トラウマとの戦い
「ついに春季大会のドローがでたな」
そう話しかけてきたのは同じテニス部員の奈良だ。
俺とは違い、お調子者で物おじしない性格の彼をうらやましいと思うことが多々ある。
「お、この相手なら俺は三回戦ぐらいまで行けそうだ」
「有名選手かどうかってだけで判断するなって」
「大丈夫だって。いつもだいたい三回戦かぐらいだもん」
「お前なぁ」
「柏木は...あー第二シードのすぐ近くじゃん」
そう言いながら俺にドロー表を見せてくる奈良。
(去年はシード選手とかいう以前に一回戦で負けちゃってたからなぁ)
ため息をつきながら自分の名前を確認する。
と、時間が止まった。血の気が引いていく気がした。
「吉本...」
一回戦の相手は同じ中学でペアを組んでいたやつだった。
この日が来た。今俺の目の前には昔ペアを組んでいた男、吉本が立っている。
相変わらず相手を小ばかにしたような、憎たらしい表情をしている。
「よお柏木。相変わらず下手くそなのか?今日はお前が相手でラッキーだわ。一回戦ぐらいは勝たなきゃカッコつかないからな」
全然変わっていない。人を見下した言動。こいつと一緒にいるのが嫌で俺は部活に行かなくなった。
「いいからさっさとやろう。フィッチ?」
「いっちょ前にフィッチとか言ってんじゃねーよ、お前が選べや。フィッチ?」
どっちがやっても一緒だろうに。主導権を握りたがるやつめ。
「ラフ」
「ざんねーん!スムースでーす。ざまあ」
吉本が舌を出しながら答えた。
本当に腹が立つ。我慢しなくては。今日は絶対に負けたくない。他でもない、こいつだけには。
「柏木からサーブな。下手くそなサーブで楽にゲームもらうとするわ」
「俺だっていつまでも下手じゃない。この前は優勝だってした」
「まぐれまぐれ。ほらさっさとあっち行ってサーブ打てや」
負けられない試合が始まる。
今日は俺がコーチとしてやってきて初の公式戦だ。やれるだけのことはやったし、あとは選手たちがどれだけやれるかだ。
そろそろ一回戦の開始時間だが、さっきの練習での柏木の様子が気になる。
(なんかまたきつい表情してたんだよな)
また例の緊張だろうか。とりあえず柏木の試合を観戦することにしよう。
柏木の試合はちょうど始まるところだ。
どうやら柏木のサーブからのようだ。
(あれ?あいつ上から打つのか)
柏木が打ったサーブは相手コートのベースライン付近に落ちた。
続くセカンドサーブ。鋭い打球がネットの下側に突き刺さる。ダブルフォルト、相手の得点だ。
あんなフォームで安定したサーブは打てない。
「あんなに力んでたら入らないだろ。どうしたんだあいつ」
隣で観戦していた奈良に尋ねる。
「なんか同じ中学でペアだったやつらしいです」
それでか。柏木は同じ中学だった選手に嫌がらせをされていたらしい。
苦手意識からなのか、いつも以上にフォームがおかしくなっている。
サーブが入らない。あっという間に相手のゲームポイントだ。
さすがにまずいと思ったのか、柏木はスイングスピードを下げて緩いサーブを入れた。
(あれじゃだめだ、簡単に返される)
相手の放った力任せの打球は柏木のコートに収まる。柏木も追いついたが、フォアハンドのフォームもぐちゃぐちゃになっている彼の打球は相手コート奥のフェンスに突き刺さる。
「コーチ、なんかアドバイスとかないんですか!?あいつまた変ですよ」
焦る奈良に肩を揺さぶられるが、それはできない。
「お前も知ってるだろ。試合中のアドバイスは禁止。ルール違反だ」
自分で気が付いて修正してくれればいいのだが。
続く第二ゲーム。回転の掛っていない羽子板サーブを力任せに強打してネットしてしまう。相手の子はプロネーションも上手くできていないし、グリップもウエスタングリップだ。正直相手は上手くない。ミスのみで試合が進行している、最悪の状態だ。せめてこっちを見てくれればアイコンタクトでも口パクでもできるのに。
あっという間にゲームを取られていく。ゲームカウントが0-3、チェンジコートのときにようやく柏木がこっちを見た。口をポカーンと開けている。目を見ながら俺は首を振った。どうやら伝わったようだ、ハッとしたような表情の柏木はうなずき深呼吸をした。
「コーチ、アドバイス禁止じゃないの?」
にやつきながら奈良がしゃべりかけてくる。
「うっさい。俺は何も言ってない。あれぐらいは許容範囲だ」
「ツンデレだなー」
「ツンもデレもないわっつーの」
何をやっていたのだろう。カッとなってコーチに教えられていたことをすっかり忘れていた。ここまでの失点のほとんどが俺のミスじゃないか。置きにいったボールでさえ吉本はミスをしたりしている。それはつまり。
「コートに返球しづつけるだけで勝ててるじゃんか」
自分に言い聞かせる。コーチは言った。返球さえすればミスしてくれる相手が多いと。それなのに俺は何をやってるんだ。俺がミスする側に立ったら勝てるもんも勝てない。
深呼吸をする。深く、深く。まだまだ手も震えるし、フォームだっておかしくなってる自覚はある。それでも、このレベルの相手には負けてはならない。
吉本のサーブが飛んでくる。絶好球だが、さっきまでのようには強打しない。あえて緩いスピンボールで真ん中に返球する。チャンスボールとみるといなや、吉本は強打してホームランをした。
(これでいい。あの軟式打ちじゃスピンはかからない。入る確率の方が低いからこっちはリスクを冒す必要がないんだ)
そのまま立て続けにポイントを取ると、吉本はイラついたようにラケットを地面に叩きつけた。幸い折れなかったようだが、見ていて気持ちのいいものではない。昔からああいう風にしていたことを思い出す。
そのゲームを取り、次はこっちのサービスゲーム。さっきまではほとんどダブルフォルトでポイントを献上していたが、今度はそうはいかない。この試合で初めて打つアンダーサーブ。ひっぱたいた吉本はネットに引っ掛けてくれた。もう一度アンダーサーブを打つと、ミスを恐れたのか吉本はラケットに軽く当てるだけで返球をしてくる。
(我慢比べだ!)
お互いに相手コートの真ん中に緩く返球を続ける。膠着状態が続くが、先に折れたのは吉本だ。我慢しきれずに放った強打はネットに吸い込まれる。イラつきを隠そうともしない吉本は再びラケットを地面に叩きつけた。
(そんなにイライラしててもメリットないぞ。悪いけどお前みたいにイライラしてるやつには負ける気がしない。どっちが下手か思い知れ)
心の中で言う分にはいいだろう。試合前にさんざん挑発してきたのだ、これぐらいは許されるはず。
試合を流れが変わり、いつの間にか5-3、サービスゲームでこっちのマッチポイントだ。改めて深く息を吸う。試合前から中盤ぐらいまで感じてた体をうまく動かせない感じが今はない。今ならきっとできる。そう考えたときにはもう体が動き出していた。
試合の流れが変わってからの進行は早かった。気が付けばもうマッチポイントまできていた。
一瞬間が開く。
柏木は左手で持ったボールを上に放る。
(あ...)
トスと同時に膝が曲がる。膝が伸び、スイングが始まる。しなる体から放たれたサーブ。それは何度見ても。
「きれいだ」
そうつぶやかずにはいられなかった。柏木の放った渾身のフラットサーブ。見ているものを魅了したそれは、試合を決定づける一球となった。
「ありがとうございました」
握手のために手を差し出しながら試合後のあいさつをする。
「まぐれでサービスエース取ったからって調子乗んなよ」
最後のサービスエースがよっぽど悔しかったのだろう。顔をゆがませた吉本は、差し出した俺の手に触れようともせずこっちへの憎悪を隠そうともしない。
「別に調子に乗ってなんかない」
「まあ俺はどうせ本気でやってなかったし。ロブばっか上げてきてさぁ、下手くそ。シュートボール打てないんならテニス辞めたら?」
シュートボール...?と一瞬なったが、そういえばソフトテニスだと速い球をそういうんだったと思い出す。要するに強打もすることなくロブばっかり打っていたのが気に食わなかったようだ。
「はいはい、もういいよ。じゃあな」
こいつと話をすると本当に嫌な気持ちになる。もともと真面目な場面でおちゃらけたりするようなやつで、いじめも平気でしていた。こいつとは性格的に合わない。
舌打ちをしながら離れていく吉本に背を向けコートの外へ向かう。
「お疲れ!公式戦初勝利じゃん」
「サンキュー奈良」
「最初はどうなるかと思ったぜ。それにしても最後のサーブ、すげーよかったな」
そう言われて最後のサーブを改めて思い出す。
(いつも通りのサーブが試合で打てたのって、これが初めてだな)
いまだに手のひらに打球の感触が残っている。いける、そう思った時には体が動いていた。
「外す気がしなかったんだ。自分でも不思議なぐらい、いいサーブ打てたよ」
相手が誰かなんて気にならなくなっていた。もっと試合を続けていたかった。あのまま続けられていればもっといいプレーができていた、そんな確信がある。
「上出来だ。よく途中で切り替えられたな」
「コーチ。ありがとうございます。あと、すいませんでした」
途中まで自分のすべきプレーをしていなかったことを謝らなければならない。教えてもらったことを無視するところだった。
「序盤のあれはひどいもんだったな。やるなってこと完璧にこなしてるんだもん」
苦笑いしながらコーチは続けた。
「でも途中できちんと修正できたのは大きい。気が付いたら試合が終わってた、なんてのは弱いやつにありがちだから」
まったくもってそのとおりだ。去年までの俺がまさしくそうだった。
試合に出るのが本当につらかった。何度もテニス部を辞めたいと思った。でもテニスは好きだからやめられない。そんなジレンマを抱えていた俺を救ってくれたのはこの人だ。
「前の俺に戻らないで済んだのはさっきのコーチのアドバイスのおかげです。本当にありがとうございました」
感謝してもしきれない。試合に、公式戦で。勝つことなんて無理だって思っていた。
「アドバイスはしてないぞ。お前は自分で気が付いた。とにかくよくやったよ」
「ありがとうございます。あ、俺本部にボール返しに行ってきますね」
「おう。俺は他のやつの試合観戦に行くから、お前も済んだらチームメイトの応援しに行けよ」
「りょーかいです」
足取りが軽い。本当の自分のプレーができた、この日を俺は一生忘れないだろう。