おわりに
これまでの論述をまとめると、次のようになる。
「人間とは何か」という問いに対する答えは、「分けるヒト」である。分けることはヒトの知的行為であり、それによりヒトは世界を解釈している。どのようにヒトが世界を分けているかと言うと、主観的なものさしで自分勝手に分けている。
ものさしで世界を分けた結果、"わたし"が浮き彫りになる。"わたし"は他者を通して見た自己であり、それは常に変化し、実体のない記号の配列のようなモノだ。
ヒトは"わたし"の形が分からなくなると不安になる。分からないことは本能的な恐怖であるからだ。そして、だからこそヒトは"分かること"に安心を抱いた。ヒトにとって最大の恐怖は死後であり、その不安を取り除いたのが宗教である。
例えば、ヴェーダの宗教では"世界"と"わたし"は同一視される。"宇宙"は不滅であるから、"わたし"も不滅だとした。だから"わたし"というヒトは死後、新たな肉体へ"輪廻"すると人々を安心させた。
一方でブッダは"わたし"は不滅ではないとし、"無我"を説いた。"世界"と"わたし"とは不可分であり、流動している。ゆえに"わたし"を"世界"から分けることはできないという。
しかし、ヒトという小さな存在からでは、世界はまるで止まっているかのように見えてしまう。だからヒトは世界を思考の俎上に乗せ、分けてしまえるのだ。
また、ヒトはモノを分けることは得意だが、モノを統合することができない。統合されているように見える全ての事物は、ヒトのものさしで再構築されたモノだ。
ところで、筆者は仏教における解脱について次のように考えている。
"わたし"が"わたし"として思考する限り、"わたし"は"世界"と同一になることはない。目を閉じて、手足を放りだし、呼吸だけを行い、風が髪を撫ぜる感覚や音が鼓膜をくすぐる感覚に身を任せていれば、世界と一体になれるかもしれない。だが、世界と一体になろうとした瞬間に"わたし"は世界から引き離されてしまう。
すなわち「解脱しよう」と考える時点で、解脱はできない。そこに至るには全ての事後に「解脱した」と悟るほかないのである。
以上で「分けるヒト」に関する論述を終える。
ここまで読んで頂いた"あなた"には、貴重な時間を分けていただき、最上の感謝を申し上げたい。この"ものさし"が少しでも刺激になれたならば幸いである。
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