初任務②
眠りから覚めると、たまに自分が居る場所の認識が曖昧になる。
ココが何処なのか、自分が一体何者なのか――卓上の、液晶時計が示す時刻を見て漸く思い出すことが出来た。
息が詰まるほどの閉鎖空間。窓は無く、倉庫のような狭い部屋は彼の自室である。時計は今が午後の一一時であることを、アラームを鳴らして知らせていた。
衛士は気怠るそうにマットレスの硬い寝台から身体を起こし、降りて時計を止める。それから照明をつけると、時計の隣に鎮座する写真入れに、ふと目が行った。両親と姉、それと自分が以前通っていた高校の前で撮った写真だ。このとき彼はそれがとても恥ずかしくて、顔を赤らめてそっぽを向いていたのだが、今となってはしっかりと前を向いて置けばよかったと少しばかりの後悔が過ぎる。
――家具やらを支給してくれると聞いたが、結局彼が求めたのはその写真と、時計だけだった。写真はわざわざ写真立てに入れてくれたのは意外だったが、とてもありがたいことだった。
「さて、着替えて、アップすれば丁度時間かな」
ミーティングルームで装備が渡される。その集合時間は今から三○分後だった。
彼はてきぱきと下着姿の身体にシャツを着込み、戦闘服を纏い、軽い筋トレを行う。だが二週間の過度の訓練のお陰で呼吸は上がらず、また大した疲労感も得られない。だが不満があるというわけではない。心地よい程度のソレである。
衛士は時刻を確認してから、僅かな緊張感を胸に自室を後にした。
「――時間通りだ。いつもならば少しは遅れそうなものだが」
「何を根拠にそう言うんですか。いつも五分前には来るじゃないですか」
ウェットスーツのような耐時スーツにタクティカルベスト、そして備え付けのレッグホルスターに回転弾倉式の拳銃を突き刺して準備を終えているエミリアは、彼が装備の一つ一つを確認しながらタクティカルベスト、ないしホルスターにそれらを収めて行くのを見守りながら口にする。衛士は顔も向けずに反論するが、彼女はソレに対して特に何かを言うわけではなかった。
機関拳銃。拳銃。予備弾倉、手榴弾、ナイフ。そしてポケットに入れっぱなしである携帯端末は無線なのだろうが、携帯電話と操作方法はそう変わらない。ただ着信、発信が出来る通話機能、そしていわゆる”電話帳機能”だけしか搭載されていないのは、ただの通信機器として使用されているが故なのだろう。
彼はベストを着て、腰のベルトにナイフの鞘をつけ、太腿に沿わせるように立たせる。また腰の位置に標準装備される砂時計はベストに固定されていて、激しい運動では微動だにせず、自力で捻ることで傾き、反転できるような構造となっていた。
見た目としてはホルスターに無理矢理突っ込んだような風ではあるも、頭と尻をしっかりベルトのようなもので固定されているのを見るに、わざわざ砂時計の為に作られたのだろう。
準備は終えたか、と自身に問うて確認する。
彼はそこで足りないものに気がついた。
「スーツって、この戦闘服を脱いで着るんですか?」
そう、耐時スーツである。もしそうであればわざわざ着替えねばならぬ手間があるから、思い出した。
何を用意したのかは分からないが、少なくとも要望が要望であるために、船坂のような全身鎧は流石にありえないだろう。だからといって、アンナみたいなベルトを衣服代わりにする痴的な格好でもないはずだ。
ごく普遍的な、できれば彼女が着る旧・耐時スーツのようなデザインが好ましい。戦闘服とさして変わらぬ、脱げなくなる代わりに肉体を強化する新・耐時スーツの方がどちらかといえば良いだろうが、しかしそれだと機動性と重量がやや気になった。
衛士が尋ねると、彼女はめずらしく待ってましたと言わんばかりに口元に笑みを浮かべる。
やはり保健医とは違った、決して直情ではないものの、歪つなソレではないことに安堵を覚える。この訓練校での唯一の良心が彼女であるのは、ひどく残念な事だったが。
「こいつだ」
彼女はそれがまるで誇らしく、あるいは宝物でも見せるかのような嬉しげな顔で教卓の裏側、その中の台に置いてあったソレを取り出して――。
時刻が来て、寮の前へ移動する。エミリアはいつの日かのように衛士の肩に手を添えるが、だが以前とは違い添い立つような距離でどうやら少なからずとも最低限の信頼は買われているらしいことを認識する。
まばたきを一つ。
次の瞬間には、全く異なった風景の場所に居た。
久しぶりの空気の流れ、冷たい風が緩やかに全身を嬲る。寒さがすぐさま体の芯を冷やすように吹き、衛士は思わず身震いをした。が、上に羽織る外套が寒さを俄かに軽減させてくれているようだった。
しかし彼はそんな外套、四角い布の中心に穴が空き、そこに頭を突っ込んで着るポンチョには不満があった。分厚く、黒い生地は着ていれば暖かい。だがそもそもの使用目的はそうでなかった筈なのだ。
思いおもむくままに硬化し盾となり、考えるままに腕に纏いつき凶暴な武器となる。それはそういった装備なのだ。そもそもそうであるべき便利な道具なのだ。どう間違っても防寒具だけで使命を終えていい衣服ではなかったのだが……。
「これ、耐時スーツですよね」
幾度目かになる質問に、衛士は既視感を覚えていた。
「いわゆる外套型だがな。外部への反応速度を高める事に徹底している為に私やその他の、着込むタイプとは違い、身体能力の強化は望めない。最も貴様が常々ぼやいていた要望を叶えるべく作ったのだが、さすがに時間が足りなかったらしい」
彼女が既に似たような構想、そしてスーツが出来上がっている開発班にその要望を伝えたのは今から約十日ほど前。衛士がそれを、あるかなぁと大した期待も抱かずに口にしたその日であった。
そして開発班、技術班はそれぞれ手を組み、熱を出した。今まで着込む、いわゆるスーツタイプの耐時スーツの、試作型ではなく、発展型ばかりの量産を命令された彼等であった。つまりは着脱可能なそれである。今では試作型などは好んで着るものは居らず、自身の死期をそこはかとなく知る適正者か、一般兵が無理に来て任務に挑むだけ。
それでもそれを着て未だにその命を永らえさせているのは僅か数名、あるいは一人だけとの噂だった。
試作型は首から下がスーツである。首にはクッションが詰められ接着し、隙間が無い。そして直ぐに肉体に依存し、切り裂かれればその下の肉体も同時に切り裂かれて骨を露出させる深手を負ってしまう。
故に、肉体の強化はそれこそ重装備の鎧型――船坂の装備するソレ――の、攻撃力だけならば横並びになるかもしれないが、それでも補えない柔すぎる防御力が大きな弱点となってしまうのだ。
二度と脱げないのも不快だろう。生き残っても、もう自身の肉体を見る事が出来ぬストレスに精神をやられてしまう例もあった。
欠陥品だとなじられても仕方が無い品だった。
衛士が着るこれも試作品だった。しかも期限のせいでロクな試験も行われていない様子である。
不安が、それだけが募っていた。
――周囲は低いビルと平屋の商店が横並びになる。道路は二車線。街路樹は無く、植木も無く、ただちょっとした段差だけが歩道とを隔てていた。
街灯が等間隔で周囲を照らす。その対面も、同様であるらしかった。
そこは商店街と言うほどではない、ちょっとした街中。人通りは多くは無いが、だが少なくも無い。二人が居るのはそんな未だ活動を続ける街の――ビルの屋上部分だった。
誰もこちらへ目を向ける者は居ない。いたとしてもこの暗闇だ。黒い衣服を身に着ける彼等を捉えるなどは至難の業だろう。
スーツのことはひとまず置いておこう。任務が最優先事項だ、と自分に言い聞かせて、傍らのエミリアへ向き直る。懐かしい夜の暗さに何かを思う暇も無く、同時に彼女は口を開いた。
「目標の組織はこの街の中にある。やや裏側の、ただの商店。この街での麻薬取引の主たる場所だ」
「……なんか、この調子でどんどん裏側知っていったら、日本に居るっていう感覚がなくなりますよね」
「私なぞはむしろ感心したほどだ。日本は平和だな、と」
彼女の母国がどうだとか、他国がどうだとかは知らないが、初任務が麻薬取引の組織、その施設の見学、捜査であり、舞台が日本である事に既にこの上ない驚愕を覚えているのに、それを平和だと言い切られて衛士の笑みは引き攣った。
だがそうなのかもしれない。
日本はそこまで好戦的ではないのだろう。だから簡単に暴動は起きないし、あってもせいぜいデモ程度だ。それも、状況によってはマスコミが誇張したり、または隠蔽したりする。島国であるから紛争だって起きないし、性質上、内乱だって無い。
衛士の認識の問題かもしれなかったが、その殆どは実際に当てはまっていた。
日本に居る以上その平和は、非日常を覚えるまで、その身にしみこんだままなのだ。
「行くぞ、ついて来い」
彼女は表通りから身を翻して明かりの無い裏へと移動する。彼は落ち着いた様子で、だが確かな、心地よい程度の緊張をそのままにエミリアの後を付いていった。
これも任務なのではないかと思うほど、彼女についていくのは過酷だった。
その要因の一つに、彼女が自身で口にしていた『外套型のスーツは身体能力を強化する機能が無い』という事を忘れてしまっていた事にある。お陰でビルとビルの間を飛び越えるだけで一分近く、決意を改めるのに時間を要してしまい、また音を頼りに方向を確認し、結局はビルを降りて彼女を追ったのだ。
結果的には迷い、泣き出しそうなところをエミリアが発見し、手を引いて目的地へ誘導してくれたのだが……。
初日からえらい目に合った。
彼は落胆しながら、照明で周囲、敷地内を照らす建物へと視線を投げた。
そこは居住区らしい場所だった。ブロック塀の向こうには民家が並び、近くにある商店と言えばコンビニが一、二軒ある程度。だが際立って目立つのは彼が見るその場所である。
個人店の事務所、というのが建前らしいが――二階建てのビルのような建造物。窓は極端に少なく、門はないものの正面の入り口には、まるで倉のようなゴツい南京錠で施錠されている。さらに照明の関係で表の入り口はあまり推奨されたものではなかった。
「開錠技術も道具も無いしな」
というのが一番の理由だった。
「そして恐らくこの中途半端な田舎だ。銃器は目立つが、無いわけではないだろう。そして道は裏に限られている。普通に考えれば、誘われているようなものだ」
「それじゃ、入るなら敢えて表、って事ですか?」
「いや、裏だ」
彼女は、まるで暴力団事務所のようなソレへと向きながら足を進める。その見は素早く、既に丁字路の半分あたりにまで差し掛かっていた。
周囲に建物は無い。仮に少しばかりの騒ぎがあってもすぐさま誰かが駆けつけることも無いだろう。
衛士はそれを考えながら素早く彼女の後を追った。
敷地内に入ると、黒塗りの車が二台駐車されているのが良く目立った。だが彼女は構わず素通りし、建物に回りこむ。と――数メートル先、おそらく裏口であろう位置の前に武装した人間を発見する。
一人だ。姿は平和で閑静な住宅街に似つかわしくない兵装。ヘルメットに防弾チョッキ。そして肩から提げるのは汎用的なアサルトライフル。有名なロシアの、正確にはソ連の銃だったが、衛士にはそもそも見分けがつかないから分からなかった。
表の光源がやや届く建物の側面。彼女は手で拳銃を構えろと合図する。
衛士は言われるがままにすると、エミリアはベストのポケットから黒い筒状の何かを取り出したかと思うと、何かを要求するかのように手を差し出した。彼はどうせ銃だろうと思って差し渡すと、どうやら当たりだったらしく、素早く手元へ持って行き、その筒を銃口部分に装着した。
これがいわゆる減音器だという事に気付いたのは、彼女がその銃を構え、発砲したその瞬間に――まるで空気だけが入ったパックジュースを踏み潰したような、空気の抜けるような音だけが響いたからだった。
彼女は建物の角から身を乗り出して銃を構えると、照準を定める間も無く発砲した。
それこそ、息を呑む暇も無く。
衛士はそれから直ぐに銃をつき返された。彼は減音器のせいでホルスターに収まらぬなったソレを手に提げ、せっせと裏に回りこむエミリアの後を付いていく。
余裕のある裏手はその背後を背の高いブロック塀に囲まれている。だが、裏口の上には電灯が取り付けられていた。だから、警備の彼を前にすれば姿が露になるだろう。到着すると、彼は声も出せずに痛みに耐え、やがてずるずると壁に背中を押し付けて座り込んでいった。
瞳は二人を捉えているらしいが、確かな焦点は合わない。そうすると間も無くぐったりと首を垂らして、脱力した。
「傷は致命傷ではない。だが出血が続けば確実に命に関わるだろう」
もって三○分か。彼女は呟きながら男の横腹の、防弾チョッキの縫い目からじわりと広がる血の染み、そして彼の尻を濡らす血を見下ろしながら、ポケットを探る。だが目的のものは無い。もう片方を探る。無い。防弾チョッキを強引に脱がし、上着のポケットへ手を突っ込む。
裏口のカギは果たしてそこにあった。
彼女は手間を掛けさせられたことに短く息を吐いて、裏口のドアノブ、その鍵穴へとカギを差込、捻る。が手ごたえは無い。もう片方へ捻り、ガチャリとした確かな音と手ごたえを覚えて、ドアノブを捻る。
しかし強い抵抗が開扉を拒んでしまう。
彼女は強い舌打ちをした。
――人が今正に死のうとしている。素晴らしき減音器のお陰で誰にも気付かれていない。
衛士だけがそれを目の当たりにしている。
自分は何をすべきなのだろうか。彼は考え、少なくとも今考えていることはすべきではないという事くらいは理解できていた。
応急処置、救急へ連絡。助けを呼ぶ。全てはナンセンスだ。
そもそも彼はこれを目的に来ていると言っても過言ではないのだ。
だが、だけど――。
「おい、早くしろ」
語気を荒げて彼女が招く。開錠された扉は開き、衛士は思考をやめて扉の隙間へとその身を滑り込ませて侵入した。
「好きになれというわけではないが、慣れた方がいい。貴様の任務はこういったものが殆どになる」
――内部構造は思ったよりも民家的だった。
裏口は台所部分につながり、台所から伸びる通路は短く、光が漏れる居間へと繋がる。だれかの話し声がして、強い人の気配。そしてテレビを付けているのだろう音声が聞こえる。
居間を突っ切れば表の出入り口、玄関部分に到達し、そこまでの通路にトイレや個室が二つあるらしい。彼女は台所に居るのにもかかわらずそこまでを探って見せた。どうやったのか、衛士は聞くことが出来ぬまま、どうやって二階へ向かうのかを聞いた。例の麻薬は、恐らくこの二階で栽培されているのだろう。
「階段は玄関にある筈だ」
「そこへはどうやって?」
どう考えても相手は暴力団であろう。数は声を聞く限りでは十人近い。常に武装しているのならまだしも、素手であるはずの彼等には負けるつもりは無かったが、今回の任務はあくまで捜査のはずだった。
「このままではつまらんだろう」
「こ、殺すんですか……?」
無実ではないだろう彼等だが、そう簡単に命が失われて良いものだろうか。
だが任務だ。どんなものであれ、冷酷に遂行しろと告げるのは衛士の頭の冷静な部分だった。
「それが今回の仕事だ。まだ貴様には動機付けが必要か?」
ふふんと鼻を鳴らす彼女は、手を胸の位置まで上げて、口にする。
「ここのボスらしき男の娘と恋仲になった男は”行方不明”になった」
エミリアは親指を折る。締め付けられるように、その生地は軋むような音を鳴らした。
「中学生二人は何も知らずにここへ連れて来られ、廃人のようになってから自殺した」
人差し指が折られる。
「因縁をつけられた青年は殴り蹴られ、打ち所が悪かったのか半身が麻痺する障害を得た」
中指を折る。
衛士は静かに、もういいと次を続けようとする彼女の言葉を遮った。
「つまりはただの屑で、死んでも誰も困らないって事でしょう?」
何人もが被害にあっている。だというのに彼等は検挙されていない。違法薬物だって大量に所持しているのに。
だから裁けと、彼女は促す。どうせ手を汚さなければならないのなら正義の味方ぶったほうがいくらか気が軽いだろうからと。
――不意に扉が開く音がする。人の気配が強くなった。誰かが、話し声が聞こえたのを確認しに来たのだろう。
衛士は素早く手にしたままの銃を構え、引き金を引く。発射炎が瞬き、男からやや離れた右方向、食器棚のガラスを撃ち抜き砕ける音がする。男は驚いたように身を固め、衛士は素早く照準を修正して再び発砲。
男の胸に血の華が咲く。
時衛士が、そしてエミリアが異変に気付いたのはほぼ同時だった。
彼が構える銃はやや下向きに、どうひいき目で見ても発砲すれば足元の床に被弾するだけだった。そしてその通りに、発砲の直後に男の足元で火花が散ったのだ。
だというのに、目の前の男は胸を手で押さえようとして、それも叶わず崩れて倒れる。動かなくなり、床に鮮血が溜まり始めた。
「トキ、貴様はここで待機をしていろ」
「……わかりました」
異常事態が起こっているのは明らかだった。
エミリアは表情を引き締め、拳銃を片手に壁に駆け寄り、そこに背を当ててゆっくりと身を隠しながら通路側へと足を向ける。ポケットから手榴弾、催涙ガスを噴出すそれのピンを引き抜くと、素早く開いたままの扉に投げ込んで退避する。
外と中。新たなる敵の潜伏先を一つずつ潰す作戦だった。
衛士はそれをみて慌てて身を翻し、裏口から脱出する。エミリアも同様に後に続き――耳につんざく発砲音が背後から響いた。エミリアだ。
途端に、暗闇の中で動く影を捉える。
「動くな」
立て続けに二度、三度の銃撃。だがそれは相手に当たった様子は無く、やがて影は静止し両手を上げるような動作が見えた。
苦笑するような声が漏れる。まだ若い男のそれだった。
「手荒な歓迎だな、エミリア。俺ぁお前の仕事を手伝ったつもりなんだが……」
男は親しげな声を上げる。暗闇の中、声と影だけが頼りである衛士は単純な展開を複雑に捉え始め、混乱を開始してしまう。
何が起こっているのか。はたしてオレに出来ることなどあるのか。
目の前の男は敵か、否か? しかし、リリスに居る人間が、外に居る他者に存在を認知されているなど――。
「ま、お前がどう捉えようと構わねぇがな」
銃撃。男の位置、その顔の近くで発射炎が瞬いた。弾丸は虚空を切り裂き肉薄し――間も無く衛士の胸に直撃する。
強い衝撃が彼を襲った。まるでプロボクサーの全身全霊を込めた一撃が振るわれたかのような暴力。されど弾丸は彼に傷を付けることは無く、寸での所で銃弾を止めて見せたポンチョは、そこから弾をぽとりと地面に落とした。
軽い音が鳴る。彼は僅かに身体を前屈させた体勢で、喉の奥から漏れそうになる咳を必死に押さえ込んだ。
機動性はいい。反応も早い。だがやはりダメだ。ポンチョはとっさの動きに対応しづらい。
「どうしたエミリア。守らないのか? 部下、なんだろ?」
わけがわからない。敵であることは確かだが、なぜ動きが察知されたのか。誰かからのリークのお陰だろうか。
だが、だとしたら少なくとも随分優秀な人間が居ることになる。あの組織の裏をかくほどだ。今の衛士にはとても想像がつかないが、とにかく”すごいのだろう”としか表現が出来なかった。
「答えてやる義務は無い」
射撃。だが弾丸が男に傷を負わせることは出来なかった。
これが昼だとか、明るかったらまだ結果は違ったのだろうか。衛士は思うが、すぐさまそれは違うことを理解する。
彼女は以前、目隠しをしたままで正確に衛士の場所を見抜いていた。だから明るい暗いなどは問題ないのかもしれない。いや、ただ大まかな場所を当てていただけかもしれない。もしそうならば、銃撃戦となれば大きな問題となるのだ。この闇、というものは。
「え、エミリアさん……」
声を出すと、それが震えていた。情けなく、恥ずかしく思うと――正面の男は、噴出すように笑い始めた。
「たっはははは! なんだ、ただのお守りだったのか!」
「どうでもいい。中の人間はどうした」
「あ? お前が来るのを見越してよ……殺ちゃいねぇよ。ただもうすぐ死ぬだろうな。謎の爆発で」
「どういう……ッ!」
何かに気付き、エミリアは衛士に飛びつくようにして巻き込み地面に伏せる。
直後に、裏口のすぐ近く。先ほどの警備の男から眩い光が瞬いたかと思うと、強い衝撃波が二人に襲い掛かった。続いて激しい熱風が全身を嬲り、吹き飛ばされる身体はすぐ近くのブロック塀に叩き付けられる。
爆発音が閑静な住宅街に鳴り響いた。
灼熱が建物を焼き、衛士はその熱を吸い込まないように目を閉じ口をつぐむことしか出来なかったが――エミリアはすぐさま立ち上がり、衛士の手を引いて移動を開始する。
彼は為されるがままに足を動かして、すぐ後に背後からこもった破裂音を聞く。背にする建物の内部が爆発したようだった。吹き飛ぶガラス片が周囲に撒き散らされる。二人は構わず走り続け、やがて出口のブロック塀に身を隠した。
大きく口を開いた、門も無い出入り口。空き地を利用したような其処から放たれる赤い光源が禍々しく周囲を照らす。高熱が、やや離れた位置であるはずのそこにまで伝わり、衛士は額から流れる汗を拭った。
「派手になったな。だがかまわない。お前はそう言う人間だ。俺みたいにな」
丁字路の横道路はそう広くは無い。だから衛士はてっきり男は正面ではなく、その横、出入り口の向こう側の塀に居るのかと思っていた。だから、正面から響く声を聞いて、思わず身を強張らせる。
轟と唸り、広い空き地の中心で大規模なキャンプファイヤーと化す建物を背に、彼女は衛士を制して立ち上がる。彼に告げる言葉は、簡単な命令だった。
「少し面倒なことになったな。トキ、貴様には今回教えるべき事を教えられなかったが――まぁいいだろう。先に戻っていろ」
およそエミリアらしくない妥協するような感想を一つ、携帯端末を出せと口にする。
「な、オレだって闘える……!」
「問題はそこじゃないんだよなぁ少年、お前はこの中じゃ部外者、つまり邪魔者っつーわけなの。分かる?」
「登録してある本部に発信しろ。五秒以内に位置を把握し、転送を開始する」
「だからオレは――」
「まぁまぁいいじゃねぇか。まだ子供だ。独りは寂しいんだろ?」
――だめだ。頭が混乱する。
今まで想像していたのは冷酷無比な殺戮兵器だ。無条件で攻撃を開始するこちらに対するのはそうでなければならない。だが普通に考えて相手が人間であるのは必定だ。
衛士はそれを忘れていた。だからといって、対面する男のような気軽さをもつのも稀だった。敵を敵とも思わない、まるで友人に話をかけるような気さくさ。初めての任務で、初めての殺し合いで、こんな事になるなどとは夢にも思わなかった。
「……ここへは何をしにきた。我々の――」
言いかけて、彼女はやめる。何故行動が先読みできるのか。それを言ってしまえば組織の能力を簡単に見抜かれてしまう。
たかだか”逃走者”の跡さえも追う事が出来ない無能な組織だと。
だがそれが杞憂であることも彼女は知っている。おそらく上層部は容易にそれを認識できている。彼の潜伏場所、彼の行動、朝何時におき、昼に何を食べたか、それを知ることは出来ているだろう。ただ伝えていないだけだ。その必要は無いと考えているのだろう。
適正者の逃走などとは、組織が成立してから珍しいことである。だから観察でもしているのかもしれない。ただ、彼がそれを知っている、あるいは推測しているかは全くどうでも良かったし、関係ないことだった。
「目的、ねぇ。気障ったらしく言えば君に会いに来たって所かな」
「相変わらずユーモアセンスは最低だ。ノウハウ本を読んで来たのか?」
「良くわからないなぁ。俺はお前を誘いに来たんだぜ? そこに居ても腐るだけだ。力は生かせない」
「つまらんな。今の貴様を見ていれば十分に分かる。腐っているのはそちらだと」
衛士の一歩前へ。男はその場より一歩前へ。
彼女は殺気を滾らせ、男は肩をすくめて嘆息した。
「俺はまだ粘るぜ」
「私は貴様をここで始末する。首を置いていけ」
「はは、すっかりこの国に馴染ん――」
発砲。同時に彼女は男へ肉薄する。
男は飛びずさるように後退し、そのまま背後の壁に高く飛びあがったかと思うと――水泳のクイックターンの出来損ないのように壁を蹴り、一気に加速。瞬時にエミリアへと飛び込むが、彼女はその額を狙い、引き金を引く。
相手は空中だ。無論、避けられるはずなどあるわけないのだが――。
「いやはや、甘いねエミちゃんは」
鋭く突き出た手のひらは容易く彼女の顔面を掴み、彼が地面へ向かうのと一緒に押し倒され、硬い地面に後頭部を叩き付ける。鈍い打撃音。
銃弾は果たして男を貫かず、闇の中でその姿を消していた。
「あぁ……っ!」
呻き声は厳格なイメージを払拭するような女性らしいものだった。
男は立ち上がり、倒れたまま動かない彼女を見下ろしてから衛士へと目を向ける。衛士は既に立ち上がっており、その銃口を彼に向けた体勢で停止していた。
「本来なら正々堂々戦いを挑むような性格じゃない。だが突っ込んできた。なぜだか分かるか?」
喋るたびに印象が変わるような気がして、衛士は強く歯を噛み締めた。何か動揺でも誘われているような気がして、頑なに彼の言葉に反応しない。
男は嘆息して、底冷えするかのような低い声で囁くように口にする。
「お前が邪魔だっつってんだよ、ガキが」
「……ッ!」
思わず足が後ろに引ける。だが背中は直ぐに壁にぶつかった。
動けない。両腕で銃を構えたまま、恐怖に駆られた肉体は行動を鈍くしていた。
男の眼光が炎を映すせいか酷く殺気めいたものが視認できた。
「逃げるなら待ってやるよ。だが独りで逃げな。戦うなら五秒だけ待ってやる。出来るならその間に殺して見せろ」
――自分だけが生きて、彼女を見殺しにするか。あるいは彼女もろとも死に急ぐか。
人としては後者を選ぶ。だが組織の人間となった今では前者が優先されるが……。
上の人間は何を考えているのか。エミリアが彼の存在を知っていたのだ。上層部が知らないはずも無いだろうし、であるならば予測できない事態でもなかったはずだ。そして現在、進行形で監視すら出来ていてもおかしくは無い。
ならばただ泳がされているのか? 死んでも生き残っても関係ない。どちらかといえばこの目の前の男の動向こそが重要だというのか?
衛士はまだ身を置いて浅い組織に不信感を抱く。そもそも、こういった事があるからこそ組織としてはまだ入りたての新人には生死を分かつ任務を執行させることはそうそうないのだ。
彼がこういったことをするのは、組織として、そしてリリスの中でも異例中の異例だった。
そして目の前の男が油断せずに衛士を見据えるのは、既にこの少年が訓練を終えた確かな適正者だと誤認しているからに過ぎない。
「決まったか?」
男が問う。衛士は黙ったまま答えない。
決められない。戦うべきだろうが、勝てないのは明らかだった。
「なら死ね」
男が銃を構え、引き金を引く。衛士が咄嗟に腰元に手を動かしたのはほぼ同時だったが――直後に、弾丸は頭蓋骨を貫き脳を吹き飛ばす。背後の壁に血のりがべっとり付着して、時衛士は痛みを感じる暇も無くその場に崩れて事切れた。
黒塗りの自動拳銃が炎の明かりに黒く照る。男の指が引き金を押し引こうとして、停止する。衛士はその瞬間を狙って射撃した。男は身を翻そうとして肩に被弾して、短い悲鳴を上げながら跪く。
衛士はここぞとばかりに肩の力を抜き、小さな反動を受け流す体勢で弾倉の中の銃弾を全て放出した。
だが弾丸はその全てを男から少し離れた、五○センチ程度の空中で停止している。
何かが作用しているのだろうが、衛士には想像もつかなかった。
驚きも無い。ただ唯一見出せた機会が潰れてしまったと落胆するだけ。もう予備弾倉に入れ替える気も無い。ここで反撃されたらもうおしまいだ。
男は呼吸を乱してそこから少し離れ、立ち上がる。銃を持ち替えて右腕を垂らし、その指先から血を滴らせて衛士を睨んだ。
「は、冗談じゃねぇぜ」
弾丸は封じ込められた速度を思い出し、瞬間的に男が居たその場所を貫き地面に突き刺さる。だが被害は無く、耳にやかましい音が響いただけだった。
「砂時計、だろ。お前の道具は」
男は衛士が答える暇も無く、面倒くさいと悪態づいた。
「あーあー、最悪だ。気分がな。しかし、勿体無ぇな、まだ若ぇのに……俺が言えるのは、もう二度と道具なんざ……いや、砂時計なんざ使うなってだけだ」
「アンタに不利だからか?」
「ばか野郎。俺はお前の心配をしてやってんだぜ。先輩としてな」
「裏切り者の癖にか」
「ケンケーないね。どちらにせよ人が来る、今日はここまでだ――達者でな」
男はまた、今度は随分と穏やかな口調で諭すように残すと――僅か一瞬にして姿を消した。
衛士はそれを見てから大きく息を吐き、ポケットから携帯端末を取り出す。彼は倒れるエミリアに寄り添うように座り込んでからリリスへ向けてリリスへ向けて発信した。
衛士は抱きかかえたエミリアを寝台の上にゆっくりと寝かせてから、ポンチョを脱ぎ装備を外し、畳んで、整えて隣の寝台に置く。彼は其処で一つ息を吐いてから、何も聞かずただそこへ促した保健医へ事情を説明した。
「……君は”特異点”という言葉を知っているかしら」
赤い髪を掻き揚げ、素肌にベビードール、その上に白衣を羽織るだけの彼女は薬品棚から無造作に琥珀色の液体に満ちるビンを取り出し、自席へ腰を落とした。
足を組むといよいよ目のやり場に困ってエミリアを眺めるが、タクティカルベストを外した、そのスタイルが浮き出る耐時スーツは見慣れているのに、無防備である姿に奇妙な扇情を沸き立たされて、最終的に彼は俯くことしか出来ない。
「言葉だけなら」
基準があって、その基準が適用されない位置の事だ。主に数学だか、物理学だかに使われるから詳しいところは分からなかった。
「ま、あくまで比喩のようなものなんだけどね」
「あの男の、能力の事ですか?」
「そう。道具を使わずに特殊な能力を施行できる事。これは適正者の中でも得られる人間は殆ど居ないわ。そもそもの才能か、特別な施術を受けてようやく身に着けるけれど、扱えるかはまた別の話なのよ」
「……やっぱり、例えばオレの砂時計みたいなのが影響するんですか?」
恐らく選ばれた時点で多くの人間が特殊な道具を得て適正を計られるのだろう。その時から多分今まで、その道具に愛着でも持つように使い続けるはずだ。だからこそ、耐時スーツもそうかもしれないが、副産物が肉体、精神に大きな影響を与えるのだろう。
故に目覚めるのが、その特異点だ。
「今のところはそうだと考えられてるわ。詳しいことは知らされないし、多分この組織の有する技術の根底が関係していると思う。にしても、道具を使って一撃くれてやったんだって? すごいわね、誉めてあげちゃうわ」
やるせない力の抜けた言い方は眠気を堪えているせいだろう。髪型が乱れているのは恐らく先ほどまで眠っていたからだろう。
時刻は午前二時だ。ココに来てやることもなく生活習慣を正された彼は、いつもならば既に深い睡眠に堕ちている頃合だった。最も彼女の仕事の本当のところが分からないから、いつ眠っているのかは分からないが。
「それで、あの男は特異点なんて本当に珍しいのに、逃がしたんですか?」
「逃がした……正確には捕まえ損ねたんだけどね。数ヶ月は探したんだけど、全然、尻尾も掴めない。だから結局諦めたのよ。最も、上層部からの手助けがあれば別だったんだろうけど」
「ちょっと――待ってくださいよ。手助け? 任務ってその上層部から出されてるんじゃないんですか?」
「基本的にはね。だけど外に出た、逃げ切れた逃走者については別。責めて責められるわけじゃないし、捕まえて来いと言われるわけでもない。ま、無理矢理つれてきたけど、逃げ切れるなら逃げてもいいよ。外の世界で満足出来るならってワケ」
「外の世界で……、ここでも任務はあれども不自由はないからって事ですかね」
「いえ。基本的にはここに居る人間は外では”存在していない事”になっているから。適正者に限る話だけど、存在の時間を遡らせて誕生しなかったことにしているのよ」
並行世界と言う言葉が頭の中に真っ先に浮かぶ。
無数に構成される可能性の世界。衛士が居る世界といない世界。性別が異なる世界。年齢が違う世界。取り巻く環境が違う世界。
この組織はそれを可能としている。それを作り出しているのだ。
そもも時間を操作するという時点で常軌を逸している。まるでSF小説の世界なのだ。
「憲兵だとか技術者は皆失踪、あるいは死亡扱いされているはずよ」
だがそんな世界があったとしても時衛士が居るこの状況は何も変わらない。
今まで経験したことは決して変わらないだろうし、この記憶が確かである限り、仮にそうでなくても気持ちや決意が変わることは無い。衛士はそう考えて、揺らぎそうになる気持ちを正した。
――男は逃げ切った逃走者だ。さらに特異点という、道具を使用せずして特殊能力を得る適正者。衛士はその情報を整えて彼女へ問うた。
「なぜ、エミリアさんの前へ来たんでしょうか? 確かにオレが邪魔だったかもしれないけど、彼女だって十分あいつを捕まえることくらいは出来るはずでしたが」
「……っ、ふぅ」
彼女は口に含めたブランデーを味わい、鼻から抜けてゆく香りを心地よく感じてから一つ息を吐く。途端に吐息から酒の臭いが漂ってきた。口の端から垂れるソレを手の甲で拭い、半目で衛士を捉えて答えてみせる。
「彼とあの娘は、そうねぇ、今の君と彼女のような関係だったのよ。言わば師弟関係、担当者と適正者みたいな」
「弟子であるエミリアさんを誘いに来たってワケですか?」
「本心は分からないけど、今はそう考えられているわ。最も彼の動向を気にしてたり、覚えてたりしているのなんて限られてるけどね。殆ど皆、関係ないことだから忘れてるわ」
「ちなみにあの男って幾つなんですか?」
「えーっと、あの娘の五つ上だから……二五歳前後かな」
――こいつは驚いた。どうやらエミリアはまだ二○歳であるらしい。
てっきり二三歳くらいだと思って接してきた衛士は、ハッキリしたものではないが、なにやら途端に疎外感というものを感じてきた。
歳が近い。三つくらいだ。だというのに実力はここまで離れていた。ショックだ。
保健医はソレに気付いたのか、立ち上がり、励ますように肩を叩いた。
「この娘がココに来たのは十五の時よ。確かに伸びしろがとんでもなくて物覚えが良くて無愛想だったけど、潜在能力的には君の方が強いから大丈夫」
しかしその潜在能力を引き出せるか否かが本人の実力なのだ。衛士はそれを知っていて、それでも保健医の精一杯の心遣いを受けて重い腰を上げる。
聞くことは聞いたし、自分勝手かも知れないがもうここで部屋に戻ろう。彼女とて疲れているはずだし、エミリアだって頭を打って気を失っているだけらしいし。
「ありがとうございました。部屋、戻りますね。おやすみなさい」
「えぇ、おやすみなさい。良い夢を」
衛士は礼儀正しくお辞儀をして、静かに扉を開けて、静かに閉めていく。耳を済ませると素直に足音が小さくなっていくのが分かり、保健医はにやりと微笑んでからブランデーを口に含んだ。
エミリアが横たわる寝台に腰をかけて、穏やかな寝顔を見せるその顔に手をそっと添える。二○歳とは言うがまだ少女の面影を残す可愛らしい女だ。今では担当を持つほどに強くなって、個人的にも喜ばしい。
透き通るような白髪に、妖しい艶を持つ褐色の肌。瞳はこのブランデーと同色の琥珀色だというのに、酒の一滴も飲めぬ下戸の女性。以前ワインを飲ませたらたかが一杯だけで気分を悪くしていたが、そもそも肝臓が悪いのではないだろうか。
だが検査をしても以上は無いし、数だって減っては居ない。もともとそういった体質なのだという結論に行き着いた。
親指で顎を引かせると、薄い唇はそっと離れ、小さな口を開ける。
保健医はそのまま顔をエミリアの口元へと近づけて、自身の唇を彼女の口に挿入する。それと同時に口を開き、口内のブランデーを流し込むと、しっかりと注ぎ込めなかったのか零れた酒が彼女の口、そして胸元に滴って強い酒の臭いを放つ。
直後にエミリアは眉をしかめ、間も無く目を力強く開け放って――保健医の顔面を鷲掴み、引き剥がす。舌に絡みつく舌を引き離すと糸が引き、背筋がぞくぞくするような嫌悪を覚えて寝台から飛び降りた。
「殺すぞ、貴様……!」
先ほどまで自身が居た寝台に横たわって、翻る下着を着けない肢体が露になるのを隠さずに彼女はエミリアを顔だけを動かして追う。彼女は強い酒の臭いに頭をくらくらさせながらしっかりと床を踏みしめ、対峙した。
「わざわざアナタの為に起きたのよ? この深夜に。これくらい許してくれたっていいじゃない」
「……トキか、奴がここへ?」
「えぇ。素直でいい子に育ったわね」
「変態行為なら奴の方が喜ぶだろう。あいつは生粋のマゾヒストだ」
根拠は無い。だが訓練中の走り、殴られしている間に見せる僅かな笑みがそれを思わせていただけだった。なじられれば、へらへらと笑いながらただ受動的な反応を見せる。それもその要因だろう。
「あら、いいの? 遠慮してたんだけど」
「……初体験が貴様だというのも可哀想な話だな」
「失礼ね」
「どうでもいい。頭が痛い。部屋へ戻る」
ついには耐え切れなくなって、頭を押さえて薬品棚に背を預ける。まるで二日酔いでもしたかのような強い頭痛だ。恐らく、ワインでさえ無理なのにブランデーを飲まされたようだ。耐時スーツから放たれる香りが忌々しくなってくる。
そうしていると、いつの間にか席についていた保健医から何かが放られたのに気がついた。彼女はすばやく対応して手を振るい、それを掴む。どうやらそれはビンで、ジャラジャラと錠剤が音を立てるのを効く限りでは薬品らしい。
「効くわよ」
「何にだ」
強い口調で問うが保健医は飽くまで薄く笑うだけ。エミリアは無駄だと吐き捨てて、鈍重な足取りで出口へと向かう。その中で、先ほどまで自分が横たわっていた寝台の隣にしっかりと整えられた装備を見て、回収する。
「几帳面な奴だ」
だがこれを片付けるのは明日にしなければならない。ともかく酒の影響が強すぎたのだ。
「奴は、何か言っていたか?」
背中越しに問いかける。保健医は肩をすくめて、
「何かって?」
「戦闘報告だ」
あぁ、と納得したように声を上げる。エミリアは閉じた扉に手を添え、身体を支えて静止した。
「右肩に一撃くれたらしいわね。砂時計を使って」
「……因果なモノだな」
「ふふ、そうね」
「世話になった。おやすみ」
「えぇ。お大事に」
エミリアは重そうな身体を引きずって、両手に衛士の、そして自身の装備を抱くようにして医務室を後にする。
それを見送った保健医は大きな欠伸をしてから、白衣を椅子にかけ、照明を落とすとそのまま医療用の寝台に身体を沈めた。
時刻は間も無く、午前三時になろうとしていた。
眠れて二時間、いや粘って三時間だろうか。彼女は素早くうつろになっていく意識の中で考えて、無意識が想像する衛士との応答に笑みを漏らす。彼女はその表情のまま、ひどく穏やかに眠りについた。