立脚点
目を開けると、目元に違和感があった。視界は曖昧になるように霞が掛かり、衛士は腕で擦るとどうやら涙で濡れていたらしいことが分かる。
何か夢を見たような気がするが、それは記憶に残らない。衛士は嘆息してから身体を起こした。
――そこでどうやら自分は寝台の上に横たわっていた、という事に気がついた。
動いても特にこれといった反発の無い硬いマットレス。見上げれば赤い電球だけが淡く室内を照らす照明。
細長い部屋は寝台から降りて大きく一歩を踏み出せば正面に到達するであろう幅であり、長さも寝台の一つ半程度しかない。枕元、その寝台の上方の壁際にはソレと同じ高さの三つの引き出しがついたタンスが一つ置かれていた。
その上には衣服が畳まれて置かれており、その上にはなにやら書き置きらしき紙が一枚乗せられている。
衛士は上着を脱ぎ捨てシャツ一枚になってから、横開きの取っ手も無い扉の脇にあるスイッチを押して照明を付け直し、さらにそのすぐ近くにある洗面台の前へ移動する。備え付けてある鏡を見ると顔色はやや蒼く、疲れが見えている。衛士は構わず水道を捻り顔を洗った。
衣服を持ち上げると迷彩柄であった。分厚く、冬には丁度良いかもしれないがそれでも重く、着慣れなければ動きにくそうである。衛士はそれでも仕方ないと着替えてから、自身が脱いだソレを置き換え、書き残しへと視線を落とす。
それは衛士が居るその場を現在地とした地図であり、そこから出て医務室へ向かえとだけ達筆な字で書かれていた。
彼は嘆息して――ポケットの中から、そして脱ぎ捨てた衣服の中から砂時計が失われていたことに気がついた。
もしかしたらアレに何か学習装置か記憶媒体やらが組み込まれていて、それを解析するために持ち去ったのかもしれない。あるいは、これよりただの訓練兵になるのだから一時保管という形で取り上げたのだろう。
衛士は何度も命を助けられたソレが身近に無いことに少しばかり不安を覚えるが、そもそもアレが無くとも生き延びる為の訓練を行うのだから、と自分を納得させて扉の前へ立ち直り、立ち尽くす。
「身体測定、検査……だろうな。一日で終わればいいんだけど」
壁と同質の素材。されど色が僅かに濃く、また壁との隙間が僅かに見える。だから扉で間違いは無いのだろうが、取っ手が無い。故に開けられない。どうしようもないと肩をすくめた。
その代わりにあるのは親指大の液晶パネル。鍵穴が無い所を見れば、衛士にとって身近ではない技術を駆使しているのだろう。
彼はそっとそこへ人差し指を乗せると、パネルが指紋を認証するように機械音を短く鳴らす。それから扉は数センチ奥へと沈むと、静かに右側の壁へと収納されていった。
廊下は人二人並べるか否かの幅を持ち、また眩い光りが全体を照らしていた。白を基調としたソコは長く、また近くには等間隔で同様の扉が並ぶ。衛士は素直に感嘆の声を上げながら、与えられた地図を片手に医務室を目指した。
医務室とわかりやすくパネルを掲げる扉にノックを二回。返事があったのは間も無くの事だった。
時刻が分からないから非常識かと思われたが、どちらにせよ二四時間いるらしい。衛士は勝手に開く扉が開ききるのを待ってから中へと足を踏み入れた。
「どうも。今日からお世話になる時衛士です。よろしくおねがいします」
新品の下着類は身体に張り付く。黒い軍靴は足を揃えかしこまった風に立つと、衛士の姿を一端の兵隊のように見せていた。
「昨日の朝に来て随分と眠っていたみたいね。呼びに行ったときも、まだ夢の中みたいだったし」
清潔感溢れる室内は、入って右手側にカーテンで囲われる寝台が二つ並ぶ。そして左手側には大きな薬品棚が並び、その奥に机が鎮座する。その上にはディスプレイの大きなパソコンが置かれ、入り口へ背を向ける白衣姿の女性は言葉と共に振り向いた。
「でもまぁ……それでも随分と具合が悪そうね。風邪、かしら?」
短い赤髪を掻き揚げて彼女は眉を潜める。机に置かれていた白い縁の眼鏡を掛けて、彼女は立ち上がる。白衣はきっちりと前を閉められていて、長い丈は膝下に到達する。
カツカツと足音を鳴らしながらやがて衛士の目の前まで来ると、自身と身長を比べるように手を頭頂から並行に移動させて彼の額に平手をぶつけてみたり、また微動だにしない衛士の周りを一回転してから、何かを考えるように顎に手をやった。
「もうどこかで訓練してきた後とか言う体で?」
「……意味が分かりませんが、オレがやって来たことと言えば筋トレくらいです」
「身長は?」
てっきりここで計るとばかり思っていたのだが、そう聞かれて周囲を見渡すと測定器が無いことに気がつく。だから衛士は四月――体感的につい二ヶ月ほど前に行った身体測定の記録を記憶に蘇らせて、恐らくあれから一年近く経つのだから少し成長しただろうと微調整し、口にする。
「一七五……くらいですかね」
彼女はそれを聞くや否や衛士の腕を鷲掴んでみたり、腹を突付いてみたりしてからなるほどと頷いた。
「筋肉も随分あるみたいね。え~っと、歳は一七?」
「あぁ、はい」
それから視力やら聴力やらの簡単な検査があった。酷く簡単なモノで、片目を閉じて明確に指示されたモノが何かを説明し、また小さな声で呟いたことを復唱するなど、検査と言うにはあまりにもおこがましいちょっとしたテストだった。
彼女はまた頷いて、再び先ほど座っていた椅子へと戻っていく。衛士は壁際に置かれる一つの椅子を引っ張り出して、彼女の前に腰を落とした。
「健康体ね。ちょっと疲れてるみたいだけど」
「まぁ、でもオレどっちかって言うと斬り込み隊長とか、そーゆー勇敢な奴じゃないんですよ。できればこう、後ろで狙い撃って数を減らす、みたいな」
「そう? 聞いた話だと割りと賢いらしいから、てっきり参謀あたりにでもなるのかと」
「参謀なんて」
衛士は肩をすくめてせせら笑う。
「そんな大層な役職だったら、この肉体一つで無数の敵を千切っては投げますよ」
何種類もある耐時スーツならばそれを可能出来るモノが一つくらいはあるだろう。
衛士はいつか装備するであろうそれと砂時計をどう使用すればよいかと考えながら口にした。
「へぇ……。ま、どっちにしろこれからの訓練で左右されるでしょうけどねぇ」
「オレとしてはやっぱり……どうせこんな所に来たんです」
「最前線で言われたことを最大限にやり遂げてみせたい?」
「えぇ」
「真面目ねぇ、それと効率が悪いわ。言われた事をやれば良いの。ヘンなところでヘンな意地張ってヘンに張り切ってヘンに腕見せようとするなんて、愚かの極みだわ」
「なら大丈夫です」
衛士は胸を叩いて笑顔を見せた。彼女はどうして? と仄かな笑みを浮かべたまま問う。
「意地張る前に、敵なんて残りませんから」
「ふふ、実力が伴えば、その台詞もいつか格好よく聞こえるかもしれないわね」
彼の台詞には説得力など微塵も無い。もしかすると本当にそうしてくれるのかも、という期待すら感じさせない。
いつものように格好つけた少年、青年は口々に自信を吐き出してこの訓練校を後にして、そう長い間生き残った記録は小数だった。
誰もが自身の資質を上回る事ばかりを行い、そして散る。
彼女には、衛士もその一人に加わるようにしか見えなかった。だが、だというのに組織の連中はこの時衛士に目をつけている。試練による時間の回帰を理解し記憶を引き継いだという、前例の無い事をやってのけたという事が理由であるが……。
彼女は組織から渡された資料を手に取り、視線を落とす。衛士は疲れを隠すような精悍な顔つきで、あたりを珍しげにキョロキョロと見渡していた。
――試練の内容は五つ。その中でも失敗回数が多かったのが、五つ目の『刺客を始末しろ』である。理由としては肉親の死を引きずって精神的に立ち直れず、試練の制限時間を過ぎてしまったことだった。
そして成功したのは、その例の記憶を引き継いだことによる精神の虚無化により何も感じなくなったが故。しかし見る限りでは、どこにでも居そうな若者であることに彼女は疑問を浮かべる。
彼女は其処で、試練終了の日時を確認して、納得した。終了したのは現在から約九ヶ月前の六月であり、その為に吹っ切れた、あるいは立ち直れたのだと理解する。
その直後に彼女が心に浮かべるのは、衛士に対する同情であった。
――以前からこの組織は何も学んでは居ないのか。いや、学んだからこそ、こうしたのだとしたら……。
彼女は心中で吐き捨て力がこもる指先を脱力させて、肩の力を抜く。考えても仕方が無いことだと自分を納得させてから資料を机に置きなおし、衛士へと向く。するとソレに気がつく衛士は落ち着いた面持ちで前へ向き直った。
「ここでは強くなる術なんて教えていないわ。一秒でも長く生き残れる事を、そして少しでも確実に任務を達成することを教えているのよ。それとね、経験が無い実力なんて空っぽよ。科学者だって、それが許されて無いわ」
「返事だけなら犬にも出来ます。だけど、反論だけなら子供だってする。ここでは自分勝手が仲間を殺すかもしれない。殆ど、軍みたいなモンですからね。学校とか、任務とか……」
「悩みは聞くけど、愚痴は受け付けてないわ」
その上言葉が抽象的過ぎるのは個人的に困る。そう言おうとするが下手に怒りを煽るのは下策だろう。彼女は故にそこから口をつぐむ。
――衛士にとって、肉親が殺されたのはついこの間のことである。たとえ月日が何ヶ月も経過していようが、衛士が感じているのはつい六月の事。そして数ヶ月の”経験だけ”が追加された、それだけである。だから、そう簡単に吹っ切れるはずもない。
されど彼は引きずらない。その代わりとばかりにそれらはある種の立脚点になる。
自分がなぜここに居るのか。何故そう考えるのか。全てはそれを基にする。
しかし、だからといってこれから仲間になるかもしれない者らに復讐を果たすわけではない。
最終的には計画者への復讐。生き返らせることなんてものが可能であろうとも、彼は望まない。日常にすら戻らなくていい。決意のままに目的を果たし、心残りが無い時に命を散らすことが出来れば良い。
それを口にしたい。
だが今はまだダメだった。心が弱いから。まだ自制が完璧ではないから。勢いづいて、場所も分からない本部へ突っ込んでいってしまうから。
「ただの捨て駒じゃ終わりませんよ。オレは……ここに来たんだ」
「強くなりたい?」
「後悔させてやりますよ……ジオフロントだかリリスだか知らねぇがな。オレは、オレを選んだ奴を!」
瞳には殺気が宿る。手汗が滲んでいた手はいつしか拳を作っていた。気がつくと立ち上がり、我に返る衛士は、はっと表情を引き攣った笑顔に戻して踵を返した。
「すいません。忘れてください……それじゃ」
衛士は静かな怒りを隠せずにその場を後にする。残された保健医は湧き上がる驚きに肩を揺らして笑みを押させる。それから小さく笑いを口にしながら顔を押さえ、それから大きく深呼吸をした。
呟くのは、なるほどと言う納得の言葉だった。
確かに”上の連中”の目は確かだった。
彼は真面目そうに見えた。そしてその実、その根も真面目そのものだった。言われたこともすべきことも全うしてやり終えてしまう、今まで散ってきた少年、青年と同様に。だがそれは本気ではなかったのだ。
どこか夢でも見ているかのような、軽い感覚。学校の授業で討論でもするかのような遊び感覚。
そして実際、その内を曝け出せば傍若無人に、されど狡猾に弱点を狙い獲物を一撃で仕留める猛禽を秘めていた。
恐らく、その時間の回帰を理解したのもそんな彼だろう。
彼女は何度も、なるほどと繰り返す。
「ふふ、はははは! 面白いわ。やるときはやるタイプじゃないわね、やりたいときにやるタイプ。性質が悪いことに、副産物の使用に際す才能を秘めてる上に、目的の為なら努力を惜しまない。本っ当に、後悔するんじゃないかしら。最も、それを知らない”奴等”じゃないだろうけど」
当分は衛士の成長と任務とを繰り返すだろう。その間に組織は彼の成長の都度に対策を考える。だが、組織は未だ遣える駒程度にしか成長しないと考えているだろう。
然し彼女は、既にすっかりと彼に目をつけていた。
そしてこの保健医は先見の明があると評判である。それ故に、誰もが通る道であるこの訓練校の保健医という位置に立たされていた。
逃げることも出来ず、衛士が言うとおりただの捨て駒として育成される人間を見送る毎日。
今年度だけでも適正の無い憲兵を五○人、適正者を五人育成し、憲兵は丸々生き残っているが、適正者は数が少ない為にすぐさま任務に借り出され――既に二人が死亡した。
油断が招いた事故であるが、それでもこれからその数は増えていくだろう。今回は特に、目に掛かる人間が居なかった年であったから。
「いいわね。あたしも頑張らなくちゃ」
なにやら俄然とやる気が湧いてくる。衛士の覇気に影響されたのかも、と冗談めいて口にすると楽しげな笑いが自然に漏れた。
彼もいずれは死ぬだろう。だがその前に、一体何人もの敵、あるいは彼が敵として認識した存在が彼の手に掛かるのか……最低五年生き残るとして、と彼女は指折り数え、ほくそ笑む。
「五感は完璧。やる気も十分、だけど前線タイプじゃない……けど、アンナちゃんくらいは、やるかしらね」
伝聞だと先日既にアンナと拳を交わし、頭突きを一度当てたとの話である。仮にこれが衛士の訓練後で装備も行き渡った状態ならどちらかが確実に命を落とすか、命に関わる重傷を負っていた事だろう。
――彼女はココ最近の新参者で一番の実力者だ。大きなハンデを伴って、だからこそ実力を得た。
衛士もいずれそこまで到達する。それは確信でき、またそれ以上となるだろう。
だがそれには時間が必要だし――彼女は何よりも、その成長も、衛士の存在、人となり、全てが知りたくなっていた。
彼女が抱くのは親心でも愛情でも恋愛感情でもない。興味深い実験体が見つかったと、あるいは未発見の物質を見つけたかのような喜びだった。
十年以上続けている仕事だが、ここまでの逸材を見つけるのは初めてのことである。
周りは彼を見てもそこまでだとは思わないだろう。新参としてはちょっと出来て、生意気。その程度の認識に終わるが……。
「あー、いいわねぇ。楽しくなってきた。すごいわ、すごい。どうにかなっちゃいそうっ!」
悶えるように身体を抱きしめ、彼女はふらふらと立ち上がって寝台へと倒れ込む。彼女はそのままボタンを閉める白衣を力任せに引きちぎると、ボタンが四散し、床に落ちて軽い音を鳴らす。
その中で開け放してある出入り口に気がついて、彼女は足でカーテンを閉めて寝台の空間を閉鎖させた。
「あれ、エミリアさん……?」
部屋まで戻ると、その扉を背にして腕を組み俯く姿が見える。それは褐色の肌を、黒い、体に張り付くタイツのような衣服に包み、それとは対称的な白髪流して右目を隠すようにするのが特徴的なエミリアであった。
衛士の声からややあって静かに眼を開け、腕組みを解く。彼は思わず身構えた。
「未だ不安定だな、少年」
彼女はそう言って不敵に笑む。冗談めかしく放たれるその言葉は、それでも馬鹿にされたように聞こえて衛士はむっと口角を下げた。気を悪くするな、とエミリアは添えて、続ける。
「だがな、これだけは言っておく。今のソレを乗り越えなければ貴様は貴様が望む強さへ辿り着けはしないぞ?」
「どう、乗り越えればいいんですかね」
何度も繰り返した肉親の死。故に悲しいだとか悲惨だとか感じる事がなくなっていた。
まるでニュースで垂れ流される誰かの死を聞いて、かわいそうだなと感じるような他人事。されど実感が有り、それ故に自分がどうにかしてしまったのかと苦悩する。
泣けばいいのだろうか。喚けばいいのだろうか。今はそれすら分からない。
「それは自分で見つけてこそ乗り越えられる……なんて奇麗事を言えば貴様は納得するのか? 私の知ったところではない。それは貴様の、自分の問題だろう? ならば自分で見つけ、処理するのが当然だろうよ」
「はは、ですよね」
「それと、保健医をあまり喜ばせないでくれると助かるんだが……」
「いや、喜ばせた記憶なんざありませんよ。そりゃ笑い声が聞こえましたけど、なんかあったんじゃないんですか?」
彼女が立ち聞きか何かで情報を得た。それ自体は別段驚くべきことでも何でもない。既に彼はここに来た時点で自室でもトイレでも風呂でも、その全てを見られてもかまわないという心持で居るからである。
「最後に怒鳴ったろう。その時に貴様の本質と言うものが見えたらしく、な。奴は興奮すると素面でも酔っ払いのような厄介さだ。貴様がここに居れば、恐らく貴様の前ではそうでなくとも私に被害が被る。担当、という立場が裏目に出るからな」
「担当……エミリアさんが、ですか?」
「あぁ。先日は心配だったが、立場をわきまえた口調で私は嬉しく思うよ」
嫌味たらしく彼女は手を差し出す。衛士は苦笑ながら頭をかいてからそれに応じた。
露出している肌は首から上しかない。それ故に少しばかり硬い表面を持つ衣服に包まれる手は冷たく、軽く握り合ってから直ぐに離れる。それからその衣服、先日彼女が説明した『旧・耐時スーツ』というモノに疑問を投げてみた。
「そのスーツの基本機能って、やっぱり時間の自然な流れ以外に影響されないって事だけなんですか?」
「ん? あぁ、他には体温、湿度を一定に保つ事が出来、またある程度の防弾性能……だな。最も前者は付属のヘルメットを装備しなければ効果を発揮しないがな」
「防弾って……?」
「一般的な防弾ガラス程度だ。最も衝撃はそのまま肉体に伝わるから、外傷が無いと言うだけだが」
それはある一定の衝撃を受けると硬化する素材を使用したが故である。しかし彼女が言うとおり、そのスーツを身体に着ている為に衝撃までを防ぐことは出来ず、イワイが着ていたような戦闘服のようなスーツであればある程度の衝撃を軽減することは可能であった。
他に何か? と彼女は聞くが、衛士は首を振る。そもそも突発的な質問であった為に、コレほどまで丁寧に説明されては少しばかり彼女が立派に見えてしまって、思わず畏怖を覚えていた。
つまり格差の効果だった。最も、だからといって彼女に全てを託そうとまで心は揺るがない。ただ訓練において信用に値するのだろうと思える程度だった。
「これから半月は戦闘に関する訓練を貴様に叩き込む……が、その前に、銀行口座の金を此方に持ってくれば良かったんだよな」
「え、あ、はい。表に行くんですか?」
「記憶、記録はそれ自体の時間を遡り”無かったことにした”が、口座の関係で残しておかなければならないものがあったからな。それの始末をついでに」
「家の中にモノってありますかね……」
あれば良い。だが無ければそれでいい。衛士はそんな軽い考えで問う。その言葉を深読みして妙な同情心を沸かしてくれるなよ、と祈りながら。
「あぁ、貴様が格好つけて帰宅しなかったから、どうせ後で入り用なモノが出てくるだろうと思って残しておいた。なんだ、服か?」
服や本などは此方でも手に入ると聞いている。だから特に思いいれも無いモノを持ってきてしまえば変に愛着が湧いて手放しがたくなるだろう。それが衣服等となれば尚更である。
衛士は首を振り、どうせなら心がこもったものを、と考え口にした。
「居間に入って直ぐの右側の所にタンスがあるんですよ。固定電話が乗った。その一番下にアルバムがしまってあって……そこから、集合写真、撮ってきてくれませんかね。多分、中学卒業した時のがあるんですよ。家族の」
「孝行息子だな」
「はは、やめてください。家族に涙も流せないオレなんて……」
それから直ぐに、衛士は何かに気がついたように口をつぐむ。
どうにも最近、人前で自身の弱い部分を見せたり、無駄に会話を重く暗くしてしまう。それに意味が無いこと等知っているのに、つい口をついて出てしまうのだ。
衛士は視線を落とし、口を手で押さえて、それからそっとエミリアへと視線を戻す。
彼女は相変わらずな無表情を極めていた。
怒られるか、見事にスルーされるか。衛士は後者を望んで息を呑む。が、彼女はただ静かに口を開いた。
「じれったいな、貴様は。昨日ここに来るとき、貴様をここに連れて来る際に、もう一度強く殴っておけばよかったと思うほどにな」
「……すいません」
「涙を流せない……そいつは今の、今回の貴様だけだろう?」
彼女はそこまで口にし、舌を打つ。
「後は自分で考えろ。それと、部屋の中に用紙と筆記用具を置いた。様々な物品の羅列があるから必要なモノがあればそれをマルで囲め。無ければ空白に記せ。ここで支給された日用品はココを出た後でも引き継がれる。私物になるそれらだ。料金は貴様が任務で得た報酬から天引きされるが、好きなだけ選んでおけ。少なくとも貴様の立場で、金が無いから衣食住に困ってしまう、なんて事は決して無いからな」
彼女は言いたい事を、伝えるべき事を言い終えるとそのまま背を向け長い廊下を進んでいく。やがてその背がそう小さくならない内に右へと曲がり、姿は消えた。
衛士はエミリアに、結局なされてしまった助言を胸に、部屋へと入る。
――今のオレは涙を流せない。
記憶を蘇らせれば中々どうして、その通りで、三○回繰り返した肉親の死を目の当たりにして一滴の涙も流せなかったのは、今、というか最後の、試練を達成した衛士だった。
それが何を意味しているのか――分からない。否、わかりたくなかった。
衛士は寝台に腰を落として頭を抱える。照明は消さずに居たのにもかかわらず、赤く淡い光りだけが部屋を照らしていた。
「まさか、オレはもう……」
涙の数だけ……という歌がある。衛士はそれだからこそ、今回の事から立ち直れれば今よりももっと急速に強くなれると思い込んでいた。肉体的に無理であっても、精神的には、と。
だが今の様はどうであろうか。涙も出ない、今となってはそう悲しいとも思えない。親戚の十回忌に参加するような、今となってはお決まりの事を思い出すかのような悲劇の希薄化。記憶には霞が掛かる。その程度の事象と成り果てていた。
それはつまり、既に乗り越えていると言う事ではないだろうか。
もう肉親の死などは吹っ切れているのに、それでも強くなれない、なれていない自分が嫌で、まだ引きずっているとホラを吹いているのではないか。
衛士は自分を疑い、強く眼を瞑る。
「なら、いい。そうだ、ならいい。それでいい。簡単な事で強くなんてなれない。死は結局その程度なんだ。だったらいいじゃねぇか。オレは、ここで強くなれば。丁度良い。オレは生まれ変わる。試練が立脚点だ」
歯を噛み締め、自身の言葉に心底嫌悪しながら立ち上がる。瞳は潤む事無く乾ききり、表情に引き攣るものの笑みを取り戻した。
思い込むより、実際に口にしたほうがよっぽど”その気”になれた。力が湧くような気がした。心は先ほどより、幾分か軽くなったような気がした。
「はは、酷ぇよな、姉さん。オレのせいで死んだのによ、犯人も分かってんのによ、誰もそれを知らないんだぜ」
衛士の存在は消え去るだろう。だが彼女等はどうなるのだろうか。普通に考えて、衛士の記憶だけを取り除けば消え去る必要は無い。だがその死体は誰が弔うのだろう。親戚、と考えれば妥当だが、生存者の居ない家族などがそう手厚く弔われるはずも無い。
ここを出たら、出る事が出来たら立派な墓でも立ててやろう。衛士は彼女等の記憶を走馬灯のように過ぎらせながら考えた。
「笑えねぇよな。冗談じゃねぇよな。何で死んじまったんだよ……オレなのによぉ。砂時計のことも、オレが原因って事も謝れねぇよ……」
頬を伝う熱い一筋をソコに感じる。衛士は拳を握り、震えそうになる声を抑えながら続けた。
「でもよ、でもよぉ……オレ、強くなるから」
死人の思いなど分からない。最期に何を考えていたかなんてもっと分からない。霊的な事も信じない。
だからいつまでも背負い続ける。構うものか、と衛士は精一杯の笑顔を虚空に見せた。
「見守っててくれよ。オレ、寂しがり屋だけどさ、頑張るから。みんな、心配しないで逝ってくれよ。オレの、せいなんだけどさぁ……逝くから、オレも。みんなの仇を討って……!」
眼を瞑ると熱い何かが全身に走る気がする。
力が抜けたか?
気力が湧いたか?
考えるも先とは変わりが無い。この精神には、肉体には変化が見られない。
ならコレは無駄なことだろうか。即座に衛士は首を振る。
この経験は無駄にならない。経験というもの自体が決して不必要にはならないのだ。
だがそれは自己満足の類に他ならない。それは理解できていたが――。
「吹っ切れた……いや、スッキリしたって感じかな」
変えがたいのはこの清々しさである。
全てに対して本気で望もう。
今となっては誰にも負けないような気がした。それも若年者の戯言に過ぎないだろうが、そう思えるだけでも衛士は自分自身、大きな一歩を踏み出せたような感じがした。
本当の立脚点はここからだ。
衛士は心に刻み、衣服が畳んでおかれるタンスの上へ向かった。そこには既に衣服は無く、代わりとばかりにエミリアが言っていた通りの用紙と鉛筆だけが置かれる。彼は大きく伸びをしてから、これからの事を夢想し、大きく息を吸い込んだ。