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第五章 「光あれ」

 さて、第四章では「自分が分からない」ことが不安であると述べた。では、なぜ「分からない」ことが不安なのだろう。



 ヒトが世界を知覚するとき、その情報の8割は目─視覚から与えられている。だからヒトは大抵、目を開けて、見て、モノを"分ける"。



 しかし、ヒトの目は暗い場所では機能が著しく低下する。真っ暗闇では体も見えず、前後左右、上も下も分からない。瞼を閉じても開いても、全ては黒一色に塗りつぶされている。このような状況では、自己と世界の境界は消えてしまう。



 深い海の底で、冷たい土の下で、鬱蒼とした森の中で暮らしていた時代。ヒトが誰かの獲物だった時代。暗闇は高ストレスな環境だった。不安とは、その向こうに何が在るのか分からない暗闇から訪れるのだ。



 そして、だからこそヒトは光を"善し"とした。「光が善であり、闇が悪」という二元論的なイメージはこれに由来する。



 翻って"分かる"ことは安心だ。



 暗闇でどこからか音がした。それが蛇口から滴る水と分かれば恐怖も薄れる。



 家の鍵を失った。どこにあるのか分からない。カバンの内ポケットから見つかればホッとする。



 解雇された。就職先も決まらない。これからどうなるか先行きが不安で眠れない。占い師に見てもらったら、来年には仕事が見つかるらしい。これで今夜からはぐっすりだ。



 旱魃で作物も枯れてしまった。これでは村は全滅だ。神の怒りだというから、生贄を捧げれば雨が降るらしい。なら次の収穫は安心だ。



 "分かった"ことの内容が、"科学的な事実"か、嘘か真か、迷信かなどは、どうでもよい。分かれば、解答用紙に答えを書き込めれば、ひとまずは安心だ。



 ところで、「光で照らすこと」を意味する"Enlightenment"は、日本語で"啓蒙"と訳される。すなわち、(くら)く閉じた人々の瞼を(ひら)かせ、正しい世界を見せることが"善"だと、近世では考えられていた。この時、無知蒙昧とされた人々を照らす光とされたのが、"自然科学"である。では、人々のいた暗闇とは?



 この時に闇とされたのは"宗教"である。興味深い話だ。「光あれ」と言った主の世界は、どうやら暗闇に閉ざされていたらしい。



 だが、当時の人々は決して世界を分かっていなかった訳ではない。知識がなかった訳ではない。暗闇にいた訳ではない。間違っていた訳ではない。"宗教"というものさしを使い、その目でしっかりと世界を見ていた。"啓蒙"は、彼ら目を開かせた訳ではなく、人々の首根っこを捕まえて頭の向きを変え、手に持ったものさしを"自然科学"にすげ替えただけである。パラダイム・シフトとも呼ぶ。



 さて"自然科学"が"宗教"に取って代わった現代、"自然科学"のものさしは世界中で大ブーム。科学崇拝なる言葉も生まれ、"自然科学"は万物を分けられる万能ものさしだと宣う人々もいるが、"自然科学"では絶対に"分からないモノ"がある。



 それは"死後のわたし"である。死後、ヒトは"わたし"がどうなるのかを知る術はなく、死者は還ってこない、完全な一方通行だ。"死"で隔てられた向こう側の世界は、完全な闇に包まれている。故にヒトは根源的に"死"を恐れている。



 なぜ"自然科学"は"死後のわたし"を解き明かすことができないのか。"観測"できないからである。"観測"できなければ、物理法則を死後の世界に適用することも、死後の世界を図解することもできない。"死"を経験した者とはコミュニケーションが取れないので、フィードバックも得られない。



 だから"自然科学"は"死後のわたし"を"存在しないモノ"として、分けるのを諦めた。ヒトは死んだら、そこでおしまい。シナプスが活動を停止すれば、自我もシャットダウンである。ただ、それでは"死後"の暗闇は、暗いままではないか。"死"は"不安"な存在のままではないか。




 心配はいらない。ヒトは"自然科学"の発見よりもずっと昔から"死後"の闇を祓っている。"死後の世界"に光を照らしている。



 その光こそが"宗教"だ。



 楽園、天国、地獄に極楽。輪廻転生と涅槃。"わたし"が死んだらこうなりますよ。善行を積めばこちら、悪行をしでかせばあちら。宗教は実に分かりやすく死後の道程を説明してくれる。ここまでしてくれたなら、安心して死ねるというものだ。



 "自然科学"が"宗教"に代わって覇権を取った現代、"自然科学"は"この世界"を、"宗教"は"死後の世界"を、それぞれ"分ける"ためのものさしとして分業が成立している。ともすれば、宗教はヒトに安心を提供するサービス業であり、その最大のサービスが"死後の世界"の提示だと言えるだろう。



 さて、話は少し戻るが、英語の"Enlightenment"には「悟り」という意味もある。悟りとは、仏教における「真理を体得すること」なのだが、しかし、筆者はこの訳にも異を唱えたい。"Enlightenment"は少し西洋的というか、キリスト教的というか……まるで「光あれ」と誰かが"わたし"を照らすような物言いではないか。



 "Awakened"という訳もあるが、個人的な感覚では微妙に納得できない。目覚めた者という"ブッダ"の訳に"Awakened"を当てるならば、納得できるが。



 何故、筆者はこんな枝葉末節に拘っているのか。次の章では、ヴェーダの宗教を前提としたブッダの哲学が"この世界"をどのように"見た"のかを扱うことにする。


(1.2) 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。


(1.3) 神は『光あれ』と言われた。すると光があった。


(Word project, 『創世記』)

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