初任務①
空気は冷たい。それこそ肉体が芯から冷えるほどに。だというのにこの左腕は焼け付くような熱さを覚えている。息をするのもやっとなほどな激痛がそこから広がっていた。
額に汗が滲む。だがそれを拭うことすら出来ずに、男は建物の壁面を背にして構えるアサルトライフルを下げてしまう。最早腕に力が入らない。何故こんなところで俺が、とぼやきたくなるも、声を出す余裕は無かった。
――民間軍事会社から帰ってきた途端にコレだ。せっかく日本で、また改めて平和な生活を築こうと思ったのだが、どちらにせよこんなものを握ってる時点で本心ではそれを望んでいなかったのだろう。
彼は以前まで居たアフリカの紛争地域の事を思い出しながら、力が抜けていく足をそのままにズルズルと背を壁に押し付けながら尻餅をついた。
以前は前線で弾幕を作るだけの簡単なお仕事だった。簡単なだけに離職率も高かったが、なんとか生き残れた。帰って来た理由は無様にも地雷に引っかかった仲間を見て軽度のPTSDに掛かったせいだった。
日本に戻り、貯金を崩しながら細々とやってきて、立ち直れて、以前の経験を生かそうとしたところでこの妙な会社に声を掛けられた。何をやっているかは良く分からなかったが、ただ武装して表を警備していればいい仕事だった。給料はいい。男は二つ返事で頷き――今日で三日目が経過するところだったのだ。
訳も分からない、黒装束の二人。一方はフルフェイスのヘルメットをかぶり、ウェットスーツのような服の上にタクティカルベストを装備するだけの身軽な格好。一方は、顔を隠すこともせず、マントのようなモノを着込む少年。見た目はまだ高校生といったところだろうが、そんな彼の存在でさえ、射撃されるまで気付けなかった。
いや、そもそも今でさえどちらが射撃したのかすら分からない。ただ音、この激痛を覚えて、その方向を推測して目を向けるとそこに居たというだけなのだから。
こんな敵は見た事が無い。日本での装備がアフリカよりも軽いということもあるが、そんな事は理由にならない。気配が無いのだ。辺りは車も通らず、故に驚くほどに静かだ。自身の呼吸音がうるさいとさえ思うほどに。
だから誰かが近づけば確実に分かるのだ。足音を消そうとも、殺意やら敵意やらが滲み出る。それを直感が捉えるのだ。理屈ではない、その瞬間、人を殺す刹那には抑えようの無い感情が溢れるはずだった。
仮にそれが出ないのであれば、人を殺すことに何も感じない程、人を殺しすぎているのか――現実を現実と認識していない。あるいは感情が無い、ということだろうが……。
――ここは日本だ。日本の筈だ。
何故こんな所で撃たれて死なにゃならんのだ――。
「よりにもよって、こんな田舎で……」
だが、まだ死なない。しかし長くないのは確実だった。
男は薄れていく意識をそのままに、やがて銃を支える腕を脱力させてうな垂れた。
二人は男の意識が途切れたのを理解してから、死体を漁り、カギを入手するとそのまま裏手であるその入り口から中へと侵入する。
少年は驚くほど静まり返る自身の心に驚きつつも、減音器の有意性を認識し、それを撫でながら扉の隙間へと身体を滑り込ませる。
彼、時衛士はそうしながらも未だに”処刑”の事後処理を忘れられずに、そこはかとなく思い出していた。
裏切り者が速やかに処刑された翌日。表の世界が日の光で満たされる頃には既に、亡き者にされた彼等が取引しようとしていた組織が明らかになっていた。
どこの、何をやっている組織か。そして何と関係が強く、リリスに対してどのような妨害行為を行い、敵対意識を抱いているのか。それらが全て暴かれた頃には、裏切り者、いわゆる逃走者を手助けした者は勿論人知れず処刑されていた。違法に作られた偽造免許証、パスポート類やどこからか調達された銃器や四輪駆動の出所から容易に察知されたとの事だった。
それから適正者数人に、隣国のとある民事会社へ赴く任務が与えられる。
内容は出来る限り好意的に接触し、友好関係を結ぶことだったが――ソレを知る全員は、そんな事など建前に過ぎぬことを理解している。
相手は無謀にも世界に広がる抑圧組織の人員を引き抜こうと手筈を整えた愚か者だ。
交渉の際に一度でも拒絶ないし、僅かながらの言葉の詰まりを感じたらご破算。交渉は決裂だと認識すると言う事が暗黙の了解となっていた。
最も――それを衛士が知ったのはそんな事があったあくる日、つまり処刑が為された翌日の、さらに次の日だった。
適正者達が任務から帰ってきたぞとエミリアから言われたのだが、それまで何があったのかを知らされていなかった衛士には訳が分からなかった。故に、そこでまとめて聞いて――この組織が、とてつもないものだと再認識したものだ。
異常なほどの行動の早さ。そして凄まじい情報収集能力。三人で傭兵五○人を屠ったと聞いた時には流石に耳を疑ったが、副産物を扱えるものは須らくして、最低限の戦闘能力をその程度にまで引き上げているらしかった。
――時衛士はオレもいつかは、と夢を見ながら、グラウンドに隣接してある、同程度の広さを有するアスレチックのフィールドを駆けていた。
丸太で構成された巨大なはしごを上り、乗り越え素早く降りる。次は大地に貼り付けられたアミを潜り、広い間隔で階段状となっている丸太に飛び乗り、そこを踏み台にしてより高い位置の丸太へと飛びつく。
また別の場所では既に使われていない建物を利用して擬似的な潜入任務を行い、また規模が大きい植物園を利用して二日間のサバイバルを執り行う。その際に使用するのは、特殊なゴーグルだった。
装備すれば、衛士が見る景色の中に本物と見紛う敵影が現れる。敵が銃を撃ち、あるいはナイフで腹を切り裂けば衝撃が衛士を襲う。また彼が弾丸で見事に敵を撃ち抜けば敵は銃創を押さえ、崩れていく。
最も、それを実現させるにはそれに連動する装備が必要だったが、無論それが無い筈も無く、故に彼はより過酷な一週間を過ごしていた。
かくして、課せられた二週間の特殊訓練が終わりを告げて――衛士はミーティングルームで、頬杖をつきながらラフな格好のエミリアの話を聞いていた。
白を基調とした小奇麗な室内は殺風景で、机がいくつか整列して並ぶだけである。壁一面にホワイトボードが固定されていて、その光景はまるで学校の教室を思わせるのだが、衛士は特にこれといった感慨に耽るわけでも、懐かしいなと涙ぐむわけでもなく、ただこういった部屋だと認識するだけだった。
「明日は貴様にとって初任務だが、肩の力を抜け。任務といっても殆ど訓練のようなものだ」
教卓に手をついて彼女は言う。その背後のホワイトボードには明日の、衛士に割り当てられる基本装備が羅列されて書かれてあった。機械的なその文字はまるでワープロかパソコンで印刷したモノをカーボン紙で映しているのではないかと思うほど上手に書かれていて、衛士はそれに感心しながらもそれらを訓練どおりに実際に扱えるか、不安を抱いていた。
――まず銃火器は9mm機関拳銃が一丁。必要に応じて減音器の装備を認めるらしい。さらに予備武器に9mm拳銃。予備弾倉をそれぞれ二つずつ携行し、衝撃波によるダメージを主体とする手榴弾を三つ。さらにファイティングナイフが一本。
武器はそれで以上である。
防具は驚くことに存在せず、あるとすれば支給されるタクティカルベストが一枚と、レッグホルスターが一つであった。
通信機器は、気がつくと支給されていた携帯端末のみ。
作戦時間は深夜だというのに、暗視スコープも赤外線スコープも支給されないことに、衛士は驚いていた。
そもそも装備の基本なぞはゲームや漫画などでしか知らないから、何が基本なのかは分からない。彼女がこれで十分だというのだから本当に十分なのかもしれないが、それでもなにかを忘れているような気がした。
「それに加え、貴様は適正者だ。副産物を使用する権利がある。二つまで、だがな」
衛士はなぜ数が限定されているのか俄かに理解している。
それは敵にやられて死体を回収されてしまった場合、その科学力や技術を敵に盗まれ利用されることを恐れている――からではない。
適正者というのは、選ばれる時点で何らかの才能があると言う事だ。故に、自身と同様に何かの道具が一つ与えられていることだろう。そして必然的にソレに対する才覚を見せる。その使用に確かな実力を見せるのだ。
だから下手に複数の副産物を与え、広く浅く扱わせて器用貧乏にさせるのではなく、狭く深く、その道具の専門家へと進化させるのだ。
その方が効率も良く、要領もいい。だがそれ故に、特定の道具に対する適正者の不足が現れてしまうのだろう。砂時計が正にそれであるらしかった。
「なら、耐時スーツがいいですね。自分が思った通りに動く、こう、危ないって思ったら硬化して、やってやるって思ったら腕に巻きついてドリル状になったり」
これは以前から、こういったものがあったらな、とアンナとの戦闘を経て考え理想化させたものである。
汎用性、柔軟性が高い事を一番にして考えたそれだった。
「抽象的だな。要領を得ない」
「あの、アンナさんのベルトもそうでしょう? 多分意思か何かで強化されてるんですよ。それと同じなんですけど、意思によって自主的に変化するスーツ、みたいな」
「攻防一体型、と言うわけか?」
「はい。弾丸を受けて、それでいて拳を包むスーツが鋭く変化するような」
「そうだな……基本的には耐時スーツとは攻防一体型だが、特殊に動き変化するモノか……。難しい注文だ」
だが科学者でも技術職でも無い彼女にはそれがどの程度の困難さなのかは分からない。ただ言って見たかっただけである。
「まぁ的確にあったら、それはそれで驚きですけど」
「新・耐時スーツは多種類だ。それこそ、現在の適正者の数は五八人だが――これでも三つあるうちの組織でも多い方――その数だけ在ると言っても過言ではない」
だがそれは同一の”リリス”という組織である以上、種類や数は共通している。そうしなければバランスが崩れてしまう恐れがあるし、統一された意思になりきらない面がある場合、そういった批判要因を餌に反乱でもおこされる可能性を生んでしまうのだ。
最も、そういった可能性はこの日本支部が明日壊滅してしまうほどしかないのだが。
「近いものを探しておこう。他の装備はどうする?」
「銃はあるし、他に使えそうな副産物って言ったら砂時計くらいしかないですよ」
他には触れた生物の時間を僅かに停止させる手袋と、任意のタイミングで空間に数秒固定させることが出来る弾丸だ。耐時スーツは新旧だが旧式は使いどころがそもそもない。
構想段階を含めて八つの副産物があるとは言うが、実際に使えるのはそれら五種類のみである。
「貴様らしい考えだ。どちらにせよ、ある段階になればわざわざ副産物などは使用する必要もなくなるからな」
「? どういう意味です」
彼女は白々しくふっと一息分笑ってみせる。
「貴様もいずれ分かる」
使用する必要がなくなるほどに強くなると言う事か、あるいはその肉体に道具が依存しすぎて、あるいは道具に肉体が依存しすぎて、その体自体がある種の副産物となりえるのか。
ならばそもそも耐時スーツを装備していた人間はどうなるのか? 分からない。より強化されるのか、その者の特性が現れるだろうか。
衛士は簡単に思惟してみてから、やはり無駄だと考えて首を振った。
「それじゃ、楽しみにしてますよ――」
その場はそれで解散となった。
自由時間となった衛士は寮にある食堂へと向かう。個人の部屋が並ぶ通路からやや離れて、ホール状の広間へと到達する。そこに行くと正面に屋内訓練場へ続く扉が、そして右手側に浴場が、そして左手側に食堂がある。衛士は迷う事無く、その食堂の扉を開いた。
本来ならば人で溢れかえるであろうそこにはやはり人など居らず、無数に並ぶ長机に奇妙な虚しさを覚えた。壁際にはカウンターがあり、その奥には台所が存在する。だが彼の昼食はそこには無く、カウンターの上に乗るカゴに二つばかりのクラブサンドと、市販のお茶が置かれているだけだった。
どこかで購入したらしいそのサンドは綺麗にビニールで包まれていて衛生的な問題は無い。ベーコンとタマゴ、あるいは野菜類がそれぞれ具となっていて栄養面を考えているのだろうが――。
「またか……」
ここに来てから二週間はこの調子だ。朝昼晩と常にクラブサンドで食事を済ませている。多様な具のお陰で飽きることはなさそうだが、たまには別のものが食べたいという贅沢が出てくる。
やはり慣れのせいだろうか。
これから自室でお決まりのトレーニングをするに当たってサンドイッチが二つばかりでは腹がすきそうなものだが、手のひらに乗せても一回り以上、さらに分厚いそれのお陰で杞憂で済むのだ。
衛士はそれらを回収して自室へ引き返そうとすると――出入り口近くの壁に背を預ける、赤毛の女性がこちらを見ていることに気がついた。
口元を吊り上げてにやにや笑いを浮かべる彼女は白衣姿で、それと同色の眼鏡をかけた保健医である。
だが、今までで一度も怪我をしていないから世話になった覚えはない。そもそも出会うのは今回で二度目であった。
「君は自分をどう評価しているのかしら?」
不意に彼女はそう問うてみせる。だが突然すぎて、衛士にはその言葉の意味が良く分からなかった。言葉どおりに受け取ればよいのだろうが、不意なことであるが故に、それさえも理解できなかった。
「はは、オレ、心理テストとかあまり好きじゃないんですよね」
――言ってから、記憶が脳裏に蘇る。
平和だった一年前。だが体験的には二、三ヶ月前のこと。自身に友好関係を築こうとしてくれた少女の、父親にしてやられたことを思い出す。
あの時オレはなんといったのだろうか。あの時彼はなんと質問したのだろうか。今となっては大事な思い出であるはずなのに、すっかり思い出せなくなっていた。
だからどうというのだ。衛士は自嘲して、彼女の返答を待ち構えた。
「明日は君がどんなヘマをしても生き残るでしょうね。彼女……エミリアと君のペアだし、そう難しい任務でも無いわ」
だから訓練の一環だ、とエミリアは言っていた。任務は出来る限り敵に見つからず、接触せずに施設に侵入し、内部を見学させてもらうこと。しかしどちらにせよ、衛士は気を抜くつもりなどさらさら無かった。
「でもそれ以降。君が他の適正者と手を組み任務を行う場合、それではあまりにも不十分だわ……訓練ではないから。君が本気でやらなければ、結果は出ない。訓練みたいに、納得がいくまでやれるものじゃないから」
「お、オレはいつだって――」
本気だ。言おうとして、だが言葉にならなかった。
本当に本気で取り組んでいたか? いや、確かに本気だった。気を抜いては居ない。頭だってフル回転だ。利用できる状況を存分に利用してやり、自分に出来ることはみなやってみせた。それで不十分だというのならば、それは単純に力不足という事ではないだろうか。
しかし腑に落ちない。足らなかったのはやる気か、熱意か。だがその程度で本気とみなされなかったなんて事は無いだろう。
ならばなぜ、そういった風に見られてしまったのか。
衛士がその答えを導き出すよりも早く、保健医は赤いルージュを塗るその唇で言葉を紡いだ。
「あまり、あたしを失望させないでくれる?」
「なっ……」
――どういう意味だ?
そう思うよりも早く、衛士は強いストレスを覚えた。
ムカつく。激しい苛立ち。殺意。衝動。
別に彼女の為に鍛えているわけではない。彼女の期待に応える為に強くなろうと思ったわけではない。
そもそも保健医の存在など今の今まですっかり忘れていたのだ。何故お前に、そんな事を言われなければならないのか――。
「オレは」
その人を蔑む目が嫌いだ。
「アンタにそんな事を言われる筋合いは無いな」
瞳に怒りの炎が滾る。ペットボトルは押し付けられ、握り締められたクラブサンドは中身を潰してビニールに押し付けられていた。外見は残飯に近くなる。だが衛士はそれに意識を向ける余裕は無かった。
オレはこれほど短気な人間だったろうか。頭の隅で考えるも、昔のことなど思い出せなかった。
そんな彼をよそ目に、彼女は腕を組んで顔を逸らす。
恐怖に駆られたわけでも、バツが悪くなったからでも無い。その頬には笑みが宿り、軽い笑い声が耳に届いた。
「ふふっ、そうよ。君にはそれが必要。漫画とか小説みたいに、殺戮機械が人の心を覚えて以前より強くなるなんてのはまやかしよ。自分だけを信じて、力だけを信じて、そのためだけの道具となる。君はその立場になって、それを理解したとき、もっと強くなることができる……物覚えが悪くても、それだけは覚えていてちょうだい」
彼女の言葉に、力が抜けていくような気がして衛士は気付かれぬように細々と息を吐いた。
――結果的には、してやられたというわけだ。
彼女は衛士をわざと怒らせた。その時の反応、その感情の膨れ、爆発、思考。それを確認して、自身の考えと相違ないという事を再確認したのだ。
そしてブレていない事が分かった途端に、安心したように表情を綻ばせる。だが笑顔はそんな無邪気なモノではなく、どこか妖しさがあるようなものだった。そこだけをみれば無愛想なエミリアの方がよっぽど素直に見えるほどである。
「……人が悪いですね」
「あら、私は底無しにお人好しよ? 少なくとも君よりはよっぽどね」
彼女は身を翻して背を向ける。背中越しに片手を上げて別れを告げると、そのまま衛士の視界から消え去っていった。
彼はそれを、彼女が居なくなった後もその虚空を呆然と見つめてから、嘆息する。それから手の中で、ビニールが破けてクラブサンドに突き刺さる指を見て、どうにもやるせなくなって近くの席に腰を落とした。
今日はここで食べれば良いやと、慣れた孤独を味わいつつ、濃い味付けのソレに喉を焼かれて、お茶で飲み下した。
任務までまだ約半日もある。最後に総仕上げでもしておくかと彼は考えながら、簡単な昼食を終わらせた。