第七章 「統合できないヒト」
"分ける"の対義語、"統合"について考える。
"統合"とは二つ以上の"異なるモノ"を合わせて"均質な一つのモノ"にすることと定義する。
まず前提として、ヒトは無から有を生むことはできない。創造は主にのみ許された行為だ。ヒトがモノを造るとき、それは"再構築"を表すと言ってよい。
粘土を掘って捏ねて焼いてレンガにし、家を組み立てる。家畜を切って捏ねて焼いてミートローフを作る。動物は、体から配偶子を分ける。配偶子同士が接合し、細胞分裂を経て"子ども"を作る。
思考においても同様だ。新しいアイデアを生み出したとき、"ひらめき"とか"天から降ってきた"などと言う者がいるが、彼らは自らの力量・環境・努力を軽視している。もしくは謙遜である。アイデアはそのヒトの知識・経験が、環境の変化や新しい知験による刺激により、思考が"再構築"された結果に生じる。
さて、ヒトの思考は"世界"を分けることに端を発している。そしてヒトは細切れの"世界"を再構築することで、人間社会を造りだした。
再構築は、一見すると"分けたモノ"を再び"同じモノ"に統合しているように映る。しかし実際には再構築と統合は異なるプロセスであり、異なる結果を生む。
そして、ヒトはモノを統合することができない。
なぜか。思考していく。
"わたし"が暗い空間にいる。それを世界と呼ぼう。そこでは何も見えないし、何も"分からない"。光が灯ると、"わたし"の他にヒトがいることが"分かった"。
さて、ここで再び光が消えた。世界は真っ暗になった。その世界は、果たして光が灯る前と同じ世界だろうか?違う。その世界は"わたしとヒトがいる世界"だ。経験からそれが知識として分かっている。
もう一度光が灯る。今度は、それぞれ男と女のヒトがいると分かった。世界はさらに"わたしと、男のヒトと、女のヒトがいる世界"に分けられた。これを、"わたしとヒトがいる世界"に戻すことはできるだろうか?
言い換えれば男と女を"ヒト"に統合できるだろうか?無理だ。それは"性別"という"ものさし"を使わずに、大分類を再定義したに過ぎない。一度分けた世界は、二度と統合されない。くっついたとて、それは再構築された世界に他ならない。
そう考えれば、人間社会が何千年という歴史の中で、一秒たりとも"統合"されたことがないという事実は、当然のことだと言える。むしろ現代では多様性の旗印のもとで、"分化"が加速している。
「男も女も白人も黒人もアジア人もいない、みんな等しく"人間"だ!」と叫んだ時点で、世界は男と女と白人と黒人とアジア人に分けられているのだ。ヒトを統合する"るつぼ"は、現在まで生まれていない。
"統合"は全てのヒトが、個人の利益や幸福、意思をもたず"一つヒト"として活動することだ。「そんな社会、俺は嫌だ」と思うヒトが一体でも居れば、"統合"は成り立たない。そこまでの思考統制は、もはや現実的に不可能だろう。
ただ"分化"は争いを生む。"わたし"と"あなた"は違う。それを発見した時、互いに手を繋ぐか、それとも殴り合うか。時と場合により、ヒトはどちらの選択も取りうる。できるかぎり手を繋ごうとする努力こそ多様性なのだが、それを棍棒に代える者もいる。
人類が統一されるとしたら、それは"わたし"独りしかいない終末の後、もしくは"わたし"独りで見る夢の中にしか存在しない。つまり、"わたし"をそれ以上に分けられない状態になるしかない。
二人いれば、ヒトは"わたし"と"あなた"とを分けてしまうから。
(11.3) 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
(11.4) 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
(11.5) 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、
(11.6) 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
(11.7) さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう
(Word project, 『創世記』)