【9年目の春】
相変わらず相澤である律子ちゃんは廊下側の最前列で、私も相変わらず窓側。
けれど今年度は最前列ではなく前から3番目。そしてその後ろには、陽君。
私に何かあった時に正しく動くことのできる共存経験者である陽君と、幼馴染で私の扱いに慣れた律子ちゃん。二人が生け贄にされたクラス替え。
3年で理転という快挙を成し遂げた蒼空君は校内の各所で話題になっていて、小指にイグジストリングをつけた生命力の提供者という偏見が混じる複雑な肩書きを上塗りできた気がする。
変わったのはそれくらい。それでもあの日から二人の間に透明な幕が垂れ下がったような、家具の位置が少しズレたような、見えないフリができるくらいの微かな違和感を覚えている。
噂には聞いていたけれど理系の担任のホームルームは長く、放課後はいつもこうして自分の席で数十分程待っていることが多い。
別に待ちくたびれたわけでもないけれど窓から差し込む木漏れ日が眠気を誘い、机に突っ伏す。窓の方へ顔を向けると2年の時よりも近くなった桜の木が花びらのほとんどを散らし、風に揺れて残りも振り落とそうとしている。
「どうした? 体調悪い? 」
不意に私の後ろから聞こえて真横に移動してきたその声に合わせて、顔の向きを窓とは逆の方へ。そこにはサッカーのユニフォームに着替えた陽君がいて、机に両手をかけて私の顔の位置に見合うように屈んでいた。
「大丈夫だよ。日差しがちょうど良くて眠くなってきちゃってさ」
「花って猫みたいなところあるよね」
「私は陽君のこと犬みたいだなって思うときがあるよ」
好きなバンドの新曲や情報が解禁されたとき、声のトーンを上げて尻尾を振りながら真っ先に知らせてくれる様子は正にそう。
「……坂本蒼空となんかあった? 」
そんな犬のような彼が眉と頭から生えた見えない耳を垂れ下げながら言った。
「なにもないよ」
「なんでそう思ったか聞かずに即答するあたり、何かあったとしか思えないんだけど」
陽君の鋭さや周囲の空気の変化に敏感なところには憧れもするけれど少し怖さも覚える。生まれつきなのか、共存中に沢山の人を見てきたからなのか。
「前に言ったじゃん、花の考えてることとか思ったこと、もっと言って欲しいって。抱えているっていう状態がしんどいだけの可能性もあって、その場合は誰かと共有して楽になったりするし、自分にはない発想で解決したりもする」
そこまでを真剣な眼差しで説いた後にすぐ柔らかな表情に変わり「無理にとは言わないけどね」と付け足す。表情がコロコロ変わるのも犬っぽくて笑ってしまうと陽君はきょとんとまた表情を変えた。
「百面相だ」
「ちょっと、こっちは真剣に話したのに茶化さないでよ」
むくれている風を演出しながらも温かさを保ったまま、先ほどから空気がシリアスにならないように努めてくれている陽君。いつものそのスタンスに私は相当救われている。
話したわけでも解決したわけでもないけれどなんとなく紛れた気がしたと同時に陽君を越えた視線の先、戸の向こうに蒼空君がやってきたのが見えて顔を上げる。
「来たから帰るね。今度話聞いてよ」
「うん、いつでも。俺も部活行かなきゃだ」
私がバッグを掴んで立ち上がると蒼空君も屈んでいた体勢から腰を上げて私の横に並び、同じく蒼空君の待つ戸の先まで向かう。こちらを見ているはずの蒼空君との視線は噛み合わず、私ではなく陽君を見ていることに気付いた。
廊下に出て蒼空君の真ん前まで来ると、鋭い眼光の蒼空君とは裏腹に陽君は柔らかい雰囲気を保ったまま目の合っていた蒼空君に会釈すると「また明日ね、花」と言って私たちに背を向け体育館方向へ歩いて行く。
蒼空君はその背中をずっと見つめていて「帰ろう」と声を掛けるとやっと身体を動かし、私より数歩先を進んだ。
自動販売機を越えた後に言及されるかもしれないなと思っていたが、いつもの場所を過ぎても特に何かを問われることもその他の雑談があるわけでもなく静かに少しの間を空けて歩き続ける。
実はここ最近では珍しいことではない。今までであればゆっくりと速度を落として私の隣に並ぶところを私が隣まで駆けて並びに行き、それに気付いてようやく蒼空君も速度を落とすということもざらにある。
隣に並ぶために早足を意識するも右足のハイソックスが下がってきていることに気付いて歩きながらハイソックスを上げようとするももつれてなかなか上手く上がりきらず、一旦立ち止まる。
いつぞやに思ったこと。このままどこかに隠れて振り返った時に私の姿が見えなかったら、あの綺麗なポーカーフェイスを簡単に崩すことが出来るんだろうか。あの頃は振り返るという確信があったけれど、今は私が呼吸困難になる方が早いかもしれない。
立ち止まり落ち着いた状態でハイソックスを上げるとあれだけもたついた時間が嘘のようにすんなりと上がった。それに気付かずにどんどんと開く私たちの距離。実はもう一人でも自発的に呼吸ができていたりしないか。
蒼空君の背中がどんどん小さくなっていく。きっと勘違いなのだろうけど急激に苦しくなってきている気がして恐怖で自然と足が動いていた。
蒼空君が私との異常に開いた距離に気付いたのはマンションの入り口。開いた扉に私が続いてこない様子で現状に気付き振り返り、私の元へ駆け足で引き返してきた。
私自身は特に速度を上げるわけでもなくそのまま追いつくと蒼空君は少し焦ったような表情。
「途中で靴下が下がってきちゃって。上げてたら案外距離開いちゃってた、ごめん」
「いや、俺こそ。なんで気付かなかったんだろう」
よかった。私はまだ綺麗なポーカーフェイスを崩すことができる。
「ここまで帰ってきてアレなんだけど、ノート買いたかったの忘れてて。ついて来てもらっていいかな」
私の発言に蒼空君の方が申し訳なさそうな表情で頷く。特に急ぎでは必要としていないノートのために近所の総合スーパーの方へ向けてやっと隣に並んで進むことができた。
「最近、新しい本買ってないね」
総合スーパーの2階。
エスカレーターで上がってすぐの本屋が目に入り、そういえばと思い声を掛ける。
「時間がなくて」
「本を読む時間? 」
「そう。実は物凄く勉強してる」
いつも飄々とした風で本気で何かに取り組んでいる様子を見たことがなかった蒼空君が打ち込むくらいの本気ってどれほどの威力を持つのだろうか。今までだって、あんなに本を読みながら好成績を収めていたいたんだ。きっと世界が変わる。
「俺、東京の大学を受けるつもりなんだよね」
タイミングを窺っていたように、満を持した口調で明かされたけれど薄々気付いていた。噂にも聞いていたし。でも欲を言えば噂でなんとなくわかってしまう前に蒼空君の口から聞きたかったなんて気持ちも少しある。けれど今それを言ったところでどうしようもないので全てを飲み込んだ。
「花は、地元の大学? 」
「まだ決めてない、けど、東京に出るほどでもない」
地元にだってそれなりに大学はあるし、それぞれの分野にも長けた専門もいくつかある。
今の私の目に見えそうな未来は地元で完結できてしまうんだ。
逆に言うと私が東京に出る理由が、一つもない。
蒼空君は「そっか」と言うと子供をあやすように大雑把に私の頭を一度撫でた。
「俺、10年間、花の兄貴ができて楽しかったよ」
「兄貴? 同い年なんですけど」
「妹みたいなものじゃん。服のボタン掛け違えたりするし、途中で姿が見えなくなったりもするし。ほら、ノート買わないの? 」
気付いたら文房具売り場のノートのコーナーに辿り着いていて、蒼空君は私のよく使っているノートを手に取って渡してくれた。
「他に何か買うものは? 」
「……蒼空君に、シャーペンを買いたい」
頭の上にクエスチョンマークをいくつも飛ばしていそうな表情で「壊れてないし今のところ足りてるけど」とその場に固まる蒼空君。私自身も突発的に沸いたこの感情に理解が追い付かないまま、脳内を整理しながら話す。
「私があげたもので沢山勉強して、受験にも望んでほしい」
消えないもの。壊れてでも形で在り続けるもの。
無くさない限り、意図して捨てない限りその手に在り続けるもの。
手にする度、視界に入る度に私を思い返すもの。
生まれて初めてってくらい真剣にシャーペンを選んだ。これから外れるイグジストリングに変わるような真っ赤でキラキラとした、そして簡単に壊れてしまわずに10年くらいは持ってくれそうな、高校生が持つには少し値の張ったシャーペン。
いつもどこか遠慮がちだったり引いた姿勢の蒼空君がすんなりと受け取ってくれて、私の気持ちを汲んでくれていることをありありと感じ取ることができて、それだけのことなのに満たされた気分になる。
きっとそんなの錯覚で本当は離れることへの不安を隠しているだけだし、そんな不安も蒼空君という存在に依存していることで生まれる錯覚なのかもしれない。
名前どころか形もない感情を抱えながら繰り返す日々の気温は着実に上がっていった。