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【8年目の夏】

カレンダーの今月の15日に赤いペンで丸印をつける。

次の定期受診日はあの日からちょうど9年目になるその日に決まった。


まだ7月に入ったばかりだというのに蒸し暑くて例年以上の息苦しさをすでに感じている。


不安を感じないと言えば嘘にはなるが毎年経験するこれにはもう慣れたもの。

夏真っ只中に体感するであろう空気の薄さを一度深呼吸することで再確認した。






寝苦しさから少し早めに目が覚めて、いつもは体内へ詰め込むような勢いで食べるトーストにも余裕を持って向き合える。咀嚼の回数が多かったからだろうか、1枚を食べきることが出来ず残った3分の1を静かにゴミ箱へ落とした。


……珍しく時間が余ったな。今日はこちらから迎えに行こう。


全身鏡に映る完璧な身なりの私に満足しながら、あれだけ何度もヘアアイロンを往復させた髪の毛に更に手櫛を入れつつ玄関に向かい、蒸し暑さに繋がるドアを押し開けると、


そこには既に、蒼空君。


彼は何も変わらない、あまりにもデジャブな様子で壁にもたれ掛かりながら澄ました様子で携帯をいじっている。


「うわ、蒼空君もういるの? 」


「いや、わかってたでしょう」


「え? 」


「俺がドアの前にもういるんだって。距離が近づいたら空気が澄んでくるのがわかるっていつも言ってるから」


そう言いながら蒼空君は私のことを頭の先からつま先までまるでスキャンをしているかのように観察すると少し不服そうな影を一瞬見せ、そのまま背を向けて先に歩を進めた。


……確かに今日は空気の大きな変化を感じなかった。

これは徐々に10年目が近づいている明確な証なのかもしれない。


こうやって日に日にジワジワと真の健康体になっていく自分を実感していくのだろうか。嬉しさや寂しさよりも変わっていくということに対して、今までとは違う新しい感覚に軽い眩暈。


マンションのエントランスを抜けると熱気がわかりやすく私たちに向かい、囲い込んだ。こんなに不快感が纏わりついているのに目に見える景色の中の緑は色濃く鮮やかで快晴に映える。そこに私の数歩先を行く夏服が全く似合わない蒼空君の姿。目の前に広がるアンバランスさ。空はこんなに澄み切っているのに明日はどうやら雨らしいし、夏って意外に不安定な季節なのかもしれない。


「あ、 」


大きな通りに出る直前で蒼空君が何かを思い出したように立ち止まり、振り返る。

私に向けられた視線を受け取ってそのまま隣に並んだ。


「好きな作家の新作が今日発売でさ、今日の帰りに本屋に寄ってもいい? 」


真顔でなんてことのないような、それでいてしっかりと自我が組み込まれた提案に「もちろん」と返すと蒼空君は一つ頷いてまた行く先に視線を戻す。そしてまた私より一歩先を歩き出した。


蒼空君の華奢な背中、夏服の白いシャツが汗で背中に張り付いていた。






2年の階の廊下を進み教室の入り口を目指すと一番近くに座席が割り当てられているデロデロに溶けた状態の律子ちゃんと目が合って、力半分で手を振ってくれた。


「おはよう律子ちゃん。今日なんか暑いよね」


「この勢いのまま8月になられたら家から出られそうにないよ。それにしても花、本当に色白だよね。夏服だからより眩しく見えるわ」


表紙に化学と書かれたノートでパタパタと自身を仰ぎながら椅子の背もたれを存分に使いながら律子ちゃんは更に溶けていった。


律子ちゃんには悪いけれど私の席が窓の横で良かったと席に着いてから思う。

些細な恵みの風が汗によって水分を纏った肌を撫でて、暑さからの解放を試みてくれる。


窓に顔を向けて微かなオアシスに浸っていると机がカタンと音を立てた。

そちらに視線を向けると机の上には一枚のCD。横には見慣れたクラスメート。


「え、買ってきてくれたの!? 」


「同じCDを2枚買っただけだから買ってきてくれたって言われるほど大層なことしてないよ」


「現物が手元にある~。本当にありがとう。めっちゃ感動してる」


春に陽君と連絡先を交換した時、偶然見えた彼の携帯の待ち受けが私の好きなバンドの写真だったことがきっかけで私たちの仲はより一層深まった。


楽曲は主に音楽の配信サイトから購入しているからCDへの憧れが強いんだという話を先日したばかり。机の上に置かれたCDにゆっくりと触れて、開けることの許可を取ると「もう花のものなんだから好きにしていいんだよ」と陽君は和やか微笑みながら私の後ろの自分の席についた。


ぴっちりと張り付いたビニールの梱包に手こずる。側面から剥がれそうなのでガリガリと何度も爪で引っ掻くけれどなかなかきっかけが掴めないでいると後ろから伸びてきた手が私の手から自然にCDを取り上げ慣れたようにビニールを剥がし、また手の内に。硬さを感じる正方形だったけれどそれは意外にも軽い力で開き、単なるジャケット写真に見えていたものは数ページ重なった、所謂、歌詞カードになっていた。


「いつも画面で見ていた歌詞が手の中にあると思うと、なんだか感慨深くなっちゃうな」


「3曲目とか特に良いから是非歌詞を追いながら聞いて!」


「うん、本当にありがとう」


パラパラとページを捲って歌詞とミュージシャンの写真に目を落としていると丁度真ん中のページに一枚のフライヤーが挟まっている。そこに羅列されていたのは毎年夏に行われている周年記念のライブツアーの日程とそれぞれの場所だった。


「陽君は、行くの? 」


「行くよ。今回は地元にも来てくれるからね。前のツアーはここには来てくれなかったから諦めたけど」


「そっか。セットリスト絶対教えてね!私その順番通りに再生されるプレイリスト作って疑似参加体験したいから! 」


「……来年、花が解放されたら一緒に行こう。ライブって、酸素は薄いけど彼らが目の前で生み出した音に包まれる最高の場所だから体感して損はないよ」


柔らかな空気が舞い込んできたと同時に陽君からふんわりと差し出された小指に私も小指を絡める。私と陽君の間に真っ赤な指輪が挟まった。






1限目は化学で移動教室だった。


朝の短いホームルームを終えた私たちは慣れたように化学の教科書とノート、ペンケースを手にぞろぞろと1階の端にある化学室を目指す。


律子ちゃんのなんてことのない雑談よりも階段を下りるパタパタという音の方が大きく耳の奥に響く気がして初めて、実は今朝から何かがおかしいということに気が付いた。


なんとなく寝苦しくてあまり深く眠ることができず、食欲もなかったような気がするし、夏だからといえばそれで片づけられるかもしれないけれど少し、息苦しい。


保健室で休んで様子見た方が良いかな。一旦先生にその旨を伝えて……。

そう考えながらちょうど化学室に足を踏み入れた瞬間、視界がモザイクに変わり、


そして意識が、白く飛んで行った。


自分が倒れたのだということに気付けていても覚醒しない脳と身体。耳に入ってくるものも言語としては理解できずただ騒音であるだけ。身体の角度を変えられたり、動かされていることは感じ取ることができる。でも、本当に、ただそれだけだった。






脳と身体が完全に落ち付いてしっかりと意識を保てるようになった時には、私は保健室のベッドに寝かされていた。騒動の間に自然と眠りに落ちていたようで、目が覚めたという感覚もある。


「……花? 」


聞き慣れ過ぎた声。そのする方向に顔を向けると眉毛を困らせながら、でもどこか不機嫌な様子の蒼空君がベッドの横のパイプ椅子に腰掛けていた。


聞き慣れた、見慣れた姿に一気に込み上げる安心感と少し緩んだ涙腺。


そんな蒼空君の声に反応して締め切られていたカーテンが素早い音を立てて開かれる。いつもポニーテールを高い位置でしっかりと纏めた養護教諭の田中先生だ。


「早急に病院に行かなくても大丈夫だって言ってたけど、本当に大丈夫そう? 」


そう言われて初めて自分の身体に向き合う。確かに朝に強く感じていた息苦しさもないし寧ろすぐ近くに蒼空君がいることで空気が若干澄んでいるようにも感じられる。今朝対面したときはその空気の違いを感じなくなっていて、それが10年目に向けた慣れだと思っていたのに。


「……大丈夫そうです」


「夏場はそうなりやすいんでしょう?前兆として提供者との距離で変わる空気の鮮度に変化を感じられなかったりするものだから比較的わかりやすいって聞くけど」


「私、夏は少し息苦しいな~とはなんとなく思っていたけど、倒れたのは今日が初めてで……」


「そっか。じゃあ、あなたもびっくりしたね。薬も持ち歩いてなかったみたいだし」


……そういう状態になりやすい人もいるという話は知っていた。


夏になると何故か息が吸いにくくて、でもその十分に吸うことができていない状態に気が付かずに過ごしてしまって結果倒れてしまうという症状が出ることもあるという話。


私はこれまでそんな状態に陥ったことがなかったから病院から渡されていた吸入薬を持ち歩いたりもしていなかった。


「すみません。保健室に置き薬があって良かったです」


「いえ、確かに保健室には吸入薬を置いてはいるけど、いち早く吸わせてくれたのは村上陽君よ」


「え」


「なんかね、偶然ペンケースに入れたままだったんだって。運が良かったわね。その後の対応とかも全部教えてくれたの、彼。先生も少しテンパってしまったから本当に頼りになった」


そこまで言うと田中先生は「落ち着いたら今日は帰ってもいいからね」と言ってまたカーテンを隙間なく締めて、きっと机に向かったのだろうキーッと椅子を引いた音とそのすぐ後に腰を掛けたであろう柔らかい音、それだけが静かな保健室に響いた。


「……花? 帰れそうなら迎え呼ぶけど、調子どう? 」


「大丈夫。歩いて帰れそう。ごめんね」


「そう。じゃあ、帰ろう」


少し大人になった蒼空君は仏頂面に本心を隠す。ぶっきら棒な言葉尻がどんなに素っ気なくても、下がり切った眉毛とかふわっと頭に置かれた手で本当に心配してくれていたのだろうということを感じ取ることができた。






保健室を出ると校内の時間が止まっているように静かだった。どのクラスもきっと授業中。体調に関しては数歩歩いてみても立ちくらみがあるわけでもなく極めて快調で、本当に自分は倒れてしまったのかと疑いたくなる程。


靴を履き替えて少し潰れたかかとを直してから目の前まで来ていた蒼空君に向き合うと、普段はそれを合図にして先に歩き出す彼が今日は私の動きを待っていた。


踏み出す一歩、歩幅も揃い、隣り合わせで進む影。


「本当にごめんね。予定にない早退までさせちゃって」


「しんどい思いをした人が謝る必要ないから」


「でも今、蒼空君が隣にいてくれて凄く安心してる」


「……何も出来ないけどね」


蒼空君から深い溜め息が漏れる。


「倒れたから来てくれって聞かされて保健室に着いた時にはもうすでに花は落ち着いて眠っててさ。あいつがどんな処置をしてこれからどうしたらいいかを田中先生に話している時だった。前兆があるから本人も気付きやすかったはずなんだけど~って話もしてて、今朝の花の様子を思い出したら前兆あったみたいだったのに俺は何も感じてなくて……」


「それは、蒼空君が気にしなければいけないことなんて何一つないよ。私と一緒にいることは蒼空君にとっては仕方のないことなんだもん」


「突き放すなよ、そうやって」


また蒼空君の瞳が罪悪感で曇る。この曇りはまだ蒼空君が共存を理解していなかった頃に悪意なく私から離れてしまった時のものに似ていた。


生きる事。呼吸をすること。私はその為にあと1年だけ蒼空君と一緒に居る。

せめてその残りくらいはこんな表情をさせないように責任を持たなければ。


「あ、本屋寄ろ! 今日寄りたいって言ってなかったっけ? 」


「何言ってんの。調子悪かったんだから真っ直ぐ帰るよ」


「なんか熟睡してたみたいでめちゃくちゃ元気なんだよね。本屋寄って、クレープ食べて帰ろう。折角の早退だし、非行しようよ」


どんなに乗り気でなくても、手を握って引くとこちらについて来てくれる。


そんな蒼空君の優しさを肉眼で確認しようと顔を覗き込むといつものように素早く視線を逸らされたけれど手を無理矢理引き離されるようなことはなかった。


アスファルトには一つになった影がいつもより色濃く映し出されていた。





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