江ノ島デート(後編)
「ありがとう……」
江ノ島を出て、海岸の階段で腰を下ろすと葉菜はそう言って意識していた繋いだ手を離した。
「あ、うん。すごい人だったからねー」
照れ笑いした加治は、葉菜にそう言われぱっと大きな手を離した。
海岸に向かい合って座ると、2人はしばらく波打つ海を眺めていた。砂浜では、犬の散歩をする人達や、波乗りをしている人達の姿が視界に出入りしていた。
「葉菜さん、寒くないですか?」
潮風が吹き、葉菜の黒く長い髪が風にふわりと乗って揺れていた。
「大丈夫です。お天気いいから、温かいですよ」
静かにそう答え、再び海に視線を止めていた。波は不規則に海岸までたどり着き引いては再び押し寄せていた。
「海眺めてると、なんとなく落ち着きます……」
葉菜は遠くを見ながらそう言った。隣で加治は葉菜と同じように遠くを眺めながら「そうですね」と答えていたが、加治はまださっきまで繋いだ手の感触と胸の鼓動が高鳴ったままだった。葉菜の穏やかで落ち着きのある横顔を、葉菜に気づかれないよう横目で盗み見ていた。風が吹くたび、葉菜の髪の匂いがふわりと漂っていた。加治は、お決まりのブルガリの香水を付けていたが、葉菜は普段から香水を付けない。加治は髪から漂う葉菜の匂いが好きだった。
2人の間には沈黙が続いていた。葉菜はそれに困ることなくただただじっと、海を眺めていた。自分の誕生日に、こうしてスナオが海へ連れて行きただ黙って2人で過ごした事、夜になりくらくなると手持ち花火ではしゃぎ、砂浜に寝そべって無数の夏の星座を夜空を見上げ眺めた事を思い出していた。
ふいに、隣に居るのが加治のはずなのに自然な雰囲気で、葉菜は懐かしい居心地の良さを感じていた。しかしそれは、葉菜が感じ取っているだけであって加治自身は違っていた。
遠くを見つめる葉菜に、加治は死んでしまった君を想うそんな葉菜を好きでいるつもりではいたのだが、気持ちのどこかではその死んでしまった君は時にその存在が妬ましく、自分が葉菜の心の中に入り込めない邪魔な存在とさえ思えていた。
人混みの中、とっさに葉菜の手をとっていたが本音を言えば葉菜に触れることさえ怖かった。情けない思いが再び加治の胸に波のように押し寄せた。水の中で息が出来ない苦しさに似た感覚の中で、加治は再び水から顔を出し、息をする時には自分の気持ちを再び押し殺してしまうことしか出来ないでいた。そんな思いを胸に秘めたまま、葉菜の隣に座っていた。
遅めのランチに、海岸沿いにある少し大人しめのイタリアンのお店に入りお腹を満たすと、車に乗り逗子を通り抜け三浦海岸の方までドライブした。
会話は途切れたり何か互いに話したりと、きまずくもなく盛り上がっているわけでもない穏やかな雰囲気だった。葉菜は海岸で海を眺めている時から、加治との距離感に違和感を感じずごく自然でいた。しかし、同じように海岸でのひと時から加治の様子は少し変わっていた。表面は会話を楽しんで和やかな雰囲気だったが、気持ちに整理が付かずざわついていた。
海岸をドライブし、帰りの道中加治は口数が少なくなっていた。葉菜は何かを察し、あまり言葉をかけずに会話のない静かな時間が過ぎていた。さっきまでは、話をしていて気が付かなかったが、カーオーディオから、弱弱しくボリュームを絞った音楽が流れているのに葉菜は気が付いた。車のエンジン音と混ざり合い、あまりはっきりと歌が聞き取れなかったが、男性ヴォーカルの静かに歌い出す、ゆったりとしたうたに、ギターやドラムのバンドの音が聴こえていた。
日が暮れて行くにつれて、薄明るさが残る空に細い三日月が姿を現していた。葉菜は車の窓に顔を寄せてそれを見つめていた。見つめながら、弱弱しく聞こえる音楽がどことなく悲しげな切ない歌のように、聴こえ、気持ちが切なくなっていた。ルームミラーの端に映る葉菜の横顔を盗み見た加治の顔は、曇っていた。
「今日は、ありがとうございます」
車を家の前に止め、葉菜は丁寧に頭を下げて礼を言った。
「俺の方こそ。葉菜さんと一緒に出かけられて幸せな時間でした。ありがとうございます」
加治はにこりと笑んでいた。葉菜は、シートベルトを外し、行儀よく膝の上に乗せた鞄を掴んだ。
「一葉、まだ帰ってきてないみたいだけど、お夕飯ご一緒しませんか? 今日のお礼って言うのもなんですが……」
葉菜の誘いに加治は少し考えた後、小さく首を横に振ってみせた。
「連休で明日も休みだからお言葉に甘えたいし、葉菜さんともっと一緒にいたいところですが。今日のところは帰ります」
加治の言葉に、葉菜は少し淋しさと残念な気持ちを感じていたが、引き止めるわけにもいかないと笑顔でそれを受け止めた。
「じゃぁ、ここで。帰りの運転、気をつけて下さいね」
大人しい声でゆっくりと葉菜は加治に言った。加治は葉菜が言葉を言い切る間もなくシートベルトを手早く外ずすと、自分の身体を葉菜に近づけた。
「!!」
一瞬の出来事だった。
運転席から身を乗り出し、葉菜の目の前に顔を近づけた瞬間、加治が付けていた香水の匂いが鼻についた。と、同時に加治の唇が葉菜の唇に触れた。すぐさま加治は身を離し、手をハンドルにかけていた。葉菜は、自分の鼓動がドクドクと身体中に響いて、頭が一瞬真っ白になっていた。俯き、交わす言葉を失った葉菜は、ゆっくりとドアを開け車を降りた。外から小さく頭を下げると、加治を見送らずにいえの中に入って行った。
加治は、場の雰囲気に誘われ思わず取ってしまった自分の行動に反省するばかりだった。驚き俯いた葉菜の最後に見せた顔が目に焼きついて離れなかった。
誰も居ない静かな家の中を歩き、自分の部屋へと入った葉菜は明かりをつけずに締めたドアを背にもたれかけるようにしてストンと座り込んだ。
細い三日月の月明かりが、青白い光で部屋を照らす部屋の中で葉菜はしばらく何も考えずにただ座っていたが、次第に別れ際に起こった出来事が鮮明にリピートされて頭の中に浮かんできた。胸の鼓動は高鳴ったままなりやまず、顔が少し火照っている感覚に気が付いた。
加治の行いを葉菜はどう受け止めていいのか複雑だった。胸の辺りに手をかけ服をきゅっと掴んだ。そうして、スナオを呼び戻そうと必死だったが、加治との出来事の胸の高鳴りの方が強く、印象に残っていた。
冷静になったのは、帰宅してから30分くらい経過した後だった。着替えをし終えて夕飯の支度をしようと下へ降りた時だった。ちょうど、一葉が帰宅し家のドアが開いた。
「ただいまー……あれ? ねーちゃん、居たの?」
驚いた顔をした一葉に葉菜は「夕方には帰ってきてたのよ」と言葉を返した。
「いや、そーじゃなくってさ。俺、さっきメール入れたよね? 見てない?」
「? ごめん。気づかなかったわ。どうしたの?」
葉菜は首をかしげると、少しずつ一葉の顔が真剣になっていた。
「葵くん、さっきLINE来てさ。運転途中で事故にあったんだって。家の近くの病院搬送されたって」
「-------!!」
葉菜は頭から血の気が引いて行く感覚が分かった。足元がふらついたが、廊下の壁に寄りかかりなんとか立っていられた。
「ねーちゃん、大丈夫?」
「葵くんはっ? 病院って、どう言う状況なの?」
「詳しくはわかんないけどさ。区の端っこの方にある大きな総合病院搬送されたって」
一葉がそう言うと、葉菜はとっさに自分の部屋に再び戻り着替えをして鞄を手にとった。階段を素早く駆け下りると、洗面所で手を洗っていた一葉が顔を出した。
「ねーちゃん、どこ行くの?」
「病院! 私、行って来る!!」
血相を変え、葉菜は一葉にそう言うと慌てて家を飛び出して行った。一葉は何かを察していたのか、口元を上げ呆れ顔で小さく笑んだ。
住宅街を抜けると広い交通量の多い通りに出て、葉菜は少し立ち止まり辺りをきょろきょろした。すると、空車のランプを付けたタクシーがこちらに向かっているのを見つけ、手を上げてタクシーに乗り込んだ。一葉が言っていた総合病院を指示すると、葉菜はいてもたっても居られない思いで後部座席に座っていた。
さっき別れたばかりで、夕飯に強引にでも誘っておけば良かったのにと、後悔していた。今日、一緒に過ごした加治の姿が頭を過ぎる。不意に、嫌な考えが浮かんでいた。加治がその事故で命に関わるようなことがあったりでもしたら……。そう考えると、葉菜はきゅうっと胸が締め付けられる苦しさを感じていた。スナオを失った今、自分の中に存在しつつある加治までもが居なくなってしまう事に、葉菜は酷く胸を痛めた。淋しさを通り過ぎ、哀しい気持ちが胸に広がっていた。悪い方向にどんどん考えが膨らみ、はやる気持ちを抑えようとしていた。道路は休日のせいか夜でも多少混んでいた。葉菜は車の窓の外を見上げ、細く輝く三日月を見ていた。それでも胸の中では必死に加治の無事を祈り続け、それを月に願掛けするかのように、葉菜は両手をギュッと組んで見つめていた。
病院に到着すると、救急搬送された窓口を探し近くに居た看護師に尋ねた。看護師は「奥の処置室の前に座ってます」と教えてくれた。葉菜は小走りに病院の中を歩いた。アルコールや薬の独特の臭いが漂う中、明るく爽やかなライトブルーの壁が奥まで続いていた。
すると、背もたれのないイスに座り少しうな垂れた加治の姿が目に入った。
「葵くんっ!!」
葉菜が加治に声をかけ、駆け寄ると加治は顔を上げ驚いた顔をして葉菜を見た。
「葉菜さん……どうしてここが?」
「一葉に聞いたんです。事故
…怪我っ、身体大丈夫なんですか?」
葉菜は、慌てた様子で加治の身体を見回したが、大きな怪我をしている様子はなかった。
「大丈夫ですよ。相手がわき見運転してて横から突っ込まれたんですけどね。車、助手席側少しへこみましたけど、俺は特に何も。けど、相手の人がすげー腰低くって保険の関係もあるので、すぐ病院に行ってくださいって。それできたんだけど、結局今のところはピンピンしてます」
加治はくしゃっと笑って見せた。葉菜は安堵の思いで胸を撫で下ろし溜息を吐いた。
「良かった……私、命に別状あったらって、スナオだけじゃなくって葵くんまでいなくなっちゃうなんて、ってそう考えたら哀しくて……」
「葉菜さん……」
葉菜は目に涙を浮かべ、締め付けられている胸をぎゅっと掴んだ。
「私、葵くんの優しさに甘えてました。一葉とも仲良くてこういう関係が居心地良くて。どこか彼と重なっていたんです。けど、葵くんは彼じゃない。さっき、別れ際にあった事と事故を起こしたって聞いて、私、もっと葵くんをちゃんと向き合いたいって、そう思ったんです……」
必死に話す葉菜の言葉に、加治は胸を突かれた気分だった。ゆっくり葉菜と向き合い左手を葉菜の頭に乗せると葉菜の身体を自分の胸に軽く寄せた。
「ありがとう……」
葉菜の髪の匂いが加治の感情を高ぶらせた。自分の胸の中にいる葉菜への想いが溢れると、加治はゆっくり息を吸い葉菜の耳元で小さく言葉をかけた。
「帰ろう。俺の部屋に」
葉菜は俯いたままだったが、否定はしなかった。それから葉菜の手を繋ぎ歩き出した。
前回のデートの続きから。
葉菜の中で加治の存在が大きく変わり気持ちが固まっていきました。
次回、クライマックスです。
ここまでご覧頂きましてありがとうございました。m(__)m
最終話までお付き合いお願いします。:)