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【1年目の夏】

普段より遅い時間に掛けた目覚ましのアラームで目が覚めて、起きた瞬間に何か変わっているかと心臓が高鳴ったけれど感覚はさして何も変わりはなかった。


病院には午後一番に伺うことになっている。今までの定期検診は私と蒼空君だけでよかったけれどさすがに最後はお互いの保護者も同伴で。


リビングに向かうとソファーに腰掛けたお母さんが「しっかり寝てゆっくり起きてきたのね。緊張で一睡もできなかったとか言うもんじゃないの? 」と呆れたように笑いながら、そして少し解放されたような表情で私を見た。


そうして立ち上がりキッチンに向かうと私のために朝食とも昼食ともつかない食事の準備をしてくれている。何かがフライパンの上で焼ける匂い。それで空腹を実感するなんて、私は意外と図太い。


洗面台で顔を洗い、歯を磨く、そしてテーブルに着いた時にはちょうど目玉焼きとウインナーがお皿に盛られて並んだ。


そしてお母さんが茶碗にご飯を盛っている姿をボーっと眺めていたとき、


不意に、空気が、変わった。


初めてのようで実は久し振りの感覚が信じられなくて何度も吸っては何度も吐く。繰り返し過ぎて半ば過呼吸のようになった時にやっとお母さんが異変に気づき、駆け寄ってきた。


「花!? どうしたの!? 」


落ち着いて、吸い過ぎないでと右手で背中を擦りながら左手で私の口と鼻を塞ぎ、密閉する。

数分そうして、額から冷や汗が流れ落ちたことに気付いた時、やっと呼吸も落ち着いてきた。


「大丈夫? 」


「なんか、空気が気管をすんなり出入りする感じ」


「……この時間でちょうど10年だもんね」


そうだ。私が生命力の移植を受けたのは午前11時すぎ。

正午に近いこの時間だったと聞いた。


「本当に10年なんだ……」


自発的に呼吸ができている。


それはもっと嬉しいものだと思っていたのに、今、私の中にあるのは喪失感だった。






チャイムが鳴りドアを開けるとそこには蒼空君と蒼空君のお母さんがいた。

私から少し遅れてやってきたお母さんが玄関に置いてある車のキーを取る。


「誰かを乗せて運転するの久し振りだから緊張するわー」


「運転できるのあなただけなんだから、安全運転でお願いね」


おしとやかなイメージの蒼空君のお母さんとどちらかというと活発な私のお母さん。この二人が学生の頃からの親友だということを何年経っても信じ切れていないので、こうやって仲良さげに会話をしている姿には未だに慣れない。


蒼空君はいつもと変わらない様子。

和気藹々とした親同士の会話の後ろで澄ましたような表情をしている。


「じゃあ、行こっか」


先に歩き出したのは親たち。その後ろに私たちが並んで続くと蒼空君が私の首の後ろ辺りに手を伸ばしワンピースの襟に触れた。


「変に折れてる」


「嘘、ありがとう」


「もう呼吸、一人でもできてるんでしょ」


普段通りのやり取りで落ち着いた瞬間に槍で刺された気分。


「俺でさえ急に感覚変わったのがわかったから花は如実なんだろうなって思った」


「うん、ちょっと過呼吸気味になったけど、もう平気」


「そっか」


目の前で何やら女子高生のように盛り上がった会話をしている親同士の背中を見ながら、隠れてする内緒話をしている時と似たような空気感で過ごす私たち。いつもの温度を感じてはいるけれど昨日までの私たちとは違って、そこに確実にあったものが今はもうない。




運転席にはもちろん私のお母さんが乗り込み、その隣は私だと思い込んでいたけれど先に蒼空君のお母さんが迷わずに助手席のドアに手を掛けたので後ろのドアを開けて乗り込んでいた蒼空君に続いた。


別に隣に座ることに今更なんの躊躇いもない。

ゆっくりと発車して右折した際に肩が触れてもなんの感情も動かない。


お母さんの運転へ共通して持っていた不安感から走り出しは張り詰めて沈黙した車内。軌道に乗って速度が徐々に上がっていって目に見えず緩んできたものを感じ出した時、蒼空君のお母さんが「これは絶対最後の日に二人に伝えようと思ったことなんだけどね」と話し始めた。


「本当はね、私には三歳下の弟がいたの」


あからさまにはならないように、雰囲気だけ感じ取ることができるように顔を少しだけ動かしてほとんど横目で隣を見ると蒼空君はいつもより目を開いて助手席を見ていた。バックミラーでその表情を確認した蒼空君のお母さんはそのまま話を続ける。


「私が中学生の時に事故にあってしまったんだけどね、私、その先の10年間の事を考えると怖くて生命力の提供に名乗り出られなかったの。そうしたら弟はそのまま亡くなって、勿論私が提供しなかったせいでもあるから感情が壊れてしまって。そんなときになんとか私を宥めて、留めてくれたのが花ちゃんのお母さんだったから」


反射的に運転席を見てしまったけれど私のお母さんは真っ直ぐ前を見て運転していてこの話について干渉するつもりはない様子だ。


「そういう色々な理由で花ちゃんが弟と同じ状態になった時に蒼空の生命力の提供を提案したの。……私のエゴで、ずっと辛い思いさせて本当にごめんなさい」


後半はこちらに振り返って言葉を発したものだから、蒼空君は目が合った状態で重すぎる謝罪を受けることになってしまった。


共存が解けるまでこの事実を知らせずに10年間を蒼空君の近くで過ごすのも苦しいものがあったに違いない。それでも涙を流すことなく伝えきった蒼空君のお母さんはどんな言葉も受け入れるつもりでいるようなしっかりとした表情で蒼空君を見据えていた。


「なんで皆して謝るんだよ……」


皆。そこに含まれるのは間違いなく私。


「俺、自分の生きなかった世界の自分が俺より幸せだと思いたくないよ」


そう弱々しく呟いた蒼空君は私が今まで接してきた中で一番少年だった。10年間私を守ってくれていた兵士の鎧がすべて落ちて、どこにでもいる、普通の。







病院に着いてすぐに私と蒼空君は別々に身体検査が行われ、お互いに大きな異変もなく私の自発呼吸も問題なく行われていることが確認できた。


検査は約3時間ほどかけて丁寧に行われ、最後にイグジストリングを外す処理をすることが伝えられる。指輪を付けたまま成長期の10年を過ごしたので引っ張るだけでは外れるわけがない。専用の機械を使用するらしく、その用意のための時間を私と蒼空君は処置室の外の椅子に掛けて待つように言われた。


車での一件以来の対面。そしてこうして二人セットで扱われるのが最後になるであろう時間に少しの恥じらいと隠し切れない寂しさを覚えながら過ごす。


「蒼空君」


「ん? 」


「ありがとね、10年間私を守ってくれて」


「別に守ってたつもりはないよ」


「蒼空君が色んなものを犠牲にしてくれていたから、私も生きられたんだもん。守られていたようなものだよ」


「前にも言ったけど、俺、10年間で不幸だと思ったことは一度もないよ」


「私は、蒼空君がもっと幸せを感じられる人生があったはずだとまだ思ってる。だからこれから先はお互いこの10年間より幸せだと思えるように一生懸命生きよう」


「わかった」


「約束ね」


「うん」


「……でも、私とも会ってね」


「わかってるから泣かないで」


これは今生ではないけれど明確な別れだ。


堪えていたものの気持ちを伝えている最中に身体の中心から上へと上がってくるものを止めることができず、為す術もなく溢れていたそれを蒼空君は右手の人差し指で掬う。視界に小指の赤い指輪が映って、私は更に泣いた。


涙が治まってきた頃にちょうど目の前のドアが開き、現れた看護師さんに名前を呼ばれて処置室に入るとテーブルの上に手の平を差し込み覆うような、想像より小さな機械が一つ置かれていてその前に椅子が二つ並んでいた。


先程の看護師さんがそこの椅子に掛けてどちらでもいいので機械に手を差し入れるように言う。流れ的に先に処置室に入った私が機械に左手を入れると看護師さんは「じゃあ、いきますね」と言っては機械の横にあるスイッチを押した。


パチっと静電気が走ったようなチリチリとした軽い痛みと一瞬の衝撃。「はい、終わりました」と言われ手を抜くと10年間左の小指の付け根にいたその子はもう存在せず、代わりに分かりやすいへこみが小指を一周していた。


交代するように言われ、隣に座る蒼空君も機械に右手を差し入れた。看護師さんは慣れたように先ほどと同じ言葉をかけて同じ処理をする。バチっという音。そうして現れたのは指輪が消えて私と同じような痕だけが残った蒼空君の右の小指。


私たちの10年間の終わりはあまりに呆気ないものだった。


喪失感に塗れながら処置室を後にし、待合室でお母さんたちと合流するとそれ以降に行わなければいけないことなどもう何もなく、「帰ろうか。お疲れ様」と蒼空君のお母さんに声を掛けられただけで涙腺が揺れるのを感じた。


込み上げるものを人知れず堪えながら少し下を向いて病院のドアを抜ける。親達のこのあとご飯でも食べに行こうかという話を後ろに聞いていると不意に横の蒼空君から肩を叩かれ、顔を上げると蒼空君は顔を動かさず前を向いたまま「迎え、来てる」と先を指差して言った。


指の先を辿る。そこにはガードレールに腰を預けた陽君がいて、私たちに気付くと腰を上げしっかりと自立しきっとお母さんたちに向けて会釈をした。


「初めまして、花さんのクラスメイトの村上陽と申します。今日は花さんと約束がありまして。……お借りしてもよろしいでしょうか? 」


普段通りの爽やかさでこれ以上ないくらい丁寧でスマートに挨拶と要件を述べた陽君にお母さんたちは面を食らったような表情で固まった。共存が解けていきなり一人にさせることに、いくらお医者さんが心配ないと言ったとしてもまだ不安が勝ってすんなりと許可を出せる心境にないのだろう。


そんなお母さんたちに蒼空君が声を掛ける。


「今日、ずっと好きだったバンドのライブなんだってさ。行かせてやって。あいつも過去に移植を受けた10年を経験してきた奴だし、俺よりも任せられるはずだから」


「蒼空君知ってたの? 」


「あいつから直接聞いてた」


いつの間にこの二人が言葉を交わしていたのだろう。「だから、行ってきな」と背中に触れて、押され、もう私たちは共存関係ではないのに温もりから安心感が生まれる。そして今までには感じなかった物悲しさが摩擦と共に生まれて、さっき指輪を機械で切った時のチリチリとした軽い痛みを思い出した。


押された衝撃で一歩前に進む。そしてまた一歩、一歩と3人の元を離れて陽君の前まで来ると陽君は涙を溜めて溢すまいとする私の顔を見て笑った。


「大丈夫? 」


「……頑張る」


陽君と連れ立って蒼空君からどんどんと離れて行く。

振り返るともう姿なんて見えなくなって10年振りの距離が開いた。

それでも息は苦しくなんてならなくて、まるで私が私ではないようだった。



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