はじめてのおしごと③
「なぁエイジ、煙草持ってねえのか?」
「まだ未成年なんでね」
「……なんつーか、生真面目だなぁ。日本人だろおまえー」
「あんた、今まで日本語話してるじゃないか」
いいや、とスミスは否定する。衛士はくだらない冗談だと吐き捨ててから、彼の言う事が嘘であると一概に言いきれないことに気がついた。
もし副産物の全てが組織からの情報提供や操作によって稼動していたら? その情報の転送やらを介するのがこの携帯端末だとしたら? さらに衛士がスミスに渡したのはこの上なく使い勝手が良い物を、と彼自身が望んだ耐時スーツだ。他の、単純な機器や道具と同調、ないし効果、機能を共有することなどは簡単であるはずだ。
もし、もし仮にそうであるならば彼がその耐時スーツを着た時点で、衛士が耳に付ける簡易無線機と同様の機能を持っていてもおかしくは無い。つまり、彼の、そして衛士の言語はそれぞれ自動的に翻訳されているのだ。
そう考えればスミスの言葉におかしいものは何一つなく、さらにまた新たなる情報、耐時スーツの機能が知れたわけだ。
衛士は感心したように声を上げると、先行するスミスが疑問を呈した。気にするなと一蹴すると、彼は軽く笑って前進を続ける。
酷く狭いと思われた通気口はステンレス鋼の板で繋げてあるような造りだった。人一人がそこを通ればボコボコと歪んで音を鳴らすが、然程大きいものでもないので気にはならない。直ぐ下には、この板を隔てて廊下があると思われていたが、人の気配が一切しないのを見るに、どうやらそうでもないらしい。
あるいは単に、イワイが全ての歩兵を殺害せしめたが故だとも考えられた。
「なぁ、エイジ」
そんな事を考えていると、不意に尻を左右に揺らしてほふく全身を続けるスミスが声を掛けた。衛士が返事をすると、彼はまるで雑談でもするかのような気軽な疑問を投げつける。
「お前、これが初めての任務っつったよな」
「ん? まぁ、そうだな。前回はなんか台無しにされたし」
「は、そりゃめでてぇな」
口元ににやにやと笑みを浮かべてくつくつと笑う。衛士はなにやら馬鹿にされているような気がして靴裏に拳を当てると、短い謝罪の後、
「んじゃあよ、帰ったらうまい飯でも奢ってやるよ。日本人の口に合うかどうかはわかんねぇけどよ」
「いや、でもオレまだ訓練兵なんだよ。勝手な外出は、何も言われて無いけど多分許可は――」
「訓練兵? 地下に来て何ヶ月よ」
「さ、三週間……」
「は、へへへ……はっはっは! マジか、お前。三週間? 表では何かやってたか?」
「ただの平凡な高校生だった」
「ハイスクールの学生か! こいつぁ面白ぇ! 俺はまさか、こんな尻の青いガキに目ぇ覚まさせられたのかよ。将来有望だな、少なくとも俺が地下に居た頃はこんな事なかったぜ!?」
スミスはご機嫌に笑って床を叩くと、激しい打撃音が耳につんざき鼓膜が破れそうになる。衛士は静止を促すように靴裏を二度三度打撃すると、スミスはようやく笑うのをやめて、肩で息をしながら呼吸を落ち着かせる。
それから暫くして左右に分かれる道に到達すると、スミスは動きを止める。衛士はその顔面を靴裏に押し付けてからようやく停止したことに気付いて前進をやめるとすぐに指示を仰ぐ声が響いてきた。
「どっちに進む?」
衛士はポケットから携帯端末を取り出して、簡単な操作で地図を表示させる。複雑な構造の中に赤いマーカーが四つ表示され、その内二つが自身の位置を、そして遠く離れた位置にある一つが恐らくイワイなのだろう。そしてもう一つが、同様にイワイの位置で動き回っている。
この一つが恐らく後方支援なのだろうと衛士は理解して、それから地図を見る。このまま右方向に進めばボイラー室や発電施設が、左に進めば倉庫があるらしい。破壊が目的である現在では、前者を選ぶのが好ましかった。
「右だ」
地図を消そうとする瞬間、不意に衛士の遥か後方に新たなマーカーが出現したのを垣間見たが――勘違いだ、と衛士は自分に言い聞かせた。
この状況で新たなモノが出てくるはずが無い。仮に出てきたとしてそれは副産物の反応だ。敵であるはずも無いのだ。
スミスは言われた通りの方向に進み、衛士はその後に続く。やがて肘や膝が鈍い痛みを覚え始めるが、大したものではないので気にはしない。
「なあ大将、廊下が見える通気口を発見したんだが」
いつのまにか二人称を変えるスミスはご機嫌に口を開く。衛士はそれに違和感を覚えながらも、まだ上半身しか通路に入り込めていないスミスに、其処から出ようと提案する。
彼は間も無く頷いて、手探りでそこに覆いかぶさる蓋ようなアミのネジを探し、ナイフの切先を突き刺してネジを回転させる。すると思惑通りにそれは緩み始め、簡単に一つがはずれ、彼はまた次に取り掛かって――。
「大将、ここは存外に雑な造りだ。まずこの通気口がそうだし、ここだって蓋をしてるだけだ。”物量”の問題さえなければ、任務は簡単だ」
「物量?」
「あぁ、殺しても殺しても湧いてくる。装備も段々変わって俺たちを相手するのに適応してくるしな。ま、それでも相手にゃならんがな」
スミスはそのまま気にせず穴に頭を突っ込んで滑らかに廊下へと落ちていく。左腕で廊下を受け止め、それから跳ね上がるように床を弾いて空中で反転し、二本の足で立ち上がる。衛士はその後に続いて足から落ち、スマートに通気口から脱出した。
スミスは既に壁を背にして待機をして、衛士は倣うように対面の壁に背をつけて周囲をうかがう。拳銃を片手に、あるいはナイフを片手に辺りを伺い、衛士は先導するために前に付いてスミスを誘った。
廊下は侵入した際に出た場所と、外観の違いは無い。打ちっ放しの人造石は冷たい印象を覚えさせ、その殺風景な道には血痕、空薬莢の一つも存在しない。その代わりに――その突き当たりにある曲がり角から、ガスマスクを装備する三人の兵士が現れた。
「化学兵器……? いや、んな物使うはずが無い」
化学兵器は毒物だ。自分の家にそんなモノを撒き散らす馬鹿は居ないはずだ。
「だが、もしココを捨てるつもりだったら?」
スミスが答える。それは疑問系だったが、半ば答えが導き出されたものだった。
「既に他の、新たな施設が出来上がってるって事か? それじゃあ、またこの任務は無駄足になったって事なのか?」
「かもしれない。だがそうじゃないかもしれない。単純に、毒物を振り撒いても問題が無い場所っつーだけかもしれないな」
衛士は腰の専用のホルスターに突っ込まれている砂時計を反転させて銃を構え、即座に一発。鋭い反動が腕に伝わり、下着姿のむき出しになる腕から滴る迂汗が弾けて舞った。
響く発砲音――だが直線上に居るガスマスクの男たちは微動だにしない。衛士はさらに発砲。だが反応は見られなかった。
普通に考えれば防弾チョッキか何かを装備していると考えていいだろう。相手が持つのはライフル――の下に、ポンプアクションのように筒が装着している銃。恐らく見たとおりに、ライフルに加えて投擲発射器の機能を持つ銃火器だろう。
衛士はさらに一発、今度はその顔面を狙って銃撃してみるが――彼等は微動だにせず、さらにその銃弾が直撃した気配は無かった。外れたかと考えるのが最もだろうが、彼等とは二○メートル以内の距離だ。
数千発分の弾薬を無駄にして得た技術はこの程度で外れるはずが無い。衛士はその自信をにじられたような気分に陥るが、その感情をそのままに表現するよりも早く、先の発砲で何かを覚えたスミスがその身を弾くように飛び出していた。
姿勢を低くして素早く駆ける。その速度は一秒、否、その一歩を踏み出すごとに加速される。そうして瞬く間にスミスの一閃が横並びになる一番端の男へと襲い掛かるが――刹那。彼の肉体はまるで強い突風でも受けたかのようにくの字にへし折れたかと思うと、足元を掬われたように浮かび上がり、そのまま天井を仰いで背中を地面に叩き付けた。
距離は最後に到達した位置よりもやや後退した場所で、彼は痛みに喘ぎながらも立ち上がって、前方を向く。衛士はそんな彼に続いて後を追い、やがて傍らにたどり着くと、ガスマスク姿の三人は何かを確認したかのように、揃った動作で銃口を衛士らに向ける。
直後に、全く同時のタイミングで引き金を絞り――その寸前に振り上げて撃ち放つ弾丸は、真ん中の男の脇腹を掠めて過ぎた。が、やはりその程度では彼等の足止めする事は出来ない。
故に、すぐさま降り注ぐ弾丸の嵐は間も無く全身を嬲り散らして――。
「――っがぁ!」
正面の壁に背をつけ静止するスミスが、止めていた息を吐き出すように呼吸を乱して、肩を上下させる。それから少しして、何があった、と訝しげな顔で問うと、衛士は慣れた様子で答えてやった。
壁を背にして冷静な態度を見せているが、心臓は激しく高鳴っている。やはりこういった事は、いつになっても慣れはしないのだろう。
「俺の副産物だ。あんたには分かるだろうが、相手は今の出来事を知覚できていない」
「何をやったんだってーの」
「ある地点から五分間の時を戻した。つまり、俺が砂時計を使用した瞬間から五分間を体験し、その五分が経過した瞬間に、砂時計を使用する直前に時間が巻き戻るって事」
だから先ほどは一体何が起こってすっ転んだのか。衛士はそれを彼に尋ねると、スミスは顎に手をやり、空いた手で握るナイフを逆手に持ち直してから口を開いた。
「わけがわかんねぇっつーのが正直なところだ」
感覚的には走っている最中に突然、拳大の鉄球が腹部目掛けて高速で投げ込まれ、衝突したというものだ。だが勿論鉄球なんてものは其処にはなかったし、そもそも質量を持つ何かが襲い掛かってきたわけでもない。だからといって空気を圧縮して放つような大掛かりな装置は見る限りでは存在していない。
ならば一体何が起こったのだ? その疑問は再びスミスの答えへと巻き戻る。
衛士はその返答に頷いて、思考を始める。
――鉄球と表現したと言う事は、その程度の硬質を持っていたというわけだ。ただの風をこれほどまでの威力に引き上げるのは大分難しく、仮にここでそれが出来たとしても、機械の稼動音を隠しきれはしない。
ならば一体どうやって? 衛士はそうに疑問を浮かべてから、ここの施設は何なのか、さらに何が関連しているのかを考える。
ここは新エネルギーの開発・研究所だ。だが裏では銃の密造、密輸を主立って行っている。
ならばスミスが受けたのは強烈なゴム弾かと思われたが、彼が受けた衝撃の直後、さらに数秒後にもゴム弾はおろか何かが放たれた様子はなかった。
では何が関わっているのか。衛士が聞いた話では、かつて組織を裏切ったエミリアの師の息が掛かっているらしかった。だがそれも今では過去形で――だがその間にこの組織が何を理解し研究して得たのかはわからない。
ただの適正者ならばこれほどまで問題視は出来ないだろう。だが彼は『特異点』と呼ばれる特殊な能力を副産物無しで作動させる異能力者なのだ。そんな事が出来る人間なのだから、その”特殊な能力”が一体どうやって起こされているのか、大まかにでも理解できていてもおかしくは無い。
「なら、その線で行くか」
衛士は一先ず、能力研究が行われていたという体で、さらにある程度の特殊能力を使用できる人間が居るという前提で、行動を起こすことにした。
前例によれば空気の弾丸を作り出す、或いは衝撃を瞬間移動させる、ないし空気を固めてその空間に固定させる能力だ。
慎重に行って見よう。衛士は腰の砂時計に手を掛けて、拳を握り、スミスに合図した。
「反撃開始だ。適正者の技を見せてやろうぜ……!」
すかさず発砲。今度は弾丸から目を離さずに経過を確認する――と、銃弾はガスマスクの男から数メートルほど手前で突如失速して、そのまま殺虫剤でも吹き付けられた蜂のように力なく落ちる。耳を澄ませば、弾丸が床を鳴らす小さな音がかすかに聞こえた。
これである程度の能力の種類の幅を狭められた。失速したということは衝撃を受けたと言う事ではないだろう。強い摩擦か何かによっての作用としか考えられない。だとすれば能力は――持っているとすれば――空気を操作するものだ。それも大量のモノを操ることは出来ぬ未熟者。侮ることなかれ、であるが、慎重に行き過ぎるのもまたやりすぎだ。
適度に慎重に。そして行ける時に行くのだ。訓練で学んだ大切なことはそれである。
衛士は砂時計を反転させようとした手を垂らして、それからタンクトップから伸びる腕を眺めてから、防御力に些かの心配があると考えるも、どうにもならない事だからと諦めた。
しかし――この、障害物も無いただ真っ直ぐな空間で、一方的な銃撃を受けるこの場所でどういった攻勢が取れるのだろうか。衛士の未だ未熟な脳では、ただ一つの方法しか思い浮かばなかった。
タクティカルベストのポケットに手を突っ込めば存在する、棒状の手榴弾。名前は『焼夷手榴弾』で――。
「こいつを使う。投げたら思いっきり逆走しろよ?」
強行突破、という言葉が最も適切であろう。相手は未だ能力の有用性を見極めようとしている最中だ。衛士らが既にその能力を見切っているなどは夢にも思わないだろう。
だからソレを逆手にとって無理矢理通り抜ける。作戦としては、作戦と言って良いものかもわからぬ思い付きの、雑なモノだった。
スミスは手元の手榴弾と、そして衛士から伝えられた敵のおよその能力とを交互に頭の中で想像してからなるほど、と手を打ち、間も無く冗談めかしい罵声が飛んだ。
「少しは人の身になれってんだよ」
相手に怪しまれぬように拳銃の弾倉を空にするほど射撃を続けて、やがて空発が二度続く。衛士はわざとらしい舌打ちの後に間髪置かず、手榴弾の安全装置を引き抜き、投擲する。
「この姿で突っ込むんだ。あんたも我慢してくれ!」
スミスが背後の方向に一目散に駆けるのを横目に見ながら、彼自身も敵に背を向けてうずくまる。
――網膜に焼き付く閃光。宙に舞う手のひら大のそれを中心に凄まじい光が廊下全てを覆い尽くして、爆発。施設を揺らがす凄まじい衝撃が大地を振動させて、間も無く爆炎が周囲に飛び散る。轟炎が、まるで液体のように廊下に流れて広がり、手榴弾があった位置を中心にして凄まじい炎に包まれる。
身体が吹き飛びそうになる衝撃に嬲られて、息が出来なくなるほどの熱が肉体にまとわりついた。目を開ければ粘膜が全て吹き飛び眼球が乾くだろう。このまま炎に突っ込めば、全身が焼け爛れて重度の火傷になりそうだ。
衛士は溜息をつきながら拳銃の弾倉を入れ替え、また機関拳銃に持ち直してから立ち上がり、振り向き様に走り出した。
――そういえば合図を決めていない事を思い出したが、まぁ、大丈夫だろう。彼なら絶妙なタイミングで加勢してくれるはずだ。
目の前に炎が迫る。衛士は構える機関拳銃の引き金を絞りながら、歯を噛み締めて飛び込むようにして前進した。
火に肌が触れる。強い熱が瞬く間に皮膚を溶かしてしまいそうな灼熱を覚えるが、どうという事は無い。予想以上に予想通りだっただけである。
激しい振動が肩を叩き続けて鈍い痛みが走り続ける。発砲音が絶えることなく響き、手榴弾の爆発の余韻も相まって頭がおかしくなりそうだった。
――応射が来る。
それは煙の中で発射炎を見せるが、天井を、あるいは壁を向くものであり、衛士を狙ったものは一切無い。強い動揺の表れだった。さらにこの爆炎の中では、その微弱な能力も役立たずだろう。
重くなる足を必死に前へとせかすと、やがて前方に影が現れる。衛士は壁に背を付け、身を屈めて、いつの間にか離していた引き金を指の腹で撫ぜ、絞る。途端に飛来する銃弾は瞬く間に影から血液を吹き立たせていた。
まず一人。
何かが割れた音の直後に影は倒れる。衛士はさらに移動してその倒れた影の横に移動して、煙の中で喚き散らす影へと発砲。横腹から首筋まで銃弾はそういった撫ぜるような射線を描いてその肉体に突き刺さり、間も無くそれは大きな音を立てて、周囲の煙を吹き飛ばしながら倒れていった。
さらに二人。
衛士は息をつく暇もなく最後の一人を探すが、位置から考えているべき場所にそれは居なかった。
煙の中に現れる影は存在せず、周囲を探す衛士の背後に、それは現れて――刹那。太い腕は素早くその首に絡みつき、間髪おかずに首筋に突き刺さる鋭利な刃物は一瞬にして彼の生体活動を強制的に終了せしめた。
最後の三人。
鈍く揺らぎ、緩慢な動作で前のめりに倒れる。傍らに倒れたソレに衛士は肩を弾ませて驚いてから振り向くと、鼻筋までを耐時スーツで覆って簡易マスクを作るスミスは、ご機嫌に手に持つナイフを振ってみせた。
「ったく、こんな事で動揺する奴等に殺されたって考えると泣きたくなるぜ」
「あぁ、助かったよ。ありがとう」
「何、安いもんさ。どの道お前ならどうにか切り抜けただろ?」
スミスが居なければいないなりに他の手段を選ぶか、彼が居ない分の事を考えてもう少し行動を変えただろう。だから彼の言うとおりと言えばそうなのかもしれないが、少なくとも無傷で終えたとは到底思えなかった。
故に、衛士はそんなことはないさ、と首を振り、先へ促す。
「次の爆発はこんなもんじゃないからな」
「はは、おっかねぇな」
イワイの瞳は正確に敵を捉えていた。さらにその動きを予測し、銃口を向け、発砲した。
だというのに――敵の動きは散弾を上回る速度でそれを避けて見せて、攻撃は当たる気配を見せない。
彼は咄嗟に机の影に身を隠すと、その直後に頭の近くにあるパソコンの液晶ディスプレイが三分割されて吹き飛び、細かな残骸を頭に被せる。イワイは素早く立ち上がり、机を乗り越えてそこから跳躍するように机の並ばぬ通路へと飛び込む。その最中に散弾を装填し、着地と同時に振り向いて発砲。
上方に伸びる影は敵が跳躍したことを意味していた。イワイは再び散弾が無意味に虚空を貫いた事に舌を打ち、そのまま出入り口へと駆け出した。
――敵は、素早いという言葉が甘く聞こえるほど速かった。イワイは彼が行動を開始してから一度たりとも正確なその姿を視認することは出来ていない。攻撃も一度も当たらず、だが相手の斬撃もイワイに触れることすらない。
状況的に考えれば、相手が使う次元刀の能力が知れたイワイの方が幾らか有利に見えたが、実際のところはそうでもない。
敵の動きは避けるイワイについてきている。それは相手が成長しているというわけではない。イワイが疲弊してきているという事だ。疲れれば観察眼にもミスが生まれ、引き金を絞る力さえも弱まってくる。銃の反動を抑えることすら難しくなるが故に、彼の銃撃はその精度をさらに引き下げてしまうだろう。
つまり、これ以上戦闘を長引かせるのは得策ではないのだ。
この状況で幸いといえるのは、他の兵隊が加勢に来ないことであろうが、そんな事でさえイワイにとってはほんの些細なモノと思えるほど、彼は困窮していた。
肉を切らせて骨を断つという言葉がある。イワイは一度それを覚悟したものの、実際にそれが出来ずにいた。理由としては、単に臆しただとか、死ぬのはイヤだからだとか言う情けないものではない。
斬撃が”時間差”でやってくるからである。
ナイフを振るうとする。そうすれば斬撃はその瞬間に肉体を切り裂くだろう。だがあの次元刀は違う。瞬間的に斬撃は肉体を切り裂き、相手はその三秒後にその肉体があった場所、切り裂いた箇所に次元刀を振るう。あるいはそこを切り裂いたのにも関わらず、直ぐには傷が出来ない。鋭い生傷が現れるのは、それから三秒後の事だった。
つまりは時間差だ。こんなもの、予測できるはずが無い。
だが勝算が無いわけでもなかった。大きな隙が現れるのだ。
まずは切り裂かれた後に、実際にその場所にナイフを振るわなければならないと言う事。これは必ずその位置に移動するということがわかっているために非常に有利だし、また切り裂かれて三秒後に傷が現れるのも、致命傷を貰う直前に相手に牙をむくことが出来る。
考えよう、あるいは状況次第では倒せないことも無いだろうが――やはり、何よりもあの速度が問題だった。
肉体は無意識にリミッターをかけられているというが、それが外れた状態が今の敵なのだろう。
酷く厄介だった。
だが、いつまでもこうしているわけには行かない。イワイは腹を決めて、大きな溜息を後に、一向に部屋から出てくる気配の無い敵に痺れを切らして再び中に突入する。
――どちらにせよこの状況では情報など無駄なのだ。結局は極シンプルで単純な戦法が勝利に最も近い位置にある。
脇目もふらずにただ前だけを睨んで、跳躍。瞬く間に正面の壁に肉薄するその身体を反転させて、壁に足をついて着地する。身体は屈むように縮まりこんで、そこを弾くように彼は入ってきたばかりの扉目掛けて跳ぶ。身体は軽く反って宙を舞い、壁へと特攻する黒い影を、彼は認識した。
それを見て思わず頬が綻びそうになる。
――これほどまで、思い通りに事が進むのが嬉しいと思うのは生涯で初めてのことだった。
口が無意識に、『ばかめ』と言葉をつむぎ出す。構える散弾銃は、既にその影へと狙いを定めていた。
「馬鹿が、適正者を舐めんな」
引き金を絞る。強い衝撃が腕に伝わり、肩を殴られたかのような強い痛みが襲い掛かった。既に、耐時スーツを使用しているのにも関わらず肉体は多くの疲労や衝撃を蓄積しているらしい。
だがこれで終わりである筈だった。どちらにせよ、終わるのだ。イワイの腹は既に決まっていた。
影は散弾を視認し、避けるように高く跳び上がる。そして敵の行動に追いつけぬ無数の鉄球らは無様に避けられ壁へと迫撃して、その一つが、近くに設置されている機材が巻きつき二つのプラスチックケースに詰め込まれたC4の一つを貫いた。
瞬間、イワイの肉体が未だ宙を飛んでいる最中に、膨張する爆炎が瞬く間に部屋の中を満たし始め、間も無くそれに彼も巻き込まれて――。
凄まじい衝撃が施設を揺さぶり、壁に亀裂をいれ、叩き割るかのように崩壊させる。建物は無残にその身を崩して跡形もなく崩れ落ち、崩壊はとめどなく行われ、僅か一瞬の爆発は周囲の半径約五○メートルの建物を余す事無く瓦礫へと変貌させた。