評伝「左近太」
■〈其の1〉左近太、諸国を巡る
「私のお祖父さん、あなたの曾お祖父さんは、岡山藩の剣術指南役じゃったんよ。お祖母さんは殿様の奥方様のお側近くに仕えとったから、それは行儀作法に厳しい人じゃった」
幼い頃、母に聴かされた話。試しに検索をかけてみると、出るは出るはの約3万件。曾祖父の名は奥村左近太。「明治を代表する二刀の剣豪」というのが大方の評価のようです。他に聴かされてきた逸話は、「御前試合で明治天皇が『あれが備前の奥村か!』と感嘆された」「没するまで丁髷を落とさなかった」という、かなりシブい話。
百歳近くで大往生するまで、一介の「剣士」として生きた祖父・奥村寅吉(左近太の長男にして、正統な剣技継承者。この人物の話もいつか書きます)──ちなみに、これって明治でも大正でもない、昭和40年代(1970年頃)の話ですので誤解なさらぬよう──を間近に見て育ちましたから、逸話自体はそう驚きもしないのですが、左近太の人物像がいまいちよくわからない。岡山県立図書館広報誌『真金倶楽部』から、そのプロフィールの一部を引用します。
──奥村左近太は岡山藩士奥村安心の子として天保13年(1842)岡山城下一番町に生まれました。早くから武道を好み、鴨方藩の剣術師範阿部右源次(直心影流)に師事して日々精進を重ねました。奥村家に残る『英名録』によると安政6年(1859)年、17歳の時に中国地方を中心に武者修行を開始しています。文久元年(1861)から翌年にかけては播磨・丹波・丹後・但馬・因幡、四国、九州へも足を伸ばしました。文久3年(1863)12月18日には師匠阿部から直心影流の免許皆伝を受けています。二刀流の研究、工夫を積んだのは文久の武者修行の頃からのようです。宮本武蔵の二刀(二天一流)が右足を出して正面に構えるのに対し、左近太の二刀流は「逆二刀」とも言われ、左足を出して剣を横に構え入身の姿勢を取ります。(以下略)──
奥村家は、儒学者の系統で代々岡山藩主池田家に仕えていたと記憶しています。どちらかというと〈文〉の色が濃い家ですが、幕末に突然変異のような〈武〉を専らにする人間が誕生したようです。
最初に武者修行に出た安政6年は、「安政の大獄」──井伊大老による攘夷派・一橋派・開明派の人びとに対する大弾圧に揺れた年(翌万延元年、桜田門外で水戸浪士たちによって井伊大老が暗殺されたのはご存知の通り)。次に西国を巡った文久元年~2年は、ロシア軍艦による対馬占領事件が起こるは、老中安藤政信が襲撃されるは(坂下門外の変)、薩摩藩主島津久光が大兵を率いて京に上って示威行動に出るは、同じ薩摩が生麦事件を起こすは、といった騒然たる年。
「攘夷か開国か!?」「勤王か佐幕か!?」。日本中が米欧列強の外圧と、権力の行方を巡って四分五裂、右往左往しているそのときに、ティーンエイジャー左近太は何を想っていたのか!?
■〈其の2〉左近太、免許皆伝を受ける
左近太が二回目の回国修行から帰り、師・阿部右源次から直心影流の免許皆伝を受けた文久3年(1863)、岡山藩は揺れていました。時代の流れに則した「尊皇」は既定路線だったようですが、「攘夷」という毒饅頭を喰らうべきかどうか!? 藩論をまとめるための、侃々諤々、喧々囂々の議論(つかみ合い!?)の果てに、「攘夷派」主導の一つの決断がなされます。
安政の大獄で蟄居謹慎処分を受けていた攘夷派の巨魁、水戸藩前藩主徳川斉昭の九男・茂政を、藩主慶政の養子に迎え入れ、第9代藩主としたのです。前年に将軍後見職に就いていた実兄一橋慶喜(3年後最後の将軍に補任されます)と歩調を合わせ、これで藩の行く末もひと安心……とはなりませんでした。
岡山藩は、備前一国を領する数少ない国持ち大名、外様の大藩です。江戸幕府成立直後から徳川家と縁戚を結ぶことで準親藩の扱いを受け、お家の安泰を図ってきました(お取り潰しの危機も何度か乗り越えています)。その辺に甘さがあったということなのでしょう。どうも、社会の動きに一周り遅れている感が否めません。
明治維新を主導した薩摩・長州・土佐など西南雄藩との意識の違いは決定的でした。なぜ、九州・本州・四国の、言葉は悪いですが「辺境」の彼らが維新回天を成し遂げられたかは、みなもと太郎著の超大作であり名著である、コミック『風雲児たち』|(リイド社)第1・2巻をご覧いただければわかります。お勧めです。
大政が奉還され徳川幕府が滅ぶ慶応3年(1867)まで残すところわずか4年。以後のジェットコースター状態を簡単にまとめると──
▼文久3年(1863)
徳川家茂将軍として229年ぶりに上洛・天皇に膝を屈す、
長州藩外国船を砲撃・報復される、
高杉晋作奇兵隊結成、薩英戦争、天誅組事件、
八月十一日の政変(七卿の都落ち)、新撰組結成
▼元治元年(1864)
天狗党の乱、池田屋事件、佐久間象山暗殺、禁門の変、
英仏蘭米の四国艦隊長州藩下関砲台占拠、
第一次長州征伐
▼元治2年・慶応元年(1865)
高杉晋作長州藩の実権を握る、天狗党大量処刑、
坂本龍馬亀山社中設立、武市半平太切腹
▼慶応2年(1866)
薩長同盟成立、寺田屋事件、第二次長州征伐、
将軍徳川家茂大阪城で薨去、
徳川慶喜・第15代将軍に補任、孝明天皇崩御
▼慶応3年(1867)
明治天皇践祚、高杉晋作死去、
船中八策起草(坂本龍馬・後藤象二郎)、
小御所会議~大政奉還、坂本龍馬暗殺、
王政復古の大号令、世直し一揆・打ち毀し頻発、
「ええじゃないか」大流行
お腹いっぱい以上の大事件の連続。日本は動いていたのです。さて、左近太は、そのときに何をしていたか。長男である祖父の寅吉が勤王家だったことから推量すると、左近太も尊皇の気概にあふれていたと思います。ただ、いまさら「攘夷」云々で、不毛な堂々巡りを繰り返す藩中枢に対して、ある種超然とした立ち位置を崩さなかった。そんな感じがします。
権謀術数や名利栄達とは無縁の、剣を極めること。これはこれで、時代の流れとは極北にあるアナクロニズムなのかもしれません。幕末は剣豪・剣客が輩出した時代です。ただ彼らの多くは、維新争乱の渦中に自ら身を投じた(または、翻弄された)。21歳。左近太は、そんな時代のくびきからも自由だったのかもしれません。
■〈其の3〉左近太二刀流開眼
直新影流の免許皆伝を受けてから、左近太は二刀流にのめり込みます。二刀流といえば、二天一流・宮本武蔵。中村錦之助(後の萬屋錦之助。古いなぁ!)が映画(*注1)で演じた武蔵は凄かった。
巌流島の決闘に至る前の、最大の見せ場。武蔵は、京都郊外の一乗寺下がり松で宿敵吉岡道場一門と闘います。大挙して押し寄せる敵方の裏をかくために、身を潜めて待ち伏せする武蔵。物陰から躍りだした武蔵は、名目上の総大将とされた一族の少年を、無惨にも一刀両断にします。そして、追いすがる門弟たちを泥田のあぜ道に誘い込み、開眼したばかりの二刀を振るい一人ずつ斬り伏せる。斬り結んだ相手は70人以上。ひたすら走り、泥と血にまみれ、一対一の状態を崩すことなく闘い続け、死地を脱する。映画史に残る凄絶な大立ち回りです。
果たし合いとはいえ、年端も行かぬ少年を斬らねばならなかった武蔵の悔恨と、多くの人を死地に追いやった〈己の剣〉への疑念の行方は、映画と原作である吉川英治版『宮本武蔵』、そして原作にインスパイアされた井上雄彦のコミック『バガボンド』(講談社)に譲ります。
持ったことはありませんが、本身の日本刀はかなり重いと聴いています。嫁入り道具で持たされたという母の懐刀(武家の女性が帯に差しているやつです)ですらけっこう重い。余談ですが、母は嫁入り前夜に祖父から「離縁されるようなことがあったら、これで喉を突いて死ね!」と懐刀を与えられたそうです。18歳だった母は、疑うこともなく「はい」と答えたという……。江戸時代の話ではありません。昭和10年(1935)の話。実話です。
両手で持つだけでも力のいる刀を二刀、片方は脇差しであるにせよ、自由に操るというのは至難の業でしょう。相当な膂力がないとほぼ不可能。二刀流が剣術・剣道の主流でないのは当然のことですね。しかし左近太は、二刀を極めることに邁進します。さてその剣技は、どういったものだったのか!?
*注1 映画『宮本武蔵』(監督・内田吐夢/製作・東映):1961年~65年にかけて公開された全5部の時代劇大作。「第一部 宮本武蔵」「第二部 宮本武蔵 般若坂の決闘」「第三部 宮本武蔵 二刀流開眼」「第四部 宮本武蔵 一乗寺の決闘」「第五部 宮本武蔵 巌流島の決闘」。ちなみに最大のライバル・佐々木小次郎は若き日の高倉健が演じています。
■〈其の4〉左近太、入身に構える
Wikipediaによれば、左近太は回国修行中に、伊予西条藩士・高橋筅次郎(田宮神剣流)が二刀を見事に操るのを見て、その魅力にとり憑かれたようです。ともかく二年間かけて、左近太は、独自の工夫を重ねた奥村二刀流を編み出します。残念なのは、資料がなくて、その剣技の実際がわからないこと。数少ない記述は以下の二例です。
──宮本武蔵の二刀(二天一流)が右足を出して正面に構えるのに対し、左近太の二刀流は「逆二刀」とも言われ、左足を出して剣を横に構え入身の姿勢を取ります。(岡山県立図書館広報誌『真金倶楽部』より引用)
──左の大刀を横一文字に、右の小刀を大刀に交差し頭を庇いながら腰を引き、前かがみにする構えの奥村二刀流を編み出した。(Wikipediaより引用)
なにっ!? 大刀は左手で持っていたのか! しかもそれを横一文字に構える……。サウスポーだったのでしょうか、左近太は? 僕が持っている数少ない資料、岡山市にある備前法華の古刹「蓮昌寺」に併設された剣道場の機関紙『剣道 蓮昌寺道場』の1971年(昭和46)7月1日号に、奥村二刀流を感じられる記述があります。この号は、同年6月1日に亡くなった僕の祖父・奥村寅吉(左近太の長男)を追悼するために発行されたものです。B5判・10ページにわたって、没する直前の祖父から、奥村二刀流と武蔵流二天一流の免許皆伝を許された山根鏡水さんという方が、祖父の思い出とその事蹟を縷々綴ってくださっています。
生涯の弟子数2万人近くという、左近太と同様に二刀流に取り憑かれた男・寅吉の話はいつか書きたいと思っていますが、ここは、そこに記載されている祖父の生の声を転載します。(僕の記憶にある祖父の口調──岡山弁に書き直していることをご了承ください)
──この二刀流は、構えの上じゃあ少ぉし違いがあって、たとやぁ(たとえば)、武蔵流が右足ぃ(を)出して正面に構えるのにてゃあして|(対して)、奥村流は左足を出して太刀を横に構えてのぅ、入身の姿勢となる。
構えの上じゃあ違う二刀流じゃが、左右の二刀を同じように使いこなせにゃぁならん点に差はねえ(ない)。二本の刀ぁ(を)持っとっても、両手を自由に動かし、一刀を使う域にならにゃぁおえん(ならねばならぬ)。もちぃと(もっと)言うなら、二刀流も一刀流ものうて(なくて)、刀が自分の軀の一部になったときに、はじめて二刀流は生きるんじゃ。
本来剣道には二刀流も一刀流もねえ。わしが好んで二刀流を学んだんは、その気迫に惹かれたからじゃ。二刀流いうたら(といったら)、守りの剣みてゃあ(みたい)に思われがちじゃが、本当はその反対。二刀を構えて、常にじりじり相手に迫っていくゆうんが(いくというのが)、一つの特徴じゃ。軀も心も常に前進していくいう姿勢……そこが面白ぉて(面白くて)、二刀流を極めよう思うたんじゃ。(以下略)──
「左足を出して剣を横に構え入身*の姿勢を取り」「頭を庇いながら腰を引き、前かがみにする構え」。
「入身」という言葉が、いまいちよくわからない。イメージできるのは相手の懐に入って勝敗を決するということ。「身を捨ててこそ浮かむ(ぶ)瀬もあれ!」ということなのだと思います。「腰を引いて前かがみに構え」というのも、不格好に思えますが、祖父の言を借りるなら(及び腰ではなく)相手を追いつめるための必勝の構えということになりますね。「入身」については「YAHOO! ブログ」にとてもわかりやすい記述がありましたので、以下に引用させていただきます。
──YAHOO! ブログ「剣居弓な日々」2010/9/14(火) から引用 。(前略)剣道では入身という表現をあまり使いません。体術の方では「入身」は、たいへんに重要な言葉で、一種の極意かとも思われるほどです。其処へ入ってしまえば、相手は無力化され、打ち突き投げ、自由に技が掛かってしまいます。反対に相手から入身されると、死命を制せられてしまいます相撲で言えば、立合すっと懐に入って前ミツをとってそのまま上手出し投げ、のような感じでしょう。(中略)剣道も入身があるんじゃないかと思います(小太刀でなくて)。向かい合って気を張り合って竹刀がぶつかっている所でスルッと入れるところがある。入ったらマゴマゴせずに打突。よく触刃から一足一刀まで攻め入って、入ったら直ぐ打てと言いますが、なかなか当たらないものです。打てるところまで入るのが「入身」なので、技が掛からないのはおかしい。それは入ったのに相手が崩れてないか、自分の体勢が崩れているから。攻めは、一足一刀の時点で勝って無ければいけない、それでこそ「勝って打つ」が可能になる。どう入るか、いつ入るか、そのための準備とは何か、そういうことが大事なようです。(後略)──
なんか、ヒリヒリします。幕末・明治・大正はもちろん、昭和ですら、いまや遥か記憶の彼方。でも、自分の、わずか二代・三代前の人たちが、こういう世界に生きていたということは、実に感慨深いです。
■〈其の5〉左近太、時代の流れに、ささやかに抵抗を試みる
「逆二刀」と呼ばれる、独自の剣技「奥村二刀流」を編み出した左近太は、1863年(文久3)からしばし歴史の舞台から消え去る……なんて、そんな大げさ話ではないのですが、なぜか記録が見当たらなくなります。
ポーズとしての尊王攘夷を標榜しつつ、日和見の立場を堅持(?)した岡山藩は、1868年(慶応4・明治元)藩主茂政の実兄、最後の将軍・徳川慶喜に対する追討の勅令が出されるや、早々に次の一手を打ちます。茂政を隠居させ、支藩である備中鴨方藩主の池田章政を養子に迎えて、第10代藩主としたのです。そして、戊辰戦争に際しては新政府軍の一角に名を連ね、関東、奥羽から函館にまで兵を進めています。
右顧左眄|(うこさべん=日和見主義)という難しい言葉がありますが、幕末の岡山藩はまさにそれ。主体なく、折々の大きな流れに翻弄されるまま、時代をただ浪費していた感があります。でも、それを責めることはできないですね。結果として、大きな損耗もなく明治の世を迎えることができたわけですから。
戊辰戦争に左近太が従軍したかどうかは、わかりません。戦地に赴いていれば、何らかの逸話が残されていると思うのですが、それもない。時代の動きとは別の場所で、ひたすら剣を極めるために稽古に励んでいたのでしょうか。それもまた左近太らしいのかもしれません。しかし、時代は待ってはくれない。武士が刀を捨てなければならない現実が訪れるのです。
1871年(明治4)は、いろいろな意味で、江戸時代に決別を告げた年でした。
まず7月に廃藩置県が実施されます。1869年(明治2)に版籍奉還(大名が領地と領内に暮らす人びとの所管を明治政府に返上した)は行われていたのですが、大名は知藩事(藩知事)として、そのまま実質的に〈旧藩〉を支配していました。しかし、ついにお殿様たちが去るときが来たのです。廃藩置県によって、現在に至る「府県制度」(都という行政単位=東京都が設置されるのは遥か後の1943年[昭和18]です)がはじまったのです。
続く8月、士族(旧武士)に対して、帯刀・脱刀は自分で判断しろという、散髪脱刀勝手令が発せられます。「刀を持つ持たないは各自の判断に委ねる」というのはわからないでもないですが、〈散髪〉をことに強調しているのが面白い。丁髷に刀という、時代劇でおなじみの〈さむらい〉姿をやめた方がいいんじゃないの……と、国からやんわりと、しかし〈やめないと、そのうちお仕置きするよ〉と通達されたわけです(法律で刀を身につけることが禁止されたのは1876年[明治9]です)。左近太が刀を置いた時期は判然としませんが、彼はささやかな抵抗を試みます。「髷だけは落としとう(たく)ない!」。1903(明治36)に没するまで、周囲の目もなんのその、左近太は丁髷姿を崩すことはありませんでした。
さて本題に戻りましょう。1871年(明治4)から、左近太についてのさまざまな記録も復活します。
同年、左近太は岡山藩の武道鍛錬所「武揚館」の一等教授に就任します。これです、本稿冒頭の母の述懐「私のお祖父さんは、岡山藩の剣術指南役じゃったんよ(だったのよ)」を裏付ける話は。なるほど、自分の流派を打ち立てて以来、彼は藩士たちに剣術を教授していたのですね。失礼しました。時代とは別の場所……ではなくて、剣道場で自分のやるべきことはやっていた。しかし、一等教授になったのが27歳ですから、幕末の激動期は20代前半です。うむ、噂に違わぬ、相当な、早熟の剣豪だったのですねぇ……。
そして同時に、彼は藩の大参事(副知事。旧藩の家老に相当)に任命されています。ネットしか調べる方策を持たない哀しさですが、いろいろと調べたものの、公式であろうと判断できる記録に「大参事・奥村左近太」という名前は確認できませんでした。先にも書きましたが、同年はまさに、武士が武士でなくなることを運命づけられた年です。憶測ですが、この重い役職は、殿様が去ることが決まり、二百数十年続いた〈国〉の実体が失われようとするそのときに、剣による奉公に対して左近太に与えられた、名誉職だったのではないかと思います。
僕が見聞きした範囲だけでも、殿様(現当主・池田隆政氏 *注1)と奥村の家との交流は続いていました。左近太が終焉間際の岡山藩に刻んだ記憶は、想像以上に深く、重かった、ということなのかもしれません。
*注1 池田隆政:2012年(平成24)7月21日逝去。85歳でした。お子さんはおられず、これで岡山藩・池田家の血統は絶えることになるのでしょう。ご冥福をお祈りします。
■〈其の6〉左近太、撃剣大会に臨む
左近太が「武揚館」の一等教授及び藩の大参事を拝命して、岡山藩は消滅しました。知藩事であった殿様は失職し、政府から華族として東京移住が命じられます。左近太はしかし、感慨に耽っている暇はなかったようです。俸禄(給与)を失い、路頭に迷いかねない藩士たちを「なんとかせにゃならん!」。幕末の岡山藩士は約6千500名(*注1)。3万石以上という、下手な大名より禄高の高い筆頭家老の伊木家といった大身はともかく、大半の藩士たちは、自分で食い扶持を稼がねばならなくなったのです。
名称以外具体的な活動内容がわからないのですが、左近太は「協信社」という団体を設立しています。士族(旧藩士)の経済的な自立を目指したというのですが、ほどなく経営破綻。仲間たちと語らって商売をはじめようとしたのか、資金を集めて困窮する士族たちを援助しようとしたのか。目的と失敗の原因はわかりませんが、現状を黙って見過ごすことをよしとしない、左近太の心意気だけは伝わってきます。「協信社」はしかし、岡山城内に剣道場を構え、武術団体として存続することになります。
岡山駅の西口近くに「奉還町」というところがあります。岡山藩から下賜された「奉還金」を元手に商売をはじめた藩士たちが集まり、商店街になった古い町です。岡山市の行政・商業の中心は駅の東側に集中しています。僕が育ったのはその東側で、奉還町については、なんか古めかしい下町っぽい商店街という印象しかないのですが、戦前から戦後にかけての一時期は相当栄えていたようです。「武士の商法」が150年以上の歴史を刻んだ珍しい例だと思います。
最近は、廃業した店舗を若者たちが借り、いまどきのスタイルに改修して色々な商売をはじめて、注目されているようです。余談ですが、先日帰郷した折り、奉還町の路地を入ったところに、安くて美味い、小さなビストロというか、欧風料理屋を見つけました。髭のシェフの心地良い応対も含めて、料理の話はいずれ……。
閑話休題──。
40歳を越えてから、左近太の動きは激しくなります。次々と大きな撃剣(剣道)大会に出場し、大いに武名を高めます(以下の戦績は『真金倶楽部』から引用します。出典も同様)。
◎1884年(明治17)11月8日
▼警視庁主催・向ヶ岡弥生社撃剣大会(東京本郷)
左近太 負・・勝 朽原義次(柳剛流)
左近太 引き分け 真貝忠篤(田宮流)
左近太 勝・・負 逸見宗助(立身流)
左近太 勝・・負 松崎浪四郎(神陰流)
左近太 勝・・負 上田馬之助(鏡新明智流)
※同年12月24日付『山陽新報』より
対戦相手は、警視庁撃剣世話掛(師範)を任じられた、当時日本最強を謳われた剣豪たち。
しかし、1日に5試合というのは、かなりキツいと思います。初戦で敗れた朽原義次の柳剛流は、18世紀に創設された古武道。最大の特徴は「臑斬り」と呼ばれ、いきなりすねに剣を打ち込むという、トリッキーな剣法だったようです。しかし、負けは負けだ。左近太は、気を鎮めて次の試合に臨みます。
徳川幕藩体制からの決別を急いだ明治政府の、急激というか、極端で滑稽な欧化政策はいろいろありますが、剣術もその俎上に載せられていたようです。「日本刀などいうものは過去の遺物。警察官、軍人はこれからはサーベルを剣術の本義とすべし……」。そんな風潮もあったようです。
夷狄(いてき=差別語です。外国人に対して敵対&侮蔑する意を込めた言葉)の剣術を学べだと!? 当然、士族たち(旧武士)は反発します。特権を失い、刀を取り上げられたうえに、この仕打ちか!?
江戸時代は、草創期・幕末を除けば、まさに天下泰平を謳歌した時代。刀は抜くべからざるもの。これが江戸時代のジョーシキ、侍の不文律でした。時代劇のようなチャンバラはあり得ない時代。だからこそ、赤穂浪士の討ち入り事件とかが、とんでもないニュースとして語り継がれたわけです。
何らかの理由があって、刀を抜くことになったら最後、侍たちには過重な責任が課せられました。最終的に「あっぱれ!」と賞賛されようが、切腹を含む重罪が科せられようが、とにかく結果(=相手を討ち果たすこと)を残すことが必須条件だったようです。これは辛いですよね。
(嗚呼、話がまた逸れていってるなぁ……えぇいッ、幕末に話を戻します)
空気が一変したのは幕末です。欧米列強の軍事力を目の当たりにして、「もはや刀槍の時代ではない!」という認識はあったにせよ、幕末維新を生き、死んでいった志士・浪士たちは、刀で事の決着をつける狂熱にどっぷり浸かっていました。
そんな空気、熱気が色濃く残る明治初期のサーベル導入方針。真っ先に異議を唱えたのが警視庁でした。全国の腕自慢の士族を集めて、古来の剣術を守ろうとしたのです。彼らが名をあげたのは1877年(明治10)、西南戦争最大の激戦・田原坂の戦いでした。
西郷隆盛という史上稀な本物の〈カリスマ〉を大将に戴き、抜刀して白兵戦を挑む薩摩士族軍に、徴兵された平民(旧農民・町人)を中核とする明治政府軍は、なすすべもありませんでした。そこに投入されたのが「警視庁抜刀隊」です。警察官が戦争に投入されるというのは、いまの感覚からすると違和感がありますが、当時の政府には、これしか打開策がなかったのかもしれません。
ともあれ「警視庁抜刀隊」は、相当な損害を受けながらも戦況を一変させる活躍を見せ、剣術・日本刀の威力を再認識させたのです。
*注1 岡山藩士は約6千500名:WEBサイト「Essay幕末物語 幕末千夜一夜」による。
■〈其の7〉左近太、新たな境地に至る
警視庁主催の「向ヶ岡弥生社撃剣大会」は続きます。(左近太の戦績を再録します)
◎1884年(明治17)11月8日
▼警視庁主催・向ヶ岡弥生社撃剣大会(東京本郷)
左近太 負・・勝 朽原義次(柳剛流)
左近太 引き分け 真貝忠篤(田宮流)
左近太 勝・・負 逸見宗助(立身流)
左近太 勝・・負 松崎浪四郎(神陰流)
左近太 勝・・負 上田馬之助(鏡新明智流)
※同年12月24日付『山陽新報』より
初戦に敗れた左近太は、2戦目を引き分けに持ち込みます。(対戦相手の記載はWikipedia掲載情報を基礎資料にしています)
対戦相手の真貝忠篤は、同い年の天保13年生まれ。窪田派田宮流、いわゆる居合の達人です。「小手斬り真貝」という異名を得ていたといいますから、妄想するに、相手の動きを捉えて瞬時に小手を打ち込み(真剣であれば刀を持つことを不能とする)、勝敗を決していたのでしょう。とすれば、左近太は、真貝にとってやっかいな相手だったと思います。「左近太、入身に構える」の項で書きましたが、大刀で頭をかばいながら腰を引く「入身」に構え、隙を与えず勝機を見いだすスタイルの左近太にしてみれば、真貝が動いたときこそがチャンス。ということはこの対戦、互いに「動けば負けだ」という状態にあったのではないでしょうか。
刃(竹刀)を交えたのかどうかはわかりませんが、勝機を見いだせないまま、この試合は引き分けたような気がします。でも、それはそれで、精神的な疲労は相当あったはずです。中国・四国地方では、若くして剣豪に列せられていた左近太にとって、初戦・第2戦は、「井の中の蛙」を身にしみて感じる出来事でした。「上には上が、おるもんじゃのぅ(いるんだなぁ)」。しかも、負けるかもしれない相手が3人残っている。乱れる気持ちにどう折り合いをつけたかはわかりませんが、左近太は続く試合に臨みます。
3戦目は、ある意味メインイベントでした。対戦相手は逸見宗助。旧佐倉藩藩士で立身流居合の宗家生まれ。第5戦でまみえる上田馬之助らとともに、最初に警視庁撃剣世話掛に任じられ、警視庁流剣術・居合・柔術を体系づけた逸材です。年齢は左近太の一つ下。
ふらっと入った書店で、なにげに剣豪本を立ち読みしていたときに、逸見の項に目がとまりました。剣客・剣豪に類する話は、わずかな読書歴しかよりどころがないのですが、こういった話を書きはじめてみると、彼らのやっていたことには、ただ驚かされることばかりです。
同書に曰く(申し訳ありません、書名を失念しました。記憶も曖昧です)──逸見は、刀を逆に差していた。時代劇ではおなじみですが、江戸時代の侍はふつう、刀の湾曲した部分を下に向けて腰に差していますよね。でも、この逸見という人は、湾曲した部分を上に向けていたというのです。ときあらば、低い姿勢から一気に斬り上げる! 殺気に満ちた剣法ですよね。
また居合いか!? しかも、剣名轟く対戦相手。左近太は、どのように挑んだのでしょうか。
Wikipediaの「逸見宗助」の項に、ヒントとなりそうな記載があるので引用します。この対戦からわずか1カ月後、警視庁を震撼させる出来事がありました。
──滋賀県県令籠手田安定が関西の剣客を引き連れ警視庁に試合を挑んだ。滋賀県警察部の高山峰三郎(直心影流)に撃剣世話掛30余名が連破され、総崩れ寸前となったが、最後に受けて立った逸見が得意の上段の構えから小手を決めて勝ち、警視庁の面目を保った。(以下略)──
「上段から小手」というのは重要なキーワードですね。手練の剣士がまみえた場合、「面」とか「胴」「突き」といった、素人のわれわれがイメージしやすい、いわば派手な決め技というのは、難しいのではないでしょうか。
内田樹著の『日本辺境論』(新潮選書)に「石火之機」という、沢庵禅師(*注1)の教えについての興味深い記述があります。「石火」というのは、火打石を打ったときに飛ぶ火花。刹那とも思われるその瞬間こそが、死生を決する。ただしこれは相当難しくて、何かにとらわれている限りこの境地には立てない。邪念の一切ない、無意識の意識というか、「勝ちたい」などいう思いはもちろん、「隙あり!」といった瞬間の意識さえ超越した境地だそうです。
再度、『剣道 蓮昌寺道場』の1971年(昭和46)7月1日号から引用します(執筆:山根鏡水さん。原文ママ)。
──先生(*筆者注:左近太の長男・寅吉)が10歳ごろ(筆者注:1888年[明治21]頃)、埼玉県秩父の出身で当時日本一の高野と云われた、無刀流の達人山岡鉄舟先生の門下で小野派一刀流高野佐三郎先生(*注2)が、備前に〈奥村〉ありこの奥村をやぶらねば、〈日本一〉でないと江戸(東京)より備前(岡山)までわざわざこられ奥村左近太先生と試合をされました。その試合ははっきりと脳裏に残っておられるとのこと、火のような気迫が自宅の道場にみなぎり、先生(*同筆者注)もみておられて、ぴりぴりと伝わったそうです。同時に両者が竹刀を構えたときは、まるで深山の奥の湖水のように冷静な空気になったことを覚えていて「これこそ剣の道である」と考え、ひたすらにけいこを続けられたそうです。(以下略)──
高野、左近太、いずれが勝ったのか負けたのか、そんなことはどうでもいい、といった気分になります。互いがどう動き、いかに竹刀を交えたのか、それはまったくわかりません。「石火之機」を見いだす、いやその刹那に身を委ねられるのは、「まるで深山の奥の湖水のように冷静な空気」(明鏡止水というやつですね)を創りだせる剣士だけに与えられる特権=gift(神からの贈り物)なのでしょう。
話を試合に戻します。
またまた妄想です。入り身に構え、じりじり迫ってくる左近太に対して、逸見は上段から、勝敗を決するその刹那が訪れるのを静かに待っていた。左近太の無意識が軀をかすかに揺らしたのか、逸見の竹刀が動いた瞬間、周囲はどよめきに包まれた。「勝負あり!」。右半身で上段から振り降ろされる竹刀を受けつつ懐に入った左近太の小太刀が、逸見の竹刀を打ち落としていたのである(妄想のあげくの与太話ですので、お許しを)。
逸見敗れる! 警視庁の剣士たちに衝撃が走ります。左近太はすでに、言葉は悪いですがトランス状態(=明鏡止水)にあったと思います。「勝たねば!」という思いに駆られた続く二人の対戦相手──一本目は必ず取ると言われたほどの達人・松崎浪四郎、竹刀で木の板を貫通させることができ、実演してみせることもあったという上田馬之助──は、もはや左近太の敵ではありませんでした。
確証はないのですが、この撃剣大会以後、左近太は、公式の試合で負けたことはなかったようです。
*注1 沢庵禅師:澤庵宗彭。安土桃山時代から江戸時代前期にかけてさまざまな事蹟を残した臨済宗の高僧。吉川英治版『宮本武蔵』では、武蔵の生き方に大きく影響を与えた存在として登場する。「石火之機」は、沢庵が徳川幕府の兵法指南役・柳生宗矩に書き与えたといわれる書物『不動智神妙録』に収められている一節。沢庵は同書で、「剣法(兵法)と禅の一致」=「剣道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同じであるということ」(大辞林)と説いたそうです(剣禅一致/剣禅一如、剣禅一味とも言われる場合があるようです)。
*注2 高野佐三郎先生(Wikipediaより編集引用):(たかの・ささぶろう)。1862年(文久2)生まれ。1950年(昭和25)没。日本の剣道家(中西派一刀流剣術、大日本武徳会剣道範士)。武蔵国秩父郡(現埼玉県秩父市)に生まれ、幼年時から祖父で忍藩剣術指南役の高野佐吉郎苗正に小野派一刀流剣術を学ぶ。5歳のとき忍藩藩主松平忠誠の御前で小野派一刀流組太刀56本を演武し、「奇童」の二字と脇差・銀一封を賜る。少年時には「秩父の小天狗」の異名をとる。山岡鉄舟に師事。1886年(明治19)から警視庁・本所元町署撃剣世話掛(剣術師範)を務め、「警視庁の三郎三傑」の一人に数えられる。1888年(明治21)埼玉県警察本部武術教授に転勤。1908年(明治41)東京高等師範学校講師に登用され、のち教授に昇任。大日本帝国剣道形の制定、学校剣道の指導法を考案し、諸学校で指導する。また道場明信館・修道学院を創立し多数の剣道家を輩出。近代から現代にかけての剣道の第一人者となり「昭和の剣聖」と称された。
■〈其の8〉左近太、ついに敗れる
ふと思いました。左近太は東京にどうやって出かけたのだろう。
僕は岡山で生まれ育ち、いまは東京で暮らしているので、その往復にはいろいろと思い出があります。
はじめて東京を訪れたのは、確か7歳頃。母に連れられ、早暁に岡山駅を蒸気機関車(古ッ! いつの時代の話しでしょうね……)で起ち、大阪で特急「こだま」(新幹線ができる前の最速特急)に乗り換えた。大阪に至る前の、神戸・三宮駅にあった、富士山を象った山一證券の広告が、妙に印象に残っています。岩塊の伊吹山を見て「あれ、富士山!?」と、大声で母に尋ねて恥ずかしがられたことも記憶している。
まぁ、1960年代(昭和35頃)初頭の日本なんて、そんなもんだったのです。大阪から最速の電車特急で約6時間30分。岡山から積算すると、おそらく10時間以上。東京は、遠かった。
日本で最初の鉄道が開業したのは1872年(明治5)。有名な「汽笛一声……」、新橋−横浜間の運行です。大阪−神戸間が開通したのが1874年(明治7)。東海道線の全線開通は1889年(明治22)。山口県の馬関(現在の下関)から神戸間の山陽鉄道(当時私鉄)が全通したのは1901年(明治34)。ほぼ30年をかけて、いまの東海道・山陽新幹線エリアを敷設したことになります。
てことは、1884年(明治17)の「向ヶ岡弥生社撃剣大会」には、左近太は山陽道、東海道をてくてく歩いたことになる。岡山~東京はおよそ700キロ。でも昔の人にとって、そんなことはあたり前ですよね。
岡山の殿様の参勤交代の道中を描いた、オノ・ナツメ著のコミック『つらつらわらじ』(講談社)によれば、岡山~江戸の行程は約20日間。予め幕府に届けでた行程に従い粛々と進む大名行列とは違って、2度の西国回国修行を体験していた左近太の道中は、速かったような気がします。夜明け頃に宿を出てひたすらに歩く。11月ですから、午前6時すぎに日が昇り午後5時前には日没です。1日約11時間。日がある間に距離を稼ぐとして、徒歩1時間=4キロとして約44キロ。日頃軀を鍛えていた左近太ですから、もう少し距離を稼げるとしても1日50〜60キロ弱がせいぜいではないでしょうか? 約15日間ひたすらに歩き続ける。いや、昔の人ってすごいですね。
またまた余談ですが、『つらつらわらじ』は大変面白いです。岡山藩第5代藩主・池田治政をモデルにしたと思われる備前少将・熊田治隆一行の道中記(全5巻)。先に「……行程に従い〈粛々〉と進む大名行列……」と書きましたが、〈粛々〉とはいかない道中模様が、淡々とした筆致で、しかしドラマチックに描かれています。好みは分かれるようですが、僕は画の巧さにヤラれました。大胆なコマ割りと流れるようなデフォルメ。手練の漫画家だと思います。
この漫画を読むまで、寡聞にして知らなかったのですが、この池田治政(熊田治隆)は、随分と面白い人だったようです。数寄者にして、不粋な幕政を嘲笑し抗い続けた反骨の人、いや、意識的へそまがり。魅せられますよ、かなり。詳しくはコミックをお読みください。
左近太の話しに戻りましょう。
警視庁の剣豪たちを撃破して、その剣名は全国に轟きます。ついでといってはなんですが、当時、左近太の写真が芸者衆の間で大層な人気を博した、という話もあるようです。プロマイドですね。
彗星のごとくに帝都に現れた、二刀を操る異能の剣士。玄人筋にウケるというのは、なかなかのものですね。酒が一滴も呑めず、大好物が甘いものだったという左近太には、まったく意味のない話しだったかもしれませんが……。
もてはやされたという写真がどんなものだったかはわかりません。奥村の家は、日本人としては彫りの深い、なんとなくインド系の顔立ちというのが僕の認識ですが、残されている本人の写真(*注1)は、そうでもない。ただ、いまは失われてしまった、かつてこの国の人たちの多くが、自ずと身につけていたはずの「凛」とした雰囲気が漂っていることは確かです。
記録にあるその後の戦績は以下の通りです。
◎1885年(明治18)7月20日
▼湊川神社楠公五百五十年祭奉納試合(神戸)
左近太 勝(2−1)負 高橋筅次郎(田宮新剣流)
左近太 勝(2−0)負 高山峰三郎(直心影流)
※『大日本剣道史』より
◎1885年(明治18)8月6日
▼明治天皇岡山巡行による天覧試合(岡山後楽園能楽堂)
※戦績不明
◎1894年(明治27)11月2日
▼日清戦争戦捷祝賀撃剣大会(天覧試合・広島大本営)
左近太 引(1−1)分 松崎浪四郎(神陰流)
左近太 勝(2−1)負 小南易知(無刀流・山岡鉄舟の高弟)
広島大本営の試合で「あれが備前の奥村か……」と、明治天皇が賞賛されたという話しが残されています。でも、その9年前、岡山後楽園ですでに天覧試合を行っているわけですから、これは伝説の類いでしょう。撃剣大会を好んだといわれる明治天皇が、その度ごとに、左近太をマッチメイクするよう指示したという逸話もあるようですが。
そして翌年の1895年(明治28)。設立されたばかりの「大日本武徳会(*注2)」演武大会で、左近太は直新影流の得能関四郎(*注3)に敗れます。10年間負けなかったことに決着がついた。悔しさと安堵の気持ちが相半ばする試合だったのではないかと思います。
ひとつの区切りがつきました。左近太は、維新以来務めていた、旧岡山藩が庶民を教育するために設立した日本初の藩校・閑谷学校(藩士を教育する藩校「藩学」とは別に設立された、非常に稀な学校。現岡山県立和気閑谷高等学校)と、岡山県警察の剣術師範の職を辞し、京都へ居を移します。1899年(明治32)、大日本武徳会の本部教授に任命されたのです。
しかし3年後の1902年(明治35)、病をえて左近太は岡山に戻ることになります。胃病だったようです。死の寸前、当時京都の皇宮警察に勤務していた長男の寅吉(僕の祖父)を呼び戻し、奥村二刀流の奥義を伝えました。「おめぇ(お前)にやるもん(もの)がある……。それは、わしの剣じゃ」と祖父に言ったそうです。1903年(明治36)1月11日没。享年61歳でした。
「天下の剣客をいふもの、先づ備前の奥村に指を屈せざるはなし。(中略)アア技の小、芸の微なるも、その妙神に入れば、則はち千歳に伝へて朽ちず。況んや剣はわが国の士道として重んぜられたるものなるをや」(『真金倶楽部』から引用。1903年(明治36)1月13日付『山陽新報』に寄せられた悼辞より)
剣を極めることだけに生きた、こんな人物がいたことを、何かの折りに一瞥していただければ大変嬉しく思います。
最後に、余談を三つほど。
東京の新聞『今日新聞(*注4)』の、有名人のうわさを伝える雑報に、以下の話が掲載(*注5)されたそうです。
──1884年(明治17)11月27日、山岡鐵舟(*注6)は東京で、備前(岡山県)の剣客奥村左近太と剣術試合に臨んだ。「奥村氏は新陰流二刀を使い、向かうところ敵無く破れることまれなり、山岡氏は平常素面ながら昨日は道具を付けて臨み、三本とも勝ちを得たり」──
11月27日というと、「向ヶ岡弥生社撃剣大会」の19日後。左近太は、死闘を演じた剣豪たちとはまた別次元の高名な「剣聖」を訪ね、竹刀を交えた。鐵舟は左近太の6歳年長で、当時48歳。10年間務めた明治天皇の侍従職を辞したばかりのころ。
(ふむ、これがうわさに高ぇ奥村二刀流か、油断ならねぇぞ……[*注7])
残念ながら左近太は一本も取ることができなかった。ふたりがどう立ち合ったのか、わずかな記事からは妄想するヒントすらありません。ただ、「……平常素面ながら昨日は道具を付けて臨み」という一節に、仕合に臨む鐵舟の意気込みだけは感じられます。(以下、妄想会話です)
「みゃあり(参り)ました。このようなききゃあ(機会)をちょうでゃあし(頂戴し)、忘我の極みでござります」
「こちらこそ礼を言いてぇ。奥村さん、見事だったよ、お前ぇさんの太刀筋は。真剣なら、おいら、殺られてたかもしんねぇ……」
「剣客」の域を超越した人物の心魂を、竹刀を通して感じることができた。静かに面を取り一礼する左近太のこころは清々しかったのではないか、と思います。
二つ目は岡山城にまつわる話。維新後、全国各地で城の取り壊しブームが起こります。城は、徳川幕藩体制の象徴ともいえる存在だったのでしょうが、貴重な文化遺産が多数、いとも簡単に破壊されました。
タリバンが、バーミヤンの石窟仏像を爆破したことと似通った印象を受けますが、彼らには「偶像崇拝は認めない」という、まだしもの大義がある。新政府に恭順の意を表するためだけのムーブメント=暴挙。もったいないですよね。
信長の安土城の特徴も備えているともいわれ、姫路の「白鷺城」に対比される、漆黒の「カラスの城=烏城」と謳われた岡山城も、その破壊の対象とされていました(ちなみに、世界遺産の姫路城を築いたのは岡山の殿様・池田氏です)。
左近太は、当時の岡山市長とともに保存を嘆願し、天守閣(国宝)と月見櫓(重要文化財)を残しました。その天守閣は1945年(昭和20)の、B29による空襲で焼失してしまうのですが、それはさておき、がんばった感がありますね。
三つ目は、日本三大名園の一つ「(岡山)後楽園」の話です。殿様が後楽園を訪れるときには、天然の堀として城を守っていた旭川の、月見櫓下の船着場から船で向かっていたそうです。
いきさつはわかりませんが、左近太はその渡船権を与えられていました(いまは「月見橋」という鉄骨の橋が架かっています)。
橋が完成するまで奥村の家に、権利を貸与していた渡船業者から中元、歳暮が途切れることはなかったそうです。
*注1 本人の写真:岡山県立図書館サイト「真金倶楽部」に掲載されています。よろしければご参照ください。
*注2 大日本武徳会(Wikipediaより引用):戦前の日本で、武術・武道の振興、教育、顕彰を目的として設立された財団法人。1895年(明治28)4月17日結成、1946年(昭和21)10月31日解散。第二次世界大戦中の1942年(昭和17)からは、武道関係組織を統制する政府の外郭団体となった。1946年(昭和21)、連合国軍最高司令官総司令部指令により解散した。関係者の公職追放は1千300余名に上った。
*注3 得能関四郎(Wikipediaより編集引用):(とくのう・かんしろう/せきしろう)。1842年(天保13)生まれ。上野国沼田藩藩士・得能隼人の子。1862年(文久2)21歳で直新影流免許皆伝。明治維新後、東京府の市中取締役となる。1880年(明治13)警視庁に採用。撃剣世話掛として警視流の制定に加わる。小手で勝つことが多く、小手打ちの名人と言われた。1886年(明治19)2月10日、鹿鳴館舞踏会で外務卿井上馨の警護中、木刀や真剣を持った暴漢集団が襲いかかってきたため、持っていたステッキで応戦した。逮捕された犯人は11人、そのほとんどが手首を砕かれていた。フロックコートの剣士として有名になり、それ以来、剣道の審判の際もフロックコートを着用するようになる。1895年(明治28)10月、大日本武徳会創立の大演武会で奥村左近太に勝ち、同会総裁小松宮彰仁親王より精錬証を授与される。1903年(明治36)5月、大日本武徳会より第一回の範士号を授与され、精錬証と範士の保持者となった。真貝忠篤、根岸信五郎とともに「東都剣道界の三元老」と称された。
*注4 今日新聞:(Wikipediaより編集引用)1884年(明治17)9月25日、日本初の本格的夕刊紙として創刊。初代主筆は仮名垣魯文。当初から芝居や花柳界関係に強かった。のちの『都新聞』(現在の『東京新聞』の前身)。
*注5 以下の話が掲載:出典サイトを失念してしまいました。申し訳ありません。
*注6 山岡鐵舟:(Wikipediaより編集引用)幕末の幕臣、明治時代の政治家、思想家。従三位勲二等子爵。剣・禅・書の達人としても知られる。鐵舟は号、他に一楽斎。通称は鐵太郎。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。勝海舟、高橋泥舟と並ぶ「幕末の三舟」のひとり。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キログラム)と大柄な体格であった。
*注7 油断ならねぇぞ……:鐵舟は江戸っ子です。
(左近太 了)