錯綜
音速を超える速度で虚空を駆ける弾丸は、頬の肉を削いで後方へ過ぎてゆく。燃えるような熱さを患部に覚えて衛士はその崩れかける体勢のまま後ろへ飛び退いた。
両手で機関拳銃を構え、その最中に引き金を絞る。強い反動が連続して腕に負荷し、衛士は両足で地面を抉るように踏ん張って勢いを殺しながら息をついた。
バースト射撃で正確に二発。それで目の前の敵は絶命する。撃ち抜かれた胸を押さえ、じんわりと感じる生温かい血液が絶えず抜けることに絶望を覚え、膝から崩れて前のめりに倒れた。
――広い空間。周囲は聳える木々に囲まれるものの、そこは開けた場所だった。端から向こうの端に相手が居れば、その表情を認識することが出来ないほどの遠さである。衛士はその広間の真ん中辺りに立つ残る一人を見定めて、射撃されるよりも早く発砲。発射炎が瞬き、弾丸が飛来する。
敵は構わず発砲し――弾丸は傍を掠めた。だというのにこちらの銃弾は当たる気配すら無い。
ざっとみて相手の距離は衛士から五○メートル近く離れている。先ほど殺害した者よりもかなり背後であるところから見ると、どうやら後方支援であるが故に唯一生き残ったのだろう。
さらに相手は小銃、こちらは機関拳銃。有効射程から見ても不利だった。いや、正確には一方的な攻撃を受けるだけであり、決して不利ではない。まずそう思い込むことから初めて、衛士は嘆息してから機関拳銃をその場に投げ捨て、腰から大型のナイフ――ククリナイフ――を抜き、屈みこんだ。
脚力に、その筋肉に全エネルギーが集中するような感覚。大きく高鳴る鼓動が、全身に湧き上がる力を広げるような強さ。しかし最も、それとは関係無しに衛士が力を込めれば、脚力は相応に力を増幅させてくれていた。
耐時スーツは力を込めればそれに連動するように力を付加させてくれる。だからこそ無茶な機動、無理な行動に融通が利いた。
前のめりになり、身体を起こす。その勢いを利用して力強く大地を蹴飛ばし――跳躍。
強い突風が全身を嬲り、視界は瞬く間に景色を縮尺化させている。風を切る音だけが耳に届き、眼下では衛士に銃口を向けて火花を散らす影だけが見えていた。衛士は流れに身を任せ、ただ頭を両手で庇うような体勢で身体を捻り、落下に供える。
間も無く身体が一瞬だけ重力から解き放たれて、地面に引っ張られるような落下感を覚える。腹の臓腑が浮かび上がるかのような不快感。全身の血液が冷めるような恐怖が広がる。
大地で空を見上げる男の顔は辛うじて判別がつく程度の高さだ。衛士は強くナイフの柄を握り、体勢を立て直そうとする。直後に耳に届く発砲音を聞いて暫くはこのままでいようかと考えるが、地面との距離は先ほど確認した時の半分以下になっていることに気付いて、考えを改める。
衛士の位置は既に男を飛び越えている。敵はそれに気付いて衛士目掛ける乱射をやめずに引き金を絞り続けるが、その射線は悉く衛士と交わることが無い。やがて敵の真上までに衛士は肉薄すると――突き立てたククリナイフで頭頂部を貫き、砕く。
衛士はそのまま強い衝撃を逃がすように、再び跳躍直前の姿勢に戻すように屈みこみ、顔を左右に割らせる敵が崩れたのを確認して、大きく息を吐いた。
ゴーグルを外し、血のりなど一切付着していないククリナイフを腰の鞘に戻してから、急ぎ足で機関拳銃を回収する。周囲のむき出しの地面にはペイント弾が弾けた、赤い液体が飛び散る跡だけを残し、死体などは勿論無い。
それを見ながら、林の奥から現れやがてその開けた空間にやってくるエミリアの元へと急いだ。
特殊な装備を使用する事によって視界内に敵の幻影と戦うことが出来る。ゴーグル内には敵が現れ、全身に着る強化装備は視界内の反応によって強い衝撃や、抵抗を与えてくれる。つまりは簡易な模擬戦闘をさせてくれるのだ。
最もこれは以前も数度行った事がある。されど今回は随分と違った結果になることだろう。
――終えた後にエミリアが評価するのだが、今までは『堅実』の一言で始まり、その後の改善点や大まかな良い点などを教えてくれる。だから衛士は彼女の言葉を楽しみにしていた。
今日は積極的に戦闘へ赴いたのだ。
潜伏する敵を即座に発見し発砲。また発見されても囲まれる前に特攻し殺害。
この行動のお陰で四人一組の四チームは二○分と持たずに全滅した。これを衛士は誇らしく思っていた。
「まず一言――無鉄砲だ」
だというのに、目の前の彼女はもはや何も気にすることがなくなったかのようにタンクトップ、チノパン姿で、拳を腰にあて、眉間に皺を寄せて言い放つ。
「その戦い方は貴様には合わない。それは実力が在る者がして然るべきものだ。最も、調子に乗らぬ限り実行はしないがな」
彼女は重ねる。衛士はそんな台詞にむっと口角を下げ、ポケットに両手を突っ込んだ。
「堅実じゃあ何も進歩しませんが」
「無鉄砲で命を散らせたいのならば何も言わん。何に影響されたか分からんが、止しておけ。貴様の強みは苦肉しても必ず敵の隙を見極める所にある」
「そんなの、先に敵を殺せばいいでしょう?」
「言っている意味が分からんのか間抜け。貴様にはそれが出来る実力を有していないと言っているんだ」
「はは、エミリアさん。見てなかったんですか? オレは、一撃も貰わずに敵を殲滅したんですよ」
衛士のそんな一言に、彼女は心底嫌悪した眼を向けて嘆息する。
それから鋭い視線で衛士を射抜き、静かな怒りを灯すような声で、諭すような口調で言った。
「成長したと思ったのだがな……。一人で? 殲滅? 貴様が何を勘違いしているか知らんがな、主な掃討戦での出番は我々には無い。最も危険である単独潜入を行い、敵の弱点たる箇所を発見することが任務の殆どだ。貴様が持つ副産物は人を殺す為の道具ではない。身を守る為の道具だ。これだけは決して違えるなよ。適正者としてではなく、人として、だ」
「出くわした敵を全滅させれば気付かれないでしょう。こういった戦い方は実戦でも有効なはずですが」
「私は別に貴様の戦い方が気に喰わないからやめろと言っている訳ではない。その傲慢さが仲間を危機に晒すと言っているのだ。敵の一人に発見されるだけで任務の成功率が八割下がると言われている。そして今の貴様を任務に加えれば成功率は確実に○を下回るだろうよ」
「何故です? 発見されたのなら周囲に知らされる前に殺す。ならばオレのような特攻要因が重要じゃないですか」
彼の口調は敬語から崩れはしないが、その表情や態度のせいで意味を成していない。ただ上下関係を表すだけのものと変異し、また互いに怒りや苛つきを隠せず、交わした瞳を一向に揺らがさず、離しもしない。
主張は確かな平行線にもつれ込んで、いよいよ衛士の頑固さに頭痛を覚えたエミリアは頭を抱えて強く髪を掻き揚げ、衛士の胸倉を掴む。彼はそんな行動に眼を見開いて驚きを表し、だがすぐに憎しみとも取れる表情で彼女を挑発した。
「それで気が済むなら――」
言い終える前に鋭い一閃が、衛士の頬に平手が襲い掛かる。甲高い破裂音が周囲に響き渡り、衛士はそっぽを向くように顔を傾け、左の頬を徐々に朱色に染めていった。
「動物は痛みを覚えて学ぶ。だが貴様はそれ以下だろうな」
衛士はこの上ない怒りを覚えて、今にも理性のたがが外れそうになる。顔は無表情に戻るも、垂れる両腕には全身全霊の力が集中し始めていた。
「ダメだと言っても分からぬ、理由を教えても首を振る。馬鹿か貴様は? 任務は貴様が気持ちよく活躍する場所ではない。言われた事をやって見せた者が活躍したと誉められるのだ」
――時衛士は焦りを抱いている。エミリアにもその程度の事は察することが出来た。
何が原因かは分からないが、大まかな推測は出来る。恐らくは風邪で寝込んだ時に街で何かがあったのだろう。そしてイワイ・ヒデオと接触したのだ。そこで力の差や迷いを見たのか、あるいは他の要因か。
もしくは単純にイワイの戦闘態勢に憧れを抱いて真似をしているのかもしれない。少なくともそれらが今の衛士を作っているのだ。
だがそれはいけない学習だった。彼にはそれは合わない。絶対的な力で一点突破するのではなく、隙を縫うようにして滑るように前へ進む。どちらにせよ彼には突破できる強引さは無く、単純な力も無い。
そもそも後者のような逸材はそうそう居ないものだ。自身を見習ってくれたと考えるのは都合が良い話かもしれないが、少なくとも参考にしたのだろう。だからこそ、突如としてのこの路線変更は余りにも無謀すぎるのが、彼女には痛いほど良く分かった。
任務は明日。もしこのまま行けば、いくら危険度が低い仕事でも最悪の場合を常に想定しなければならなくなる。
衛士はまだ子供だ。そう考えてから、ここに居る時点でそんな言い訳が通用するわけが無い事を思い出して、思わず溜息が漏れた。
「最後にもう一度だけ言ってやる。その戦い方は貴様には合わない。生きて残り、強くなりたいのならば本来の貴様としての戦い方に戻せ」
「ここでわかりましたと言えるようなガキじゃない。オレは――」
「あぁ、わかった。だがな……死にたいのならば人に迷惑を掛けずに一人で死ねよ、クソ虫が」
彼女は力強く彼を突き放すと、そのまま踵を返して林の奥、出口へと向かう。衛士はそうされても両腕に込めた力を振るう事が出来ず、ただその場に立ち呆然としていた。
――彼女の言っていることは分かる。だが同時にそれではいけないという考えが浮かんだのだ。
これではダメだ。強くなれない。強くならなければならないのだ。ならば、積極性と即効性をもって敵にかからねばならない。
そうすれば強くなれるのか? 自身のそういった問いには素直に首を振ることは出来ない。だが少なくとも、ちまちまと隠れて隙を狙い、仕留めていくよりは確実な気がした。
そう説明すれば彼女も納得してくれると思っていたのだ。
だというのに、そんな事を言う暇も無く頭から非難され、潰される。最終的には嫌悪されて突き飛ばされてしまった。
確かに彼女の言い分が最もだろう。だが決してこのやり方も悪くは無いだろうし――頭にきたのは、彼女のそんな取り付く島も無いような態度だった。
エミリアに対して無意識に姉の影を見るからこそ、衛士は必要以上な反発を見せてしまう。だからこればかりは仕方ないと言える問題だったが――口論の内容が内容だけに、それを楽観して、時間が解決してくれるだろうと言う事が出来るものではなかった。
特に時間が無いのだ。明日の任務は午前二時に開始する。そして残りの時間は既に八時間を切っていた――。
「くそっ……あの小僧め、よりにもよってこんな時に反抗期を迎えた」
甘い果実酒をあおり、真赤な顔でエミリアが嘆く。彼女はその時点で強い頭痛を覚えていたが、構わずグラスのそれを全て飲み干し、次を急かす。保健医は複雑な笑みを浮かべながらそれに注ぎ、溜息混じりに口を開いた。
「何度も聞いたわよ」
「馬鹿が。身体鍛えて脳筋になったつもりでいやがる。奴は自分で言ったことを忘れたんだ。あのー、アレだ、ふざけている」
思い出すように頭を抱えるも、思い出せずに掻き毟って顔を覆う。手から零れ落ちそうになるグラスを受け取る保健医は、そっと机の上に移動してやった。
「あの子は私と貴女に家族を重ねてみているのよ。彼なりに頑張った結果でしょう? 注意は分かるけど、さすがに頭ごなしはいけないわね」
「何を言っている間抜け。命が関わるんだぞ? 奴の行動で失敗して、奴だけが責任を負うのならば良い。だがな、それだけでは済まないんだ。それをわかっちゃいない。しかも家族だ? 私は教官だが、奴の保護者ではない。甘ったれるな」
「貴女は人の心情を察する事は出来るけど、本心を見るのは下手ね。本当に、昔の貴女とあの人みたい」
「はっ。仲間が目の前で死んだからって戦場から逃げ出した腰抜けと一緒にするな」
「死んだのは彼の親友だったわ。しかも、ただ死んだだけじゃない」
「……そんな話は聞きたくない」
「そうね。ならもっと楽しい話でもしましょうか?」
いつもならば振り回されるのは保健医の筈だった。だから今日はそんな違和感を抱きながら、こんな彼女でも酒を飲みたくなるときもあるんだな、と微笑ましくエミリアを見守った。
口調は崩れ、だが言葉はしっかりと紡いでいるのだが、その目は殆ど閉じられていて周りが見えていない。手探りでグラスを探す彼女の手にしっかりとそれを握らせると、彼女は内容物が半分以下だというのに、まるで溢れんばかりに注がれているのかと言わんばかりに静かな動作で口元へと運んだ。
十数秒かけて一口を飲み下すと、彼女は大きく息を吐いてうな垂れる。
「……もっと違う言い方ならば、奴は考えを改めたか?」
ぼろくそに言っておきながらも、彼女の頭には未だ衛士が居る。それを聞いて保健医は思わずくすりと笑ってから、優しく同意を口にした。
「そうね。彼は聞き分けは良い方だと思うから」
「だが人に言われてはいはいと頷くだけじゃ……」
――エミリアはそこで思わず口をつぐんだ。
だから衛士は自分で戦い方を無理に変えた。エミリアの戦闘方法を摸倣するだけでは成長しないと踏んだのだ。精一杯自分なりに考えて、それで実力を認めてもらおうと考えた。
しかしそれは失敗だった。どちらにせよあの戦い方ではあまりにも雑すぎて通用しない。相手はただの組織ではない。民間の警備会社が警棒を片手にうろついているわけではないのだ。
だから注意をした。そもそも何故以前の戦い方を誉めていたのに、それは真実心から思ったことを口にしていたのにも関わらず、なぜ成長しないと思い込んだのか彼女には分からなかった。
「彼は自分で考えたもので誉めて欲しかったのかもしれないわね。強くなると思った、なんてのは無意識が乗せた言い訳よ」
「甘ったれの小僧だな。ここをどこだか、自分の目的をなんだか、すっかり忘れている」
「でも強くなっているでしょう?」
「どうだかな」
衛士の戦闘能力は正直微妙と言うのが実に正しい。
今回の模擬戦闘のように特攻すればある程度の実力を保ったまま行動出来るが、おざなり過ぎて敵には通用しないだろう。堅実な方法で行けば安全だが、彼の本気、瞬間的に見える煌めきのようなものは、本当に一瞬だけしか垣間見えない。
だが、どちらかを選べというのならば迷い無く後者だ。それが彼の本質に似ているし、そもそも他は考えられなかった。
エミリアは、さてと、と嘆息してから立ち上がる。グラスを机において、彼女は思ったよりも確かな足取りで背を向け、扉へ向かった。
「あら、もう行くの?」
「あぁ。頭も痛いし気分も悪い。邪魔したな」
「いえ。今日は意外な一面が見れて楽しかったわよ」
「……明日になれば後悔をしそうだ」
彼女はその横顔に微笑を携えて、そのまま静かに医務室を辞した。
時刻は既に午後一○時。いくらなんでも酒に飲まれすぎたという所だろう。
酔いが回る頭には、やや冷たすぎる空気はかえって心地が良かった。
泥酔手前だった調子はほろ酔い程度に回復し、夜の無い世界の明るさは眠たくなる頭を覚ましてくれる。思考は冴え、緊張はなく、筋肉は程よくほぐれ、全てに対して非常に丁度良い体調と言えた。
人工林には特別な出入り口は無い。だからどこかへ真っ直ぐ歩けばすぐに外に出ることが出来るし、それほど大きな規模でないから迷うことも無い。場所は訓練校のアスレチックのフィールドの後方である。
彼女はその中に足を踏み入れ、先に進むにつれて奇妙なほどに胃に痛みを覚えて、幾度か足を止めようとしてしまう。だがそんなストレスよりも強い意志が、彼女を強く前へ進ませた。
――今回の任務が終われば残る一週間は休養にあてられる。そしてエミリアは晴れて一時的な教官という立場から解放されるのだ。担当であるのは変わらないが、全ての世話は訓練校が行うので彼女の出番は殆ど無くなる。
そして訓練校を卒業すれば、年季以外には階級も無い彼等は肩を並べることになり、モノを教えることは出来なくなる。
だから今日が最後の訓練となったのだ。数日前までは感慨深くなるのかと思っては居たが、こんな終わり方だとは想像もしていなかった。だがどうせ最後になるのならば、彼に教えておかなければならないものがある。
彼女はそれを胸に、やがて薄暗い林の中から前方に開ける明るい空間が迫るのを見て――。
瞬間、その前方から肉薄する強い気配を覚えて彼女は思わず横に跳ぶ。直後に脇を通り抜ける弾丸を知覚して、着地すると同時に近場の木に身を隠し、首を振って嘆息した。
「随分な歓迎だな」
だが今の場面を狙ったのは良い事だ。位置も頭ではなく心臓と言うのは、的確に殺しにきたと言う事だろう。最も、弱装カートリッジを使用したペイント弾であるために、当たれば痛い程度で済むのだが。
自然に太腿のホルスターに刺さる拳銃に伸びる手を制して、代わりに盾にする木の枝をへし折って適当な長さにして装備する。飛び道具がない事は非常に痛かったが、どちらにせよこの時間まで彼がぶっ通しで訓練を続けていれば、弾薬とて残り少ないだろう。
問題ない。
彼女は心の中で一つ呟いて、その瞳にささやかな殺意を瞬かせた。
土で固められた大地からいくつか小石を拾って、投擲。だが反応は無く、身を乗り出して開けた空間をうかがってみると、衛士の姿は無かった。
彼女はそれから素早く横転して木の側面に身を隠す。その直後に、彼女が居た場所を弾丸が掠めて過ぎていく。そして丁度その先にある幹に紅色が散る――かと思いきや、表面が砕け、木片が周囲に飛び散った。
エミリアは思わず息を呑み、素早く身を翻して林の中を進む。開けた円形の空間に添うように、衛士に背を向ける形で距離を取った。
――現在の衛士が実弾を入手することはない。そもそも実弾なんてものは支給品だし、商店では販売していない。そして勿論訓練校には置いては居ない。ならば一体どうやって? エミリアは考えるが、背後からの発砲がその暇を与えなかった。
だがその強い気配や、背後から迫るに当たって鳴らす足音が隠し切れず、というか隠す様子もないが故に容易に察知することが出来る。だが、いくら疲弊していると考えても、エミリアに一泡吹かせるためだとしたら、その行動は余りにも大雑把過ぎた。
違和感。彼女が感じたものはそれである。
「一か八か、なんて大嫌いなんだがな……」
――血の臭いを覚えて、彼女は迷わず開けた空間へと飛び込んだ。
彼女の後を追うように、射線が延びる。エミリアは足を止めずにやがて空間の中央辺りまでに到達すると、不意に視界の端に、赤黒い何かを発見する。木々に寄り添うように座り込む人の影。顔をそちらへ向けて、彼女はその身を硬直させてしまう。
「……ッ!」
木を背に座り込む時衛士は、迷彩服の腹部をどす黒い赤に染めて脱力していた。血の染みる大地は延びる膝あたりまで溜まり、まだ僅かな新鮮さを残している。注意深く見れば肩が僅かに上下しているのが分かるが――そう長くは無いだろう。
そこまでを理解して、彼女は折れた枝を投げ捨て、銃を抜く。回転弾倉式のそれは気がつくと長い間使っていた愛銃である。
彼女がそれを構えようとする間に、林の中から出てくるのは黒いロングコートの腹部、胸、腰のやや高い位置や両足、両腕に血のりのような汚れをつける帽子を被った男だった。
小銃を構え、彼はにこやかな笑顔でエミリアに対峙する。
「へ、へへ、俺はテキセーシャ様に手をあげたんだ。どの道終わりさ。ならせめてぶっ殺してやろうと思ったんだがな、逃げ回って、ちまちまと殺せもしねぇペイント弾ぶっ放してよ、時間がかかっちまったぜ」
「説明ご苦労。ただのケンカなら無罪放免で済んだのに、可哀想なのはどうやらそのオツムだったようだな。酷く哀れだ」
憲兵姿の彼は自己喪失でもしているかのようにへらへらと笑って肩を小刻みに震わせる。
――こんな事を理由に人に襲い掛かり死んで行く人間は少なくない。最も多くは未遂で済むのだが、今回のように実際に犠牲が出るのはごく稀だった。
衛士の体力や技術を考えれば、ただの憲兵である彼には勝ち目は無い。だが発砲の隙や連続した訓練による体力消耗が勝敗を分けたのだろう。エミリアは考え、それから目の前の男の言葉を聞いて場面を想像し、ふっと一息分の笑みを零す。
「特攻していれば一瞬で済んだのにな。ったく――可愛げのある奴だ」
――数時間前の口論をすべて帳消しにしてやろうと思う私は、随分と甘くなってしまったと、自分でも良く思う。
今の彼ならば、その柔軟性も相まって十分任務で通用するだろう。最も、基本的な戦闘能力や状況対応能力が身についただけで、これ以降は単純な本人の才能や、潜在能力の開花が成長の問題となるのだが――大丈夫だろう。手放しでそう思えるようになっていた。
やはり幾らか情が移ってしまったのだろうか。
だがどの道、今の彼に応急処置でもしてやらねば、何もせぬ内に彼は戦えぬ身体になってしまう。それでは何も救われないのだ。
彼女は膨らむ怒りと、哀れみとを携えて男を見据える。彼は怯えた様子一つ見せず、慣れた様子で引き金を引いた。
彼女は身を翻して銃弾が飛来するであろう位置から離れ、応射。短い発砲音の直後、男の右肩に血しぶきが舞う。
「ああ――あぁぁっ!」
「こいつは同情点だ。貴様の残念な頭に対するな」
エミリアは嘆息してから、銃をしまって男へと肉薄する。そうして跪いた彼の顔面を蹴飛ばして、大きく身体を反らした際に小銃を奪い、自力で解体できる部品までを全て解体しその場に捨てる。
それから彼女はポケットから携帯端末を取り出して、本部に連絡を入れた。
「こちらエミリア――」
本人確認の全てを告げた後、状況を説明し、処刑人を手配する。そうした後でようやく出る反応は、機械音声での『了解』の一言だった。
彼女は自身がその状況でやるべき事をすべてやり終えてから、膝を折り曲げたまま倒れて空を仰ぐ男の横っ腹を強く蹴飛ばした後、素早く駆け、衛士の元へと急ぐ。
彼の傍らに跪き何かを口にしようとすると、その気配を察したのか、衛士の目は薄っすらと開いて、周囲を見渡すように瞳を動かして、彼女を発見した。
「この、世界に来て、あいつは狂っちまったん、ですかねぇ……」
エミリアは衛士の言葉を聴きながら応急処置に移る。
迷彩服のジッパーを引いて上着を脱がせ、その下に着る、既に機能しなくなっている模擬戦闘用の強化装備を脱がす。これは頬までを覆うタイツのようなものである為に、随分と苦労が必要だった。
まず傷口に負担にならないように前屈体勢にさせて、首筋からのジッパーを外して腰までを露出させる。すると引き締まった身体に、赤黒く変色する箇所が見えた。どうやら弾丸は彼の肉体を貫いているらしく、ひとまずは止血が必要なだけらしい。
「オレ、明日の任務、出られますかね」
「この傷では無理だな。出血も尋常ではない。回復はするだろうが、とても送り出せるものではない」
上半身裸になる衛士に脱がした上着を巻き、縛り付ける。強い圧迫に激痛が走る衛士は小さく呻き、両それを耐えるようにズボンを握る。苦痛に満ちる表情は最後に見た、あの全てを憎むものは一切無く、ただ弱る少年のものだった。
腰のククリナイフは鞘に納まったままであるのを見るに、恐らく彼はあの男を殺そうとしなかったのだろう。その理由は多分、身内を殺したくは無いというところだ。彼女は推測して、浅い呼吸を繰り返す衛士の頭へ手を伸ばした。
「いくら貴様でもあの程度の男に一発貰うとはな。残念な弟子だ」
「へ、自分で、堅実に行けっつったのに、ひでぇや。それと、オレは弟子になった覚えは、ないです」
「臨機応変に……まぁ良い。先は……その、アレだ。済まなかったな」
彼女は気恥ずかしそうに、ごにょごにょと言葉を濁しながら口にする。その頃になると酔いはすっかりと醒めていて、自分の言葉一つ一つ、彼への行動の一つ一つに、奇妙な恥ずかしさを覚えてしまう。この、彼の頭に乗せた手が一番の恥辱じみたものだった。
「貴様も未熟ながら考えたものなのだろう。だが自分の命が危険な場合は、時としてああいった行動が必要な場合もある。だから、そうだな――」
そこでエミリアは気付く。
衛士の呼吸音が既に失せていることに。そして全身から力が抜け、傾く身体はそのままエミリアへと寄り添うようにして倒れる。彼女は驚いたように眼を見開いてから、静かに彼を受け止め、それからゆっくり寝かせると立ち上がった。
――背後には既に仕事を終えた処刑人が、正体を明かさぬ格好で控えている。
彼女はそれへと振り返り、淡々と告げた。
「彼を医務室まで運んでやれ。そして保健医に伝えてくれ。三時間で完治させろ、と」
「はは、随分と気が立ってますね。でもわかりますよ、あいつら、自分でやることもやらずに不満たらたらですもんね。こんな奴等は、副産物使えても結局は変わりませんよ」
耐時スーツの発展型。肉体強化が安定し、途轍もない力、というのが失われた変わりに9mmの拳銃弾程度なら防げる防御力を持つ、一般的なそれを装備している。目の前のそれは加えてフルフェイスのヘルメットをかぶり、武器も持たぬ身軽な格好で立っていた。
「処理は私で……、既に済ませたのか」
「え? あぁ、本部に転送させました。多分今回の事がきっかけで心理検査が入るでしょうね。心が脆いやつとか、悪い意味で壊れかけてるのとかは――」
「無駄口を叩くな。貴様はやるべきことをやればいい」
「はは、すんません。でもそいつには優しいのに酷いっすね」
「貴様は随分と優秀そうだから、湧く情も湧かぬ」
「あぁ、なるほど」
男か女か分からぬ声で、軽い口調でそれだけを残すと地面に崩れて心臓を停止している衛士を抱え上げ、それは素早く駆け――林の中に姿を消していった。
エミリアは死体も何も無いその空間をざっと見渡した後、眼を瞑って、それから頭を強く掻き毟りながら座り込む。
強い責任感。激しい無力感。それらが彼女の精神を蝕んだ。
――なぜこんな事になってしまったのか。自分があんな事を言ってやらなければ彼はここに残りはしなかっただろう。そしてなにやら恨みを抱いた憲兵と出くわさず、このような大怪我をすることも無かった。
一方的に殺意だけを抱かれて、殺したくも、傷つけたくも無かった筈の衛士だけが死に掛けている。不条理だ。
だが、この世界ではその理不尽さが殆どを支配している。
数多ある死の一つだ。変わらない、全てにおいて唯一等しい終わりの一つ。
最も、まだ終わらない。終わらせるつもりなど無い。
エミリアはこの三週間で、随分とあの少年の事が良く分かったつもりだった。だが、想いを込めていたわけではなかったつもりだった。いつも通りに誰とも変わらず接していたはずだった。
別に愛しくなったとか言うわけではない。言うなれば、今まで決して失われないと何故か自信をもってそう考えていたものが、あっけなく散ったときの喪失感のようなモノが襲い掛かっていたのだ。
祖母が――肉親が死したような、あの絶望感。世界の終わりかと思うほどの喪失感。
「たかが、三週間だ……」
だが、なぜだろう。この悲しみは。この胸の苦しみは。
衛士の顔が頭の中に浮かんでは消える。目頭が熱くなる理由が、彼女には分からなかった。
苦痛。任務で初めて仲間が死ぬのを見た時の苦しみ。見捨てなければならない状況でその選択をしてしまった時の、どうしようもない後悔。それらが脳裏に浮かんで、彼女の胸に突き刺さる。
だが、今彼女に出来ることは何一つとしてなかった。
仮にここで衛士に対する恋愛感情に気付いても、全てを凌駕する母性に目覚めても、彼を愛しい弟に見えてきても、世界は何も変わらず、衛士の命がどちらかに傾くわけでもない。彼女はそれを十分に知っていた。理解はしていたが――。
「慣れないな、これ、ばかりは」
衛士は生き残る。漠然とそう考えてはいるが根拠は無い。
あれほど血が失われていれば生き残ったところで障害が残る可能性が高いだろう。そして腰の位置に被弾したせいで、身体の機能がいくつか失われてもおかしくはない。
そもそも、生存確率とて非常に低いものである筈だった。
しかし彼女はただ信じた。それしか出来なかった。
首元がゆるいタンクトップは下着をつけぬ胸元を露にし、それ故に冬の強烈な寒さの大打撃を与える。しかしエミリアはそれを気にした様子も無く、ただ屈みこみ、頭を抱えて後悔し、衛士の生存を祈って、自身の責任に精神を蝕まれて、後悔し――を繰り返していた。
強い筈だった精神は衛士という隙を作り出してしまったせいで脆く崩れる。そう考えると、とことんしてやられた、と彼女はくつくつと笑って――。
「あぁ、そうだ。私は未だ甘ったれの大馬鹿野郎だな。こんな所でこんな事をしてなんになる? 私らしくは無い」
――冗談ではない。たかだか十七、八の少年にここまで心を乱されて良いのだろうか。
無論、否である。彼女は心の中で声を大にして言って見せた。
表情は、心無しか晴れやかで、なにか吹っ切れたかのような心持だった。が――。
不意に、携帯端末が着信を告げるように小刻みにポケットの中で震える。相手は誰か、おおまかな想像が出来た彼女は何かと思いながら通話を受け入れる状態に持ち込み、耳に当てる。
電話の先の声の主は、動揺したような声色で疑問を呈していた。
『エミリア、彼の治療は――栄養剤でも与えれば良いのかしら?』