第二話 写真に映るもの②
苦しそうにしていた男性を何とか説得した私は、家の中に案内する。
まだ辛そうに表情を歪める男性の体を支えながら靴を脱ぐのを支え、客間がある縁側の通路へと連れていく。その際、私はまだ寝かせたままの風花の姿を見つけた。
男性も風花の存在に気が付き、驚いたように見ている。
――……しまった。
そう思った私は慌てて座布団を客間の机の前に置き、男性に座ってもらうことにした。そして、机の上に広げたままだった仕事道具を手早く片づけた。
「あの、どうぞ、ここに座ってください。あと、すぐに起こしますので」
「ああ、いえ、お気になさらないでください。そのままでもいいですよ」
そうは言われても、お客さんがいるというに寝かせたままでいるわけにはいかない。私は風花の傍によって、優しく体を揺らす。
「風花……風花、起きて」
「うぅん……あと、ちょっと」
「ダーメ。お客さんが来てるから起きて」
お客さん、という言葉を聞いてようやく起きる気になった風花は、ゆっくり目を開く。可愛らしく目をこすりながら、半身を起こした風花はまだ寝向けの残った瞳で、ぼんやりと私のことを見据える。
「むにゃ……おはよう、お母さん」
「はい、おはよう」
挨拶が少し違うような気がしたけれど、私は風花の頭を撫でながら笑顔で言葉を返す。すると彼女は嬉しそうに、表情を輝かせた。
「ねえ、風花。今、お母さんにお客さんが来ているから、風花もちゃんと挨拶してね」
「うん」
私の言葉でお客さんが来ていることに気が付いた風花は、慌てて立ち上がり、男性に可愛らしい仕草で頭を下げた。
「こんにちは!」
「こんにちは。お嬢さんは礼儀正しくて、良い子だね」
「ありがとうございます。良かったわね、風花。良い子だって褒められたよ」
「えへへへ」
風花は嬉しそうにはにかんで笑う。
私は男性にぺこりと頭を下げ、風花の頭を優しく撫でる。さらさらと栗色の髪が揺れ、彼女の表情がさらに輝いた。
「風花。お客様にお茶とお菓子お出ししたら、風花にもおやつのお菓子を出してあげるから手を洗ってきて」
「うん!」
可愛い娘は嬉しそうに頷くと、一度ぺこりと男性に頭を下げてから台所の方へ歩いていった。その姿を見送った私は、自分も手を洗おうと思い立ち上がる。
「すみません、少しお待ちください」
「いえいえ、休ませていただくだけでありがたいです」
男性に頭を下げて、私は風花の後を追って台所へと立つ。
手を洗い、水を入れたやかんを火に掛けお湯を沸かす。手を洗い終えた風花は、一生懸命背伸びをして食器棚から湯呑を取ってきてくれた。
「お母さん、湯呑もってきたよ」
「ありがとう、風花」
私は取ってきてくれた湯呑を受け取った。
しばらくして沸いたお湯を、先に茶葉を入れておいた急須に注ぐ。ほんのりとお湯に、緑色の茶葉の成分が広がっていく。出来た緑茶を、風花の取ってきてくれた湯呑に注いだ。
「あ、そうそう、お菓子お菓子」
慌てて忘れかけていたお菓子を用意しはじめる。
綾子さんからもらった草間屋のどら焼きを菓子受け皿に移し、湯呑と一緒にお盆に乗せて男性の待つ客間に運んだ。風花は私の後を着いてきて、男性と真正面に座る私の隣に座った。
「お待たせしました。どうぞお召し上がりください」
「わざわざ、ありがとうございます」
男性は頭下げる。そして、目の前に置いたお茶を注いだ湯呑に口を付け、一息ついたように息はいた。
「あの、お加減どうですか?」
「ええ、はい、大分良くなりました。いやあ、年を取ると膝が痛くて辛かったので助かりました。それにしても、初対面な方なのにお世話を掛けてしまってすみません」
「いえいえ、気にしないでください。先程も言いましたけれど、困っている方は放っておけない性分なんです」
「はぁ……そうですか」
気負いもしない私の言葉に、男性は感嘆したように息を吐いた。そして、背筋を伸ばし、私に向かって深く頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
「お顔を上げてください。困った時はお互い様ですし、これも袖振り合うも多生の縁ですから」
「お気遣いありがとうございます」
もう一度男性は頭を下げると、お茶請けとして出していたどら焼きに口を付けた。口に付けた瞬間、男性は道の生物屠蘇ぐうしたように大きく目を見開いた。
「これは……」
「美味しいですよね。実は、この辺りで有名な草間屋という和菓子店の本店でだけで売られているどら焼きなんです。全国からリピーターが付くほどなんですよ」
「ああ、これが有名な草間屋のどら焼きですか。なるほど、確かに頬が落ちる程絶品ですね」
男性もどら焼きの味に満足気だ。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの、風花?」
私の隣で行儀よく座っていた風花は、私の服の袖を小さな手で引っ張っている。可愛らしい顔をしている彼女の表情は、今はどこか不服気だ。それに、どこか私に何かを訴えかけるように視線を向けてきている。
一体どうしたのだろうか? と首を傾げた私は遅まきながらに気が付いた。
そうだ。先程、風花に言ったじゃないか。
「ごめんね、風花。すぐに風花の分も用意するから」
「お腹減ったから早くして」
「はいはい」
苦笑しながら私は急いで、娘のおやつを用意した。
風花の前に彼女が食べるにしては少し多きどら焼きを、彼女は小さな口を大きく開けてぱくつく。
やばい。可愛い。超可愛い。激可愛い。
一生懸命頬張る姿は、親バカと言われても構わないくらい超絶可愛かった。
「美味しい?」
「うん、とっても!」
喜々とした表情で、風花は頷いた。
「これね、綾子さんがくれたの」
「これをくれたの、綾子さんなの?」
「そう。だから、後でお礼を言いに行こう」
「うん、お礼を言いに行く! 綾子さんにはお世話になってるもん!」
よしよし、と私は娘の頭を撫でる。
その様子を眺めていた男性は、微笑ましい表情を私と風花に向けてきていた。
「良い娘さんですね」
「親バカかもしれませんが、自慢の娘です」
そうきっぱりと断言する私に、男性は口元を弧にした。しばらく私たちを微笑まし気に眺めていた男性は、ゆっくりと口を開いた。
「それにしてもお若いのにお子さんまでいて、今お歳は――あ、すみません。女性に年齢を聞くのは失礼ですね」
「いえいえ、よく言われるので気にしていません」
これは本当のことだ。
風花を連れていった先々で初めて会う人達には、よく年齢について聞かれる。まあ、事実、結婚するのも早かったし、風花を出産するのも早かった。
「今年で二十六歳になります。娘の風花は五歳になります」
「そうなんですか。いやあ、やはりお若い方なんですね。それなのに、えーっと……」
「――あ、すみません。まだ名乗っていませんでしたね。私は祭木穂乃花と言います」
「私の方こそ。私は廿楽寛治と言います。いや、お若いのに穂乃花さんと娘さんの風花さんはしっかりしてらっしゃる」
感心したように呟く廿楽さんに、私は恐縮しながら頭を横に振った。
しっかりしていると言われて悪い気はしない。けれど、私自身は何でも手が行き届いているわけじゃない。周りの支えがあってどうにかなっているだけだ。
「風花はしっかりしていると思います。でも、私は……」
「そんなことありません。先程から見ず知らずの私に、親切にしてくださっていますよ。すべては上手くいかなくても、少なくとも今はとてもしっかりしてらっしゃいます」
廿楽さんは私の言葉に重ねるように、力強く今まで感じたことを口にする。
「……ありがとうございます」
廿楽さんの嘘偽りのない温かい言葉に、私は感謝から頭を下げた。
「お母さん」
「なに、風花?」
隣に座っている風花は真剣な声で私を呼んだ。
顔を動かして風花の顔を見つめると、愛娘は自分の小さな手で私の手を温かく、優しく包み込んだ。そして、淀みのない純粋な双眸で私の瞳を見据えてくる。
「お母さんはすごいよ!」
「え?」
唐突な娘の発言に私は驚いてしまう。
困惑する私の様子に風花は気にもせず、ただただ真っ直ぐな思いを私に語りかけてくる。元気を出して、と一生懸命限られた言葉の中から一番思いが伝わる言葉を選んで。
「毎日美味しいごはんを作ってくれて、お手伝いをしたら頭を撫でてくれて、わたしが困ってたら助けてくれる! だからね、お母さんはすごいよ!」
「……風花」
私の中の何かのフォーカスが徐々にはっきりとしていく。
――ああ、この子は本当にしっかりしている。
これからどんどん成長していって親を超えていくというのに、今でも私を追い抜いている部分がある。それが何だか嬉しくて、だからまだまだ負けていられないと思える。
そんな力をくれる。
この子はやっぱり自慢の娘だ。そして、この子にとっては私は自慢の母親なのだろう。いや、だろうじゃなくて、そうなんだ。
彼女の純粋な瞳がそうだと告げている。
「うん、ありがとうね、風花。元気が出たよ!」
「えへへへ!」
私は風花の頭を撫でながら、廿楽さんの方へ顔を向けた。
「ご立派な娘さんですね」
「本当に。廿楽さんも本当にありがとうございます」
もう一度、廿楽さんに対して最大限の感謝を込めて頭を下げた。
しばし、私たちは無言のままお茶で、温かくなった場の空気を感じた。全員の湯呑のお茶がなくなり、もう一杯お茶を用意したところで私は口を開いた。
「もう、お加減はよくなりましたか?」
「ええ、はい、ありがとうございます。すっかり、良くなりました。美味しいお茶とどら焼きを頂いたのですからよくならない方が罰当たりです」
「それなら良かったです。あの……話は変わりますが――」
私は廿楽さんの表情を窺うように、出会ってからずっと気になっていたことを尋ねた。
「廿楽さんはこの地域の方ですか? 仕事柄、この辺りに住んでいる方は大体把握しているのですが、廿楽さんは初めてお見かけすると思いまして。あ、いや、別にお答えしていただくてもいいですよ。個人情報に関わることもあるかもしれませんから」
もう十分関わっているのに言えたことではないのかもしれないと思ったが、しっかりとその辺りは区切りをつけておかなければいけない。
ただ、本当にこの辺りで見かけない方だと思ったからだ。それに、廿楽、という苗字も聞いたことがなかったので気になったのだ。
近所の方の中に知り合いがいて、会いに来たのかもしれない。けれど、それにしては移動するための車といったものが見つからない。膝が悪いというのなら、何か移動するための手段を用意しているはずだろう。
なのに、電柱に体を預け、膝を押さえていた。
どうしても、そこが私の中で疑問として残り続けている。
「構いませんよ」
廿楽さんは特に気を悪くした様子もなく、微笑を浮かべた。
「袖振り合うも多生の縁――なら、ここで話すのもそうかもしれませんね。それにここまで良くしていただいたのですから、話さないのは失礼ですから」
そう言うと、廿楽さんは背広の懐から長方形の何かを取り出した。パッと見薄く見えたそれは、葉書か封筒に見えた。
私と風花の二人に見えるように机に置かれた瞬間、その長方形の物の正体を知った。
「写真……ですか」
そう。私が普段仕事で扱っているものだ。
身を乗り出すようにして、写真をじっくりと観察する。
写真にはどこかの街中を背景に、二人の男性が肩を組むようにして映っている。片方の男性は若い頃の廿楽さんだろか。大分前に取られた写真なので色あせていてはっきりとしない部分があるが、廿楽さんに似た風貌の男性が映り込んでいる。
「右側の方は、廿楽さんでしょうか?」
「ええ、そうです。隣にいるのは友人です」
私の問いに頷いた廿樂さんに、隣に行儀よく座る風花が口を開いた。
「古く見えるけど、いつ撮った写真なの?」
「これは、五十年ぐらいも前に撮った写真だよ。風花ちゃんやお母さんが生まれるよりずっと昔に撮ったんだよ」
「へぇーそうなんだ!」
風花は目を輝かせ、興味深そうに写真に見入る。
写真に写る五十年前の街並みに興味を持っているのかもしれない。
たまにネガフィルムを持ち込んでプリントを頼むお客さんがいるが、本当にたまになので珍しいと思うし、昔の風景に興味をそそられる。
「この写真はどこで撮られたんですか?」
「この街です」
「え、そうなんですか⁉」
私はもう一度じっくりと写真の風景に見つめる。けれど、どれだけ写真に写る景色と、自分の記憶の中にある景色とを比べてみても一致する建物が見られない。確かに五十年も前だから、残っている方が不思議なのかもしれないけれど、写真の中に映るお店くらいは記憶に残っていても良いはずだ。
「この写真を撮った場所は、三十年程前に街の再開発で立ち退きにあった場所です。私も先程見てきたのですが、今は大きなショッピングモールが立っているようですね」
「大きなショッピングモール……もしかして、津口地区の方ですか?」
「そうです。津口地区の旧商店街で撮ったものです」
津口地区は町の中心部にある地域で、食料品店や雑貨店、衣服店が多く存在している。その中でも、津口地区に建てられているショッピングモールはある程度の種類のお店が入居しており、映画館もあることから多くの人が利用している。
普段、食料品は近くの商店街で子供の頃か仲の良いおじさんやおばさんが経営するお店で買っている。けれど、どうしてもそれだけでは手に入らないものもあるため私もショッピングモールに行く。
「そういえば、亡くなった母から聞いたことがあります。私が生まれる少し前に、中心部は街の再開発があったと。私が物心ついたころには、もうほとんど街の再開発は終わっていたので、気が付かなくても仕方ないですね。ですが、街の再開発と写真はどういう関係があるんですか?」
この写真を撮った場所はわかった。けれど、廿楽さんが私の家の前で膝を痛めたこととどういった関係があるのだろうか。
首を捻る私に、廿楽さんは数瞬躊躇いのような表情を浮かべた気がした。私の隣にいる風花も、その様子に気が付いたのか小首を傾げている。
廿楽さんは息を吸い込んで、大きく吐き出すと訥々と語り始めた。
次回更新は16日です。