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第7話 書院番

 明け六つの鐘が鳴り、寝床よりもぞもぞと動き出す影があった。

「ううむ。もう、朝か」

 大きな欠伸を漏らすその男は、今井丁子いまいちょうじといった。

 男は昨日、遅くまで飲み明かしたことを、今更に後悔していた。思い返せば、ようやく眠りについたのが、丑の刻の三つ時。いつもより睡眠時間が足りないのは明らかであった。

 それよりも問題なのは、頭の中に鉛でも詰められたような、重い鈍痛を感じることだ。

「いかん。酒が残っておる。これ、お朱鷺とき。水を一杯くれぬか」

「はいはい」

 仕方がない夫だと、溜息を隠しもせず、丁子の妻、朱鷺は、水を一杯注いでやる。

 丁子は、それを一気に飲み干し、まだ覚束ない足取りながら、立ち上がった。

「そんなんで大丈夫かい。今日は登城の日だよ」

「むむ。そうだったか。これは抜かった」

 忘れていたと僅かに顔を顰めたが、すぐに一転させ、丁子はぬけぬけと言ってのける。

「ま、なんとかなるだろう」


 丁子は書院番の一人であった。

 細々とした仕事もあるが、主に城内の警備を務めている。

 警備とは言うが、世は太平。城下町で小さな諍いがある程度で、城内で事件が起こることなど稀であった。

 余りにも仕事らしい仕事がなく、最近では、数を減らすべきではないかと、他所からの目が厳しくなりつつある。

 そして今日もまた、いつも通りの平穏であった。

「やれやれ。まだ、頭が痛いのう。それに加え胸の辺りに、もさもさとした毛玉が詰まっている心地だ」

「朝一で吐いておけばよかろうに」

「抜かせ。そうそう飲めぬ上物の酒ぞ。あっさり吐いてたまるものか」

「かかかっ。良い酒なら、悪い酔いなどするものか」

 などと抜かしながら、丁子は、昨晩共に飲んだ同僚、脇谷連時わきやつれときと、城内の廊下を巡っていた。

 手元には、手の平に丁度収まる程度の、磨き上げられた球がある。

 その球に、丁子は定期的に言葉をかけていた。

「もし。こちらは、三番の今井じゃ。なにか変化はあったか」

 それは連時への言葉ではなかった。勿論、丁子がおかしくなったわけでもない。

 少し待つと、球が言葉を発した。

【変わりなし】

「だろうな。ではまた、四半時後に」

【うむ】

 喋ったのは球であるが、それが生きているのではなかった。響いた声は、ここにいない男のものなのだ。

 不思議な球の正体は、魔道具という。

 魔道具の種類は幾つかあるが、丁子が持つものは、虫球むしだまという名前で呼ばれている。城内であれば、どこからでも連絡が付くという、所謂、短距離通信機だ。同時に、同じ道具を持つものが異常を知らせれば、地図を表示して、その異常地点を示す役割もある。虫の知らせと言うことだ。

 この魔道具がなければ、広大な城内を、それこそ駆け巡る勢いで巡回するか、人数を増やさねばならなかっただろう。

「虫球様々よのう」

 このような道具を幾つも作ることができ、その上、魔法の技術力もずば抜けている。

 だからこそ、この“扶桑神国”は全国を治めている。いずれは、海の向こうにあるという国も、容易く支配下に置くだろう。

 仕事が退屈な余り、丁子は常々頭の中でそのような妄想を巡らせていた。

「全く。実に平和そのもの。多少は、仕事をしたいものだ」

「かっかっか。うつけ。そんなこと、思っていたとて、口に出すでないわ」


 ――――りん。

 正にそれが引き金だったとでもいうように、虫球が鳴った。

「む?」

「お?」

 丁子と連時は、怪訝な顔で虫球を覗き込む。聞き慣れぬため気付くのが遅れたが、その音は、ほぼ訓練の時にしか聞いたことがない警戒音であった。

「これは、地下牢の」

「うむ。牛沢うしざわのものだ。もし、三番の今井じゃ。何かあったか」

 ややあって、返事。

【地下牢を抜け出した者がいるようだ】

「なに? 本当か、それは」

 瓢箪から駒とはこのことか。丁子と連時は、思わず顔を見合わせた。

「何とも見計らったかのようだ」

「確かに。牛沢よ、手は必要か」

【不要だ。そっ首を落として、姫に献上するつもりである】

 虫球の通信機能が、そこで切れる。

「ぬうう。一人でなんとかなるなら、警報など不要だろうに」

「まあ待て。不審者がいれば、警報を鳴らす。一応は決まりではないか」

「それくらい分かっておるわい。だがあいつは、得物にものを言わせて、横柄な態度が見られるでな」

「確かに。ま、不要と言ったとて、見に行くしかあるまい。派手にやるだろうし、血を拭う布なども用意せねば……」

 丁子が言いかけた途端、城に激震が走った。僅かに丁子と連時の体が揺れる。

「な、なんじゃ一体?!」

「お、おい、今井! 虫球が!」

 連時の慌てぶりに、丁子も急いで虫球に目を落とすと、信じられないものを見た。

 ――――りん、りん、りぃぃぃいいん。

「あ、赤い点滅……!」

「この音は、確か!」

 その意味するところは、一人以上の死傷者発生による緊急招集命令。非常事態の発令である。

 丁子と連時は、頷き合い、廊下を走り出した。


「まさか、あの牛沢がやられたのか?」

「信じられぬ。性格は兎も角、あれはかなりの剛の者。それに薙刀“歪”は、初見で対応できるものではない。勝てるものなど、そうそうはいないはずだが」

 互いに疑心を隠しもせず言い合う。それほどに、牛沢と連絡が付かなくなったのは衝撃であったのだ。

 虫球の示す場所へと走れば、他の組の者達も合流してきて、次第に大所帯になる。

「地下牢からの脱走とな」

「どんな愚か者か」

「暴れるというなら是非もない。精々叩き潰してやろうではないか」

「然り。然り。尤も、この人数では、楽しめもしないだろうな」

 等々。

 凡そ、丁子達と同様に鬱憤を抱えていたのだろう。

 緊迫感を漂わせながらも、どの顔も嗜虐の感情を露わにしていた。

「ここか」

 現場に辿り着けば、なんと驚きな事に、下手人と思しき者が、まだその場にいた。

 傍には、地下牢の巡回=牛沢が倒れている。牛沢は、血こそ流していないが・・・・・・・・・・、目を覚ます様子はない。少年がなにかをしたのは明らかである。

 だというのに、逃げるほどでもないと体現するように、少年は腕を組み、悠々と壁にもたれかかっていた。

「巫山戯た子供めが……」

 そのように悪態を吐くつもりであった丁子だが、その言葉は遂に口から発せられることはなかった。

 下手人の顔を見てしまったのだ。


(な、なんと美しい!)

 相手が男であるというのは、初めから理解できていた。だが、その美貌には見とれざるを得なかったのである。

 男色の気はないと断言できる丁子であったが、その少年は、余りにも美しすぎた。

 自分と同じ色だとは思えぬ、漆黒色の髪。どんな遊女よりも、自然で透明な白い肌。

 鮮血の赤色そのままに、濡れたような唇は、見ているだけで下半身が疼きを覚えた。

 そして、何よりもその目。

 唇ともまた違う、深緋こきひの眼差し。

 見つめられるだけで、心臓を掴まれた。生殺与奪の権を、相手に握られたと本能が悟ったのだ。

 そんな気持ちを味わったのは、姫と呼ばれる、この国の実質の最高権力者に謁見をした時以来である。

 闘志が萎えていき、知らず知らずの内に、足に入る力が抜け始めた。膝を突き、許しを請おうと、体が勝手に屈したのだ。

(だ、駄目だ、勝てぬ)

 本能と体に遅れて、理性が負けを認める。泣きたくなるような、情けない弱気が、心を覆い尽くそうとした。


 瞬間であった。

「かあっ!」

 一喝。背後から聞こえた、低い怒声に、丁子ははっと気を取り戻した。

 悪い夢から覚めたようだった。思わず、辺りを見渡せば、自分と同様の行動をしている者が見えた。崩れかけた体を、しゃんと立て直す者が、何人もいたのだ。

 それが気に入らぬとばかりに、獰猛な声を上げたのは、書院番の番頭、青野あおの定次さだつぐであった。

「誉れ高き、扶桑神国の武士ともあろう者達が、なんたる無様! 見よ! あれは、ただの化物ぞ! あのように赤き瞳をした人間がいるものかっ」

 その言葉に呼応するように、美貌の少年が、すうと笑った。唇の端だけを持ち上げたその笑みは、二日月にも似て不気味であり、また官能的に背筋を引っ掻くものであった。

「な、成程。確かに化物」

 普段の丁子は、定次の横暴なところに苛立ちを募らせている。だが、今回ばかりは、彼に感謝した。そのままでは、きっと化物に膝を屈して、覚めない悪夢に苛まれていただろうからだ。

「総員、抜刀!」

 定次の命に従い、全員が刀を抜く。丁子もそれに続いた。

 じりじりと、すり足で間合いを詰め、少年を追い詰めていく。

 だが、少年には、なんの気負いも見えない。口を開いてこう言った。

「なあ。この壁は、中々良い木を使っているな」

「……この状況で、その物言い。気でも狂っているのか」

 もたれ掛かっている壁の木を褒めたらしいが、確かに誰かが言ったように、状況に合っていない。気が狂っているとしか思えなかった。

「気狂いか。ふふふ」

 ようやく動く気になったらしく、彼は、ふわりと柔らかく壁から離れた。しかし、口にした言葉は、またも状況に即したものではなかった。

 命乞いでも、制止の言葉でもなく、こう尋ねてきたのだ。

「翁長茉莉花という名前に覚えはないか」

「は?」

「なんだと?」

「翁長、茉莉花……?」

 丁子は、その名前に覚えがあった。

 暫く前に、敬愛する姫より、次の巫女であると紹介されたためである。

 引き込まれそうになる、筆舌に尽くし難い魅力の持ち主であった。初めて彼女に会った際の記憶は、今も鮮明である。

 彼女を見てしまってからというもの、寝ても覚めても、その顔が浮かんだ。現実には妻がいるというのに、記憶に焼き付いた彼女の影を振り払うのに、恐ろしく時間がかかったのだ。

(あの少女と、この少年になんの関係が)

 そんな疑問が沸き上がりる。しかし、丁子は気付いてしまった。

「こ、こやつ、巫女殿と似ている……?」

 小さな呟きであったはずだが、少年の深緋の瞳が、丁子をしっかりと捉えていた。しまったと急激に背筋が冷えた。

「似ているか。そうかもな。彼女は、俺の姉だ。一応名乗っておこうか。俺は、翁長素馨というんだ」

 言うと同時、素馨は歩き出した。刀を持った男達に囲まれている人間の態度ではなかった。それこそ、散歩に行くような気軽さだ。

「巫山戯るなよ……貴様のような化物と巫女様に、血の繋がりなどあるものか!」

「あるのさ」

「止まれ!」

「それ以上動けば斬るぞ、貴様!」

「親切に教えてくれるなんて、何ともありがたいことだ。では、こちらも親切で教えようか。一つ、姉貴を返すがいい。二つ。俺たちを元の場所に戻せ。そうすれば、何もしないでおいてやるぞ」

 美貌の少年に、向けられた刀への恐怖は、一切なかった。その態度は傲岸不遜そのものである。だが、彼には似つかわしいものだった。少なくとも、丁子にはそう思えた。

 だが、定次にとっては違っていたらしい。彼は、怒りの余り目元をひくつかせていた。

 元々、身分差には厳格な男である。どこの馬の骨とも知れない素馨に、巫山戯た口を利かれたと思い、我慢できなかったようである。

 殆ど反射的に、彼は口角から泡を飛ばしながら叫んだ。

「殺せっ!」

 弾かれたように男達が動き出す。刀が一斉に素馨に襲いかかった。

「やはり、そう来るか」

 素馨の唇の端が上がる。

 他の男達と同様に斬りかかろうとしていた丁子だったが、その笑みに、ただならぬ迫力を感じて、蹈鞴を踏んだ。

(これを、俺はどこかで見たことがある――――)

 それはいつの日だったか。日付は覚えていない。しかし、その時の感情は、まだありありと思い出せる。

 相手は、人ではなかった。それは、獲物を前にした猛獣だった。

 牙を伝う、ねとりとした唾が見え。熱い吐息を感じた。

 だが、何より、その笑みが恐ろしかった。赤子のような純粋な笑みを真正面から見据えた時、心臓が縮んだと感じるほど、筆舌に尽くし難い恐怖を覚えた。

 今、その猛獣と素馨の笑みが被っていた。

(これより、一歩踏み出せば、死ぬ)

 死地の恐怖が、彼の足を止めたのだ。

 しかし、死神は、着実に彼と彼らに近付いていた。


「さて」

 何でもないような軽さで、素馨は抜き手を壁に打ち込んだ。さほど力を込めた様子もない。だが、厚く堅い板の壁に、彼の手は易々と埋まった。まるで、壁が豆腐かなにかであるかのようだった。

 そして壁から、一枚の板が、べきべきと引き剥がされる。長さにして凡そ|六尺(一、八メートル)と言ったところか。

 一連の光景を見ていた丁子は、信じられない思いだった。

「あ、あり得ぬ……。城内の木材は、全て樹齢千年を越える巨木から作られた木材に、祝福儀礼による強化を施しているのだぞっ。例え第八階位の魔物の突進であっても、難なく受け止められる筈だ。それが、こんな」

 さては、たまたま劣化している壁があったのではないか――――


 その答えは、すぐに示された。

「それ」

 軽いかけ声と共に、素馨の周囲から男達が消えた。

「ぐげっ!」

「があっ!」

 だだだと連続で、壁に男達が叩き付けられた音が鳴る。そして、廊下に彼らの絶叫が響いた。

 そこまでなって初めて、丁子達は、板が消えたと見間違うほどの速度で振るわれたのだと知った。

 同時に悪い知らせ――――素馨の持つ板は、ほぼ無傷であり、施されている強化が、未だ健在であることも理解した。

「なんだ?! 一体何が起こっているのだ?!」

 丁子は些か混乱し、素馨の持つ板と、吹き飛ばされた男達の間で、視線を彷徨わせた。

 一体どれほどの力が込められたのか、男達の状態は深刻である。

 骨折や打撲で呻くのはマシな方だ。口から泡をはき、見るからに危険な痙攣を起こしているものも少なくはない。

「魔力反応はないぞ! なぜ……なぜ、あんな力が出せるっ?!」

「はははははっ。なにが魔力反応だ。刀を振り回すだけの猪武者が、まさか魔法使いのつもりなのか?」

 哄笑を上げながら、素馨が板を振う。それだけで、また数人の男達が吹き飛んだ。

「ひっ、ひいいぃぃ」

 丁子は、情けなく悲鳴を上げながらも、奇跡的に暴力の竜巻から逃れ続けた。彼だけではない。何人かは、同じように逃げ惑っていた。

 普段から戦闘訓練を受けていた男達は、呆気なく潰走寸前であった。皮肉にも平和な時間が、恐怖と相対する覚悟を決められる胆力を、彼らから奪ったのだ。


 そんな部下達にたまらないのは、定次である。最早、破裂するのではないかと思わせるほど、顔が真っ赤であった。素馨の板に殴り飛ばされ、廊下を激しく滑ってきた一人を踏みつけて止め、怒鳴り声を上げた。

「愚か者共が手こずりおって。強化術の使用を許可する。やれっ!」

「は……はっ!」

 何事かを呟く男達。すると、場の雰囲気が変わる。

 丁子も慌てて後に続く。

 唱えたのは怪力の術。魔法と呼ばれる、超常の力だった。

 扶桑神国の研究者達によって、洗練された術式は、僅かな鍵言けんげんでの発動を可能とする。

「怪力よ、宿れっ!」

 丁子は、これまで幾度となく繰り返してきた鍵言を唱えた。効果はいつも通りに表れた。魔力が抜ける際の僅かな脱力感と、それを補って余りある力の充実。

「来たっ!」

 力の充実に伴って、折れかけていた心まで、むくむくと威勢を取り戻した。


 思い出すのは、この術を用いて行った試し切りである。

 夏の日のことであった。地面から立ち上る熱気よりも、熱い魔力のうねりを全身に受けながら、己の倍以上はある大きな牛と向かい合っていた。

 目を血走らせ、突進してきたその牛を、頭から尻まで容易く横切りにした時、丁子は、己の成し遂げた試し切りに、体をぶるりと震わせた。

 強大な敵を前に、再び怪力の術を使ったことで、その時のことが、自然と思い出されたのだ。

(これならば、如何にあれが、見た目より怪力であったとしても、膾に叩くことができよう)

 有り余る力の影響で、不随意に動く手をひくつかせながら、丁子は考えた。それが確かであると示すように、素馨が振った板は、別の男にしっかと掴まれて止まっていた。

「はっはっは、暴れすぎたな、坊主……!」

 一人の男が、額に血管を浮き上がらせながら、素馨の振り回す板を掴んでいた。

 相当強力に術を発動して掴んでいるらしい。男達を幾らなぎ倒しても、傷一つ付かなかった板が割れる、とまではいかないものの、軋みを上げていた。

「無能者にしては、力自慢らしいな。だが、強化術の前には無駄だっ」

 無知なものに教えてやるとばかりに、馬鹿にした口調だった。形勢は逆転したのだと、嗜虐の笑みを浮かべてすらいる。

「よし、やれ!」

 定次も同じように思ったのだろう。残りの者達に命令を下した。

 板を掴む男を迂回して、残りの男達が素馨に近寄った。丁子は出遅れたため、包囲網の外側に並んだ。

(形勢は逆転している。もう、終わりだ)

 自分で手を下せないのは残念だが、これで終いだと丁子は心中で呟く。

 しかし、不思議なことに、ちっとも安堵感はなかった。本心は、素馨に対する恐怖で埋め尽くされたままだった。

 ――――それが、やられるところを見なければ、安心できない。

 彼の本能は、理性よりも先に理解していたのだ。

 遅れて、理性が気付いた。

(見ろ、あの目を。なにも恐れていない。こちらの出方を見ているだけだ。

 蟻の群れの動き方を見て、どこに石を落としてやれば終わるのか。それを考えている子供のような目じゃないのか……!)

 丁子の考えは正しかった。何ら想定外のことをするでもなく、このまま取り囲み、斬りかかるだけだろうと悟ったらしい素馨が、あっさりと動いたのだ。

「じれったい。さっさとやったらどうだ」

 信じられないことに、素馨は板を掴んだ男ごと、板を持ち上げた。

 形勢逆転したと見ていた男は、すぐに事態を飲み込めなかったのだろう。咄嗟に板から手を放すことができずに、空中にぶら下がっていた。

「どうした。強化術とやらの力は、まだ教えてもらえないのか?」

「う、おおおっ?!」

 誰かの力で、高所に上げられるなど、男にとっては子供の時分以来だっただろう。

 ましてや、そのまま振り回されるなど初体験同然で、最早なにが起こったかすら分からなかったかもしれない。

「止めっ――――」

 静止も空しく、男は板から手を滑らせた。十分に加速された男は、多数の仲間を巻き込むように投げ出された。

 その場所は、丁子がいるところであったが、前にいた多数の仲間が衝撃を吸収したことで、彼自身は大した怪我もなく、廊下に転がるだけで済んだ。

 そして、転がりきった場所は、奇しくも地下牢の巡回の傍であった。


「く、くそっ。なんて馬鹿力だ。ぬ、牛沢か。おい、貴様、一人でやるなど、よくも言ってくれたものだ……な……? っひいっ、ひいいぃぃ!?」

 お門違いの苛立ちをぶつけようとした丁子は、牛沢の顔を直視して、顔を青ざめさせた。

 そこに居たのは、彼の記憶にある三十代ほどの屈強な男ではなかった。

 体液を全て失い、朽ちかけ間近の木乃伊のような何かであった。

「まさか、あやつがしたのか? あの子供は、一体、なんなんだ?!」

 動揺の余り強化術が解けた。そして沸騰していた頭も冷めた。

 それ故に、不幸にも彼は気付いてしまった。

 素馨に打ち倒された、数多くの男達。或いは強烈な打撃で、或いは折れ飛んだ刀によって、彼らは傷付き血を流している。だというのに、廊下には一滴の血もない。叩き付けられた壁にも、なにも付いていないのだ。

「待て待て待て……。おかしいぞ。どういうことだ」 

 すぐに理由は明らかとなった。素馨の服である。

 彼の服の奇妙な赤い筋が、一定の周期で広がり、縮まっていた。その脈動を繰り返す度に、たった今飛び散った血が、素馨目がけて寄っていくのだ。そして、靴の元に辿り着くと、その血は綺麗さっぱり消えてなくなった。

「っ、血が、消えている。血を……血を吸ってるのか、この化物は!」

 常軌を逸した光景に、丁子の闘志は、完全に鎮火したのだった。



 やがて、同じように連時が吹き飛んできた。奇跡的に、殆ど怪我をしていない。

 だが、彼の顔にも、最早素馨の暴力に抗おうという意思は見えなかった。

「……お互いに、冗談みたいによく生き延びているな」

「あ、ああ」

「だが、どうする」

「無理だ。あんなの、どうしたらいいのかすら、分からん」

 素馨の言うとおりにするのが、一番確実な方法ではないのか。二人は、そう思い始めていた。

 今ですら誰も止められない。圧倒的な力だ。少なくとも、自分達が百人いて求められるとは思えなかった。

 挑発的に笑い、堅い板を振るい、血の霧をばらまく素馨の姿は、昔話に謳われる鬼にも見えた。丁子や連時以外の男達も、心が折れ始めていた。


 だが、まだ心が折れていない者がいた。番頭、定次である。

「真面目にやらんか、貴様らっ。それでも名誉ある武士かっ。強化術を使っておきながら、たかが子供一人になんて様だ!」

「ならば、お前に相手をして貰おう」

 わざわざ板材を放り出し、素馨は定次を目指して歩き出した。

 左右から斬りかかられても、指先で刃を掴み、そのままねじり上げて刀を持つ男達を脱臼/無力化していく。ぞんざいでありながら、圧倒的な真剣白刃取りだった。流石にそんな真似をする者に近付かれては、定次も表情を引き締めざるを得なかった。

 半ば早口だったが、彼もまた他の男達と同様の言葉を口にした。

「剛力よ宿れっ!」

 剛力の術。他の男達よりも、上位の術である。感じる威圧感も、圧倒的に増大した。

「は……はははっ! 俺の力は能力値六十四! 使ったのは、力を四倍にする【剛力の術】だ! ガキめ、大人しくしないと怪我では済まんぞっ」

 怪我では済まない。その一言は、事実であった。

 いけ好かない上司であったが、丁子は、かつて見た定次の力の強大さを思い出した――――


 ***


 それ・・は、一見すると巨大な羆であった。

 だが、その毛皮は刀を通さない。ましてや、通常の猛獣であれば、一発で体の半分を吹き飛ばす魔導鉄砲を斉射して尚、無傷という呆れた頑強さを持っていた。

 階位で言えば、第七、若しくは、第六階位はあったであろう。最低階位である第十二や第十一階位の魔物ですら、武装した男性の手に余るのであるのだから、只人からすれば、天災にも匹敵する怪物である。

 羆は、平屋を片手でひっくり返す怪力にものを言わせて、村という村を襲い、家畜を食い荒らし、遂には人を食べるまでになった。

 小さき者どもは騒ぐだけで、酷く弱っちい。自分に敵うものはいないと、その羆は思ったに違いない。

 事件は、それから間もなく起こった。

 思い上がった羆は、畏れ多くも、姫様の行列に立ち塞がり、獣臭い息を浴びせてきたのである。

 だが、慌てふためいたのは、下級武士だけであり、三人ほどいた上級武士は泰然とした態度を崩さなかった。

「姫様。ここは、私めが」

 姫様が命を下す前に、真っ先に羆と相対したのは、定次である。

 その時に使ったのも、今回使ったのと同様の剛体術だった。

 しかも、得物一つ持つこともなく、素手で羆と相対し、手四つで組み合った。それでいながら、ビクとも動かなかったのだから、その怪力ぶりや推して知るべしである。

 羆も、まさか、自分の半分にも満たない大きさの人間が、そんなに強いとは思っていなかったのだろう。必死に定次を潰そうとする姿が、滑稽ですらあった。

「ぬぅん!」

 対して、定次はあっさりと手を返して見せ、羆との力の差を暗に示した。更には、捻り上げるようにしながら、羆の両腕を根元から千切り取るという、信じられないことをやってのけた。

 こうなると哀れなのは羆である。しばらくは、なにが起こったのか分かっていないように、自分の肩口を見て、呆然の体であった。

「ごっ、ごわぁぁあああ!」

「囀るでないわ、畜生風情が!」

 狂乱し、噛みつこうとしてきた羆の頭に、拳骨での打ち上げを一つ。それだけで羆の頭は爆散し、痙攣するだけの肉の塊となった。

「お目汚しを」

 返り血を恥じながらも定次は、姫様に羆退治完了を告げた。そして、丁子達には羆の死体と行列の進む道を汚す血を片付けるようにも命じたのだ。


 ***


 上級武士ともなれば、あそこまで強くなるのか。

 少年の時分に抱いていた、果てない強さへの憧れを、丁子はその時僅かに思い出した程であった。

「水野殿であれば……」

 普段は嫌な上司としか思っていないが、こと争いでは、水野のむさ苦しい髭面に、丁子は絶大な信頼を寄せていた。

 

 そして遂に、素馨は、定次の間合いに辿り着いた。

「童めが。死にたいか」

「こちらこそ、これ以上ご託を並べるなら、怪我で済ませるつもりはない。姉貴を返すか、否か。応えろ、髭」

 素馨が最接近して問いかける。

 定次の答え=羆をも屠る、全力の正拳突き。

「死ねい!」

 迫る腕を軽く素馨が避ける。

 狙いを外した定次の拳が、廊下の壁に突き刺さった。それだけでは止まらず、何枚かの板を破壊せしめた。人体と木の板が奏でたとは思えない、やけに重く、硬質な音が辺りに響いた。

「ほう。体も硬くしたか」

「当然だ! この力を十二分に振うために、今の俺は、金剛石にも等しい!」

 言いつつも裏拳で素馨を撥ねんとする。それも、素馨は最小限の後退で避ける。

「小癪な。逃げてばかりか、小童!」

 息を吐く間も与えんと、定次は、次々に拳を繰り出す。時折、袴に隠れて見えづらい足も跳ね上げる。それすらも素馨はよける。

 しかし、反撃はない。破竹の進撃を続けていた素馨が、ここにきて逃げの一手である。

「やれる……やれるぞ!」

 さしもの化物も、化物退治の上級武士には敵わない。周囲で見守るしかできない男達の中に、そんな気持ちが生まれて、やがて定次への声援と変った。

「ちょこまかと逃げても、貴様はもうお終いだ! 今更命乞いをしても遅いぞ。今すぐに這いつくばり、許しを請うなら、そっ首を落としてやっても良いがな!」

 声援に気をよくしたか、定次が僅かに息を切らしながらも、素馨を挑発する。

「――――くく」

「なにが、おかしいっ!」

 相変わらず当たらない攻撃を繰り返す定次を小馬鹿にした笑みを、素馨が浮かべる。

「剛力の術とやらがどんなものかと見ていたが、どうやら大したものではないな」

「言わせておけばっ!」

 一際力を込めた一撃を定次が放つ。初めて素馨が、軽く手を上げて見せた。

「まさか受けるのか」

 丁子達が思うよりも早く、定次と素馨は交錯した。

 壁を破った時よりも、激しい衝突音が炸裂し、血煙が舞った。

「やった!」

 見物人と化していた丁子は、素馨の頭が、羆同様に砕け散ったと思った。

 魔導鉄砲よりも強力な、定次の拳である。美女とも見間違うほどの優男が、耐えられる理屈はない。

(死んだ。化物が、死んだ)

 必死に、丁子は己にそう言い聞かせた。

 なぜそこまでと思う頭は、すでになかった。


 彼は、ただ、目が捉えた光景を否定するのに忙しかったのである。


 素馨は、変わらぬ姿でそこにいた。傷一つなく、健在である。

 対して、定次の右腕は、直角に曲がっていた。骨が飛び出し/むき出しの神経がてらつき/思い出したように血が噴き出した。

 かつての羆と、完全に立場が逆転していた。千切れかけた腕に理解が追いつかない定次は、呆然と立ち尽くしていた。

 そして、その顔を白く、嫋やかな指が包んだ。素馨の手である。

「ひっ?!」

 確かに、一瞬で決着はついていた。ただし、丁子の妄想とは、真逆の形だったと言うだけの話である。

「ぎゃあああ! ばかなっ! なんでっ、なんで俺の腕がぁ! や、やめろっ、放せぇ! 貴様ら、止めろ、誰かこいつを止めろぉぉおおお!」

 無様なほどに定次が喚き、常人の何倍もの力で、もがく。その過程で、幾度となく、足が素馨を襲う。

 素馨自身は、腹を蹴られようが、大した痛痒もないらしく、悠然と定次を持ち上げたまま走り始めた。立ち塞がると言うより、動くことを忘れた人の壁を、持ち上げた定次の体ではじき飛ばしていく。

 途中で何度も、潰れた蛙のような声が上がったが、一切速度は緩めなかった。

 一通り目に付いた兵士達をはじき飛ばした後、素馨は定次を壁に叩き付けた。

「ぐげぁっ」

 壁と素馨の手でどれほど圧迫されたのか。定次は鼻と耳から血を流し、全身から力を抜いて崩れ落ちた。

「つまらん男だ」

 吐き捨てるように言い、素馨は、すんと鼻を鳴らした。

「ああ、こっちか」

 ぐるりと顔を回す素馨。弾き飛ばされた衝撃から立ち直りながらも、彼に目を向けられた男達は、目に見えて身を震わせた。

「なんだ。まだ、残っているのか」

「っひ、ひいいぃぃぃ!」

 自らが誇りに思う術で、十人前の力を得ているはずの男達は、恐怖で顔を歪ませた。

 どうしても、素馨を取り押さえる自分達が想像できなかったのだ。

「誰か、助けてくれ……」

 己の股間の生暖かさに気付くことなく、丁子は、恐怖でその意識を飛ばした。

こんな鬼ごっこはしたくない

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