第三話 写真に映るもの③
「その写真に写っている友人、国崎尚弘というのですが、その友人に会いに来たのです。いえ、正確にはお墓を参りに来たというべきですね」
「……亡くなられているんですか?」
「はい。知ったのはつい最近です。偶々、共通の昔の友人に会いまして、その友人伝えに亡くなっていることを聞きました。それで、お墓参りに来たわけですが、何十年も訪れていなかったものですから、すっかり町が変わっていたのです」
けれど、結局どうしてここまで歩いてきているのだろうか。
私に疑問を感じ取った廿楽さんは、疑問の答えを語り始めた。
「近くの交番で旧商店街に住まわれていた方の一部は、この辺りに移り住んでいると聞きまして、もしかしたらこちらにいると思ったんです。ですが、その途中で膝を悪くしてしまって」
「だから、私の家の前で辛そうにしてらしたんですね」
「はい」
廿楽さんは頷いた。
なるほど、これですべてに納得がいった。ここまで探しにやってきたものの、途中で膝を悪くしてしまって動けなくなったのだ。
けれど、
「あの……それでですが、先程も言ったんですけど、私職業柄この地域に住まわれている方をある程度把握しているんです。その……この辺りに国崎という方はいません」
はっきりと告げることに胸を痛めながら、私は事実を口にする。
そう、なのだ。私の記憶している限り、国崎という方と会ったことも、聞いたこともない。
生まれてからずっとここに住んでいるので間違いない。
さぞかし廿楽さんは落ち込むだろう、と私は思った。唯一の望みを否定されてしまったのだから。けれど、私の予想に反して、廿楽さんはそこまで肩を落としていなかった。
まるで、始めからそうだろうと悟っていたみたいに。
「……やはり、ですか」
「やはり? もしかして、分かっていたのですか?」
「ええ。彼が私にわかりやすい足跡を残すとは思っていませんでしたから」
「……?」
言葉の意味が分からず、私は眉根を顰めてしまう。隣にいる風花も同様の表情だ。
「ねえねえ、廿楽おじちゃんはどうして、お友達のばしょをしらないの? だって、仲が良かったんでしょ」
「ちょっ風花!」
風花は疑問に対する好奇心を抑える限界を超えたらしく、真正面から切り込んだ。流石の私もそれだけはやるまいと思っていたのに。
顔を引きつらせ焦る私と純粋な瞳で廿楽さんを見る風花。
廿楽さんはさぞかし腹を立てているだろうし、こんな私たちを見て笑っているかもしれない。
恐る恐る廿楽さんの方へ視線を向ける。
「いやはや、風花さんもそう思うよね。私もそう思うよ」
「え?」
怒っていない。むしろ、風花の言葉に共感を示している。
「あの……怒らないんですか?」
「怒る? どうして怒る必要があるのですか?」
「流石に不躾な質問ではないでしょうか? その……ご友人の方と親しかったのに、居場所を知らないだなんて言われたら怒りませんか? 廿楽さんにも何かしら理由があるのに」
そこまで言って廿楽さんは、ああ、と声を漏らした。
けれど、それでも風花のことについて怒ろうとはしなかった。
「いいえ、やはり怒る理由はありません。居場所を知らないのは、元々私の所為なのです。ですから、風花さんにあれやこれや言う資格はないんです。むしろ、面と向かって言ってくれたのですっきりしているくらいです。穂乃花さん、娘さんはとても良い子ですよ。自信を持ってください」
「あ、ありがとうございます」
予想外にも褒められてしまい、私は唖然茫然とさせられる。けれど、とりあえず風花自身も自分が褒められていることを理解しているらしく、まるで甘える子猫のように私の顔を見つめている。
迷った末、私は風花の頭を撫でた。
想像の範囲を超えているとはいえ、こうやって娘が褒められることは悪い気がしない。やっぱり私は親バカだ。苦笑してしまう。
「えらいえらえい」
「えへへへ」
明るく笑う風かの頭を撫で終えた私は、廿楽さんに視線を向けた。
廿楽さんは私がこれから口にすることをもう想像できているらしく、背筋を伸ばして無言で、どうぞ、と促してきている。
だから、私は失礼のないように視線だけはまっすぐに、その言葉口にした。
「廿楽さんの所為、とはどういう意味ですか」
「そのままの意味です。そうですね、少し長い昔話になってしまいますが宜しいですか?」
私と風花はこくりと頷く。
確認が取れ、廿楽さんはまだ飲みかけの緑茶を淹れた湯呑に口をつけ舌を湿らせる。そして、少し昔を思い出すように宙を仰ぎ見る。
どれだけ時間が経っただろうか。そんなに長い時間でもなかった気がするけれど、とにかく廿楽さんは覚悟を決めたように息を吐き、口を開いた。
「もう息子に社長の座を譲っていますが、私は数年前まで機械の部品の製造をする小さな会社で社長をしていました。リーマンショックで経営は傾きかけましたが、精緻さと丁寧な仕事ぶりを信頼され何とか続いています」
「相当努力をなさったんですね。私も個人経営なんですが、まだ始めてから数年なので尊敬します」
「そういえば、先程から気になっていたのですが、お仕事は何をなさっているんですか? 個人経営と今仰いましたが」
そう言えば、仕事柄、という言葉だけで済ませていたけれど、ちゃんと話していなかったことを思い出した。
私は廿楽さんの問いに、丁寧に答えた。
「自宅の前に看板を置いてるんですが、隣にある道場を改築して小さなフォトショップ――写真屋を経営しています。こんな住宅街に作ったので、上手く仕事が成功するかどうか不安でしたけれど、昔から付き合いのある近所の方々や両親と親交があった方々からも仕事を頂いて、お陰様でどうにか続いています」
「はあ、益々ご立派な方ですね。初対面である私を気遣って下さるのですから、周りの方々から愛されているのですね。だから、お店も続いている」
「ええ、本当にそうです」
ただただ感謝という言葉しかない。
綾子さんと綾子さんのご主人、他にも周りのいる人たちが私を支えてくれる。もちろん、隣にいる風花も、そしてここにはいないけれど心で深くつながっている風太。
私の反応に満足げに頷いた廿楽さんは、口を開いた。
「私も色々な方に支えられて、会社を続けてこれました。ですが――私はその中である人物を裏切ってしまいました」
「もしかして、その人は――」
これまでの話の流れから、私はすぐにその裏切った人物が誰なのか察した。廿楽さんも私の考えていることを察したらしく、そうですよ、というようにこくりと頷いた。
ただ、まだ幼い風花には、多くを語らない会話、という空気を読むことができずに小首を傾げてしまっている。
廿楽さんは風花にも分かるように、その人物の名を口にした。
「そうです。尚弘――国崎尚弘です」
「どうして裏切るようなことを……?」
「廿楽おじちゃん、その人と仲が良かったんでしょ」
風花は疑問符を頭の上にたくさん浮かべながら、首を傾げている。
私も親しい間柄の二人にどのようにして罅が入り、裏切るような結果になってしまったのか気になった。
それに、今の廿楽さんの雰囲気から、誰かを裏切ったりするような非情な人間だとは到底思えない。まだ出会って間もない廿楽さんの印象は、物腰が柔らかく温かな人間だ。年齢を重ねて角が取れたのかもしれないけれど、とても人を切り捨てるような人物には信じられなかった。
廿楽さんは沈んだ表情で続きを語り始めた。
「私と国崎は高校からの友人でした。高校卒業後は、同じ機械部品を製造する会社に就職し、お金と技術が学んだら、一緒に会社を立ち上げると話し合うほどの仲でした。そして、数年が経ち、会社を立ち上げました。その当時、高度経済成長期ということも重なって、ありがたいことに少しづつではありますが経営が軌道に乗り始めした。そして、会社が安定した時にあることをしようという約束を私と国崎はしていたんです」
約束とは何だろうか。恐らくその約束が、売ら入りの理由なんだろうけれど、今のところ全く推察できるだけの情報がない。
「その約束というのは、高校時代から仲が良く、立ち上げた会社で経理を担当してくれていた女性に思い伝えるという約束です」
「お二人ともその女性のことが好きだったんですか?」
「ええ、はい。お恥ずかしいことに、二人揃って一目惚れだったんです」
一目惚れ、というワードに何故か既視感を感じたけれど、私は頭の隅に無理やり押し込んだ。代わりに、私は廿楽さんの話にじっと耳を傾けた。
「そういうわけ約束をしていたのですが、私は会社が安定する前に彼女に思いを伝えてしまったんです」
「それが、裏切ったということですか?」
「はい。それでですが、少し本筋から離れますが、私の父は戦争体験者なんです。戦時中に生まれ、徴兵制度によって実際に戦地に赴いていたという経験があります」
「そうですよね。廿楽さんぐらいの年代の方のご両親は、ちょうどそういった世代ですもんね」
見かけ七十代ぐらいの廿楽さんからしてお父様は、戦時中は二十代だったのではないだろうか。徴兵制度で無理やり戦地に赴かされる年代だろう。
「徴兵する前の幼い頃の記憶ですが、父は優しく思いやりがある人間です。ですが、悲惨な戦争を目の当たりにし、実際に自信も国のためという大義名分があるものの数人の人を殺めてしまったことから、徐々に心を壊していきました。家族のために何とか仕事をこなしていましたが、戦争で負った傷を年月で癒すことは出来ず、私が高校を卒業する頃には床の間で横になっていました。今でも、毎晩何かに魘されている夢を見ていた姿を覚えています」
戦争で経験した辛い記憶が、心に深い傷を負わせたのだ。その爪痕から徐々に毒がしみこむように、心を崩壊させていった。
今を楽しく生きようと、笑って生きている戦争体験者もいる。けれど、廿楽さんのお父様は生来の優しさから耐えきることができなかったのだ。
実際に体験したわけではないけれど、亡くなった祖父母から戦時中の話を聞いたことがあるので、その話を知っている分だけ私も胸が痛くなった。
まだ、『戦争』という言葉にピンと来ない風花は、それでも何か悲惨なものを感じたのか沈痛な表情を浮かべている。私は娘の小さな背中を支えるように、そっと手を当てた。自分を支えてくれる手の存在に気が付いた風花は、私の服の裾をきゅっと握った。
「私が就職し、働くようになってからも、心だけでなく体も壊していきました。そんな父を見てしまった私は思ったのです。早く、父を安心させてあげたいと」
「だから、ですか」
その言葉で、私はすべてを察した。
何故、急に本筋から話しがそれたのかがわかった。
私の言葉の意図を理解している廿楽さんは頷き、私の考えを肯定する言葉を口にし始める。
「はい。だから、私は国崎との約束を破り、彼女に思いを伝えました。結果、彼女は私の思いを受け入れてくれました。そして、その事実を知った国崎と口論になり、最終的に殴り合いにまで発展しました」
先ほどとは違った意味で、胸が痛くなる。殴りあう時の二人の心境を図ることはできないが、それでもきっと酷い有様だったに違いない。
「散々私たちは殴りあった後、彼は会社を辞めて、この街にある実家に帰りました。私は彼女と結婚しました。私と妻との間にきまづい空気はあり増した、私の父に対する思いを知っていた妻は、勤めて笑ってくれました」
「良い奥さんですね」
「ありがとうございます。今も私を支えてくれる、素晴らしい女性です」
廿楽さんは照れたように笑う。
私は思う。きっと奥さんの方にも複雑な思いがあったのかもしれない。けれど、去ってしまった国崎さんよりも、夫である廿楽さんの思いを優先したのだ。
廿楽さんがやったことは褒められることではないのかもしれないけれど、父を思う気持ちはやはり褒めるべきことだ。
そもそもなにが正しいかなんて簡単には結論が出ない。
「父も母も妻のことを気に入ってくれました。結婚し、数年後には子供も生まれたことで父も安堵したのか亡くなりました」
「さぞ、安心していたでしょうね」
「ええ、はい。最後は本当に安らかに眠っていました」
辛いことばかりがあった人生だけれど、その中で最愛の息子が素敵な女性と可愛い孫と一緒に幸せになったのだから、少なくとも心に吊るされていた重りは軽くなっていただろう。
「ねえ、廿楽おじちゃん」
「なんだい、風花さん?」
「今まで、お友達とは仲直りしようとは思わなかったの?」
「――……、」
廿楽さんは目を伏せ、表情を沈ませる。
どう答えればいいのかわからないと言った表情ではない。何を言っても言い訳にしかならないと思っている顔だ。
「風花にはさっきのね話はあんまり分からなかったけれど、けんかしたならちゃんと仲直りしないと。だいじなお友達なんだよね」
「うん、そうだね。おじさんも仲直りしかった」
「じゃあ、どうしてしなかったの?」
「……、」
風花の真っ直ぐな言葉に、ついに廿楽さんは何も言えなくなった。風花の双眸を見据え続けることが出来なくなった廿楽さんは、言葉を探すように視線を彷徨わせている。
けれど、どれだけ数多ある言葉の中から適切な感情を言い表される言葉を探せられないでいる。
そして、どれだけ経ってからだろう。きっと、時間にしたら数秒だ。
廿楽さんは風花の真っ直ぐな瞳に答えるように言葉を紡いだ。
「………………とても顔を見せられなかったからだよ」
「けんかしたから?」
「そうじゃないかな。きっと……喧嘩するよりも、殴りあうことよりもひどいことをやってしまったからだよ」
それは拳で傷つけられるよりもきっと辛いことだ。痛くて痛くて、散り散りそうになるくらい心が叫ぶほど。
贖罪しようにも、どうすればいいのか良いのかわからない。何をすれば友人に対しての贖いになるのかもわからない。
「大切な約束を破ったからだよ。それに、もう、その約束は守ることはできない」
廿楽さんはずっとそういった物を抱えてきたのだろう。どうしようもない思いを抱えて、傷を深めていく。きっと伝えられることがあったはずなのに。
「ううん、そんなことないよ」
「え?」
廿楽さんは風花の予想外の言葉に目を丸くして驚く。
風花は廿楽さんのそんな様子などお構いなく、笑顔を浮かべて語り始めた。まるで、小さな背中に大きな翼をはやして壁を飛び越えるかのように。
「風花ね、お墓参りに行ったらこう手を合わせるの。手を合わせたら、目を瞑って『ご先祖様ご冥福をお祈りします。子孫をお守りしてください』ってお祈りするの。だからね、手を合わせて目を瞑ってお祈りすれば、廿楽おじちゃんが仲直りって気持ちがきっと届くよ」
「……っ」
廿楽さんは声を震わせるように、息を吐き出した。
言葉にならない思いが震える喉の奥で引っかかっているのかもしれない。その思いは、亡くなった友人、国崎さんに対する思いだろう。
私は今もなお真っ直ぐに廿楽さんを見据える風花の頭を撫でながら、写真をじっと見つめ考えた。
――私も何かできることがあるはずだ。何か小さなことでできることが。
私は未だ感情を吐き出せない廿楽さんに、絞り出した一つの考えを口にする。
「廿楽さん。このお写真をお借りしてもいいですか?」
「構いませんが、何をなさるつもりですか?」
上手くいくかどうかわからない。
でも、力になれることがあるのであれば協力したい。
私はすっかり温くなったお茶を一口飲んでから、笑顔で答えた。
「この写真から、ご友人を見つけるんです」
それが今の私にできることだ。
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