完成していて少し呆けていたが、立ち上るステーキの香ばしい匂いにつられ、余計に腹に響く。ティンは側に置かれたフォークとナイフを見て……固まった。
(……あれ。これどう使うの?)
「どうかした?」
浅美は食べずに困り果ててるティンに語りかける。
「え、あ、うん。ナイフとフォークなんて使った事無いんだけど……」
「ん? こうだよ」
浅美はそう言ってナイフとフォークの持ち方を見せ、実際に切って口に運ぶ所までやってみせる。ティンも見よう見真似で何とか切ろうとするも、上手く肉が切れない。
「そうじゃないよ、こう」
「ど、どう?」
「そうじゃない、こう!」
浅美は何度もフォークとナイフの持ち方と切り方を見せるも、ティンには全然分からない。やがてティンはしびれを切らし、ナイフとフォークで肉を固定するとそのまま齧り付く。
「……ッ!」
びりっと、電流でも走ったかのようにティンの身体は震えた。
(しっかりとした肉の歯ごたえ、溢れる肉汁、塩と胡椒と絡む甘めのソース、噛めば噛むほどにあふれ出るこの味、これは、これは――)
ティンは自分でもある程度家事は出来る。無論料理だって出来る。だからこそ言える、この味が。今、口中に広がる味をしっかりと認識し、跳びはねる様に笑顔で叫んだ。
「んまい!」
更にもう一齧り、もう一齧りと厚いステーキ肉を食していく。肉は固めで焼き上がっており、上手く肉塊を噛み千切れずに何度も分厚い肉に噛み付いていく。
「もー。ナイフとフォークはちゃんと使わなきゃ駄目だよ。後、野菜もちゃんと食べるんだよ」
ティンは浅美に言われ、肉を頬張りながら皿に盛り付けられたサラダをフォークで口に持ってくる。
「んまい! このサラダ、うまい!」
ティンは再び声を張り上げると肉も野菜も同時に食べ始める。礼儀も無くも作法も無く、ただ獣の様にがっつく彼女の皿にのっていたサラダとステーキは見る見るうちに消えてなくなり、やがて何も無くなった。
ティンはげふっと床に仰向けで倒れ込む。
「美味かったー! ごっそさん!」
「もう、テーブルマナーくらい覚えてないと駄目だよ」
「いいよ別にー食っちゃえば何でも同じだって」
「むー」
浅美はそう言うと最後の一切れを頬張り、空になった二つの皿を流しに置く。
「まあ良いけどね。これから覚えれば良いし。じゃあお風呂いこっか」
「お風呂?」
ティンはソースとドレッシングの纏り付いた口を嘗め回し、座り直して浅美の言葉を繰り返す。
「うん、このホテルにおっきな浴場があるんだよ。一緒にいこ?」
「ほんと!? あ、着替えが」
「大丈夫だよ、下着なら此処にも売ってるし。あ、でも」
浅美はそう言いつつ考えるような素振りを見せながらティンの服装を再確認する。半袖のブラウスに短パンのみと言う彼女の格好を。
「んー明日服屋さんに行ってちゃんとした服装を買わないとね。後、二人分の食料の確保もいるし……うん、忙しくなるね。取り合えず、いこ?」
そう言って浅美はティンの手を引っ張る。
浅美はティンの下着を購入後、浴場の方へと向かった。
「わ、ひっろー」
ティンは首を上下左右に回し、浴場を見渡す。彼女達以外に利用中の女性は居らず、殆ど貸し切り状態だ。
「もしかして、ホテルは始めて?」
「え、あ、うん」
「そうなんだ。あ、お風呂に入る時は静かにね、飛び込んじゃ駄目だよ?」
(……それは寧ろお前じゃ)
ティンはお姉さんぶる浅美に冷めた目線を送るも、兎にも角にも風呂に入る。続いて浅美も入り、二人は隣に並ぶ。
「ふぃー……疲れ取れるねえ」
「うん……」
「ん? どうしたの?」
「いや、何でも……」
ティンは今一表情が暗い。そんな彼女を心配した浅美が声をかける。
(……あんな美味しい料理を一人で食べて、こんなに広いお風呂に入って……あたし、何やってんだろ?)
心配そうな浅美をよそにティンは今日の流れを振り返る。
謎の男に襲われたこと、自分の両親のこと、華梨や皆を反抗する様に出て行ったこと、浅美に連れられて見知らぬ街に来たこと。
それらを駆け抜ける様に振り返る。
(思えば、何であんなことしたんだろ? だけどあたし、間違ったこと言ってない。言ってない、筈よね。うん、間違ってない。間違って何か……ない)
ティンは湯船の中で答えを見つけ出す。でも、それは一度否定された答えだ。間違ってなんかいない。そう、信じる。信じたい、が……。
「どうかしたの、ティンさん?」
浅美は柔らかい表情でティンの顔を覗き込んだ。
「……別に」
「悩み事があるなら相談乗るよ?」
「……何でもない」
浅美は変わらず笑顔でティンに語りかけるも、ティンは対照的に表情が暗い。
「……ねえ」
「なぁに?」
「あんたはさ、親は居るの?」
ティンは唐突に浅美へと問いを投げた。
「ん? いるよ? ティンさんにだってお父さんとお母さんがいるでしょ?」
「両親なら、あたしが赤ん坊の頃にあたしを捨てたよ。理由は……よく知らない。知りたいとも思わない」
ティンはそう返す。対する浅美は不思議そうな顔で。
「ふーん。お父さんとお母さんいないの? じゃあ、今までどうやって過ごしてきたの?」
「決まってんじゃん、孤児院だよ。あたしは孤児院で色んな妹分達に囲まれ育ったんだよ」
「いいなあ」
「……は?」
浅美はそんな風に語った。ティンはそんな浅美の言葉から素っ頓狂な言葉が飛び出た。当然とも言える。彼女は親が居ない人生を良いと言ったのだから。
「妹分って、お友達だよね? 沢山いるの?」
「え、あ、うん。沢山いるよ。戦争孤児とかね」
「良いなあ」
「そんなに良いもんじゃない。結構貧乏だし、剣術修行以外にやる事無いし」
「良いなあ」
ティンは壊れたレコーダーの様に同じセリフを返す浅美にカチンと来る。
「良いもんじゃないって言ってるだろ。お前、親が居ないってどういうもんか分かってるのか? 凄いぞ? 買い物に行くと、同年代の子は皆母親の手を引かれて帰るんだ。あたしらはむっさいおおっさんの師範代と一緒。何で? ってよく思ったよ。なんで父さんがいないんだろうって、何であたしには母さんがいないんだろうって。何で……あたしだけは、他とは違うんだろうって……」
ティンは皮肉げな顔で思い出す。他者と己が違うんだなと思った瞬間を。
「よく分からないけど、そう言うのって良いなあ。お友達が沢山って」
浅美は本当に羨ましそうに言葉を紡ぐ。
――その初まりは、彼女の出自に関わる。彼女の出身はドが付くと言えるほどの田舎である。そこで彼女はある事情ゆえに友人も居らず、村八分の様な扱いを受けていた。だからこそ、だ。
「……友達なんて、お前にだって幾らでもいるだろ? そんなの何処が羨ましいんだって言うんだよ」
「うん、今はね」
言って、浅美は初めて表情が暗くなる。思い出すのは、旅立つ前の自分。
「……今は?」
「うん、旅に出るまでずっと友達がいなかったんだ」
「……何で?」
ティンはふと浅美に問い返す。
(……まあ、こいつならありそう……結構空気読まないし。いや、あたしも人のこと、言えないな。うん)
「わたしの住んでた村だとね、子供はわたし一人だったの。他の子はね、わたしが赤ん坊の時に皆村を出て行ったんだって。
それでかな?
わたしの住んでた村に同年代の子供はいなくってね。ずっとずっと、一人で遊んでたんだ。一人で海を泳いだり、一人で砂浜を走り回ったり、一人で潮干狩りしたり、一人で砂遊びしたり、一人で木登りしたり、一人で村中を駆け回ったり、一人で釣りをしたり、一人で砂浜にお絵かきしたり、一人で歌を歌ったり、一人で動物さんを観察したり、一人で鳥さんの数数えたり、一人で、一人で……一人で……ずぅっと、一人ぼっちで……ね?」
「……あん、た……」
浅美はずっと落ち着いた様子で、暗く沈んだ表情のまま幼い頃の自分を語る。孤独に満ちた、子供時代。
「も、もういい」
「それでね、九歳の頃からはお父さんやお母さんのお手伝いしたりね」
浅美の語りは止まらない。本人の口調は変わっていないが、表情は沈みきっていく。
「もういいよ」
「狩に付いて行ったり、料理の手伝いをしたり、釣に付いて行ったり、洗濯のお手伝いしたり」
思い出すのは、最近の出来事。彼女は、とあるパーティに参加していたのだ。が、つい最近、そのパーティは解散してしまった。別に彼女が原因と言う訳じゃない。
「もういいって」
「お母さん、色んな地方の料理を知っててね、ステーキの焼き方とか、お母さんが教えてくれたんだ」
ただ、彼女のパーティリーダーが居なくなったのだ。そこから瓦解するようにパーティは崩れていった。止めたかった。だが、彼女にはどうしようもなかった。ただ友人だと思っていた人達がばらばらになっていく様を見せ付けられたのだ。
「もういいんだよ」
「後、動物さんを狩る時の仕掛けとか」
繋ぎ止めたかった。だけど自分じゃ出来なかった。でもどうにかしたくて、どうにも出来なくて、今に至る。もう、無くしたくないのだ、繋がりを。一人になるのは、もう嫌だから。
「もういい、もう言わなくていい!」
ティンは湯船から立ち上がり、浅美の肩を掴み揺する。ティンの顔は汗か何かで雫に塗れている。
「……もう、いいよ……いいって……」
「えと……なに、が?」
浅美は柔らかい表情のままティンの言葉に問い返す。
「……もう、いいって。あたしが悪かった。ごめん、辛いこと思い出させて」
「辛くないよ? 寂しかったけど、楽しかったよ。それに、今は沢山お友達がいるんだし」
ティンはゆっくりと手を離し、もう一度湯船に浸かる。
「……思えば……あたしも、辛い思い出なんて数えるくらいしかない。寧ろ、楽しかったことばかりだったなあ……剣術修行してるだけで、それを考えるだけで孤児だとか、親がいないとか、忘れられたんだ……逃げてた、って言えばそれまでだけど……それでも、あたし楽しかった。皆で蕎麦屋に寄ったり、皆で丼物屋に行ったり……楽しいことばっかりだった」
「よく分かんないけど、楽しかったの?」
「うん、凄く楽しかった。だからだ。だから、言えるよ。親なんてどうでも良いって。あたしはあたし。生んでくれて、生かしてくれて愛してくれて有難うって言う気も無いし。何で捨てたんだ、何で一緒にいてくれなかったんだって恨む気も無い。
あたしはこれで良い」
そう言ってティンは湯船から出る。
「あ、背中洗いっこしようよ! お風呂と言ったら背中の洗い合いだよね!」
そう言って浅美も湯船から立ち上がる。
ん。
適当に妄想した話です。他のは更新しないのかって?
敢えて言おう、気まぐれだ、と。
それでは、彼女の周囲に取り巻く人々の模様をどうぞ。