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髪を切る日

バレンタイン・チョコレート

作者: ちわみろく

「髪を切る日」の番外編です。

重複投稿です。


仲が良かった、短い間の出来事。

 朝から非情に冷え込む、寒い日だった。

「エアコンの調子悪いのかしら?」

鈴奈が食堂でセイラに尋ねる。厨房のカウンターから顔だけ見せた金髪の異邦人は、愛想よく答えた。

「違うよ。外気の低温化のせいで空調がそれに追いつかないだけ。もう少ししたら温かくなるよ。」

「そんなに外は寒いの?どういうことかしら。冬でもそこまでの寒気が日本を被わないように気象庁が管理してるんじゃなかったかしら?夏だって寝付けないほどの暑さになることはないじゃない?」

ワインレッドのカーディガンのボタンを着けながら、鈴奈が幼い顔を傾げる。ブラウスだけでは寒いのだ。

 そこへ、ブレザーの上にコートを羽織った貴緒が足早にやってきた。ブレザーの下は襟の大きな白シャツと濃紺のジーンズでとてもスタイルがいい彼女によく似合っている。

「ちょっとした異常気象のようで、気象庁の対応も間に合わず明日か明後日辺りには雪も降るようですよ。」

 凛とした声で主人の疑問に応じた彼女はマニッシュな側近でボディガードだ。頼もしい貴緒が現れて嬉しそうに笑った鈴奈は、ボディガードが持った小さな手提げ袋に興味を引かれる。

「貴緒、なあに?それ。」

「チョコレートです。」

はにかんだように笑った側近の顔を見て、セイラがすぐに言った。

「バレンタインだものね。刀麻にあげるんでしょう?」

「ええ。明後日の14日は彼は診療所の夜勤だから渡せないので、今日のうちに渡しておこうと思って。」

「…そう言えば、そんなイベントがあったわね。」

「最近は余り流行りませんけど。私はセイラから教えてもらった時から毎年刀麻にあげてるんです。」

「で、毎年ホワイトデーにデートするんだよね。」

「はい。」

マドンナの側近である貴緒と公認の恋人である刀麻は優秀な外科医でとても忙しく中々ゆっくりデートする暇もない。

それでも彼はどうにか予定をやりくりして、恋人の貴緒のために一日空けてデートに誘うのだ。学生の頃からのつきあいだという二人は、当時から今に至るまでとても仲がいい。

「もう結婚しちゃえばいいのに。」

くすくすと笑っていつも二人の惚気を聞かされるセイラが提案する。

「刀麻がプロポーズしてくれればいつだってしますよ。」

ごちそうさま、と言いながら貴緒の言葉を聞いていたセイラに、マドンナが唐突に尋ねた。

「ねぇセイラ。今日あたしに厨房をちょっと貸してくれないかしら。…あたしもチョコレート配って歩きたくなったわ。」

「ええっ!?鈴奈ちゃんが手作りチョコかい?」

青い目を見開いて驚いた様子のセイラが身を乗り出した。

「何よ。あたしだってそのくらいは作れるわよ?」

「…うん。まあ、作れるだろうとは思うけどさ。わかったよ、好きなように使っていいから。怪我はしないでね。」

「うっふっふ。」

いかにも何かを企んでそうなマドンナの表情に小さく溜息を付いた青年が身に付けた黒いエプロンをはずしてカウンターから出てきた。


 ゲストルームで解析プログラムと格闘している美夜子の元へマドンナが紙袋を手にやってきた。

「鈴奈様。こんにちは。」

「大分解析のほうは進んでいるようね。」

空間に浮かび上がるたくさんの光。手元のキーボードや画面さえもホログラムだ。だが、これを作ったマドンナの解析にはまだまだ劣る。鈴奈ならば腕の一振りで部屋中にホログラムを映し出し、その全ての情報から解析を行う。美夜子の三倍は速くこの作業を終えられるのだ。

「まだ能率とスピードではとても鈴奈様に敵いませんが。」

「…そのうち敵うようになるわ。これはあたしと貴方にしか出来ない事ですからね。」

やわらかな栗色の髪をさっとかきあげて恐縮したように下を向く美夜子に、マドンナは紙袋を差し出した。

それを受け取りながら、美夜子が愛らしい顔を不思議そうにかしげる。

「あたしのお古だけど。一回も着てないのよ。サイズは貴方とあたし一緒だから着られるでしょ?」

「…服ですか?」

 美夜子はここで暮らすようになってから衣服の殆どを鈴奈から譲り受けている。それくらいサイズが近いし、趣味も恐ろしく近い。マドンナが好むものは美夜子も好むものなのだ。

 袋の中を見てみると、柔らかそうな生地が見えた。

「わっ…。こ、これっって…!?」

 レースやリボンがふんだんに使われた派手な下着だった。やわらかな生地で出来ているものだが、その可愛らしいデザインとは裏腹に随分ときわどいラインどりのものだった。何種類もある。

「ええ。ベビー・ドールって言う下着なの。可愛いでしょ。去年に貰ったものなんだけど、一度も着ることなくてね。あたしはもうそういうの着る年じゃないっていくら言っても、この手のもの貰うのよね。全部あげるわ。流河を喜ばせてあげたら?男ってそういう格好した女性が好きらしいから。」

「そ、そうなんですか?」

「・・・少なくても贈る方は着て欲しいから贈るんでしょうしねぇ。昔は着たけど。もう飽きちゃったし。」

「ま、まさか、流河さんに貰ったんですか?」

高い声で鈴奈が笑い出す。

「あっはっは…。流河にそんな度胸があるなんてとても思えないけど。あの男が女性に下着をプレゼントするなんて、そんな色っぽい真似できるかしら。例え願望はあるにせよ、そんなの逆立ちしたってできっこないわよ。」

「そ、そうですか…。」

恥ずかしそうに赤面して顔を手で隠そうとする美夜子に、鈴奈はもう一つ小さな紙の箱を手渡した。

「うふふ。もうすぐバレンタインでしょ。これはチョコレートよ。二人で食べるといいわ。」

白い包装紙に赤い小さなリボンの付いたそれをじっと見つめて、美夜子は慌てて頭を下げた。

「ありがとうございます。…そうか、バレンタイン。もう二月なんですね。」

「あたしの用はそれだけよ。じゃあ解析の続きがんばってね。」

用事の済んだマドンナはさっさとゲストルームを後にした。


 訓練室へ足を運ぶと、やはり由良はそこにいたので鈴奈は安堵した。手にした紙袋をもって傍へ近寄る。

 板の間で柔軟運動をしていた彼女はすぐにマドンナの入室に気がつき、慌てて立ち上がった。

「鈴奈様。訓練室にいらっしゃるなんて珍しいですね。」

「今日は貴方一人なの?」

「さっき秀さんは部屋へ戻ったんで。なんか呼び出しを受けたそうです。」

その呼び出しをかけたのは実は鈴奈だ。由良と二人きりで会いたかったために、彼を呼び出したのだった。今頃彼は呼び出し場所に相手がいないことを知り、首をひねっているだろう。

「これを、貴方に頼もうと思って。」

「なんですか?」

「チョコレートよ。もうすぐバレンタインでしょ。貴方と秀に。」

「あ、私知ってますよ。義理チョコ、とか友ダチチョコとか言うんでしょ。私にもくれるんですか。わ~ありがとうございます。嬉しいです。」

受け取ったものがお菓子と知った途端満面の笑みを浮かべた目の前の少女に、鈴奈は注意深く言う。

「ちゃんと当日に秀と一緒に食べるのよ?それがあげる条件よ?」

「はあい。わかりました。頂きます。」

そんな条件は願っても無かった。秀は甘いものを口にしない。一緒に食べるといえば彼の分まで頂けるに違いないと思わずにはいられない。その上、彼の極上の珈琲までついてくるのだ。

「…そうだわ。秀はバレンタインが何か知らないかもしれないから、説明してやってくれる?」

「え?知らない人なんているんですか?」

「秀の並外れた浮世離れは貴方だって見当がつくでしょ?クリスマスだって正月だってよくわかってなかったのよ。」

「もてそうな人だから、毎年山ほど貰ってるんじゃないかと思ったのに。」

「そういう奴なのよ。よろしくね。」

「はあい。ありがとうございます。」

トレーニングウェア姿の少女は、間延びした声で礼を言うと嬉しそうに笑った。


 診療所の診察室でカルテの記入をしていた刀麻はノックもそこそこに入室してきた患者に驚いた。

「マドンナ…!!」

「うふふ。忙しい貴方の手間を取らせる気は無いから、すぐに失礼するわ。これだけ渡したくて。」

淡いピンク色のワンピースにワインレッドのカーディガンを羽織った鈴奈が小さな紙袋を渡す。

 その袋をしげしげと見つめながら刀麻は何度も眼鏡をいじった。

 ・・・一体何を企んでいるんだ?

「バレンタインのチョコよ。皆に配って歩いてるの。貴緒に頼むと、あの子案外やきもち焼きだからまずいと思って。当日に食べてね。用事はそれだけよ。じゃ、お仕事がんばって、刀麻。」

「…本当にそのためだけに来たのか?」

「本当よぉ馬鹿ねぇ。あたしにだってそのくらいの仏心はあるのよ?」

袋の中の、赤のリボンがかかった白い紙箱を指先でつつきながら、刀麻は小さく息をついた。

 ・・・何かのいやがらせか?いや、本当に義理チョコを持ってきただけか?

猜疑心の強い青年医師は、機嫌良さそうに診察室を出て行くマドンナを見送って、もう一度紙袋を見た。


 バレンタイン当日は、ちらほらと雪の舞う寒い日になった。

 セイラが、温かい紅茶に少しの生姜を垂らしてくれた。とても温まるのだ。朝食も温かいコンソメスープに、こんがりと焼いたバケットを出してくれている。

「あ、そうだ。由良ちゃんと美夜子ちゃんにどうぞ。」

朝食を済ませて談笑している女子高生二人に、金髪の異邦人はホットチョコレートを出してくれた。

「わぁ。おいしいぃセイラ。オレンジ・フレーバーが入ってるね。あったかぁい。」

「本当だわ。こんな寒い日はとっても助かる。気が利くのね。」

「…今日はバレンタインだから。僕から二人へのチョコレートだよ。気に入ってくれた?」

「バレンタインって、男の人からももらっていいの?」

「女性から男性へっていうのは多分日本だけだよ。それにチョコレートって定番があるのもね。」

「へぇ~。そうなんだ。じゃあ、外国はどんなもの上げるの?」

「なんでも。本でも、食事でも、花束でも。要は気持ちだからね。」

不思議そうに目を丸くしている二人の隣にいる流河が、不満の声を鳴らす。

「俺には無しか?セイラ。冷たいなぁ。」

「君には由美ちゃんと沙希ちゃんから預かってるよ。僕からはいつも通りの食事だけで許しておくれ。」

 急に美夜子が席を立った。飲み終えたチョコレートのカップを手に持って由良を促し、無言で片づけをはじめる。

「…セイラ。あのタイミングで言われると。」

 盛大にやきもちを焼いていると思われるふわふわの髪の少女の後姿は、気のせいか怒っているように見えた。 

「せいぜいご機嫌をとってやるんだね。僕は鈴奈ちゃんに言われたとおりにしているだけだよ。」

「…鈴奈に?」

「チョコを配って歩くから、今日がバレンタインだって皆に盛大に広報してねって言われてたんだ。」

「そういうマドンナ本人は今朝からいねぇじゃねぇか。」

「うん。早朝から仙台に出てる。」

「ご機嫌とるったって…。どうすりゃいいんだか。あの鼻っ柱の高いお姫様ときたら…。」

足早に食堂を出て行った二人を横目に、流河は頭を抱えたくなった。


 下手に動き出して藪から蛇を出したくない流河は、大人しく自室にこもってレポートを作成していた。

 机に置いた端末が反応する。外から誰かがタッチパネルに触れた音がして、入室許可を求めるランプが点滅した。点滅を消すようにそのランプのボタンを押すと、

「あいよ。どうぞ、入れるよ。」

音声を入れロックを解除する暗証番号を手早く入れる。

 入ってきた小柄な影は美夜子だった。薄い黄緑色のジャケットに、小花柄のワンピースを着ている。

「ごめんなさい。レポート作ってたの?邪魔しちゃったかしら?」

手提げ袋を持ったその姿はいつ見ても可憐で綺麗だった。

「邪魔だなんてとんでもない。美夜子ちゃんからきてくれるなんて嬉しい限りですよ。」

「これ、鈴奈さんから…。一緒に食べてねって頂いたの。」

赤いリボンの白い紙箱を慎ましく手渡すと、美夜子は恥ずかしそうに笑った。

「手作りみたいよ。」

「…へ、へぇ。マドンナが、ねぇ。」

そこはかとなく、嫌な予感がするけれども、流河はあえてそれを気にしないことにした。せっかく美夜子の方から来てくれたのに、機嫌を損ねたくなかった。

「あと、これ…頂いたの。」

赤面しながら美夜子が手提げ袋を押しやるように流河に渡す。

「男の人って、こういうの好きなんでしょう。どれを着たらいいですか?」

 中身を見るなり頭を抱えたくなった。数枚の下着の入ったその手提げ袋は、先日鈴奈が美夜子にあげたものだ。

「いや、あの…。まあ、嫌いじゃないけどね?どっちかって言えば確かに好きだけどさ。なんで急にこんな…。」

「だって、鈴奈さんが…。男の人はこういうの好きだって言うから。」

「あのねぇ。なんていうか…あんたが着たいと思ったら着ればいいんじゃないの?俺は自分の趣味をあんたに強要しようとは思わないよ。」

 そんな格好しなくても、目の前の少女は充分に魅力的だ。それには絶対的に自信がある。

「そっか。…そうですよね。よかった。」

恥ずかしそうに俯いていた美夜子はようやく顔を上げる。どうやら、朝食時の不機嫌は持続してないようだ。

「手作りチョコって奴を頂いてみようか。ね?」

赤いリボンを解いて、紙箱を開くと、ゴルフボールくらいはありそうな丸いトリュフが二つはいっていた。白いココナッツパウダーと、ココアパウダーで飾られたそれは、手作り感たっぷりの、少しいびつな球の形だった。

 流河は迷わずに白い方のトリュフを指で取って口に入れる。一口では食べられそうも無いので半分にかじった。

 美夜子ももう一つをかじった。ココアパウダーが飛び散らないよう用心しながら。甘さ控えめで美味しい。

「かっ辛っ!!…なんだこれ!」

顔を真っ赤にして叫んだ流河が慌てて立ち上がり、自室に備え付けの洗面所へ飛び込んだ。

 大きな目を更に大きく見開いてそれを見ていた美夜子が、紙箱の底に入っていた小さな紙片を見つけた。

(これはロシアンチョコレートです。)と小さく書かれているその筆跡は、紛れも無く鈴奈のものだった。


 同じ頃に、喜色満面で秀の私室を訪ねる由良の姿があった。鈴奈に貰った紙袋を大事そうに抱えて浮き浮きと手をパネルかざす。

・・・鈴奈さんの手作りチョコってどんなかな。手作りだから美味しいのかな。それを格別の珈琲と頂けるなんて。なんというラッキー。

 短い応えがあってすぐに自動ドアのロックが解除される。

「どうした?」

作業用の眼鏡をした秀が椅子から立ち上がってゆっくりと歩み寄る。焦げ茶の大き目のセーターを着て、長い袖を邪魔そうにまくっていた。

「これを鈴奈様に頂いたんですよ。バレンタインだから、秀さんと一緒に食べてねって。」

珍しく秀の眉毛がぴくりと動いた。

「………。鈴奈が?」

なんとも言えない複雑な表情を見せる。元来表情の乏しい青年の、珍しい表情に由良は笑った。

「そんなに驚きました?」

「バレンタインだから…?バレンタインって…なんだ?」

「好きな人にチョコレートを上げて好意を表現する日ですよ。友達や日頃お世話になってる人にあげてもいいんです。鈴奈さんって、気を使ってるんですねぇ。」

秀がバレンタインを知らないことは予め鈴奈から聞いていたので驚かず、普通に説明をする。片思いの相手に告白する意味があることはこの際伏せておく。そういう意味があるのなら、そもそも鈴奈は自分になど渡すまい。

「…ということは、その中身はチョコレートなのか?」

「ですよね。きっと。秀さん、コーヒー淹れて下さい。」

「わかった。とにかく座れ。用意するから。」

作業机にはずした眼鏡を置くと、青年は部屋の奥へ行ってしまう。いつも彼は、豆を挽いてからコーヒーを淹れてくれるのだ。それが格別においしくて、由良は大好きだった。

 いつもの椅子に座って、袋を開けて中身を机に出す。白い箱に、赤いリボンのついたそれを開封すると、ゴルフボール大のカラフルなトリュフが二つ入っていた。一つは緑色、一つはピンク色だ。

「わあ、大きいなぁ。」

嬉しそうに声を洩らす由良の様子を横目で見ながら、秀は手際よくコーヒーを淹れた。引き立ての豆の香りが部屋中に漂い、低い鼻をひくひくと動かる彼女の様子が犬のようでおかしい。

「緑色って事は抹茶かな。ピンクは苺?秀さんはどっちにします?」

「俺はいい。そういうものは口にしない。知っているだろう。お前が食べればいい。」

その言葉を待っていたのか、由良は更に目を細くして笑う。

「じゃ、頂きまあす。」 

小さな口をめいいいっぱい開けて緑色のトリュフを口にいれる。さすがに全部は入りきらないので、半分だけ齧った。そのつり上がった目が大きく見開かれ、やがて目と鼻を真っ赤に染めて口を噤む様に閉じた。

 コーヒーカップを二つ手にした秀が机にそれを置くと、顔を上げられなくなっている由良の頭だけが震えているのが見えた。

「どうした?」

低く尋ねると彼女はゆっくりと顔を上げる。その顔は何かを必死に堪えている表情で、両目の端から涙がこぼれかけていた。両手で口をしっかりと押さえている。

「なんだ?どうしたんだ?」

「わ…わさ、び…。」

「何?」

「山葵が入ってる…。これ…。」

机の上の箱を見る。赤いリボンに白い箱。もう一つのトリュフはピンク色だ。秀の長い指がそのいびつな球体を摘まんで、鼻の近くへ持って行き匂いを嗅ぐ。

「…唐辛子の匂いがする。…鈴奈の奴…。」

箱の底に小さな紙片が入っているのが見えた。それをよく見ると、見覚えのある筆跡で(ロシアンチョコレートです)と書かれていた。


 診療所の研究室には食品分析の機材がいくつか置いてある。

 その日の診療を全て終えた刀麻は研究室の室長に頼んで、白い箱の中身を分析してもらった。

「安西先生、これが結果ですよ。特に毒物は入ってませんね。カカオバター、砂糖、脱脂粉乳に山椒粉末、…一体何ですか?これ。」

 年齢では刀麻よりも年上だが、優秀な外科医を尊敬してやまない研究室長は、彼の頼みを大概二つ返事で聞いてくれる。

「…歪んだ愛の結晶って奴かな。」

爆発したような頭を軽く掻いていた刀麻は大きく息をついた。

 ・・・山椒だとぉ?やっぱりな。下手に口に入れなくてよかった。

「もてる男は辛いですね。」

診療時はいつも黒縁の丸い眼鏡をかける刀麻とは違い、四角い縁なし眼鏡を軽く上げた研究室長が笑った。

「本命一人にもてりゃ充分さ。これ、よかったらあんたにも御裾分けだ。甘いもの好きだったよな?」

黒い包装紙に銀のリボンのかかったチョコレートの箱を一つ袋から出して、研究室長に手渡す。

「いいんですか?」

「俺は一つあれば充分。…元々そう言うつもりで貴緒だって余分にくれるんだ。」

淡い黄色にカトレアの模様の入った紙袋は、貴緒がお気に入りの海外メーカーのものだ。彼女いわく一押しのスィーツメーカーで、バレンタイン用にわざわざ取り寄せたのだろう。

 白衣にサンダルを引っ掛けた姿で、刀麻は軽く手を振って研究室を出て行く。

 屋上に行って降りしきる雪を眺めながら彼女のおススメスィーツを食べるのも悪くない。

 今頃彼女は仙台で、わがまま指導者に付き添っているのだろうか。

 古風で、慎み深くて、優しくて情の深い貴緒。マニッシュな外見からは想像もつかない程控えめで女性らしい。数少ないマドンナの理解者であると同時にボディガードでもある。

 自分も忙しく彼女も忙しい。付き合いだした頃から、毎日のように会える日々など殆ど無かった。それでも続けていけるのは。ただただ愛情があるからと言うしかない。

 ・・・どこにいても、刀麻のことを思っていますよ。会えないときも、刀麻を思っていますよ。

 刀麻の思い出す貴緒は、いつもはにかんだように微笑んで、かすかに頬を赤くして伏せ目がちだ。

「…俺は、何かに集中して無いといつもお前のことばっか考えちまう。だからいつも仕事してるよ。」

 雪が勢いを増して降りしきる。屋上へ出られるドアのガラス窓からそれを眺めて、貰ったチョコレートを口に入れる。

 オレンジピールの入った香りの強いトリュフ。ベリー系よりも柑橘系のほうがチョコに合うだろうと言い争ったこともある。そんな下らない話題が楽しかった。


「流河さん、大丈夫?ほら、紅茶もってきたから。はいどうぞ。」

美夜子がわざわざ食堂からアイスティーを持ってきてくれた。

「芥子入りのチョコレートなんて、ひでぇことしやがる…くっそーっ。覚えてろよ。」

 今頃、流河の醜態を想像してほくそ笑んでいるだろう指導者を思うと、悔しくて頭をかきむしりたくなった。辛さの余り唇が腫れていた。冷たい紅茶がここちいい。

 そんな気の毒な流河を仰ぎ見るようにして、美夜子は心配そうに溜息を吐く。

「もう。毒が入ってたわけじゃないんだし。ただのイタズラでしょ?」

「退屈するとあの人はいつもこうなんだよ。どっかに何か罠を張ってやがるんだから。」

「あんまり言うと妬くわよ。もう許してあげればいいじゃない。」

 単に鈴奈が手作りチョコを持ってきたなどと言えば必ず警戒していただろう。彼女はそこまで見越して美夜子にセクシー下着なんぞもたせてみたりして気をそらしてきたのだ。全く持ってよく考えられている。

「そんなに怒るなんて流河さんらしくないわよ。機嫌直して。」

やけに指導者をかばうのは、美夜子が食べたほうのチョコレートは普通のトリュフだったせいだろうか。

 だが、普段はいつも相手の機嫌を取らねばならない流河からすれば、珍しく相手のほうから歩み寄ってくれていることがとても新鮮で気分がいい。美夜子が一生懸命かいがいしく世話をしてくれている。

「美夜子ちゃんが俺に上手にちゅーしてくれたら、機嫌直す。」

「な…。」

真っ赤になって、一瞬言葉を失う。大きな目を見開いて可愛らしい。

「俺が寝言でマドンナのこと言ったからって怒ってたじゃん。」

「わ、わかったわよ。」

以前のことを持ち出され、美夜子も引き下がれない。

眠っていた流河を起こしに行った時、流河の言った「マドンナがちゅーしてくれたら」の一言がやたら気になって仕方がなかった美夜子としては、それを今持ち出されて後には引けなかった。

 軽く流河の右頬に唇を寄せてキスをする。するとにやにやと笑う彼が今度は左側をトントンと指差した。

 もう一度左頬へキスをすると、今度は口にトントンと指差す。躊躇うことなく美夜子はそのまま彼の口にも近付いた。芥子のせいでいくらか腫れたそれに触れると、流河の大きな手が彼女の髪や腰へ回されて離れなくなる。

「あんたの唇冷たくて気持ちいいよ。…もっとしてチョーダイ。」

「い、いいわよ。そのくらい。…チョコも、あたしからはあげられなかったしね。」

 美夜子と由良は居候も同然にここで厄介になっている。ちょっとした思い付きで個人的に買い物をするなどと言うわけにはいかないので、バレンタインも、用意が出来なかった。

「そんなこと気にしなくていいよ。それより早く、続きをしたいな。」

鷹揚に笑って力強く美夜子を抱きしめてくる流河は、そんなことを気にしていたのかと、初めて気がついた。



 涙をぼろぼろと流しながらそれでも由良は口の中のものを無理矢理飲み込んだ。淹れたばかりのコーヒーを手にして口をつけ、その暑さに驚いて慌てて机に戻す。

 足早に戻ってきた秀は水をコップに持ってきた。由良の手に渡すと吸い込むように飲んだ。

「大丈夫か?」

「は、はい…。あーっびっくりしたぁ。…抹茶じゃなくて山葵チョコなんて。初めてだよ、こんな珍味。」

「珍味!?」

「ってことはピンクの方は…。」

「多分、唐辛子じゃないか?匂いがする。」

「変わってるなーっ。お煎餅やポテトチップスにチョコをかけるってお菓子が流行ったのおぼえてるけど、まんま香辛料をチョコにいれちゃうとは…さすがマドンナ、普通じゃないね。」

「いや、多分、ただのイタズラ…。おい、泣くほど不味いのにまだ食べる気か!?」

由良はまたゴルフボール大のそれを手に取った。

「だって、折角作ってくれたのに悪いし。食べ物は粗末にしちゃいけないんだよ。最後まで食べる。」

「よせ。粗末にするというのなら、こんなものを作った方が粗末にしているんだ。食べないことじゃないだろう。」

 秀としては正論を振りかざすのは当たり前の事だったが、そんな簡単なことがこの娘にはわからないらしいことが信じられない。慌てて彼女の両手をつかんだがもう遅かった。珍味チョコレートは彼女の小さな口の中だ。大きすぎて全部は入らないので半分だが。箱の中に残したチョコレートを、秀は彼女の目に入らないよう、ゴミ箱へ放り込んだ。

 目を白黒させながら由良はどうにかそれを咀嚼し、嚥下する。机の上の水をあおるように飲んだ。

「…気が済んだか?」

「後、半分。」

「もうない。捨…、いや、俺が食べたから。」

捨てた、等と言ったら怒ってゴミ箱を漁りかねない。

「本当?…チョコは食べないって言ってたのに!?」

「いや、その…甘くなかったから食べられた。」

 とっさに思いついた言い訳を素直に述べると、由良はそれを信じたのかどうかは不明だが、小さく溜息を付いた。

「秀さんのコーヒーには、あんまり合わなかったね。…頂きます。」

そう言って机の上のカップに手を伸ばした。少し口を付けて、温度を確かめてからゆっくりと飲む。

「…ああ、おいしいなぁ。」

 つり上がった目を細めてそう言う目の前の娘を呆然と見つめていた秀は、ようやく我に返る。それから、薄く笑った。

「本当に、お前は面白いな。」

「そうですか?まあ、秀さんになら笑われてもいいや。…笑った所、好きだから。」

「お前を見てると、いつでも笑えそうだ。」

「…微妙に馬鹿にされてる気がしますけど。」

「俺は、お前の前でしか笑わない。」

日頃の無表情さを知っている由良には、その言葉が事実の重さを持っているのがわかる。

 ・・・私だけが秀さんを笑わせてあげられるんだ。

 そう思うことは、とても幸せな気がした。

「私も、何か用意できたらよかったな。セイラにお願いすればよかった。」

 自分の好意を目の前の青年にも知って欲しいと思う。それにはバレンタインは中々良い機会だった。

「用意?」

「バレンタインは、女性が男性に好きだって伝える日でもあるんですよ。…日本でだけらしいけど。」

 そう言うと、秀が一瞬元の無表情に戻った。そしてまた微かに笑う。

「だったら何も用意などいらん。ただそう言ってくれるだけでいい。」

「いや、だから言葉じゃいい難いからチョコを渡すんであって…。」

「チョコはもうないのだろう?言い難いなら態度で示してくれ。」

「態度…。」

カップを置いて、しばし何かを考える。ひどく悩んでいるようだったが、その悩んでいる様子がまた可笑しいので、秀は黙ってそれを見つめていた。

 お互いに告白もして、気持ちも確かめ合ったことはある。今更といえば今更なのに、目の前の青年は相手に好きだと言われることが大層嬉しいらしく、何度も言わせようとする。

「わ、わかった。」

 唐突に由良は立ち上がり、素早く秀の背後に回った。秀が振り返る隙を与えずそのまま彼の背中に両手を添える。

「…?なんだ?」

 人差し指で、彼の背中に文字を描いた。すきですよ、と五つの文字をゆっくりと背中につづる。

 意味を理解した秀は、自分のコーヒーを一口すすると振り返る。

「俺もだ。お前が本当に可愛いよ。」

由良の手に軽くキスをしながらそう呟いた。


「あ~あ、なんでこんなに香辛料がなくなってるんだろう?一体鈴奈ちゃんは何を作ったのかな。」

 厨房を鈴奈に貸せと言われたときから嫌な予感はしていたのだ。

 料理をした後後片付けをしない、というのはまだ予測していたのでまだいいが、これほど極端に調味料が減ってしまうとは驚いた。

 手作りチョコを作ると言っていたので、めぼしい材料は全て用意してあげておいたのだ。厨房の調味料まで使われるとは夢にも思わなかった。そう思うと、

「これはセイラの分よ。食べてね。」

といって鈴奈が置いていった赤いリボンのかかった白い箱が殊更に恐ろしい。

「…どうしよう。」

金髪を軽くかきあげながらセイラは困ったように呟いた。


彼らの日常に、こんな他愛ない出来事があってもいいと思いました。

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