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束の間の……

 四月に入る前に最後にもう一度だけ任務を行うとの指令があった。エミリアは頷き、衛士に伝える。彼は素直に返事をして任務までの一週間を必死に訓練に費やしているのだが……。

 最近、妙に保健医との親密度が上がっているような気がする。それは以前の初任務からのことだった。

 今まで、二週間のみっちり鍛え上げる訓練では一度も訪れなかった医務室に、ここのところ毎日のように彼は足を向けているのだ。無論、中の様子を伺ったり、会話を盗み聞きしたりなどの無粋なことはしないが、なにやら嫌な予感がする。

 確かにエミリアは無愛想だし、相談事なら気さくで年上である保健医のほうがしやすいだろう。彼女の立場とてその要因を増幅させるものだった。

 時衛士の精神は異常な落ち着きを見せている。恐らく試練での経験がそうさせているのだろうが、それでも本番、いわゆる命を左右する任務での不安を拭うことは出来ないだろう。彼女は心理カウンセラーじみた事が出来る。いつもはふざけてはいるが、それでも聞くことは上手だし、そこはかとなく自信を与えるのもお手の物だ。

 だから衛士が医務室に通うのは別に悪いことではないし、そこで何をしていようと何を話していようと関係があるものではないのだ。

 エミリアは不自然に医務室の前を何度も往復しながら、いい訳じみた事をブツブツと繰り返し、それから中で動きがあると、駆けて廊下の影に隠れて様子を伺った。

 そこでふと気付く。

「私は一体何をやっているんだ」

 これではまるで恋に煩う乙女ではないか。いや、確かに乙女だが、だからと言って衛士に恋愛感情を覚えているわけではない。どちらかといえば保護者の観念だ。

 しかし、この歳になるまでまともな恋愛をした事が無いとなると将来に漠然とした不安を抱いてくる。

 別に焦るわけではないが、老後、独りになって寂しくは無いだろうか。子供の頃、ここに来たばかりのときは良く世話になった祖母の死を思い出しては泣いていたが、ソレに似た物悲しさを感じていた。

 そうしてから、彼女は首を振る。

 どうにもあの男、師と仰いでいた彼と久しく出会い、一撃でのされてから調子が狂っている。衛士がそんな彼の右肩に銃弾を当てたという事もあるのだろうが、自分らしくない。

「ったく、腑抜けている」

 もう一度訓練をやり直すべきだろう。気を引き締めなおさなければ、次の任務に支障をきたす。

 最も、次の任務とは言ってもエミリアは参加しない。他の二名を加えた総勢三名でとある組織に潜入するのだ。隣国の、『あの男』と以前関係を持っていたらしい組織である。

 そうであればより強力な適正者を送るべきだと考えたが、しかし任務内容は前回同様の潜入だ。衛士と行動を共にする人間を厳選すればそう難しいものではないだろう。最も、下手な闖入者ちんにゅうしゃさえなければ、だが。

 背を向け、自室へ戻る。食事は相変わらずクラブサンドだが、それでも腹は膨れ、腹が膨れれば眠くなるのだ。

 今日はなにやら特別疲れた。調子が狂うし、少しでも早く休みたい気分だった。

「あれ、エミリアさん?」

 そんな時にふと背後から声が掛かる。油断していたせいか、足音にも気配にも気付けず、思わず大きく肩を弾ませた。しかし彼女は素知らぬ顔で振り向いて、何かようか? と白々しく口にする。

「いや、別に用は無いです。ただそこに居たので」

「ならば早い内に休んでおけ。明日も訓練だ」

 エミリアは鼻を鳴らし、足を進める。おやすみなさいとの声に軽く手を挙げ、その場を辞した。

 ――心臓が高鳴る。緊張でも興奮でもない。単純に驚いたものだ。

 しかし本当に、今日はダメだ。根本的にエミリアという人格が崩れているような気がする。

 彼女は固い寝台に倒れ込むよう沈んで、布団も掛けずに天井を仰ぐ。右腕を額に乗せ、その漆黒をぼんやりと眺めていた。

 鈍っているのか、頭がぼうっとする。目も沸騰するように熱い。食欲だってそうなかった。無理矢理クラブサンドを流し込んだが、それがいけなかった。

 胃が痛い。

 眠りたいが、柄にも無く呑んだコーヒーのせいで目が冴えてしまっていた。これはこの上ない苦行だった。衛士が眠いときは熱いブラックコーヒーを飲むとその苦さで目が冴えるといっていたが、時間差の効果も随分と強いものであるらしい。

「情けない。これで任務でヘマしたら、だめだめだな……」

 明日は起きられるだろうか。いや、起きなければならない。仮にも教官の位置に立っているのだ。この自分がそうしなければ、示しがつかない。

 だが、精神か、肉体か。本当に調子が悪い――。


 午前七時。任務があるのはその日から三日後のことである。

 今日の訓練はそれ故に総仕上げと言うものだった。任務での近接戦闘での銃撃の腕は一般的なレベルであると認められた。後は確実な格闘だ。

 次はどうやら本当に施設内への潜入らしい。こういった、寮のような構造の中を歩き、敵と出くわせば殺すか気絶させるかをし、前へ進み構造を理解する。そういった任務だ。

 だから気を引き締めなければならない。以前は恐怖やら不安やらに駆られたが、今回はそれにばかり気をとられてはいけないのだ。

 衛士はそう気合を入れてきたのにも関わらず、集合場所のグラウンドには未だエミリアの姿は無かった。

 既に一時間が経過している。直立不動の体勢にも、いい加減疲れてきた頃合だった。

 こんなことは初めてのことで、衛士自体何をすればいいのか分からない。何か任務があって今日は偶然居ないのか、それともわざと現れない事によって衛士の様子を伺っているのか。

 この地下空間に居る上に施錠セキュリティの厳しい個室に居るのだから、襲われることはまずないだろうが、如何せん、不安になってくる。

 何かがあったのか、何かをされているのか。自分が何をすべきなのか、何をすべきではないのか分からない。だから一先ず、彼は医務室に向かってみた。

 ――駆け足で、急いだ様子で駆け込むと、コーヒーカップを片手になにかの書類を眺める保健医が、驚いた顔で衛士へ向いていた。

「あら、どうしたの? この時間に珍しいわね。怪我でもした?」

「いえ、あの……エミリアさん、知りませんか?」

 口に運ぶコーヒーカップ。それは不意に彼女の口元で爆ぜたように内容物が霧となって周囲に飛び散る。保健医の顔もそのコーヒーにまみれて、近くのティッシュを手探りで探し、それで拭ってから大きく心を落ち着かせるように息を吐いた。

 息を吸い込むとむせ込むのを見て、忙しい人だなと思いながらも、やはり彼女がこういったことになるのは酷く珍しいことなのだと理解する。彼女の言葉を黙って待っていると、笑っているのか咳き込んでいるのかわからない状態で、目の前に立ち尽くす衛士の胸をぽんぽんと平手で叩いた。

「本来、任務に出るよりこういった『先生』してる方が時間が無いのよね。毎日仕事だし、休む時間もきっちりだから」

 大きく息を吐いて足を組む。落ち着いた様子で彼女は始めた。

「では、体調でも崩したんですかね」

「仮に彼女なら風邪をおして出てくるわ。健康がとりえみたいなあの娘は、二年前だったかしら、任務でもそうだったから」

「でもそれって逆に、失礼な話ですけど……」

「えぇ、なんとか説得されて休養してたけど、どんな時でも朝は起きて時間通りに行動するって事が言いたかったのよ」

「……つまり?」

 眉をしかめて、衛士は問う。

 確かに彼女の行動は立派で頑張るところを今まで隠して、そしてようやく今、実は頑張ってたんだな、と理解することが出来る。しかし実際、だからなんだというのだ、というところである。

「ここでの生活は安定してるって言う事よ。気が緩んでるのね」

 衛士で言う以前の生活のような安らかさだと、彼女は例えて見せた。

 この訓練校では今まであった生死のやり取りが無い。生きるか死ぬかの選択など無く、自身の実力がそれを分かつことなど考えられないほど、平和だった。最もその段階に向かうべく鍛える場所なのだが、少なくともそれが無いということは、大きかったのだ。

 だからエミリアは穏やかになり、気が抜け、風邪を患ったのだろう。保健医は推測してから、部屋に向かってみようと腰を上げた。

 ――訓練生の部屋がある通路からやや離れた位置に、彼女の部屋は果たしてあった。

 同じように扉が等間隔で並ぶ通路。その一つがエミリアの自室であった。それを確認する事が出来たのは、部屋にネームプレートが張ってあったお陰である。

 最も保健医は、無くても分かるけどね、と豪語していたが。

 彼女はドアノブを捻るような自然さで液晶パネルに人差し指を添える。そうすると間も無く何かを認識したそれは、ピッと機械音を鳴らして――扉は少し奥に引っ込み、開き始める。

 本来ならば開かぬはずのそれである。そしてここはエミリアの自室。

 カギはその本来の役割を果たさずに来訪者を招き入れているのだ。衛士はそんな事態に思わず目を白黒させてから、口にする。

「か、カギはどうなってるんですか?」

「あぁ、この施設のセキュリティはね、あたし一人で解除できるのよ。万能鍵マスターキーってあるでしょ? あたしはここの管理人みたいなものだから、その人間版よ」

「管理人?」

「知らなかった?」

「まったく」

 それじゃ、よろしくと彼女は手を差し伸べる。衛士はぎこちなく返事をしてから握手を返すと、扉はようやく全てが開ききったところだった。

 明かりが差し込み、見えるのは正面の壁に沿うように横向きになる寝台。その上に布団を掛けてぐったりと横たわる陰は、まるでマラソンの直後に布団の中にもぐりこんだような呼吸の乱し方で布団を上下させていた。

 淀んだ空気を肌に感じる。保健医は表情を引き締めて中へと入る。同行してよいものかと入り口で手をこまねいていると、保健医はいいから、と彼を促した。

 衛士は自室の構造とそう変わらないことを理解して電気をつけようとするが、既に淡い赤の電球が鈍く周囲を照らしていることに気がついて、手を止める。恐らく、下手に電気をつけてしまえば寝ているであろう彼女を起こすことになってしまうからだ。

「風邪気味だったから薬渡したのに、自覚症状が無かったのね」

 保健医は彼女の額、頬、耳の後ろへそれぞれ手を添えてから、ポケットから冷却ジェルシートを取り出して、額に張ってやる。すると唸るような声が聞こえて、エミリアの目が薄く開かれた。

「エイジくん。君は、そうね。街に行ったことはある?」

「無いです」

「それじゃあ悪いけど、医務室にメモがあるから、ちょっと必要なモノを買ってきてくれないかしら」

 彼女はそう言って白衣のポケットからがま口を取り出すと、それをそのまま衛士に投げる。彼はそれを受け取り、ポケットにしまいこんだ。

 それから口頭で必要なものを二、三伝えられて、それをしっかりと頭の中に刻み込む。これはある種の任務だと、彼はそう思い込んだ。

 それから衛士は、未だ開け放してある扉から廊下へと出る。すると間も無く、まるでソレを待っていたかのように扉は閉まって、衛士と彼女等は分断される。声も聞こえないし、気配だって完全に断たれていた。

 保健医は気配で彼が失せたのを感じながら、薄暗くなった部屋の中で、言葉にならないエミリアの声を聞く。

 恐らく熱は随分と高いものだろう。汗もかいているし、布団の中はびっしょりだ。

「な、さけない事だ……」

 掠れた声で彼女が告げる。随分と可愛げのある様子が弱っているときだけなのは勿体無いが、ただ愛想だけを振り撒いているよりはまだいいだろう。常日頃の彼女とて、随分魅力的なものだと彼女は思っている。最も、その魅力に気付く人間はそう居ないだろうが。

「いいから、休みなさい。そんな調子だとエイジくんだって訓練どころじゃないわよ」

「……ん」

 短い返事。その後に彼女は黙り込んだ。

 しかし、それほどまでにこの環境が心地よいのだろう。風邪を引くと言う事は、それほどまでに体調管理が出来ていないことだ。油断していると言う事なのだ。彼女はいつもならそんなヘマさえしない、完璧主義者のような人間だった。

 そんな彼女が風邪を引いたのだ。この訓練校の教官になって、否、時衛士の担当になって、油断し緩みきることができるようになったのだ。

 まだその心情は素直ではないかもしれないが、良いことだった。

 任務で頭を一杯にして、たまに人の事を話すとしたら師をいかにして探し当てるか、という事だけだ。たまには、風邪で休養と言う形でも、ガスを抜くことが出来れば良いのだ。

 保健医はそれから震えるエミリアの手を強く握って、幸せ者ね、と誰にとも無く呟いた。


 時衛士が街の中を迷うのにはさほど時間は要らなかった。

 寮を出て左右に広がるうち、左へ向かいひたすら走る。街まで距離は一○キロほどあるという話なので、全力で走れば二、三○分でつくと考えたのだ。

 そうして走ること十分。まだそう寮から離れていないであろうものなのに、突如として人がぽつりと現れ、そして進むごとに周囲に人が満ちていく。

 あたりは活気付き、私服姿の人間ばかりであった。街の外観は寮の近くと変わらないが、商店には人が居て、そして商店が陳列してあった。

 衛士は人を避けて、それからようやく辺りの変化に適応しつつ、ドラッグストアを探し始める。戦闘服姿が目立つのか、すれ違うたびに視線で追われるような気がして不快だったが、それを気にしている場合ではないだろう。

 だが、日本語で記載されるその商店の数々に見覚えは無く、おなじみの黄色い看板であるドラッグストアを見つけることは出来ない。いよいよ誰かに聞かなければならないのかと周囲を見渡しながら歩いていると、不意に肩に強い衝撃を覚えた。

 誰かがぶつかってきたのだ。すれ違う男に一言謝罪をしてから、衛士は足を進める。だが、それは叶わず背後から指を食い込ませるようにして肩を掴まれ、止まらざるを得なかった。

「おい待てよ、すんません? 舐めんなよコラ」

 仕方無しに振り返ると、薄手の紺のロングコートを揃って着る二人の男。肩に小銃を担ぐ所を見ると恐らく彼等はどこかの警備兵、あるいはいわゆる”憲兵”という奴だろう。

 リリスに所属する、適正者ではない戦闘要員。つまりは軍隊で言う兵隊と同じ扱いだ。

 すると彼等も衛士の格好を見てそれに気付いたのだろう、目を大きく開いて驚くような所作を見せてから、共に顔をあわせてへらへらと表情を緩めた。

 一時間寒い野外で待たされて、病気で寝込む教官の心配を胸に遣いに出されてみれば、柄の悪い二人に絡まれる有様。テレビがあれば朝の星座占いで十二位であったであろう運の悪さだ。

 衛士は嘆息して、出来る限り穏便に済まそうと深く頭を下げた。

「申し訳御座いませんでした」

 精神誠意を込めたつもりである。

 だがそれがいけなかったのだろう。

 不意に振りあがる膝が、途端に視界一杯に迫ってきて――苛烈な一撃。

 衝撃が脳を揺さぶり、打撃を受けた鼻筋はじんとした鈍い痛みを覚え、つーっと鼻から熱い液体が流れるのを覚える。衛士はおぼつく足取りで数歩後退しながら、逃がさんとばかりに胸倉を掴む男に行動を支配された。

「テキセーシャ、だろ? お前。ムカつくんだよなてめぇらよ。ただ、便利な道具が使えるからって良い待遇受けてよ。便利な上に、その道具使えるだけだろ? んなもん猿にだって出来る。モルモット如きが、なんで人を見下してんだよッ!」

 拳が一閃。頬を歪めて拳が突き刺さり、そのまま首を折らんとする勢いで顔が右側へ捻られる。唇が切れて、血が男の拳を濡らす。

 強い痛みだ。覚悟はしていたが、痛いのには変わりが無い。

 オレは何故我慢をして居るのか。そう考えると、不意に激しいストレスが心の中に募る。

 ――気がつくと、もう一度振るわれようとしていた腕を、力強く掴む自分に気がついた。

 眉間に皺を寄せて、男が怒号を散らすよりも早く、衛士は制するように低い声で言葉を紡いだ。

「ここまでは許してやるよ。気前がいいだろ? だが次は許さねぇ。オレがてめぇに何をした?」

 瞳孔が開くような感覚。迸った怒りが、この目の前の男の行動同様に勢いづいて、一度爆ぜれば収まりどころがつかなくなるであろうが、構わず弾けさせたくなる衝動。

 もう一人は肩に掛ける小銃に手を掛けていた。たかだかケンカでこれは無いだろうとは思うが、だが衛士はそれさえも凌げる自信があった。その気になれば、一撃で倒すことができる。そんな相手にそう心から思わせるほどの自信が沸き出ていた。

 試しにこの男の顔面でも潰してやろうかと空いた手を彼へと近づけると、瞬間、短い悲鳴を上げて飛び退くように彼は衛士と距離を取る。

「て、てめぇ……!」

 動物の、本能的に感じる危機。彼が感じるのはそれだった。

 そんな相棒を尻目に、小銃を構える憲兵はそのまま即座に――前の目めりになって地面に倒れ込む。受身も取れず、そのまま額を強く叩き付ける光景は端から見ても痛々しい光景だった。

 そしてそんな男の立っていた場所から現れるのは、漆黒の戦闘服を身に着ける男の姿。清々しい短髪は清潔感を思わせるが、引き攣った目や釣りあがるような笑みを見せる口元が印象を悪くする顔。

 その男は目にも留まらぬ動きで背後から残る男の首を掴むと、そのまま容易に持ち上げてみせる。彼の足は爪先立ちから徐々に空中に浮かび上がり、呻き声を漏らして、自分の首を掻き毟る。

 それから何の感慨も無く、倒れた男の上に重なるように放り投げられた。彼はそのまま怯えるようにぎこちなく立ち上がると、相棒を放置して落ちた帽子も、小銃も捨てたまま、街の角に姿を消した。

 果たして衛士の危機を救った男は、それでも彼には歓迎されたものでもなかった。

 首元から股間まで伸びるジッパー。つなぎのようで、だが何処と無くゴツイ力強さを見せる戦闘服。見た目は、戦闘機乗りが着る耐Gスーツそのものだった。

「カハハッ! あんなのは殆どバカなんだからよ、わざわざ痛ぇの貰わなくったって良いんだよ、バカだな」

「やっぱり生きてたんだな、イワイ……!」

 憎しみが湧く。怒りが湧く。力が湧く。殺意が湧く。衝動が堪えきれなくなる。

 覚悟はもう嫌なくらいしてきた。生きていたことは分かってたが、やはりこいつを目の前にすると我慢なら無くなる。視界が真赤に染まるようだった。

「生きてたぜ? てめぇサマも様になってるようだが、相変わらずだな。俺への執念だけを餌に這い上がったのか?」

 気軽に笑い、祝英雄いわいひでおは肩を叩く。先の騒ぎで周囲からは人が居なくなり、途端に静まり返ったその中で、衛士は構わず声を荒げた。

「テメェの事なんざついの先まで忘れてたよ! だがな、許したわけじゃない」

 肩に乗せられる手を振り払って一歩引く。イワイはそれにあわせる様に大きく一歩踏み込んだ。

「はは、まだ甘ったれのガキだもんな。ママとパパが恋しいんだろ?」

「てめぇっ!」

 歯を食いしばり、拳を強く握る。今にも飛び出しそうな感情なのに、襲い掛からない自分に衛士は驚いていた。

「ほら、殺してぇのなら殺してみろよ。いつかの試練みてぇにな」

 殺意が迸るのに、この男の一言一言が心臓を締め付けられるくらい憎いのに、勢いづけるための一歩がひどく重かった。

 身体が動かない。否、身体を動かせない。自分の意思で、衛士の理性がそうしていた。

 ここでそうすべきではない。ただ挑発に乗って憎しみをぶつけるだけなら、今までこの苦しみを耐えてきた意味が無い。

 だから衛士は、強張る体から力を抜いて姿勢を正すと、無理矢理に軽く笑って首を振った。

「テメェはあの時死んで罪を償った。仕方なくはねぇけどよ、少なくともそういった形で清算したんだよな、お前は。だから俺の怒りは、憎しみは組織ここに向いたんだ。死にてぇなら勝手に死んでろ。俺はここを最大限に利用して、ぶっ潰してやる」

「あ、おい!」

 衛士は殺気に満ちた瞳で最後にイワイを貫いた後、背を向けて街の中心部へと向かった。

 イワイはそんな後姿を見送りながら短く嘆息し、頭を掻き毟ってから倒れる男と、捨てられた帽子、小銃を回収して近くの、恐らくこの憲兵が住んでいるであろう宿舎へと向かう。それからまた、一年近く昔の事を思い出してから、やるせなく溜息をついた。

「まだ、弱ぇな」

 呟きは誰にとも無く紡がれ、空気中に溶けていく。

 全てが組織の人間だというのに、表の世界同様に人が平和に街を歩いている。だからそもそも、目立つ行動さえしなければ適正者と見抜かれるはずも無いのだが。

 イワイは面倒そうに大きな欠伸をしてから、これから帰って何をしようかと考える。だが、没頭してしまうことは無理だろう。

 折角戻ってきたのに、三日後にはまた任務だ。内容はどうやら隣国のとある施設の視察らしいが、穏やかに行くわけも無い。その上二人が加わるという話だ。憂鬱なことこの上ない。

 ――しかしあの時衛士がここへ既に来ていることに驚いた。最も、あれほどの事をあれほど繰り返したのだ。一年近い養生で済んだだけでも良いほうだろう。

 衛士がここへ来た事によって表の世界の運命は変動する。それが僅かな事でも、誰かの人生は大きく変わったはずだ。たとえば、脱走するはずの精神異常者が脱走しなかったり、死ぬはずだった人間が死ななかったり。その変化は様々だ。

 衛士がそれを知るのは、きっかけがない限り無いだろうと考えると、それが良いことなのか悪いことなのか分からなくなってくる。だが精々、その怒りを誰かに向けてるだけ良しとしよう。

 イワイはまた大きく欠伸をしてから、重い足取りで宿舎へと向かった。

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