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第四章 「人間」

 「自分が分からない」「自分は何者か」モラトリアム最中の青年にとっては最大の悩みであろう。



 それらに答えるとするならば、次のとおりだ。



 自己="わたし"が何者かを決めるのは他者であり、"わたし"は生涯、自分自身が何者かを決めることはできない。自己形成は心拍と同様、死ぬまで続けられ、アイデンティティは常に変わるものである。



 何故か。ヒトは"記号の配列"だと考えるとよい。自己はアルファベットの"I"であり、漢字の"私"であり、ひらがなの"わたし"、もしくは親から与えられた"氏名"である。それ自体に意味はない。"記号の配列"に意味を与えるのは、"記号"自身ではなく、それを使う人間─他者である。



 第三章にて、異なる集団を切り分けることで、ヒトは集団から個人を"発見"すると述べた。このとき、"わたし"が他者である"あなた"を発見するのは容易い。なぜなら、性別、顔、身体の大きさ、服装など、集団を切り分ける為の"特徴"は山程に存在するからだ。また、サラリーマン、飲食店の店員、学生、赤ん坊など、その他者が持つ"役割"からも、集団は容易く分けることができる。その時点での"特徴"と"役割"以外が考慮されることはない。



 例えば飲食店に入ってメニューを注文する時、"わたし"は"店員"としての"あなた"に声をかける。店は多くの客でごった返していたが、制服という特徴から、"あなた"が"店員"であると判断したのだ。



 このとき、"わたし"にとって"あなた"は何者か。答えは単純、"店員"でしかない。それ以上でもそれ以下でもない。"あなた"が家に帰れば"一児の母"であるとか、もしくは"バイト中の学生"であるとか、"実は一年前まで刑務所にいた"とか、もしもそんな要素があったとして考慮されることはない。



 "わたし"は、"あなた"という記号に"店員"という意味を与えたということになる。



 逆に"わたし"が"わたし"自身を再帰的に定義することはできない。



 なぜなら、記号に意味を与えるとき──すなわちヒトがモノを分けるとき、ヒトは対象のモノの外側に居なければならない。モノの内側にいる状態では外面を見ることはできないからだ。すなわち自分では自分の顔を見ることが叶わぬように、"わたし"自身では、"わたし"の全体像を把握できないからだ。



 "わたし"という記号の意味は、時と場所と状況によって変化する。



 家では"真面目な息子"であり、学校に行けば"制服に袖を通す3年生"であり、塾に行けば"試験間近の受験生"。街を歩けば"若者"でしかなく、趣味でバンドでも組んでいるなら"バンドマン"、"ギター"を担当、彼女の前では"かっこいい男"である……はず。友達には"面白いやつ"と定評がある。



 例えばこんな風に、"わたし"の意味は常に変化している。これをペルソナ(=社会的な仮面)という。ヒトは多くの仮面を持っており、それを付け替えながら社会生活を送っている。仮面の中には二度とつけないものもあるだろうし、ふとした拍子に、かつての仮面を再度つけることもあるだろう。



 さて「自分は何者か」とアイデンティティに悩む者は、そのペルソナの下にある"素顔"を知りたいと考える。幼年期から青年期へかけて世界を広げ、経験を重ねて来た彼らは、ふと気がつくのだ。「自分はずっと仮面を付けているけれど、本当の自分は、素顔はどのような形をしているのだろうか?」



 残念ながら仮面の下に素顔はない。記号それ自体に意味がないと最初に述べたとおりである。ゆえに仮面こそが"わたし"なのだ。



 すなわち"わたし"は、"あなた(・・・)"にとっての「真面目な息子」。



 "あなた(・・・)"にとっての「3年2組出席番号15番の生徒」。



 "あなた(・・・)"にとっての「横断歩道を渡るのが遅くてウザい歩行者」。



 "あなた(・・・)"にとっての「ギターが上手いバンド仲間」。



 "あなた(・・・)"にとっての「可愛い彼氏」。



 "あなた(・・・)"にとっての「面白いやつ」。



 そして、"あなた(・・・)"にとっての「制服を来た飲食店店員」である。



 それらの仮面がどのような容姿をしているのかは、"わたし"の意志とは関係なく、"あなた"にしか分からないし、他者が勝手に意味付けをする。"かっこいい彼氏"であろうとしても、相手がそう見ているとは限らない。そして、その意味は、"あなた"と関係する他者の数だけ存在する。真逆の意味だってある。漢字と同じだ。



 さて、本章の最初に"わたし"は自分自身が何者かを決めることはできないと答えた。しかし、他者という鏡を通して"わたし"の顔を見ることはできる。すなわちコミュニケーションである。



 "あなた"がどう思っているのかを聞いて、"わたし"は仮面の外面(そとづら)を知ることができる。記号の意味を知ることができる。その意味が気に食わなければ直せばいいし、その仮面を付けていて心地よいなら、そのままでいればよい。ここの判断は個人の感情──"ものさし"による。その判断の結果が意味に反映されるか否かは、他者次第だが。



 つまるところ、自分が分からなければ鏡を見よ、ということだ。そこに"わたし"が映っているだろう。鏡なしに"わたし"を見ることは叶わない。鏡は磨いたほうがよく見える。鏡の数が多ければ、見にくい所も見通せる。割れた鏡は交換してもよい。



 ともあれコミュニケーションを通して、ヒトは日々変化する"わたし"の輪郭に触れることができる。言い換えれば、"わたし"とは、ヒトとヒトとのコミュニケーションにより生じる、""常に変化し"、"実体のない"、事象と言ってもよい。



 "あなた"がいなければ"わたし"に意味はなく、"わたし"がいなければ"あなた"の意味を決めることはできないのだから。



 だからこそヒトは"人間(・・)"と、日本語でそう呼ばれているのだろう。

(2.18) また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。


(2.19) そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。


(2.20) それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。


(2.21) そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。


(2.22) 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。


(2.23) そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。


(Word project, 『創世記』)

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