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第六章 「無常無我」

 ブッダは「世界はどういうものか」を考えていた哲学者である。彼自身は仏教徒ではない。ブッダの教えを聞いた弟子達が作った"ものさし"が仏教である。



 ブッダが"世界はどういうものか"を見るときに使っていたものさしは、もちろん彼が滅した後に生じた"仏教"ではなく、"ヴェーダの宗教"である。それは、古代インドで編纂されたヴェーダ(=知識)を元にした宗教信仰だ。



 という問に対し"諸行無常"と"諸法無我"を説いた。



 "諸行無常"は、万物は流転し、"常に変化するモノ"であるとする概念である。『平家物語』にも読まれ人口に膾炙している言葉だ。沙羅双樹はいつか枯れ、盛者は衰える。



 "諸法無我"は、万象は原因と結果の連なりにより生じる"実体のないモノ"であるとする概念だ。独立して存在する"それ自身"などなく、他のモノとの関係の中で、"それ"があるように見えているだけ。



 例えば"波"は、なにもない所からは生じない。風や重力や地殻運動の結果として、水が動くことで生じた"現象"だ。波を立たせた風は、大気の温度の偏りにより空気が流れ動くことで生じた。それの大元は太陽から放射される膨大な光エネルギー、つまりは光の"波"である。その"波"の原因は──を考えていくのは"科学"の仕事である。ここでは割愛する。



 さて、"諸行無常"と"諸法無我"──"世界"は"常に変化"し"実体のない"モノである、とブッダは見たわけだが、前章までに、それと同じモノについて説明してきた。



 すなわち"世界"とは"わたし"である。ヒトが小さな"個"とすれば、世界は大きな"個"である。世界にとってヒトという現象は、例えるならば体細胞の中のミトコンドリア。その成分のタンパク質、DNA。それを構成する塩基AGCT(記号)の"配列"だ。



 この"世界"と"わたし"を同一とする見方を、"ヴェーダの宗教"では梵我一如と言う。「梵(=世界)と我(=わたし)は一つの如し」ということだ。そして、このものさしは、世界──"宇宙"と言い換えてよいだろう──は不滅であるから、"わたし"も不滅だとした。"わたし"というヒトは死後、新たな肉体へ"輪廻"すると、不安に陥る人々へ説明したのだ。



 例えば、世界を構成する体細胞の一つが死んでも、それを構成する物質が失われた訳ではない。細胞を構成するDNAの"配列"が崩れただけだ。やがて体内の原子分子は、新しい細胞へと"再構築"される。このように"わたし"は不滅である。



 しかしブッダは梵我一如の一部を否定した。というよりも「"わたし"を"わたし"たらしめる実体は無い」と無視をした。"無我"である。



 "波"は、その一部を分けることはできない。"風"を分けることはできない。"配列"から"記号"一つを抜き出したとて、"それ自身"は情報を持たない。"わたし"の仮面の下は"無"である。



 けれども前章で述べた通り、万象の連関の中で"わたし"の輪郭は浮かび上がる。人々はその輪郭を"我"と呼び、"それ自身"があると考える。



 であればブッダの説く"無我"とは、"分けること"を停止することではないか。



 "わたし"は世界の活動により生じた波であり、"世界"と"わたし"とは不可分である。"世界"のDNA塩基配列が示すものは、やはり"世界"である。たまたま"わたし"と読める配列があるだけだ。



 それを自覚すればヒトは輪廻から解脱できる。輪廻は、どれだけ組み直しても"わたし"という配列が出来上がる限り、"わたし"は不滅。生まれ変わる、という思考だ。



 たしかに、"わたし"という配列を構成する記号、それ自体は不滅かもしれない。しかし、一度分解され、再び記号を組み直してできた配列は、同じように見えても"分ける"前の"わたし"ではない。



 "わたし"の死後、"わたし"は消える。ロウソクの火が消えるように、ふっと消える。それが解脱である。



 火が消えたら、死後の世界は暗くなる。不安だと人々は思うだろう。ゆえにブッダは不安を滅する為の四諦を説いたのだろう。



 ところで、ブッダの教えに従うならば世界はそもそも"分けられない"。ならば、"分けるヒト"という筆者の答えは否定されるのではないか?



 いや、そもそも立場が違う。筆者は"ヒト"の視点で"わたし"を、ブッダは"世界"の視点で"わたし"を考える。そして筆者のものさしで見れば、当然ヒトは世界を分けられる。



 ヒトが世界について考えるとき、万象を形而(まないた)の上に置いた時点で、言葉を使った時点で、ヒトと世界とは"わたし"と"あなた"に分かたれているのだ。



 思考の上では、ヒトは世界を俯瞰できる。ヒトは観測者として、主観(わたし)的に客体(あなた)を自由自在に、その"ものさし"で分けられる。



 そもそも世界は常に変化するが、その茫漠な体内に生きる小さなヒトにとり、個人にとり、その変化は不変とも思える。曲線は限りなく収束すれば直線となり、真円は直線とは交わらない。マクロ的には動いている事象も、ミクロの立場では不動に感じられてしまう。



 この世界──宇宙はビッグバンという拡散に始まり、ビッグクランチという収束により終わるという説がある。破れてバラバラになる、いや膨張と収縮を繰り返すだけだ、という説もある。いずれにせよ、それらはヒトという"ものさし"で測れば何億兆年先という悠久の時間の先に訪れる。



 しかし宇宙を俯瞰で見れば、相対的に考えれば、宇宙の始まりから終わりは、シャボンがストローから離れ、割れるまでの須臾(しゅゆ)の間隔でしかないかもしれない。



 この通り、"世界"とヒトは、同じ"わたし"でも文字通りにスケールが違う。世界は常に動き続けているが、ヒトはそれを知覚できない。時速10万Km以上のスピードで宇宙を進み続ける地球の運動を、誰も知覚できないように。



 だからヒトは"安心して"世界を分ける。そして"わたし"を見つけて、"我"が生まれる。

河の流れは常に絶える事がなく、しかも流れ行く河の水は移り変って絶間がない。奔流に現われる飛沫は一瞬も止る事がなく、現れるや直すぐに消えてしまって又新しく現れるのである。

(鴨長明, 『方丈記』)

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