【9年目の冬】
マンションのエントランスを抜けて外気を遮断していた扉が開くと一気に向かってくる冷風。ニュースでも今日は一段と冷え込むと報じられていたのでそれなりの覚悟はしていたけれどこんなに寒かったんだ。
マフラーに鼻から下まで埋め込んで「さむっ」と呟くと数歩前を歩いていた蒼空君が振り返る。
「……大丈夫? 」
「予想外に寒くて驚いただけだよ」
「でも冬は気管が凍ったような感覚になるって読んだから」
「私は季節性の症状が出にくいタイプだから、大丈夫」
「でも夏はそれで倒れたじゃん」
過保護な蒼空君は少年のように拗ねた物言いと態度でその場に立ち止まり、私が隣に並んでも歩き出すことなくまだ不機嫌そうにしているので、私は彼の手を取る。
「蒼空君の手、冷たいね」
「花は温かい」
「でしょ。血の気が引いたら手も冷たくなるから、大丈夫な証拠」
安心して笑う蒼空君に冗談めかして「不安なら握っててよ」と言うと納得したように指を絡められ動揺する。そんな私の心境を知ってか知らずか、蒼空君はそのまま私の手を引くように再び歩き出した。
「花って別に蒼空と付き合ってるわけじゃないんだよね? 」
昼休みの時間に隣の席にやってきた律子ちゃんと各々のお昼ご飯を机に広げているときに律子ちゃんから唐突に放たれた言葉。なんだか定期的に来るな、この質問。
「付き合ってないよ? どうして? 」
「他のクラスの子から聞かれたから。手、繋いだりしてない? 」
「ああ、割とするかも。軽率に」
自動販売機を越える直前から自然と離れはしたけれど、誰かに見られていたのか。
「私が移植を受けてすぐの時に蒼空君が離れて行って呼吸困難になってしまった時があってそれが一時期トラウマになってたから、蒼空君が触れてくれていたら近くにいるって実感できるから安心するって言ったことがあったのね。そこからずっとだよ。お互いが安心したい時に触れるっていう普通じゃない習性があるの、私たち」
そう答えながらその解答が特別おかしなものではないということを演出するようにお弁当の玉子焼きを口に放る。我が家の玉子焼きは私好みで大分甘く作られているもの。律子ちゃんもそんな私の横でいつも飲んでいる紙パックのミルクティーにストローを刺して、飲む。
「……普通って何なんだろうね」
ストローの先を齧って平たくしながら少しシリアスに発したのが面白くて「律子ちゃんらしくなーい」と茶化すと、律子ちゃんはハッとひとつ息を吐くように笑った。
「私らしくなーい」
「普通って何なんだー」
二人して得体の知れない普通とやらに悪態を吐きながらお弁当箱の中身を一つずつ口に運んでいく。
「次の教科って日本史じゃん? 」
「そうだね」
「伊藤先生、じゃん? 」
そこまで言うと律子ちゃんは椅子ごと私の元に近付いてくると身体だけを私の元へ寄せて耳に顔を近付ける。
「好きなんだよねー、伊藤先生のこと」
衝撃で声も出せずに発言者の顔を見ると悪戯っぽく笑いながら恥じらいも滲ませる今まで見たことのない律子ちゃんと目が合った。幼馴染が急に女性に映ってドキっとする。
「ラブ? ライク? 」
「ラブかな、多分」
起こしていた身体を椅子に戻して「普通じゃないよねー」と椅子ごとガタガタ定位置に戻っていった律子ちゃんのお弁当箱に玉子焼きを一つ入れた。それを口に入れた律子ちゃんに「あっま」と呟かれてやはり我が家の玉子焼きは特別なんだと実感する。
「野暮なこと聞くんだけど、どこが好きなの? 」
「誰の事? 」
「え、名前出していいの? 」
「ダメ」
「じゃあ、仮に太郎君としよう」
瞬発力を試される此処一番のネーミングセンスの無さに脱帽する。
思えば私、いつもここぞという時にセンスの無さを発揮しているかもしれない。
「太郎君はねー、大人なんだよね」
「物理的にもそうだと思うよ。アラサーだもん」
「内面の話よ、内面。全力というよりは省エネで、効率良く大人。あとああ見えて探求心が凄くて、まあ、だから日本史の教師なんだろうけど人にもめっちゃ興味持つんだよね。でもそんな素振全く見せないの。話してみたらなんでそんなこと知ってるんだ?ってことめちゃめちゃ知ってるのに必要な時と聞かれた時にしかそれを出さない。あと取っ付き難い雰囲気あるでしょ? そんなことないんだよね。むしろ話したら凄い惹かれるのにその雰囲気のせいで誰も積極的に雑談しようと思わないからみんなが魅力に気付いていないだけって部分もあるよ」
せっかく名前を隠したのに日本史の教師って言っちゃってるよ、と思いつつも食べる手を止め一気に語る律子ちゃんが可愛くて突っ込むことなく聞くことに徹した。
これまで幼馴染として仲良くしてくれたり私の事情を知って助けにもなってくれていたけれど、こんな風に色恋の話題を深く掘り下げてしたことはなかったので気恥ずかしさも若干ある。これから先も律子ちゃんとの仲が続いたとしたら、お互いの結婚や出産の話を聞くこともあるのだろうか。
「だからね、花」
「なに? 」
「一般的に見たらあんな堅物アラサー男、華の女子高生が好きになるわけないのよ。でも私は好きなわけじゃん?それが普通か否かって関係ないよね。私の中の結論がそう出てしまった以上、それが答えとしてそこにあるんだから。普通じゃないから取り消しますってわけにいかないんだもん」
そう言って再びお弁当に向き合った律子ちゃんが「花と蒼空の普通じゃない関係ってすごく美しいものだと思うよ、私はね」と言って箸を握った。
確かに一緒にいるから恋人でなければいけないとか、共存関係だから一緒にいるだけだから10年目を迎えたらきっぱりと離れなければいけないなんて決まりがあるわけでもない。
普通じゃない関係。
私と蒼空君の関係性に名前が必要なのであれば、そんなもので良い。
お弁当箱に入っていた玉子焼きの最後の一切れを、本日の昼食の締めとして口に入れる。噛み締めると滲む心地良い甘み。
我が家の玉子焼きは、甘い。
物心ついたときからそうだったし、私はこれが大好きで、甘いことに理由なんかなかった。