葬儀屋1
祖父が死んだ、そう聞いたとき、私は祖父の顔を思い出せなかった。
祖父の記憶は小さい頃にぼんやりと、会う事もなければ写真を見ることもなかった。
祖父の事に触れる事は、お父さんもお母さんも快く思っていなかったし、周りの人もみんな変わり者だと、いい顔をしなかった。だから私も自然と祖父の事には触れないようになっていって、私はその存在も忘れかけていた。
若い頃はなにかの研究所で働いていて、お父さんが物心つく頃には大学の先生をしていたらしい。でも、自分の研究に没頭するあまり、お父さんも、自分の生徒も顧みなかった人だと聞いている。
お母さんのお父さんとお母さんはおじいちゃん、おばあちゃん、お父さんのお父さんは祖父。口にすることはないがそういう風に私の中では自然に分けられていた。
その祖父が死んだと、近所の住民から連絡があった。
お父さんは、その事を夕食後、まるで会社の同僚の身内に不幸があったかのような私の知らない人の死を告げる距離感で話すものだから、私は一瞬、何のことか理解できなかった。
でも、それよりも予想外だったのはその後の言葉だ。
遺体の処理は頼んであるから特に気にする必要はないぞ。
そう冷たくお父さんは続け、お母さんも何も言わなかった。
遺体の処理って、お葬式は?
親父が死んだからって誰も参列者なんていないさ、周りの人も迷惑なだけだ。近所の人にはちゃんとお礼はする。
死んでも誰も悲しまない。お父さんはそういう人だし、お母さんはお父さんが決めたことにどうこう言うつもりもない。だからってそんなの、
だから私は、今の私になって初めてお父さんに逆らった。
そんなの悲しすぎるから、ちゃんとお葬式をしてあげようと、
だけどお父さんの心は動かなかったし、お母さんも味方をしてくれなかった。
でも、学校を休む許可をくれた。
『お前が、悲しんであげられるのならそうしてあげてくれ、私にはできない事だ』
そう思うなら、と。
でもお父さんはそういう人だ。自分にだって本当の自分を見せる事なんてない。お母さんや私にだって。あぁ、でも勘違いしてほしくないのは、そういう感情表現が苦手で、表情にも口にも出さないだけ、私たち家族を大切にしてくれる素敵なお父さんだってこと。
ただ、祖父の関係がだけが私たちでも入り込めないお父さんのトラウマ。
まぁ、そういう訳で私は一人この、県庁所在地から電車に30分、バスで20分。
記憶にはないが郷愁を誘うような絵に描いたこの田舎にお手頃な距離でやってきている。
一二美イロハは、手にした本を本棚に戻すと、本棚全体が大きく揺れる。
本屋敷、まるで本が主かのようにこの家にはいたるとこに本が置かれている。乱雑にというわけではないが、綺麗に棚には並んでおらず、床にも廊下にも文字通り、本の山が作られている。ここまでの数が置かれているとちょっとした狂気を感じてしまう。
手にした本はフランス語かイタリア語か、はたまたロシア語か英語ではないよく似た文字でつづられた、一切挿絵のない本。ここにはそんな本ばかりだ。。
昔の記憶はここまではなかった印象がある。記憶違いなのか、それともその後に集められたものなのか、記憶とも一致しない、よく知らないこの風景の中で
イロハは縁側に腰掛け、夕焼け空が収穫間際の稲穂を黄金色に染めていく景色に心癒されていく。葬式、火葬、納骨まで終わり、この家に戻ってきた。
まるで別世界にいるかのよう、知らない景色なのに、とても落ち着く、
日本人の心のふるさとのような景色だ。
虫が泣き、日が落ち始め、冷えてきた風が顔を撫でていく。
「綺麗な景色ですね。」
「えぇ、そうですね。」
イロハが声に反応し、振り返ると、同年代のスーツを着た男が、横に座る。
「本日はお疲れ様でした。」
「こちらこそ、色々とありがとうございました。」
彼は日内恋夜。今回祖父の葬儀を引き受けてくれた葬儀屋だ。年齢は17。
イロハと同い年、高校にはいかず、葬儀屋の仕事に就いたのだという。
黒のスーツと綿手袋が印象的で、目つきの悪さとスーツが似合う体つきで、威圧感があるが、丁寧な物腰と、細かな気遣いで、わずか2日でイロハの信頼を勝ち取っていた。
「これで一通りの葬儀は完了となります。後の事は全てこちらにお任せください。」
「すみません、私の祖父の葬式なのに何から何まで。」
「いいえ、とんでもありません。それより、お気持ちの整理はつきましたか?」
イロハは大人ばかりで、どうしていいかも分からない状況で、一番話しやすかったのがこの恋夜。恋夜に対して思わず、自分の本音を話していた。
「どうでしょうか、やれることはしてあげたんでしょうか?」
「私はそう思いますよ。イロハさんの涙が、何よりの供養です。」
「……見られてたんですか。」
「我慢するようなものではありませんよ。」
それ程知らないはずなのに、葬式の中で、もういなくなった、もうこのまま燃やされて何も残らない。何の思い出もないことが、死というものの実感が、イロハに何度も涙を流させることとなった。
「恥ずかしいな、黙ってくれていても。」
「それは状況によります。それより、お父様よりご連絡をお伺いしている限りでは、明日にはもうお戻りになると?」
「そうです。明日の朝のバスで。」
「よければ送っていきましょうか?」
「大丈夫です。お気になさらずに、それほど遠くありませんし、」
「分かりました。それでは何かありましたらご連絡を、明日は私共皆暇しておりますので。」
イロハは縁側のガラス戸を閉め、せめてものお礼にと居間で恋夜にお茶を出す。
「それにしても、すごい本ですね。」
「ほんと、でも何の本なんでしょうね。」
「多くは民俗学や歴史書ですね。書庫にある物は物理学に化学、そしてそこは数学に関するものの、どれもこれも中々どうして、ジャンルを問わず、場所も時代も問わず、」
「分かるんですか、書いてあること?」
「とてもじゃありませんが、今の僕では、ですが、貴重なものを多く、まるで宝の山ですよ。保存状態もいいですし、一度は時間をかけて読んでみたいものです。」
立ち上がり、初めて見せる年相応な楽しそうな表情にイロハは思わず笑ってしまう。
「あの、恋夜さん。よければ、欲しいものがあったら持っていってください。」
「そんな、もらえませんよ。」
「いいんです。どっちにしろこの家は来月には取り壊されます。ここにある本も、一緒に処分されてしまいます。」
「だとしてもです。ちゃんとしたところに持っていけば、ここにある本は正当な値段で買い取ってもらえますよ。」
「それこそ、だとしてもです。お金の問題じゃありません。恋夜さんが喜んでくれるなら、それに越したことはありません。明日、私ここを出る時、郵便ポストに鍵を入れておきます。よかったら自由に入って必要なものを持っていかれてください。」
「ですが、」
「いいんです。私にとってはどうしようもないものばかり、少しでもお役に立つのなら」
結局、抵抗感はあったものの、恋夜は最後にはお礼を言って家を後にした。