もう二度と失いません
「────えっ?何これ……?」
体調不良で仕事を早退し、同棲中のアパートへ帰った私は裸の男女に遭遇した。
しかも、男性の方は私の彼氏である工藤湊……。
言うまでもなく、これは浮気である。
「はっ……?何で……?どういうこと……?」
ただでさえ悪かった気分が更に悪くなり、私は目頭を押さえる。
その際、包帯に巻かれた手やチリチリになった茶髪が目に入った。
私は熱湯を掛けられても、ライターで髪を炙られてもずっと湊のことを愛していたのに……彼は同じ気持ちじゃなかったんだ。
だって、もし本当に私のことを愛しているなら浮気なんてしないでしょう?
よそ見なんかせず、私のことだけ見てくれる筈……多分、私は彼の架け替えのない存在じゃなかったんだ。
自分に気持ちはなかったと悟った途端、なんだか急に全部馬鹿らしくなり……スッと冷める。
夢から現実へ引き戻されたような……冷水を浴びせられたような感覚に陥り、これまでの日々を振り返った。
付き合った当初は本当に優しくて、『私には勿体ない人だ』って思っていたけど、交際一ヶ月を過ぎたあたりからDVが始まって……ずっと耐えてきた。
愛しているが故の暴力だと思ってきたから。
でも、それは単なる勘違いだった。
彼が欲しかったのは都合のいい女で、サンドバッグ。
『まさに私のような……』と嘲り、ようやく自分の状況を客観視出来た。
と同時に、別れを決意する。
今までずっと『私にも、悪いところはある』『湊だって、やりたくてやっていた訳じゃない』と二の足を踏んできたが、今日は違う。
ハッキリと『悪いのはあっちだ』と思えるようになったから。
「浮気するような人とは、もう一緒に居られない。今日限りで、別れる。浮気相手と、どうかお幸せに」
淡々とした口調でそう告げ、私はクルリと身を翻す。
『とりあえず、実家に帰ろうか』などと思案する中、不意に腕を掴まれた。
「ちょっ……待てよ、梓!」
すっぽんぽんのままこちらへ駆け寄ってきた湊は、珍しく焦ったような表情を浮かべている。
さすがに浮気は不味いと本人も悟っているのだろう。
私が今まで従順だったのは、湊の愛を信じていたから。
『暴力的な彼を愛し、支えられるのは私だけ』という幻想が打ち砕かれれば、もう支配下に置けない。
「こ、これは誤解で……」
「裸で女性と抱き合っていたのに?」
「いや、その……」
「というか、彼女に無断で同棲中のアパートに知らない女性を連れ込んでいる時点でアウトだから」
『行為の有無はそこまで重要じゃない』と言い切り、私は手を振り払う。
そろそろ、体調も限界に達してきたため。
『早くここから出なきゃ』と思案していると、
「チッ……!下手に出てりゃ、いい気になりやがって……!」
突然背中を蹴り飛ばされた。
完全に不意打ちだったので、まともに受け身を取れず……私は顔面から派手に転ぶ。
『いっ……た』と呻くように呟き、顔だけ後ろへ向けた。
すると、鬼の形相でこちらを睨みつける湊が目に入る。
「お前は黙って、俺の言うことだけ聞いていればいいんだよ……!」
まさかの展開に湊自身かなりテンパっているのか、第三者の居る前で本性を表した。
『これは……相当キレているな』と冷静に分析する私の前で、彼は少し身を屈める。
と同時に、私の髪を掴み上げた。
「別れるかどうか決めるのは、俺だ!お前が勝手に決めていいことじゃない!」
湊は心底こちらを見下しているようで……到底受け入れられないような意見を突きつけてくる。
まさに暴君だ。
────でも、こっちだって黙っていない。
「湊の指図は受けない!私は絶対に別れる!」
「お前……!何様のつもりだ!」
「それはこっちのセリフ!」
私も負けじと声を張り上げ、キッと湊を睨みつけた。
「私は貴方のサンドバッグでも、奴隷でもない!一人の人間なの!」
至極当たり前の事実を突きつけ、私は表情を険しくする。
と同時、髪を掴む湊の手を振り払った。
「浮気した挙句、逆上して暴力を振るってくるような貴方の言いなりにはならない!」
ある種の決意表明として宣言し、私は自分の意思を貫いた。
すると、湊はただ一言────
「はっ?」
────と、呟いた。全く抑揚のない声で。
あっ、これは……ヤバいかも。
本能的に危機を察知し、私は慌てて身を起こす。
『逃げなくては』と思いながら、怠い体を押して玄関へ向かおうとした。
だが、しかし……湊に首根っこを掴まれ、後ろへ仰け反る。
と同時に、お腹へ拳を叩き込まれた。
「かはっ……!?」
「……」
衝撃のあまり蹲る私を冷たい目で見下ろし、湊は再び拳を振り上げる。
完全に理性を失っているのか、静かな態度に比べて目は異様なほどギラギラしていて……明確な害意と殺意を感じた。
────と、ここで放心状態だった浮気相手がようやく悲鳴を上げる。
でも、湊は全く意に介さず……振り上げた拳を、私の顔やお腹に叩き込んだ。
っ……!ダメだ、もう意識が……。
帰宅前から体調不良だったこともあり、私の体はもう限界に近く────気づけば、ベッドの上だった。
『あれ……?湊は……?』と思いつつ見慣れない天井を見上げ、少しボーッとする。
何となくここが病院であることを悟る中、ちょうど看護師が様子を見に来てくれて、直ぐに医者を呼んでくれた。
そこで簡単に事情を説明してもらい、何とか事情を呑み込む。
どうやら、湊の浮気相手が身の危険を感じて警察に通報してくれたらしい。
それで、私は救急車でこの病院に搬送。湊は一先ず、警察の留置所に閉じ込められているとのこと。
私の体に残った古傷から日常的に暴力を振るっていたことも明るみになり、こってり絞られたようだ。
あとの対応は被害者である私次第だが、親御さんも出てくる事態となったため、本人も相当堪えているに違いない。
ちなみに浮気相手の女性は、本当に私の存在を知らず……また、湊の本性を目の当たりにして完全に幻滅したらしい。
事情聴取にも積極的で、私に有利となるよう色々動いてくれているとのこと。
おまけに『落ち着いたら、謝罪したい』との申し出も、あった。
浮気相手……と言うのも憚られるけど、相手の女性には悪いことしたな。
知らなかったとはいえ、湊とグルだと思ってかなり感じの悪い態度を取ってしまった。
後で謝らないと……それから、お礼も。
彼女が通報してくれなきゃ、私は今頃生きてなかったかもしれないし。
ブチ切れた状態の湊を思い出し、私は『ぶっちゃけ、殺されていてもおかしくなかった』と身震いする。
────と、ここで医者の女性が少し言いづらそうに口を噤んだ。
さっきまで、あんなに饒舌だったのに。
「あの……佐々木さん」
私の苗字を呼び、じっとこちらを見つめてくる医者は
「落ち着いて聞いてくださいね」
と、前置きする。
まるで、余命宣告でもするかのような緊張っぷりだ。
どうしたんだろう?もしかして、私の体に異常が見つかったとか?
まあ、あれだけ暴力を振るわれれば何かしら障害は残るか。
将来のことを考えると苦しいけど、命が助かっただけ良かったと思わなくちゃ。
その分の補填は湊にしっかりしてもらうけど。
『治療費と慰謝料をぶんどってやる』と決意する中、医者は悲痛の面持ちでこちらを見た。
かと思えば、僅かに声のトーンを落とす。
「故意なのか偶然なのかは分かりませんが、先日の暴行の際お腹を重点的に狙われました。そのため、内臓がかなりダメージを受けており……中でも一番酷かったのは────子宮です」
「!!」
子宮……妊娠・出産に欠かせない臓器。
赤ちゃんを一番最初に守り、育てる場所。
『そんなところを傷つけられたのか』と思うと、怒りが湧いてきて……私は唇を強く引き結ぶ。
と同時に、物凄く嫌な予感を覚えた。
だって、まだ話の途中だから。
この先に待ち受けている現実を想像し、不安になる中、医者はそっと目を伏せる。
「本当に凄くダメージを受けていて……その────」
そこで一瞬言い淀むと、医者は控えめにこちらを見つめた。
「────摘出せざるを得ませんでした」
「てき、しゅつ……」
「はい……」
項垂れるようにして頷く医者に対し、私は半ば放心する。
胸にポッカリ穴が空いたような心境へ陥りながら、ゆらゆらと瞳を揺らした。
「そ、それって────もう赤ちゃんは産めないってことですか……?」
震える声で絞り出すように質問を投げ掛け、私は目尻に涙を浮かべる。
そうじゃない、と信じたくて。
答えなんて分かり切っているのに僅かな可能性へ縋ろうとする私に、医者は
「……はい」
と、現実を突きつけてきた。
『申し訳ありません』と頭を下げる彼女の前で、私は何も言えず……静かに涙を流す。
そっ、か……私、もう赤ちゃん産めないんだ。
将来は好きな人と結婚して子供を産んでって、夢見ていたのに……もう出来ないんだ。
これから先、生まれるかもしれない子供を失ったんだ。
たとえ子宮があっても、妊娠・出産・育児出来るとは限らない。
それは分かっている。
でも、その可能性を全て摘み取られるのは非常に辛かった。
子供を欲しがっていた身としては、余計に。
『自分の産んだ子を抱けない』という現実に打ちひしがれる私は、声もなくひたすら泣き続けた。
そして、ようやく落ち着いた頃にはもう夜中になっていて……医者や看護師の残してくれたメモが目に入る。
『すみません。仕事があるので、私はこれで失礼します。でも、何かあれば直ぐに呼んでください。相談でも愚痴でも何でも聞きますので』
『お食事は一旦下げました。ただ、言っていただければ直ぐに新しいものを用意しますよ。どうぞ、お気軽にお申し付けください。本当に、本当にいつでも対応しますから』
同じ女性として痛みを理解してくれているのか、医者も看護師も非常に親切だった。
心配と気遣いを感じられるメモの内容に、私はまたもや涙ぐむ。
嬉しいと思う反面、煩わしいと感じてしまう自分に嫌気が差した。
いつから、私はこんな嫌な人間になってしまったんだろう?
他人の厚意を素直に受け取れないなんて……本当、ダメな子ね。
止まらない自己嫌悪と涙に、私はもうどうすればいいのか分からなくなる。
『いっその事、消えてしまいたい』とすら思う中、ふとスマホを目にした。
私は何の気なしにソレを手に取り、電源を入れると職場や家族からのメッセージが来ていたことに気づく。
『あっ、そうだ。連絡しないと……』と考え、一先ずライムを開いた。
と同時に、目を剥く。
だって、湊の母を名乗る人からもメッセージが届いていたから。
「今回のことは息子も悪かったと反省しています。被害届を出すのは思い留まってください、ね……」
受信したメッセージをおもむろに読み上げ、私は失笑した。
被害者のことなんて全く考えていない人だな、と思いながら。
『普通は怪我の心配と誠心誠意の謝罪をするだろうに』と肩を竦め、スマホを握る手に力を込める。
子も子なら、親も親ね……って、決めつけるのはまだ早いか。
怪我の状態を知らないだけかもしれないし……それに我が子の将来が懸かっているとなれば、こうなって当然。
でも────
「────被害者の私が、加害者を慮る必要はないよね」
『そこまでする義理はない』と吐き捨て、何となくカレンダーを開いた。
これから先のことを考えよう、と思って。
まずは弁護士を雇って、刑事と民事で訴えて、治療費と慰謝料を請求して……それで……それでっ!何がどうなるの……?
私の受けた傷は……子供を産めないという事実は改善される訳?
『それじゃあ、何も解決しない』と心の中で叫び、私はシーツを握り締めた。
ただ、ひたすら悔しくて……やるせなくて、歯を食いしばる。
どれだけ高い金を積まれても、一生埋まらないであろう心の穴を思い、号泣した。
嗚呼、あの頃に……まだ子供を産める体だった頃に戻りたい!
そしたら、今度こそ子宮を……いや、将来生まれるかもしれない我が子を守るのに!
「お願い、だから……!誰か、時間を巻き戻して……!」
切実にそう願い、私は両手でお腹を抱き締めた。
その瞬間────スマホから、通知音が……。
『こんな夜中に何よ……』と辟易しつつ画面を確認すると、見知らぬ人物からメールが届いていた。
私は『どうせ、スパムでしょ』と思って、直ぐに削除しようとするものの……ある単語に興味を引かれる。
「────逆行……?」
あまりにもタイムリー過ぎる内容に瞬きを繰り返し、私は削除を迷う。
イタズラメールである可能性が高いのは、分かっているが……それでも、一縷の望みを捨て切れなかった。
と、とりあえず……見るだけ見てみよう。
『内容を確認するだけなら、大丈夫でしょう』と結論を出し、私は本文を開いた。
「なるほど……逆行したい日時を書いて、返信するだけで時間を巻き戻せるのね。怪しさ満点だけど、URLの類いはないし……一回、試してみるのもアリかも」
『危なくなったら、速攻で受信拒否すればいいだけ』と考え、私は返信画面へ移った。
そこで湊の浮気現場に遭遇して、修羅場となった日付けを書き込む。
時間帯はちょうど帰宅した辺りにし、思い切って送信ボタンを押した。
『嗚呼、本当に返信しちゃった……!』とちょっぴり後悔する中────急な目眩に襲われる。
あ、れ……?おかしいな……さっきまで、何ともなかったのに。
もしかして、怪我の状態が悪化したのかな……?なら、早くナースコールを……。
『今度こそ、本当に死んじゃうかも……』と危機感を抱き、私は手探りでナースコールを探す。
でも、だんだん意識がぼんやりしてきて……上手く体を動かせなかった。
っ……!ダ、メ……このまま意識を失ったら……。
『昼間じゃないから発見が遅れるかも』と恐怖し、私はクシャリと顔を歪める。
と同時に、目が回り────気づいたら、同棲中のアパートの中に居た。
「……えっ?」
どことなく既視感のある光景に、私はパチパチと瞬きを繰り返す。
『何が起こっているの?』と思案しながら、自身の体を見下ろすと────無傷だった。しかも、スーツ姿。
これはもしかして……いや、もしかしなくても────逆行した!?
パッと目を輝かせ、私はお腹に手を当てた。
そんなことをしたって、子宮の状態なんて分かる訳もないのに。
でも、何となくここに赤ちゃんを育てる場所があるように感じた。
『良かった……!失われていない!』と歓喜しつつ、私は頬を緩める。
が、喜ぶのはまだ早いと思い立ち、慌てて表情を引き締めた。
まずはこの場をどうやり過ごすか、だよね。
幸い、ここは玄関でまだあちらに気づかれていない。
リビングに繋がる扉を見ながら、私は情事の音や声を聞き流す。
さすがに二回目ということもあり、大して動揺しなかった。
『こっちはもう完全に冷めているしね』と肩を竦め、ポケットからスマホを取り出す。
とりあえず、ここは証拠だけ残して退散かな。
湊にボコボコにされた時と比べればなんてことないけど、具合も悪いし。
また同じことを繰り返す可能性は、充分あった。
だから、今はとにかく体調優先。
『万全な状態で挑みたい』と考えながら、私はカメラアプリを起動した。
と同時に、動画撮影開始。
もちろん、サイレントに設定してから。
『撮影音で気づかれたら、元も子もない』と警戒しつつ、私はそーっとリビングの扉を開ける。
前回同様、二人の目線は部屋の奥に向いているため、バレなかった。
何も知らなかった相手の女性には申し訳ないけど、別れるためのネタとして使いたいから撮影させてもらいます!
本当にごめんなさい!でも、絶対に悪用はしないから!
『用が済んだら消します!』と心の中で言い、二十秒〜三十秒ほど情事の様子を撮影。
『お互いの名前も呼び合っているから完璧!』と満足すると、私はさっさとアパートを出た。
あまり欲張りすぎるのは、良くないから。何より、もう体調が限界だった。
『とにかく寝たい……』と思いつつ、スマホで友人に連絡を取って泊めてもらう。
湊には、『今日のアレ、見ました』とだけメッセージを送って放置した。
あまり多くを語り過ぎるのは、良くない。
それにこういう意味深なメッセージを送れば、湊はまず冷静に探りを入れてくる筈。
少なくとも、逆上して共通の友人の家へ突撃しまくる危険性はなかった。
『だから、今のうちに体調を回復させなきゃ』と考え、翌日病院へ。
そこでDVの証拠となる診断書もゲットし、着々と準備を進めていった。
あとは場所をセッティングして、別れ話をするだけである。
通話やメッセージで一方的に『別れる』と宣言して、連絡先を全てブロックする手もあるけど……湊の性格上、そう簡単に納得はしないだろう。
共通の友人を介してコンタクトを取ってきたり、職場に突撃してきたりするかもしれない。
だから、もう二度とこちらに関わらないようしっかり釘を刺しておく必要がある。
『あっちは実家の住所も知っているから』と警戒し、私は交番の近くにあるファミレスを話し合いの場所に指定した。
ここなら、いざという時直ぐに助けてもらえると思って。
他人を巻き込むなんて最低かもしれないが、今回ばかりは許してほしい。
冗談抜きで、私の命が架かっているため。
今度は相手の女性も居ないから、家で別れ話なんてしたら危ない。
出来るだけ、人目のあるところがいい。多少なりとも、湊の抑止力になるだろうから。
『まあ、それでもキレる時はキレるだろうけど』と思いつつ、決戦の日を見据えて体を休める。
病院でしっかり処置してもらったおかげか、薬を飲んでちゃんと安静にしていたおかげか、体調はかなり良くなった。
『これなら、前のようには行かない筈』と奮起し、私は動きやすい格好で例のファミレスを訪れる。
すると、既に来店していた湊が手を挙げて『こっちこっち』とアピールした。
それに一つ頷きながら、私は湊の元へ歩み寄る。
大丈夫……やれるだけのことはした。
たとえ、暴力沙汰になったとしても警察や周りが助けてくれる筈……。
恐怖で震える手に力を込め、私は小さく深呼吸した。
『ここが正念場よ』と自分に言い聞かせ、向かい側の席へ腰を下ろす。
そして、ドリンクバーだけ注文して冷たいお茶を取ってくると、湊に向き直った。
緊張している私を前に、彼はなんだか妙にヘラヘラしている。
いつもと違う私に気づいて、焦っているのかもしれない。
「なあ、いきなりどうしたんだよ?こんなところに呼び出してさ。話なら、二人きりの場所でお互いリラックスしながらしようぜ?」
『梓ってば、ガチガチじゃん』と笑い、湊はそっとこちらへ手を伸ばす。
恐らく、普通に手を握ろうとしただけだろうが……私は反射的に避けてしまった。
その瞬間、場の空気が凍りつく。
「え〜?何?どうしたの?俺からのスキンシップを無下にするとか、何様のつもり?」
明らかに不機嫌になった湊は、トントンと指でテーブルを叩く。
己の苛立ちを表すかのように。
「ちょっと、最近の梓って生意気だよね。いつから、そんな悪い子になったの?前までは従順で、いい子だったのに」
「……」
「あれ?無視?本当、調子に乗ってんね。そろそろ、俺も怒るよ?」
「……」
「あーあ、悲しいなー。彼女に空気みたいな扱いを受けてー。超ショック。もう別れちゃおうかなー?」
以前まで……浮気を知るまで恐怖でしかなかった言葉を吐き、湊はニヤニヤと笑う。
こちらの反応を窺うように少し身を乗り出し、『いいの?それでー』と煽ってきた。
きっと、こう言えば私を従えられると思ったのだろう。
でも、残念────私はもう貴方に愛想を尽かしている。
「そうね。別れましょう」
「……はっ?」
「私もちょうど同じ気持ちだったの。今日、ここへ呼び出したのもそのため。どうやって、話を切り出そうか悩んでいたから凄く助かった」
勢いに任せて一気に捲し立て、私はニッコリと笑った。
どこからか、せり上がってくる恐怖と不安に耐えながら。
何としてでも、今ここで別れる。長引かせてはいけない。
間違いなく、泥沼になるから。
『出来るだけ穏便に、でも湊を納得させて別れなきゃ』と思案する中、彼は頬を引き攣らせる。
「ちょっ……冗談だよな?お前が俺から離れるなんて、そんな……俺の気を引きたくて、そう言っているだけだろ?」
「いいえ、私は本気よ」
「何で……」
「目が覚めたから」
そう言って、私はすかさず浮気現場の映像を流した。
まあ、公衆の面前なのでさすがに音声は切ったけど。
『相手の女性に申し訳ないから』と思いつつ、私は口を開く。
「あのメッセージを送った日、実は仕事を早退して十九時頃に家へ帰っていたの。そしたら、湊と知らない女性が行為しているところを見ちゃって……」
「なっ……!」
「その日は具合が悪くて、とりあえず友人の家に泊めてもらったけど、ずっと考えていた。このままでいいのかって」
実際に考えていたのはどうやって別れるか、だけど……まあ、いいでしょう。
『ギリギリ嘘ではない……筈』と心の中で釈明し、私はスマホを仕舞う。
「正直、日頃のDVにも耐え兼ねていたところだったし、これで踏ん切りがついた。私と別れてください」
再度破局を申し出て、私はペコリと頭を下げる。
『何で被害者の私がこんな低姿勢に……』とは思うものの、湊を怒らせずに済むならそれに越したことはなかった。
極力、刺激しないように……でも、言うべきことはハッキリ言う。
『こっちは完全に冷めたんだ』と分かってもらうために。
「は、はっ……?何でそうなるんだよ……お前は俺のこと好きって……」
「悪いけど、もう好きじゃない」
完全に冷めたことを伝えると、湊はあからさまに狼狽えた。
目を白黒させながら縮こまり、『えっ?』と『はっ?』を交互に繰り返す。
どれだけ酷い扱いをしても問題なかった彼女が、急に冷たくなって驚いているのだろう。
『愛は無限じゃないんだよ』と嘆息する中、湊はそろそろと顔を上げる。
「……ぜっ……ねぇ」
「えっ?」
「絶対に別れねぇ……」
私という都合のいい女を失うのは嫌なのか、自分から言い出したことなのに反故にしてきた。
プライドの高い湊なら、意見を変えることはないだろうと思っていたけど、そう来たか。
『まあ、私って便利だもんね。手離したくないよね』と過去の自分を嘲笑いつつ、鞄に手を入れる。
本当は逆上されそうなので、使いたくなかった手だが……しょうがない。
『脅して、遠ざける作戦に変更しよう』と思い立ち、私は二枚の書類を取り出した。
まずは、そのうちの一枚を湊に差し出す。
「これ、何か分かる?」
「はっ?今度は何だよ……って、これ……」
「そう、診断書のコピー。古傷も含めて、DV関連と見られるもの全部書いてもらった」
「なっ……!?」
ガタッと勢いよく席を立ち、湊はこちらを凝視した。
『こんなのいつの間に……』と動揺する彼を前に、私はもう一枚の書類をテーブルへ置く。
「こっちは誓約書。もう二度と私には近づきません、っていうね」
「梓、お前……」
「単刀直入に言うね。この誓約書にサインして。じゃないと、この診断書を持って警察に行く」
『被害届を出す』とハッキリ告げると、湊は表情を強ばらせた。
己の不利を悟りつつ視線をさまよわせ、ワナワナと震える。
「……だ、男女の揉め事に警察は介入しねぇーだろ!ほら、あれだ!民事不介入だ!」
「これほど酷いDVなら、それはないと思うけど」
「っ……!」
「まあ、仮にそうなったら民事訴訟でも起こして法的に対処するよ」
裁判も辞さない姿勢であることを示し、私はペンと朱肉を取り出した。
『今、印鑑はないだろうから拇印でいいよ』と説明する中、湊は
「ふざけんな!」
と、大声を上げた。
その途端、店内は静まり返るものの……本人は気づいていないようで、乱暴に書類を破り捨てる。
「別れるなんて、俺は絶対に認めない!」
「なら、法的に対処するまで」
震える指先を握り込み、私は極力冷静に切り返す。
すると、湊は悔しそうに歯を食いしばった。
「チッ……!なら、離れられないようにしてやるよ!」
「ちょっ……」
突然腕を掴まれ、無理やり立たされた私は『まさか、暴力で!?』と危機感を抱く。
「い、言っておくけど……!どれだけ殴られても、私は絶対に意思を変えないからね!?むしろ、湊に不利となる証拠が増えるだけで……」
「はぁ?いつ、俺が殴るって言った?」
「えっ?」
まさかの返答に驚き目を剥くと、湊はニヤリと笑った。
「喜べ!────俺の子供を産ませてやるよ!」
「!!」
サッと血の気が引く感覚を覚えながら、私は愕然とした。
衝撃のあまり声も出ない私に対し、湊は意気揚々と持論を語る。
「梓ってさ、子供好きだったよな?なら、孕んだ子供を堕ろすなんて出来ないだろ?で、子供には父親が必要だ!つまり、お前は俺と結婚するしかない!一生、俺の奴隷として生きる以外選択肢はねぇーんだよ!」
まるで子供を物のように扱い、下品な笑い声を零す湊に、私は────心底失望した。
一度子供を産めない体になったからか、余計に。
『大切な子供をそんなことに使うな!』という強い衝動に押されるまま、私は手を振り払う。
「湊の子供を産むなんて、絶対に嫌!産まれてきた子供が、可哀想だもの!」
「……はっ?」
「貴方みたいな最低最悪の人間が父親なんて、子供に申し訳が立たない!」
怒りに任せて捲し立てると、湊は突然真顔になった。
かと思えば────思い切り、私を殴り飛ばす。
あっ……不味い。完全にブチ切れている。
前回と同じ展開になったことを悟り、私は『やってしまった……』と猛省した。
が、もう遅い。
ビタン!と床に体を打ち付けながら、私は咄嗟にお腹を守った。
と同時に、
「だ、誰か……警察!警察を呼んでください!」
と、叫ぶ。
その瞬間、静まり返った店内は一気に騒がしくなり、男性店員やお客さんが飛び出してきた。
『落ち着いて!』と声を掛けつつ、彼らは追撃しようとしてくる湊を取り押さえる。
が、湊は尚も蹴りや拳を繰り出してきた。
対象はあくまで私のため、他の人に怪我を負わせることはなかったものの……追加で顔や足を怪我してしまった。
でも、何とかお腹は守り切れた……。
店員の誘導でバックヤードにやってきた私は、ホッと息を吐き出す。
『結局、大騒ぎになってしまったな』と肩を落とす中、警察が駆けつけてきた。
そこで簡単な事情聴取を行い、一先ず私は病院へ搬送。
前回と違ってそんなに大怪我じゃなかったため、診断書と薬をもらって近くのホテルに一泊した。
『一番最悪な結果になっちゃったな……』と嘆息しつつ、私はこれからどうしようか悩む。
もちろん、別れるのは決定事項として……それだけで済ませていいのか、迷った。
刑事・民事で裁判して、前科をつけたりお金をふんだくったりすれば少しは気が晴れるのかな?
前回と違って、子宮は失っていない訳だし……。
「でも、なんだろう?凄くモヤモヤする……」
ギュッと胸元を押さえて、私は一つ息を吐いた。
会社の休憩室で黄昏つつ、おもむろに目を閉じる。
きっと、私が引っ掛かっているのは湊の子供に対する認識や感情だろう。
あと、前回子宮を奪われた恨み……。
つい、先日までは『とにかく、別れられればいい』と考えていた。
でも、今は────『湊に復讐してやりたい』と思っている自分が居る。
少なくとも、このままなあなあで済ませることだけは嫌。
コーヒーの入った紙コップを握り締め、私はキュッと唇に力を入れた。
幸い、こちらの使える手札は多い。
それらを上手く使えば、相手に大打撃を与えられるだろう。
ただ、正攻法ではなく別の形の処罰を望む場合、こちらもリスクを負う可能性がある。
「それを差し引いても、湊の行いは目に余る。だから、ちょっと痛い目に遭ってもらおう」
────と、決意を固めた翌月。
私は両家の両親も呼んで、とある小料理屋に集まった。
無論、個室である。
さすがにこのような話を公衆の面前でする訳には、いかないから。
『湊も両親の前じゃ、大人しいだろうし』と考えつつ、私は背筋を伸ばした。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。お互い世間話をするような間柄でもありませんし、早速本題に入りましょう」
目の前にある湯のみを手に取り、私は口をつける。
『よし、ちゃんと冷たいな』と確認しながら。
さすがにもうないとは思うが、また湊が暴れ出したとき熱いお茶を掛けられたら一大事のため。
まあ、そのときは元レスラーの父と合気道を習っている母に止めてもらうけど。
見かけによらず武闘派な両親を一瞥し、私は湯のみをテーブルの上に置いた。
と同時に、顔を上げる。
「先日、湊さんの起こした事件についてですが────こちらの条件を全て呑んで頂けるのであれば、被害届は出しません」
「「「!?」」」
刑事訴訟を覚悟していたのか、工藤家の面々はパッと表情を明るくした。
中でも母親の喜び様は凄まじく、こちらへ身を乗り出してくる。
「ほ、本当ですか……!?」
「はい。ただし、提示した条件は全て守ってもらいますけどね」
「それはもちろん!」
うんうんと大きく頷き、湊の母はまだ詳しいことも聞いていないのにホッと胸を撫で下ろした。
その横で、湊の父親が表情を引き締める。
「それで、条件というのは……?」
『法外な慰謝料でも請求されるのか』と警戒する湊の父に、私はスッと目を細めた。
「こちらの条件は主に四つ。まず、別れを受け入れること。それから、こちらに二度と接触しないこと。共通の友人を介して、連絡してくるのも禁止です。あと、実費のみで構いませんので治療費を支払うこと。そして、最後に────精管結紮術を受けること」
普通の生活を送っていればまず聞かないであろう単語を発すると、工藤家の面々はポカンと固まる。
互いに顔を見合わせ、パチパチと瞬きを繰り返した。
かと思えば、この場を代表して湊が疑問を口にする。
「えっ?へいかんけっかくじゅつ……?」
「精管結紮術。男性向けの避妊手術のことだよ。所謂、パイプカットだね」
「はっ……!?」
ギョッとしたように目を剥き、湊はこちらを凝視した。
『パイプカットだと!?』と喚く湊の両脇で、彼のご両親も困惑を露わにする。
明らかに普通の和解とは異なる条件に、動揺を隠し切れないのだろう。
対するウチの両親は、非常に落ち着いているが。
『まあ、予め話しておいたからね』と思いつつ、私は真っ直ぐ前を見据えた。
「私は子供という存在を軽んじる貴方のような人間に、子供を持ってほしくない。だから、パイプカットを受けてほしい」
「なっ……!?そ、そんなの横暴だろ!」
「うん。だから、あくまで決めるのは湊自身。嫌なら、和解はなしだけどね」
「お、脅すつもりですか!?」
テーブルに手をつく形で身を乗り出し、湊の母は僅かに表情を険しくする。
警戒心と敵対心を露わにする彼女の前で、私はそっと目を伏せた。
「いいえ、脅している訳ではありません。こちらは条件と選択肢を並べている、に過ぎませんから」
「で、でもこんなの……!」
「────娘は!」
堪らずといった様子で口を挟んできたのは、ウチの母だった。
怒りのせいか悲しみのせいか目を真っ赤にしながら、湊の母を睨みつける。
「娘は心にも体にも傷を負わされました!なので、そちらの息子さんにもそれ相応の報いを受けて頂きたいのです!」
怒号とも悲鳴とも捉えられる声色で叫び、ウチの母は手を強く握り締めた。
『当然の要求です!』と力説する彼女を前に、ウチの父も言葉を紡ぐ。
「梓の負った傷は一生消えません。ならば、そちらも社会的にであれ、身体的にであれ一生消えない傷を負うべきでは?」
前科前歴をつけるか、体にメスを入れるか……二つに一つだと告げるウチの父に、工藤家の面々は押し黙る。
どうにかして譲歩してもらえないか考えているようで、三人とも難しい顔をしていた。
世間体や将来のことを考えると、どちらも呑めないのだろう。
なので、私は────
「パイプカットの避妊率はほぼ100パーセントですが、それでも完全ではありません。それに近年の医学技術では、一応元に戻すことも出来るようです。もちろん、絶対に治せる保証はどこにもありませんが」
────と、補足事項を付け加えた。
出来ればこの事実は隠し通して、一生子供を成せない体で居てほしかったが……調べれば直ぐに分かることでもあるため、敢えて伝えることにする。
「こちらはとにかく、一度パイプカットを受けていただければそれで構いません。その後、元に戻すことまで制限するつもりはないということです」
『なら、手術する意味ないじゃん』と思うかもしれないが、こればっかりはどうしようもない。
一生湊を監視する訳にもいかないので、こちらとしては子供を成せる可能性を下げられただけでも満足だ。
『所詮、復讐は自己満足でしかないもの』と思案する中、湊の父が不意に顔を上げる。
「……分かりました。そちらの条件を全て呑みます」
「貴方……!」
「父さん……!」
元に戻せる方法があるとはいえ、体にメスを入れることに変わりはない。
合併症や感染症のリスクも全くないとは言い切れないため、湊と彼の母は拒絶反応を示した。
「俺、手術なんて絶対に嫌なんだけど!」
「そうよ!元に戻せると言っても、確実に治る保証はないのでしょう!?」
「じゃあ、被害届を出されて前科をつけるか?」
「「……」」
前科が付けば社会的に終わるのは目に見えているため、湊達は歯を食いしばった。
もう交渉出来る段階は過ぎているのだとようやく悟り、悲痛の面持ちで俯く。
『分かった(わ)よ……』と述べる二人の傍で、湊の父は大きく息を吐いた。
かと思えば、こちらを見る。
「和解の内容をより詳しく説明して頂けませんか?その……パイプカットの手術はお立ち会いに?」
「いいえ、パイプカットを受けたという診断書さえ頂ければ結構です。あと、こちらは和解書にも記載しておりますが、『パイプカットを強要された』という旨の訴えを起こすことは禁じます。あくまで、そちらの判断で行ったことですから」
『こちらは提案したまで』と告げると、湊の父は大きく首を縦に振る。
「はい、重々承知しております。ところで、その和解書に被害届を出さないという記述などは……」
「もちろん、ありますよ。どうぞ、ご確認ください」
事前に用意しておいた書類を取り出し、私は湊の父に手渡した。
「こちらの内容で合意いただけるなら、サインを。私の方はパイプカットの手術を見届けてから、します」
手術の時期をズルズル先延ばしにされたら面倒なので、私はサインを後回しにする。
『そちらもそうしたいなら、どうぞ』と告げると、湊の父は一瞬躊躇った末サインする。
他の二人も。
恐らく、こちらに誠意を見せるためだろう。
「ありがとうございます。サイン入りの和解書、確かに受け取りました。では、パイプカットを終えたらこちらにご連絡ください。治療費についても、そのときお話します」
フリーのメールアドレスが書かれた紙を差し出し、私は席を立った。
そして、この場は一旦お開きとなり────三ヶ月後、パイプカットを受けたとの連絡を受ける。
きちんと検査も行い、成功したことが立証されたため、以前の小料理屋に同じメンバーを集結させた。
どことなく不機嫌な湊と疲れ顔のご両親を見据え、私は診断書のコピーを受け取る。
きちんと本物であることを確認してから鞄に仕舞い、和解書を二部取り出した。
「では、もう一度内容を確認していただいて……問題なければ、この場でサインしますね」
『和解書をすり替えられた』などと言い掛かりを付けられては面倒なので、湊の父を中心に見てもらう。
「……こちらの内容で問題ありません。サインをお願いします」
和解書をこちらに戻し、湊の父は深々と頭を下げた。
それを、湊は面白くなさそうに見つめていたが……母親に促されて、仕方なく父親に倣う。
あくまで和解してもらった立場なんだと示す彼らの前で、私はテキパキとサインした。
「こちら、和解書の一部と治療費の請求書になります」
『金額の内訳はこちらに』と説明しつつ、書類を差し出す。
すると、湊の父は直ぐに内容を確認して鞄から現金を取り出した。
『梓さんはもうこちらに関わりたくないでしょうから』と言い、なんとその場で一括支払い。
じゅ、準備がいい……今日のためにわざわざ、ATMでお金を下ろしてくれたのかな?
最低でも、あと一回は会わないといけないと覚悟していたため、思わぬ展開にちょっとホッとする。
『これでもう湊の顔を見ずに済む』と浮かれながら、一筆書いた。
『もう治療費は支払ってもらった』という証明のために。
「それでは、これで和解の手続きは終了となります。取り決め通り、こちらにはもう関わらないようお願いします」
「はい。この度は愚息が馬鹿なことを仕出かして、誠に申し訳ございませんでした」
改めて謝罪の言葉を口にし、湊の父は土下座した。
『嫁入り前のお嬢さんに暴力なんて……』と悔いる彼の横で、湊は
「ちょっ……父さん!やめろよ、土下座なんて!こっちはもう金も払って、手術だって受けたんだ!充分すぎるほど償っただろ!」
と、慌てて止める。
が、湊の母に思い切り頬を叩かれて意気消沈した。
『なんだよ、皆して……』と拗ねる彼は、不貞腐れた子供のような態度を取る。
とても反省しているとは思えない振る舞いに、湊の両親はもちろん……こちらも怒りを覚えた。
別に謝ってほしかったわけじゃないけど、ここまで反省0だと少しムカつくな。
今すぐはっ倒したい衝動に駆られながらも何とか平静を保ち、私は両親を連れて立ち上がる。
「いえ、謝罪は結構ですよ。和解条件にそれは含まれていませんし、息子さんの言う通り対価はきちんと支払ってもらいましたから。何より、心から反省していない人に謝られても反応に困ります」
そう言って身を翻し、『私達はこれで』と立ち去ろうとする。
が、私は障子の前でわざと足を止め、視線だけ後ろに向けた。
「あっ、そうそう。これは単なる独り言ですが────被害届って一度取り下げたら、同じ内容で出すことは出来ないんですよ。でも、今回は出さなかったから……警察に申し立てれば、いつでも受理してもらえるんです」
────公的時効を過ぎてなければ。
とは言わずに視線を前へ戻し、今度こそ部屋を出て行った。
その途端、背後から『ごめん、梓!』と叫ぶ声が聞こえる。
しっかり釘を刺したおかげか、少しは反省したようだ。
まあ、あくまで自己保身のためだが。
でも、これで下手な真似は出来ないだろう。
「せいぜい、被害届の脅威に怯えるといいわ」
────と捨て台詞を残し、私は両親と共に帰宅した。
そして、完全勝利を祝うように豪華な夕飯を食べ、自室へ戻る。
『ふぅ……満腹満腹』とお腹を擦りながらベッドに寝転び、私はスマホを手に取った。
「────今日もあのメールは来ていない、か」
もはや日課となってしまったメールボックスのチェックを行い、私は嘆息する。
だって、前回あのメールを受け取った日時からもう数ヶ月経過しているから。
おかげで『もう届かないんじゃないか』という疑惑が、確信に変わりつつある。
「せめて、お礼を言わせてほしいんだけど……あっちからコンタクトがない以上、どうしようもないな」
『メールアドレスなんて、いちいち覚えてないし』と肩を竦め、私は新規メール作成の画面へ移った。
「えっと……本当にありがとうございます。おかげで、将来生まれるかもしれない子供を守れました。もし、何か困ったことがあれば力になりますのでお気軽にお声掛けください……っと」
宛先のないメールに文章を打ち込み、一先ず下書き保存する。
いつか、メールの送り主が分かったらちゃんと感謝を伝えようと思って。
こうやってデジタル保存しておけば、私の死後も気持ちを伝えられる。
それこそ、将来生まれるかもしれない子供にこのメッセージを託す形で。
『となると、これはある意味家宝なのか?』と思いつつ、私は小さく笑った。