ハロルド・コスモ(4)
ララリアが失うのは ーーーー 『俺』に関する記憶。
応接室の前で聞き耳を立てそれが分かった時、これまでほとんど流した事の無かった涙が瞳から溢れ続けた。部屋から出て来たララリアの前でもそれは変わらず、言わなければならない言葉はあるはずなのにいつまでも何も出てこない。代わりに、はくはくと口が動くだけだった。
ララリアの部屋で、俺はやっと言葉を発する事が出来た。依然として流れる涙はどうする事も出来ないが、どこかで準備していた『覚悟』も確かに存在していて、俺はマリーナ嬢による魔力供給を受け入れた後、『ララリアと過ごした全てを忘れない』と誓った。その後、ララリアは倒れ、俺はいつも通りに魔力供給を行った。その時、いつかと同じような圧倒的な魔力不足を感じたんだ。『ララリアにはもう時間が無いのだ』と理解するには十分で、次の日の朝、ララリアが全てを受け入れる決心をしたと聞いた時は少し安心してしまう程だった。
「ごめんなさい。どうしても、出来ないわ」
困った風に笑うララリアは、ワルツのステップに苦戦している。俺達が披露するのは基本的な4つのステップの為、覚えてしまえば無理なく踊れるはずだが、長くダンスから離れていたララリアにとってはステップを踏む事自体が難しいようだった。
「やれば出来る。だから、頑張れ」
月並みな言葉しか出てこないが、ララリアは再び俺の手をとってくれた。慣れないうちは肘の高さを保つ事も無意識には出来ず、ララリアが色々な注意を払う事で手一杯となっているのは一目瞭然だ。
「ララリア、大丈夫だから。俺の足を踏んでも良いし、肘だって多少下がってても良い。大丈夫だよ」
「ありがとう、ハロルド様。・・もう少しだけ、私のワガママに付き合って下さる?」
「いつまでも付き合うよ。ほら、練習を続けよう」
一週間、時間さえあれば2人でワルツを踊り続けた。後半は見違える程に上達して、ララリアも『早く皆に見てもらいたいわ』と、披露する日を楽しみにしていたくらいだ。
最後のダンスで、俺は月の女神のように美しい彼女に『ルド』と呼んでもらう事を望み、ララリアを『リア』と呼ぶ事を望んだ。
今、どうしてもそう呼びたくて、そう呼んで欲しかった。俺を覚えている彼女から『ルド』と呼んで欲しくて、俺を覚えている彼女を『リア』と呼びたかった。
俺は・・俺達は、これまでずっと『それ』を躊躇っていた。お互いが『特別』である事なんて今更疑いようの無い事実だ。だが、当初、俺はララリアへの好意に気付かず、ララリアもララリアで自分の体調を気にしていた為に、会話には愛称のあの字も出る事は無かった。両想いになった後も今更な気恥ずかしさやタイミングのズレから、お互いに中々切り出せずにいた。それでも何かの拍子にララリアが『結婚したら、愛称で呼び合うのが一般的なんですって』と愛称について話題に挙げた時、俺は『俺達もそうなるかもな』と答えていて、将来的には『それ』が当たり前になるのだろうと思っていた。・・・そんな時だ、俺を覚えているララリアにはタイムリミットが出来てしまった。
『笑っている私を一秒でも長くハロルド様の瞳に映していたいから』と言っていつも以上に明るく過ごす彼女の傍らで・・『私と踊って下さい!!』と願った彼女の傍らで・・俺は俺の願いをララリアに言えずにいた。お互いが『特別』であると示される愛称で呼び合いたい。それだけの言葉が言えずにいた。何故かその時、その願いを声に出してしまうと、ララリアを悲しませるのではないかと思ったんだ。いつか来ると信じていた幸せな将来で呼び合うはずだったそれが、ララリアが俺を忘れる前の俺の最後の願いとなってしまう事でララリアに罪悪感を持たせてしまうんじゃないかと思ったんだ。だから、いつ、何て言えばララリアが笑って『ルド』と呼んでくれるのか分からなくなってしまって、俺はまた切り出せないでいた。
そしてやって来たパーティー当日、ダンス披露の際に俺はようやくその願いを口にする事が出来た。俺の願いを聞いたララリアはとても驚いてステップを踏み間違えそうになっていたが、嬉しそうに瞳を潤ませ、笑って『ルド』と言ってくれた。
幸せで、楽しくて、きっと何度も思い出すだろう時間はそうして過ぎていった。
リアが眠りについてから数分後、マリーナ嬢によるリアへの魔力供給が終了した。
リアは気持ち良さそうにすやすやと整った呼吸で眠っている。まるでいつもの魔力供給と何ら変わりの無いように見えるが、それは大きな間違いだ。この100回目の魔力供給はマリーナ嬢によるもので、リアが目を覚ます時、彼女は俺を忘れている。
しかし、それは本当に現実となるのだろうか?
本当に、俺に関する記憶だけが抜け落ちるなど有り得るのだろうか?
リアが俺を知らないなんて現実味が無さ過ぎて、今になって嘘のようにも思えてしまった。
「リア・・・」
好きなんだ、リアの事が。どうしようもなく好きで、誰よりも大切なだけなんだ。ただ一緒に生きていきたいだけで、同じ記憶を重ねていきたいだけなんだ。
だから、頼むから覚えていてくれ。
微笑んで眠る彼女の髪を撫でると、その笑みが少し深くなった。
その日は全員ガーベル家に泊まり、リアが目覚め次第彼女の部屋へ向かう事となった。そして次の日の朝、リアは目を覚まし、すぐにリアの家族とユノ、そして俺と俺の両親にベッドを囲まれた。
先に、結果だけ伝えておこうと思う。
父の診察によると、癪気体はリアの体内から完全に消えていた。
そして。
リアはやはり、俺だけを覚えていなかった。




