グリーンマン
週末の買出しに一葉が付き合ってくれると言う事で、葉菜の目的である食品は本日の買い物イベントのラストを飾ることなり、それまでは駅の近くにある大型家電店と百貨店が隣接している店に行きたいと、一葉に付き合うハメとなった。
「ねーちゃん、頼むっ! 家電と俺の趣味に3時間、時間くれ!!」
家電店の入り口で一葉は両手を合わせて葉菜に必死な様子で願っていた。大の大人が両手を合わせ、しかも長身の身を小さくしている姿ははたから見れば、恋人同士にも見られなくも無いだろうが、葉菜としては日常の事であるためそれは全く気にも留めなかった。
家電はパソコン以外にも色々見て楽しみたいのだろうと、察していた。以前は一緒に付き合い見て回ったのだが、商品の一つ一つの性能や違い、パンフレットを隅々読んで理解したり、店員を捕まえて話を聞いたりと時間の費やし方が半端なかった為、葉菜はそれ以来、買い物に来ては各々好きな場所を見て回り、時間と待ち合わせを決めて集まる事にしていた。まして、一葉の今日のスケジュールにあった“趣味”とは、アニメ関係のグッズが売っているショップの事だった。一度だけ葉菜も付いていったが、文房具までは何となく、他のショップでも見かける光景だったが、更に奥に進んでいくとそこは本当に趣味としての括りで包まれたオーラが無関心の葉菜にも感じ取られた。葉菜は嬉しそうに進んでいく一葉に声をかけそれ以上立ち入る勇気がないと、表情を強張らせて言ったのだった。一葉は平然とした顔で「じゃぁ、下のフロアどっかうろついていて。終ったら電話するから」と笑みを浮かべて奥へと進んでいった。葉菜は、一葉が異国の地へ去っていってしまうような大袈裟な思いを感じたが、一葉の趣味を否定しようとは思わなかった。
原宿を学生の頃歩いていた時にモデル事務所にスカウトされ、年頃の男の子だったが衣服にはあまり執着しない。仕事で貰えた服を適当に着こなしているのが幸いで、それなりにオシャレに見えた。しかし、中身は葉菜から見ればいつまで経っても子供で、アニメや漫画の好きな大きな子供になっていた。芸能関係の仕事に就いたから少なくても同じモデルや、アイドルなどの女の子に興味を示すかと思ったが、一葉の信念は甘くはなかった。
「俺、〇〇みたいな子じゃないとダメだなー」
「〇〇って?」
葉菜が一葉に尋ねると、部屋からアニメ雑誌を手にしてページを広げ、一人のキャラクターを指差した。ピンク色の髪に大きな目。スタイルはいいのだがこれを、どう汲み取ってタイプとしてみればいいのか、葉菜にはさっぱり理解できなかった。
「キャラクターだよ。この子、すげーツンデレなの。それと、声もかわいーんだ」
嬉しそうに話す一葉に、性格であれば生身の女の子だって、そう言う子は存在するだろう。声は声優している人物が発しているのだから……と言い返したい気持ちをぐっと堪え「そう……」と苦笑いしたのを覚えている。
葉菜は一葉と別れ、百貨店の中で服を見て歩いていた。プレセールが始まり、店には大抵『30~50%OFF』の文字が目に付いた。特に、欲しい服も無くただただフラフラと服を見て歩きながら、フロアを上がっていった。
フロアに上がると、天井に大きくグリーンの文字で店名が掲げられていた大型雑貨店に足を踏み入れ、葉菜はフロアをフラフラした。丁度、夏の商品が展示されフロアの一部はセンスや風鈴、ひんやりするタオルなど商品が爽やかな青い色で統一され並んでいた。
「こちらがですねー、今回新商品の物です」
客の前で商品のアプローチをしている店員が手にしているのは、小さな冷風機のようだった。商品を紹介している店員の横顔が目に入ると、葉菜の鼓動が大きく高鳴った。視線が店員に集中した。痩せた体系と茶色の短髪。細く、笑うと目が見えなくなるほどで、目じりに少し皺が出来ていた。鼻の根元から骨ばっているスーッとしたラインが見え、顔の輪郭はえらが張って骨ぼったい印象だった。生き写しと言えば大袈裟だろうが、それくらい葉菜にとってその店員がスナオに似ていたと感じたのだった。全く別人のその店員を見て、葉菜は懐かしい気持ちが胸の中に溢れていくのを感じていた。スナオの記憶は15年以上経っても廃れず、いつまでも鮮やかだった。
しばらくその商品を紹介する店員を眺め、よくよく見ていくうちに全くの別人である事に気が付き始める。身長はスナオよりも少し高く、声は低く、笑った口元は少し厚めの唇をしていた。冷めた感情に気が付くと、葉菜はその場を離れた。フロアをふらふら歩きながら、先程の店員とスナオの違いについて葉菜はあれこれ思っていた。スナオは笑うと薄い唇からピンク色の歯茎が見える。骨ぼったい痩せた薄っぺらい身体が大好きだった。縁のはっきりしたメガネをかけ、よく鼈甲に似た茶色のフレームのメガネを好んでかけていた。レンズの奥の茶色い瞳が葉菜は好きだった。スナオの好きな所を上げるときりが無い。スナオに似ている人は世の中にいるけれど、スナオは何処を捜してももういないのだと、似た人を見る度に葉菜は自分に言い聞かせていた。
15年程前。当時派遣会社からの斡旋で仕事をしていた葉菜は、紹介された職場で、同じ年のスナオと出会った。第一印象は『グリーンマン』だった。
当時かけていたメガネは緑色のフレームで、着ていたワイシャツは淡いグリーン、ネクタイは椿の葉のような色をしていた。デスクの上に書類を置いた時に、スナオのデスクの上の事務用品の殆どがグリーンで統一されていた。気持ちのいいほどの統一感に葉菜は惚れ惚れしていた。
「緑色、好きなんですか?」
葉菜は思わずスナオに質問した。大人しい性格のスナオは小さく笑うと「はい」と言って、葉菜から書類を受け取り視線を外した。後々聞いた話では、スナオは葉菜と同じで人見知りをするらしく、初対面の人に話しかけられどうしていいか、分からなかったと照れながら話していたのを思い出した。
スナオの好みの影響は葉菜にも伝染していたが、それは随分後になっての事だった。
更に驚いたのは、私服だった。仕事ではスーツを着ているため足元まではさすがに統一できなかったが、一緒に出かけたドライブでその私服姿を見た時には思わず口に出していた。
「スナオは、グリーンマンね」
悪気はなかった。ただただそう感じたから見たままを言ったまでだった。スナオは無邪気に笑った。薄い唇をにかっとするとピンク色の歯茎が見えるのだ。その笑顔が葉菜の中で印象に残っていた。
ロードスターに初めて乗った葉菜は、その車体の低さとコンパクトさに驚いた。
「この車、他の車に見えなくて轢かれない? トラックに潰されちゃうんじゃない?」
心配げに葉菜はスナオに話した。目を細め笑う素直の横顔を見て、葉菜の胸の中の鼓動が早くなっていた。
「大丈夫だよ。そうだ。この車、オープンになるんだ。せっかく天気もいいし開けて走ってみようか?」
スナオの声が明るい印象で葉菜の耳に届いた。楽しんでいる様子が葉菜にも伝わり、嬉しくなっていた。夏の暑い日だった。ソフトトップのクロスを止めている金具をワンタッチで外し、葉菜の頭上に青空が広がっていた。走行していると風が直に入り込み身体を撫でる。涼しくて気持ちの良い環境に葉菜は喜んだ。
「すごいねー。風が気持ちいい」
思わずはしゃいだ葉菜を見て、スナオは小さく笑っていた。穏やかに笑う顔を見て葉菜は気持ちのやり場に困っていた。しかしそれは、少しずつ葉菜の中でふわふわと泡のように増えていった。増え続けるまでは、楽しく胸がくすぐったい想いで良かった。増え続けるまでは……。
出逢ってから1年が経過し、週末は共に過ごしたり時々平日もどちらかの家で過ごすことが日常だった。しかし、葉菜もスナオもお互いの関係について明らかに言葉のくくりで確認し合う事はしなかった。葉菜はその必要が無い物と捉えていた。しかしスナオには意味があった。
同じ時間を過ごし、傍にいてもごく普通に恋人ならばするような、自然の流れや男女の情事は2人には一切起こらなかった。けど、葉菜はその距離間が好きだった。少し切ない感じのするそれでいて緊張感があるその距離に。
冬の寒い土曜日の夜の事だった。それは、スナオの家でジャズを聴きながら赤ワインを飲んでいた時だった。ボルドーのフルボディの美味しいワインを見つけたと、その日のスナオはやけに浮かれていた。浮かれていたと感じたのは葉菜の一方的な主観だった。実際スナオは、何かを誤魔化すためにわざとテンションを上げ、お酒の力を借りたのだった。
間接照明を使った薄暗い空間。ムードのあるピアノジャズ。テーブルにはキャンドルがゆらゆらと小さなオレンジ色の明かりを揺らしていた。もともとスナオはロマンチックな事を平気でしてくれていた。葉菜の誕生日には車のトランクからヒマワリの花束が出てきた。星空が綺麗に見える日は山道を走り、明かりの少ない空気の澄んだ所で一緒に星を眺めた。真冬で外は途轍もなく寒かったが、夜空一杯に光り輝く星空に吸い込まれそうな感覚だった。そんな、ロマンチックな事をするスナオが、葉菜は好きだった。
「あのさ、葉菜……」
ソファーの隣に座り、顔と顔の距離がとても近かった。スナオはグラスを片手にワインを一口飲んだ。
葉菜は、いつもと少し違う様子だと察していた。ドキドキする鼓動と緊張を隠すのに精一杯だった。
「俺…………」
スナオは言葉を溜めていた。何かを躊躇しているようにも見えたが、葉菜は自分に何か期待のできる言葉が聞けるのではないかと、内心胸を高鳴らせ待っていた。
スナオはグラスを置き、小さく息を吐いて葉菜の顔を真剣に見ていた。
「ずっと、打ち明けたかったんだ。葉菜なら、分かってくれると思って……」
「?」
葉菜は首を少し傾げた。期待していた言葉ではなさそうだと薄っすら感じた。表情を変えず、葉菜はまっすぐスナオを見ていた。
「俺……男の人が好きなんだ」
スナオの言葉が葉菜の耳の奥で響いた。そうして、言っている意味を理解するまで少し時間がかかった。沈黙が部屋に漂い、ピアノジャズが軽やかなメロディーを奏でていた。
葉菜は、自分と共に費やした時間や自分の気持ちに困惑していた。目の前に居る男は、自分を見ていたのではない。他の女でもない。男が好きと言われて、葉菜は動揺した自分を隠しきれなかった。膨らんでいた胸の中の泡は、たちまち割れ始めていった。哀し気に葉菜を見つめるスナオの視線を逸らした。しかし、スナオはまだ話し足りない様子で、葉菜の視線を追いかけ必死に合わせようとしていた。
「イヤっ……!!」
葉菜は顔を両手で覆った。それは、スナオに対しての拒否的な態度を示すものと互いに理解し、スナオは瞬時に受け止めていた。分かりきっていた事だ。すがすがしいくらいの態度で、スナオとしては嬉しかった。自分が言った一言で、今までの関係が大きく崩れてしまう事を予め予測していた。
「ごめん……。俺、葉菜の気持ちは分かってる。俺も、葉菜が好きだ。でもそれは恋愛対象じゃない。葉菜が俺と一緒にいて何かを期待されたとしたら、俺にはそれはどうしようもできないんだ……」
葉菜は肩を震わせながら泣いていた。泣いている葉菜をスナオはただ隣に居ることしかできないでいた。
「葉菜となら、恋人以上の男女を越えた何かになれそうな気がしたんだ。語弊があるかもしれないけど、家族とか夫婦とかそう言うんじゃなくって……昔、映画で観た、自分の片割れを捜すみたいな。そんな存在なんだと思うんだ……」
スナオが話しながら泣いているのが、葉菜には分かった。沸騰した困惑する思いも少しずつ冷え、葉菜は冷静にスナオの話に耳を傾けていた。
「俺さ、今日、告白したんだ。あは。好きな人がいてさ。葉菜も知ってる人。同じ部署の黒田さん。言ったら凄い怪訝そうな顔されて冷たく『お前がそう言うヤツだとは思わなかった』って、あっさりフラレちゃった」
スナオが空元気して話しているのが痛々しいくらい、葉菜には伝わった。黒田は同じ部署の少し年上の穏やかな男性で、女子社員からも人気があった。確かに、黒田と一緒にしている時のスナオはとても楽しそうで、2人で居る時も黒田の話題が多く出ていた事を今更ながら思い出し、そういう事なのかと察した。
「ヤバいなー。俺、週明けどんな面して出社したらいいんだろー」
明るく笑うスナオに、葉菜は思い切り抱きついた。長い葉菜の髪からフローラルのシャンプーの香りがスナオの鼻についた。
「もう、いいよ……。分かったよ……」
葉菜は声を振り絞ってスナオにそう言った。スナオは葉菜の身体に手を回すともたれかかるように、葉菜を抱きしめた。スナオの身体が震えているのが葉菜には分かった。
「苦しかったんだよね……。ごめんね。スナオも私もフラレちゃった者同士だね……」
冗談と皮肉を織り交ぜながら、葉菜はスナオを励ました。
「大丈夫だよ。私は、スナオの見方だし、スナオの片割れだから」
葉菜は、精一杯強がって見せた。本当は、自分自身もショックで酷く哀しみに落ち込んでいるのだが、目の前で傷つき、自分を信頼して話してくれたスナオの事を見放すわけにはいかなかった。
スナオは声を殺して泣いていた。涙がぼろぼろと零れていた。葉菜はスナオが泣き止むまでずっと、その痩せた細い身体を抱きしめていた。まるで、子供をなだめる母親のように。
その日は心配で、スナオの家に泊めてもらった。男女の情事は起こるわけも無く、2人は狭いベッドで並んで眠った。葉菜は、小さい頃によく眠れない弟の一葉と一緒に寝てあげていた事を思い出した。
週が明け、葉菜は職場を気にかけていた。黒田は何か社内にスナオの事を言いふらすのではないか。スナオは職場にちゃんと出勤するのだろうか……と。
黒田の方は心配なかった。それは多分、男から告白されたと言う事が自分の中であってはならないとプライドと世間体が前に憚ったのかも知れない。
スナオの方は、職場の課長の口から聞かされた。連絡が途絶え、無断欠勤などするはずのないスナオを気にかけ、マンションの管理人を通して確認してもらった。
「今朝、死んだ……自殺だって」
葉菜は、いてもたっても居られず上司に理由をつけて会社を早退し、警察が立ち構えるスナオのマンションに駆けつけた。
「ダメです! ここから先は、立ち入り禁止です!」
身体をぐっと押さえつけられ、部屋のドアの前で葉菜はスナオの部屋を見ていた。
「関係者なんです! 会わせて下さい。スナオに。お願いします……」
暫く警察官と押し問答したが、部屋の中から出てきた刑事が葉菜の前にやってきた。
「緑川葉菜さん?」
刑事は淡々とした態度で狼狽している葉菜の姿を見ていた。
「そうです」
「貴方宛に遺書があります。けど、その前に簡単に事情聴取させて下さい」
刑事は葉菜の身分確認やスナオとの関係、職場の事など質問に答えた。そして、自殺する原因について問われると、思い当たる節と言えば、一昨日聞いたカミングアウトと失恋の事だろう。渋々葉菜はその刑事に説明した。
すると、刑事は若草色の封筒を葉菜に差し出した。それは、スナオが自殺する前に書いたであろう遺書だった。細い文字で書かれた筆跡は間違いなくスナオの字だった。
葉菜はその場で封筒から便箋を取り出した。同じ色の、スナオの好きな若草色だった。
『葉菜へ
この手紙を読んでいる頃には、もう僕は命を絶っています。この間、ずっと一緒に居てくれてありがとう。葉菜なら僕の事分かってくれるって思っていたんだ。受け止めてくれてありがとう。嬉しかった。
僕は、臆病者だから葉菜の気持ちに応える事も、月曜日に出社してフラレた黒田さんと顔を合わせることもできない。僕は、きっとこの世の果てに来てしまったんだと思うくらい、どうしようもなくなってしまったんだ。けど、そこには葉菜が居てくれた。葉菜が両手で僕を抱きしめてくれて、受け止めてくれた。ありがとう。ほんとうに、ありがとう。
葉菜。僕たちは片割れ同士だから、葉菜の傍にずっといる。けど、淋しくなったら月を見て。僕だと思って。僕もちゃんと葉菜をみているからね。さようなら』
葉菜は冷たいコンクリートの床にぺたんと座り込み、泣き崩れた。抑えていた感情がわっと溢れ、声を出して泣いた。
遠くから見ていた刑事は、葉菜に近づくと冷静に話しかけた。
「遺体これから運び出すから、彼に会ってきたらどうですか?」
周囲の警察官が「牧さん、いいんですか?」と、その刑事に話しかけていた。すると「いいでしょう。ここまでこうして来たんです。門前払いにするのは可愛そうだ」そう言って、葉菜の手を取った。ゆっくり立ち上がり、靴にカバーをかけられて部屋に上がった。数日前に来た部屋は変わっていない。寝室に行くと、部屋のドアに紐が縛り付けられていた。その床に、黒いビニール袋を被りぐったりと座っているスナオの姿が目に入った。
「スナオっ!!」
葉菜はスナオの身体を揺さぶった。ぐったりとしたその身体はひんやりとし、元々色白の肌をしていたが更に青白く少し浮腫んでいた。
「もしかしたら、貴方が来ることを想定していたのかもしれませんね」
葉菜の後ろで刑事が話しかけた。
「こんなふうに、ビニール袋被るなんて。首吊りした人間は、目玉や舌が垂れてグロテスクです。そんな姿を見られたくないから、ビニール袋を被ったんでしょうね。それに、遺書は貴方宛しかありませんでした。参考として内容を確認させて頂きます。いいですね?」
牧が尋ねると、葉菜は小さく頷いてそれを牧に手渡した。牧は速やかに封の中から便箋を開き遺書の内容を読み、事件性が無いか自殺であることが確かなのか確認した。すると便箋と封筒を近くに居た鑑識に手渡し、デジカメに収めるよう指示した。2、3枚ストロボの光が発し写真を撮ると、再び封筒に仕舞われた遺書を葉菜に返えした。
スナオの遺体と再会したのは、警察の霊安室だった。顔が整えられ青ざめた顔をして眠っているかのようだった。スナオが眠ったふりをしているだけで、そのうち目が覚めてまた、2人で時が過ごせるようにさえ思えた。葉菜はスナオの死と向き合い哀しみに打ちひしがれると同時に、行き場の無い失恋の傷の痛みが時間が経つにつれ大きくなっていた。入り混じった複雑な想いを溢れさせながら、葉菜は感情の濁った涙を流した。
この世界中の何処を捜しても、この世の果てまで捜してもスナオには逢えない。あの笑顔を見ることも出来ない。それから数ヶ月経ち、更に15年の年月が経っても、葉菜の中で哀しい想いとスナオを想う直向きな想いが生き続けていた。スナオが死んだその日から、葉菜の時間は、止まってしまっていたのだった。
3時間後、葉菜は待ち合わせ場所である百貨店の入り口で、カバンを背負った一葉と会った。両手にはアニメショップの袋を下げ、ご満悦の様子だった。
「結構買い物したのね?」
一葉の両手の先を見て葉菜は言った。
「今日は収穫だったよ。お目当てのフィギュアもゲットできたしさ」
にこにこしながら話す一葉に、葉菜は呆れつつ苦笑いして見せた。
「ねーちゃん、腹減らない? そろそろ昼飯にしよー」
一葉は痩せて薄っぺらいお腹に手を当てた。
「そうね。この中の上なら食べるところ何かしらあるでしょ」
葉菜は、一葉に決して「何食べたい?」とは聞かない。なぜなら、一葉の答えが必ず「カレー。ラーメン。焼肉。オムライス」の子供が好む食べ物の堂々巡りだからだった。
百貨店の中に入ろうとした時だった。
「葉菜さーん!」
聞き覚えのない男の声に、呼びかけられ振り向くとそこには加治葵の姿があった。加治は、ブランド物のシャツにネクタイを締めていた。土曜だか、どうやら休日出勤していた様子だった。
「こんにちはー。偶然会うなんて嬉しいなぁ」
加治は目尻に皺を作り笑顔を見せたが、瞬時に葉菜の隣に立つ一葉を見ていた。
「こんにちは。お仕事だったのですか?」
「そうなんだよ。お客さんが、どうしても今日の午前中しかアポとれなくて」
加治はそう言いながら、葉菜の隣に立つ一葉をとても意識していた。2人は同じ位の身長で、丁度視線が重なった。
「加治さん、私の弟です。一葉、こちら、会社の営業の加治さん」
葉菜は2人に紹介した。加治は、それを知ると驚いた顔をして葉菜と一葉を見ていた。
「あれ? キミ、良く雑誌やテレビ出てるよね? 俺よく買うファッション雑誌で見てるよ!」
加治は嬉しそうに一葉の顔を見てそう言った。一葉は、満更でもないなさそうで少し照れていた。
「ありがとうございます。姉がいつもお世話になってます」
葉菜は、一葉が社交的な態度をとっている事に驚いた。いつの間に、自分の弟が大人になったのだろうかと、いつまでも自分の後ろをついて歩く小さな子供だと思って見続けていたせいだろうか。何となし胸がくすぐったい気持ちだした。
「こちらこそ。こんな美人さんがうちの職場に来てくれて、俺は毎日ハッピーですよ」
相変わらず、加治からは付けていた香水の匂いがしていた。ブルガリの時計とブランド物のシャツなのだが、いつも草臥れた薄っぺらい鞄を持っていた。もう、それはクタクタになりかなり味が出ていた。
「これから、お昼にするんですが、良かったらご一緒しませんか?」
そう言葉をかけたのは、一葉だった。葉菜は内心驚いたがそれを顔に出さないよう必死だった。
「是非! って言いたいところなんだけど、これから横浜行かないと行けなくて」
「加治さん、ご自宅横浜?」
葉菜は加治に尋ねた。加治は葉菜をにこにこした顔で見ていた。
「葵くんって、呼んでくださいよー。そうです。俺、家横浜なんですよ。一番端っこの所。で、この後、バンドの練習があって」
「へー。バンドやってんですか。なんか、以外……」
一葉は目を丸くして加治を見ていた。
「あはは。これでも、いちおードラム叩いてんですよ」
「あ、それなんとなく、納得」
一葉はすかざず言葉をかけ、小さくうんうんと、頷いていた。
「じゃぁ、俺はここで。葉菜さんに休日も会えて嬉しかったですよー。また、月曜にねー」
軽やかに挨拶をし、ひらひらと大きな掌を振りながら加治は2人の前から去っていった。
「すげー明るい人だよね。俺、なんか、人として嫌いじゃないな」
「だから? ご飯誘うなんて、私すっごくビックリしちゃったじゃないの!」
「あー。なんか、楽しそうだなーって。単純に。ねーちゃんの事好きそうだし」
一葉は口元を少し上げ、ニタニタしながら葉菜に話していた。
「一葉!! 私は、そういうんじゃないの!」
葉菜は口を尖らせ、真面目に一葉のおふざけをやめさせた。
「ごめん、ごめん」
一葉は葉菜の想いを察していた。しかし、もういいだろうと言う思いも内心あったのだった。
葉菜の過去。詰め込みすぎると、それだけでこの回が終ってしまいそうなので、さらり……になってしまいました。
お話の途中、作者の作品に出てきた刑事がちらりと登場しました。少し、イイやつにしてみました。
これから、加治と葉菜に動きが見えてきます。……が、まだまだ葉菜の過去には続きがあるので、どこかでチラリと小出しにしていきます。
ここまでご覧くださいまして、ありがとうございました。
この後もお話が続くので、よろしければお付き合い下さい。m(__)m