【8年目の春 Ⅱ】
「あ、これ」
テレビを見ながら朝食のトーストにピーナッツクリームを塗っていると、テレビから流れてきたCMの言葉に意識を持っていかれて手が止まった。
近くで私の分のお弁当を詰めていた母が「なに? 」と声を掛けてくる。こちらは器用に手を動かしたまま。
「この映画、原作の小説を蒼空君が買ってた気がする」
中学に上がった辺りから蒼空君は下校時に定期的に本屋に寄るようになった。
私のせいで蒼空君の買い物には私がついていくことになるし、私のせいでできることも制限されてしまう。そんな生活を強いられた中で読書は最適で唯一の趣味になっていったんだと思う。
時刻は7時50分。朝食を終えて制服に着替え、身だしなみを整えようとすると時計はすでにいつもの時間を指していて。慌てて玄関に向かい家のドアを開けると蒼空君が目の前で携帯をいじりながら私を待っていた。
対面したことで空気がよりクリアな状態で肺に運ばれていく。
「ごめん蒼空君おはよう」
「おはよう、もう行ける?」
「大丈夫」
蒼空君は私に向けて手を伸ばすと斜めに傾いた私の首元のリボンをサッと直してから「じゃあ行くよ」とぶっきらぼうに放つ。
「カーディガンのボタンも掛け違えてるけど、それも直してあげた方がいい? 」
「……これは、大丈夫!」
そう、と呟いて歩みを進めた蒼空君の後ろを掛け違えたボタンを直しながらついていく。このままどこかに隠れて振り返った時に私の姿が見えなかったらこの綺麗なポーカーフェイスを簡単に崩すことが出来るんだろうな。いつもそう考えてひっそりと優越感に浸っている私は心底性格が悪い。
マンションから出ると私の身体に一番丁度良い温度の風を感じる。これは生命力の移植を受けた経験のある人の大半が言っていることらしいのだが夏の暑い日は少し呼吸が苦しくて定期的に深呼吸をすることがあるし、寒い日は気管が冷えるような感覚になるので移植経験者は季節的なイベントや雰囲気は関係なく好きな季節に春か秋を挙げる人が多いらしい。
「そういえばさ」
隣に並ぶにはまだ足りなかった距離を早足で埋めて、話し掛ける。
「蒼空君の読んでた小説、映画になってたね」
「どれのこと? 」
「めっちゃ長いタイトルのやつ。一つの文章みたいな」
「あー、わかった。今放映されてるやつだ」
この特徴的な名前の本は一緒に探したもの。
蒼空君が珍しくどこにあるかわからないと店内を二周三周し始めて、じゃあ店員さんに聞いてみたら?と案を出すも人見知りを発動してそれは嫌だと言い出したので私も協力したんだった。その出来事も今朝まで忘れていたのだけどあの数秒のCMで一気に蘇ってきた。
「読んだことある小説が映画になるのってなんか誇らしくならない?これ読んでた! 最先端行ってるぞ! って」
「そんなの何作品もあるからな~」
「え、すごいね。なんでその都度教えてくれないの!? 」
「花は興味ないでしょ、小説とか映画とか」
何故そんなことを聞くんだと言いたげな、当然のことだろと言うようなきょとんとした表情があまりに冷たく見えて怯んでしまう。
言ってくれたらよかったのにと小さく続けてはみたけれどそろそろ同じ高校の制服を纏った人たちが現れ始める通りにまで出てしまったこともあって蒼空君は何を話し掛けても相槌と適当な返答以外の言葉をあまり話してくれなくなり、ただ私と歩調を合わせて進むだけだった。
蒼空君が映画館へ行くには私の身体を連れて行かなければならない。
例えば蒼空君の中に映画を観に行きたいという思いがあったとしても私の身体を動かすことになるという枷が先行してもはや映画に行きたいという思いすら沸かないくらい重くて分厚い蓋になっているのだと思う。
私に利のないものは切り捨てて当然だというようなリアクションをよくする。
私を生かしている側だから客観的に見ると私よりも優位な存在なはずなのに。
大きな通りに出て段々と騒がしくなってきた通学路を、私たちは会話もなく一人分程の距離を取ってお互い携帯をいじりながら行き慣れた目的地へ向かった。
……放課を知らせるチャイムが鳴った辺りから教室を出る準備が出来ていた。
今朝教室に入ってから、授業を受け、昼食を取り、そして今に至るまでで思いついたことがある。
担任から明日の伝達事項を受ける短いホームルームの最中も今日は一段と長く感じるくらいにはソワソワしていたと思う。
解散が告げられると同時に急いで教室の出口へと走り、出口から一番近くの席でまだ座りながら身支度を整えている律子ちゃんにも「律子ちゃんバイバイ」と流れるように告げる。「え、迎え待たなくて平気なの!? 」という焦った声を背中で聞いた。
ゆっくり待っている時間がない。
「蒼空君いますか!? 」
隣のクラスの入り口付近にいる子に尋ねるとその声が以外に大きく教室に響いてしまい、静まり返る。冷静に見回すと蒼空君は自身の席で丁度机に椅子をしまっている状態で驚いて固まっていた。
「蒼空君ごめん! 急いで! 」
状況を飲み込めていないままゆっくりと私の元へ向かってきたので手を引いて急かし、そのまま私が引っ張る形の駆け足で下駄箱へ向かい、学校を後にする。
「なに、どうしたの? あんまり息切らすとしんどいのは花だよ? 」
未だに私が蒼空君の手を引く形のままなのは、普段帰宅する時に使う道ではないから。
「ちょっと急いだら間に合うの! 上映時間! 」
「まさか今朝の映画を見に行こうとしてる? 花が好きなジャンルじゃないと思うよ? 」
きっと私が理解出来ないような難しいストーリーなんだろうなということはわかってる。でも重要なのは蒼空君が触れて心の動くものを体感してもらうこと。
質問には一切答えず更に速度を上げると軽くため息をついた蒼空君が今度は私を引っ張るように前に出た。
努力の甲斐あって上映時間の15分も前に映画館へ辿り着くことができ、なかなか息切れの治まらない私に蒼空君が飲み物を買ってくれる時間の余裕もあった。
席について飲み物を飲みながらゆっくり息を整える。生命力の移植を受けると息が上がりやすくなるという点から体育の長距離走やマラソンは免除されているのでこんなに長い時間走り続けたのはいつぶりだろう。
上映前までには整えなければと時計を確認しながら上がる息と格闘していると不意に背中に温かさを感じた。
「無理に息整えようと思わなくていいから。意識すると余計整わないよ」
隣の席に目線を向けるとまだ何も映っていないスクリーンに視線を向けたままの蒼空君がゆっくり背中をさすってくれている。
提供者が触れることに特に何かの作用があるとは聞いたことがないけれど安心感からなのか一気に呼吸がしやすくなった。
劇場が暗くなり、スクリーンが明るくなる。その瞬間に背中に感じていた温もりは離れてしまったけれど、隣にある温度が私を落ち着かせていく。
この密接に今更胸が高鳴ったりはしない。私自身もいつまでもこの安定剤に頼り続けるわけにはいかないんだ。
「面白かった? 」
「……難しかった」
だから言ったのにと呆れ気味に、でも満足げに返される帰路。
この純粋な少年の顔をした蒼空君に久し振りに出会えた気がする。
「まあ、小説のほうがわかりやすかったなと思う部分も多々あったから花が特別頭悪いとかじゃないと思うよ」
いつにも増して饒舌で、ずっと内に眠っていたものが言葉として溶け出しているのではと思う程。
夕日が沈む直前まで外にいたのもいつ振りだったっけ。
なんとなくノスタルジックになって蒼空君の右手を掴む。
蒼空君はそれを振り解くことなく、いつものようにそのままにさせてくれた。
「蒼空君、今日は楽しかった? 」
「普段よりは楽しい日だったかな」
「……もっと早く言えばよかった」
「何を? 」
「映画を見に行きたいとか、そういうこと、もっと軽く言ってよ」
蒼空君はなにもピンをきていない表情で眉間にしわを寄せて首を傾ける。
きっと自身も何が好きで何をしたいかわかっていないんだと思う。
映画を見に行きたかったことさえも気づいてなかったのかもしれない。
どれもこれも私を生かすというあまりに分厚い余分なフィルターがかかっているせい。
「蒼空君の考えてることとか思ったこと、もっと言って欲しい」
フィルターが外れた時にいきなりブライトに見える世界に惑わされないように。
その時までに、蒼空君の世界への道標を作ってあげられたらいい。
「……花が俺の為に走ってくれて嬉しかった」
サラッと言ってのけたその横顔は相変わらずなんてことのないようなツンとした綺麗なポーカーフェイスで。これを崩して様々な感情がより明確に反映されたら彼はもっと魅力的になるんだろうなと軽く見惚れさせてもらう。
角を曲がると目の前にやってきた夕日があまりにオレンジで目を細める。
繋がれた手のどちらかの真っ赤な指輪が光を受けて一瞬反射した。