第一話 写真に映るもの①
――春と言えば?
そう聞かれて私が思い浮かぶのは、やっぱり薄紅色に咲き誇る桜だ。
長い冬の寒気を乗り越え、蕾から咲き誇った桜の花は美しさもあり、舞い散る様は淋しさと共に日々の流れを感じる。
まあ、それは私に限っての話だ。
例えば、私が愛する娘にとっては花より団子の季節である。また、私が愛する夫にとっては常に世界中を旅しているので、春という季節は特に意識しているとも思えない。
ただ、多くの場合、春という季節は別れと出会いの季節だと思う。
長年同じ教室で友情を育んだ友人たちとの別れ、新天地への期待。そんな不安と希望が入り乱れる季節だ。
けれど、世の中には例外は常にある。
そう――あの人に取っては幸せを手にするために友情を捨て、裏切ったとても苦い季節なのだ。そして、罪を思い出し後悔に苛まれる苦い記憶。
その人と出会ったのは、桜が散り始めた三月の中旬だった。
♪♪♪
玄関の方から呼び鈴が鳴る音が聞こえた。
仕事の休憩がてら、日当たりの縁側で眠る愛娘、祭木風花の頭を撫でていた私は立ち上がり、急いで玄関へと向かう。
――仕事関係の人かな?
昔は道場として使われていた実家の建物を改築してフォトスタジオを営む私は、街のイベントや学校の行事関係で知り合いが多い。今日は先日近くの学校の卒業式で撮った写真から、卒業アルバムに使う写真を選ぶためにお店を休んでいた。けれど、わざわざ隣の自宅まで出向いてくるということは何か急ぎの用なのかもしれない。
「はい、お待たせしまいた」
玄関の引き戸を開けると、着物を着た初老の女性が立っていた。
一寸も隙も無く着物を着こなす女性からは凛とした雰囲気と、整った顔立ちだけで若い頃はさぞかしモテたことが窺える。事実、仲の良かった母曰く、彼女はこの街のほとんどの男性から一度は告白され、その全員を振ったという伝説を持っているのだ。あ、でも、正確にはご主人という例外あるか。
そんな女性の人を惹きつける凛とした佇まいに、私も自然と背筋が伸びた。
「あ、こんにちは、綾子さん」
私は中に招き入れながら女性――岩城綾子さんに、笑顔で挨拶する。
「こんにちは、穂乃花ちゃん。今、お時間宜しいかしら?」
綾子さんは柔和な笑みを浮かべ、手に持った紙袋を見せながらそう尋ねてきた。私は紙袋の中身が気になりながらも、綾子さんの顔を見て頷いた。
「はい、大丈夫ですよ。ちょうど、休憩をしていたところなんです」
「そう、良かったわ。実はね、今日主人と北町の方に行く用事があったから、ついでに草間屋でどら焼きを買ってきたの。良かったら、穂乃花ちゃんと風花ちゃんにもって思ったから御裾分けしに来たのよ」
綾子さんは言いながら、私の方に紙袋を渡してくる。けれど、私は戦々恐々としてしまい、その紙袋をなかなか受取ることができなかった。
いや、だって、
「草間屋ってここら辺じゃ有名和菓子店ですよね⁉ え、貰ってしまって良いんですか⁉」
そう、草間屋は超が付くほどの有名店なのだ。
全国展開こそしてはいないけれど、県内のお土産店では大抵草間屋の商品は置かれている。その中でも、本店でしか売られていないどら焼きは頬が落ちる程の絶品で、全国各地からリピーターが付くほどだ。だから、地元民であってもなかなか口にすることのできないどら焼きを、頂いてしまってもいいのかと思っても仕方がなかった。
けれど、綾子さんは再度紙袋を遠慮する私に勧めてくる。
「全然、良いわよ。実はね、草間屋のご主人とは小学校の同級生で、今でも親交があるの。だから、通常販売している物とは別口で、特別に用意してもらってるのよ。今日は偶々、草間屋のご主人が数を間違えちゃってね。お金はちゃんと払ったけれど、うちだけじゃ食べきれないからどうぞと思って」
なるほど。ある意味、地元民がなせる裏技だ。
「そうなんですか。なら、頂かせてもらいます。いつもありがとうございます、綾子さん」
「良いのよ。私にとって穂乃花ちゃんは娘みたいなものだから。それと、亡くなった美花ちゃんから穂乃花ちゃんのことを頼まれているし」
綾子さんは穏やかに笑う。
私の母と綾子さんは少し年が離れているが、子供の頃から本当の姉妹のように仲が良い友人で、同じ観光センターで働く同僚だった。けれど、元々病弱だった母は今から十年ほど前、私が高校に入学したばかりの頃に亡くなってしまった。
幼い頃に父を、小学生の頃に祖父母を亡くした私にとって母は唯一の家族だった。自分に近い存在をなくしてしまった当時、かなり塞ぎ込んでしまった私の面倒を、綾子さんやご主人たちが甲斐甲斐しくみてくれた。
今でもフォトスタジオを営む傍ら、娘の風花の子育てで手の届かない所は、綾子さんたちに頼ってしまっている。
本人が私のことを娘というように、私にとって綾子さんはもう一人の母親のような存在だ。そして、頭の上がらない人物でもある。
「あの……綾子さん、本当にいつもお世話になっています」
「いえいえ、どういたしまして。まあ、多く頂いのを御裾分けしに来たのもあるけれど、この前娘のために撮ってくれたお見合い写真のお礼もあるのよ」
「そうなんですか。あ、恭子さんのお見合いどうでしたか? お見合いなんて古臭くて嫌だ、とか言ってましたけれど」
先月お見合い写真を撮った際の出来事が頭に思い浮かぶ。
綾子さんの娘さん、恭子さんは問題なく写真を撮ることはできたのだけれど、それ以外の時は文句ばかり言っていた。
合コンやSMSで出会うことが多い現代を生きる恭子さんにとって、お見合いというのは確かに古臭いと感じても無理はない。
「ふふふ、それがね――」
綾子さんは着物の袖で口元を隠しながら、吹き出しそうになるのを必死に堪える。そして、肩を可笑しそうに震わせながら、先日のお見合いについて答えてくれた。
「実際に会ってみたら相手の方凄く男前の方でね、一目惚れしちゃったのよ。あれだけ、ぶつくさ文句を言っていたにも関わらずによ?」
「あー……恭子さんらしいですね」
確かに恭子さんは面食いの気があるので不思議じゃない。だから、綾子さんの言葉に妙に納得してしまう。
「それに、どうやら向こうの方もお見合い写真を見た瞬間に、恭子に一目惚れしたらしいのよ。それで恭子だけじゃなくて、相手の男性もお付き合いに乗り気みたい。まだ、これからお付き合いしてお互いのことを知っていくんでしょうけど、これもお見合い写真を綺麗に取ってくれた穂乃花ちゃんのお陰。だから、遠慮なくどら焼きを貰って頂戴」
「そんなそんな、恭子さんが綾子さんに似て美人だからですよ」
「ふふふ、ありがとう。でも、やっぱり穂乃花ちゃんのお陰よ。ありがとう」
綾子さんは朗らかに笑いながら、私の肩を優しく叩く。まるで、自信を持ちなさいよ、と語りけるように。
私は彼女の言葉を受け取るように、明るく笑ってみせながらどら焼きの入った紙袋を受け取った。
「ありがとうございます。どら焼きは風花と一緒にありがたく食べさせてもらいますね」
「そうそう、それでいいのよ。――それで、その風花ちゃんはどうしたの?」
綾子さんのその言葉を聞いて、私は視線を玄関の奥、縁側の方へ向けた。
「今、お昼寝中です。昨日はなかなか寝付けなかったので、その分今日はぐっすり眠っているみたいなんです」
「あら、そうなの。なら、残念ねぇ」
「もう少ししたら起こすつもりだったので、起こしてきましょうか?」
しなくてもいいわよ、と綾子さんは着物の袖を揺らしながら手を振る。
「寝る子は育つって言うじゃない? だから、もう少し寝かせといてあげましょう」
それにね、と綾子さんはゆったりと言葉を続ける。
「私にとって穂乃花ちゃんが娘なら、風花ちゃんは孫娘みたいな存在なのよ。だから、下手に機嫌を損ねておばあちゃんを嫌いになってほしくないから、無理に起こさなくていいわ」
私が娘なら、風花は孫娘。
その言葉に私は、胸の内で素直な嬉しさを感じる。そして、いよいよ綾子さんには頭が上がらないなぁと思わされる。
「あははは、そうですか。なら、後で起こしたらお礼を言いに行きますね」
「ええ、そうして頂戴。それじゃあ、後でね」
「はい」
挨拶を交わした綾子さんは、家に帰ろうと玄関を出ようとする。けれど、半身を翻した所で、また私の方へ振り返る。
「そうそう、風太くんはまだ戻ってこないのかしら?」
「え? あー……夫ですか。実はこの前、手紙が届きました。近いうちに帰るって書いてありましたから、もう少ししたら帰ってくると思います」
私の言葉に綾子さんは頬に手を当て、微妙な表情を浮かべた。
「相変わらず適当というかざっくりとしているわねぇ。穂乃花ちゃんは本当に大変ね」
「心配してもらってありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。この家にいる時は家族サービスをたっぷりしてもらってますから、たっぷりと」
「……、」
微妙な表情をしていた綾子さんは、ぽかんと口を開けて呆然としている。数瞬して、吹き出すように大笑いしだした。その笑い方はまるで少女のように見える。
「あははは、さっきの言葉、訂正するわ。風太くんは本当に大変ね」
♪♪♪
家へと帰る綾子さんの姿を玄関の外で見送った私は、彼女から頂いたどら焼きの入った紙袋を持って中へと戻る。靴を脱いで先ほどまで仕事をしていた居間の隣にある台所に向かい、紙袋を置いた。
仕事に戻る前に、風花の様子を確認しようと居間を通って縁側に向かう。けれど、今に入ったところで、外からエンジン音が聞こえた。
――郵便屋さんかな?
そう思った私は、ちらりと縁側に視線を向ける。視線の先には、安心したように眠る風花の姿があった。ただ眠っているだけなのに、その寝顔は本当に可愛らしい。
――そうそう、何か届いたんなら受け取らないと。
先程の綾子さんの時と同じように、私は急いで玄関に向かった。靴に履き替え外に出ると、ちょうど郵便屋さんが葉書を持ってきたところだった。
「こんにちは!」
「こんにちは! こちら葉書になります、住所や宛名に間違いはないですか?」
受け取った葉書にざっと目を通す。住所も宛名も私宛てで間違いない。
「はい、合ってます。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます! それでは」
郵便屋さんはバイクに跨り、エンジン音を響かせながら次の配達場所へと向かった。
その姿を見送った私は、受け取った葉書の差出人を確認する。実は受取人の所しか確認しなかったので、誰が送ってきたかまでは確認していなかった。
――仕事関係だろうか? それとも文通をしている友達からだろうか?
などと思いながら、差出人を確認した私は、
「ありゃま」
何とも気の抜けた声を上げた。
近くにご近所の方がいれば、きっと笑われているに違いない。それだけ気の抜けた声だった。
いや、まあね。だって、意外と言うか何と言うか、先程噂していた人物なのだから驚いても無理はない。
「風太から、か」
そう。私の夫であり、風花の父親である祭木風太からだったのだ。
ひっくり返して裏側を確認すると、雄大な牧草と、柵に囲まれたなかに放牧されているらしい牛の姿を撮った写真がプリントされていた。
おそらく風景的にヨーロッパのどこかだろうとは思う。
素直に、とても綺麗な景色だと思った。
けれど、それ以上に気になるものがあった。
『ごめん、帰るのが少し遅れる』
という何とも短い文章が、プリントされた写真の上に手書きで記されている。
「まったく……また、面白いものを見つけたんだね」
夫の風太も、私と同じ写真家だ。ただ、彼はフリーランスの写真家で、世界中の綺麗な風景や有名な建物を撮り、旅行雑誌を出版する出版社などに提供している。また、写真をまとめて、出版社から自分の写真集を何冊か出版させてもらったりもしている。
だから、この家にあまりいなかったりする。
おそらく今回は、仕事の合間に面白い風景や建物の話を聞いて、写真集に使えそうだからと思ってそっちに向かったのだ。
それでも家族思いの旦那なので、日本にいる時はしっかりと家族サービスをしてくれる。だから、綾子さんが言うようにちょっと風来坊的な部分があっても、私と風花にとってはとても大切な家族だ。
「仕方がない人だね」
そう呟きながら、写真の上に書かれた文字を指先で軽く弾く。そして、慈しむ様に葉書を両手で胸に当てた。
なんだかんだ言っても、こうして無事を知らせてくれるだけで嬉しい。
「さてと、仕事に戻ろうかと思ったけれど、そろそろ風花を起こさないといけないね」
なら、このまま一緒に綾子さんから頂いたどら焼きをおやつにして、休憩を延長しよう。そう決めた私は、家の中に戻ろうと歩き出した――ところで、家の入り口から見える道路に佇む人の姿を見て動きが止まった。
遠目なのではっきりとわからないが、綾子さんよりも年上らしき男性が電柱に体を預け、膝を押さえている。表情も苦痛そうに見える。
心配になった私は、足早に男性の下に駆け寄り声を掛けた。
「あの……大丈夫ですか?」
「ええ、はい……大丈夫です」
と言うけれど、どう見ても大丈夫な様に見えない。今も膝を押さえ、加齢で刻まれた皺をより一層皺を深めながら、辛そうな表情で歯を噛みしめている。
どうしようか、と悩んだ私は数瞬考えた結果、自宅で休んでもらうことにした。
「私の家、そこなんです。お加減が良くなるまで休んでいってください」
「で、ですが……ご迷惑をおかけするわけには」
「構いませんよ。困っている方は放っておけない性分なんです」
それに、と私は笑顔で付け足した。
「実は、ご近所さんからもらった美味しいどら焼きがあるんです。是非、食べていってください。頬が落ちるほど絶品ですよ」
次回更新予定は12月8日です