第5話 眼子
――――アア。綺麗だネエ。なんて。なんて綺麗な目なんだロウ。
夢と現実の境界に止められた素馨の意識が、そんな声を聞いた。
(……な、ん……だ……? どこ、だ……ここは……)
言葉を発せない。体も動かない。そして、視界が白く霞んでいた。
「見たい。見たいよう。もう一度、あの色が、どうしても見たいよう」
目の前で誰かが喋っている。だが、壁を一枚挟んだように声が遠く感じられた。
「ん……」
ぞるぞるとざらついた音。霞んでいた視界が、片方だけ少しマシになった。それでも、見えないことに変わりはない。
(何を、された……?)
分からない。なにも感じられないのだ。
それからすぐに、苛立たしげな声が聞こえた。
「ぐぐぐ――――だめだっ。だめだだめだだめだ! これじゃない!」
(なにがだ)
相手が、素馨の心の声に応えることは、もちろんない。
騒ぎながら、声は遠ざかっていく。
分かるのはせいぜいその程度。周りを感じることだけで精一杯だった。
「ひーめーさーまーぁ、ちょおーっとだけでいいから、氷を緩めてよ!
折角の目がくすんじゃってるんだよ? こんなの嫌だよ。ちょっとだけ、ちょっとだけでいいからさあっ」
(目が、なんだって……)
それを最後に、彼の意識はまた、底なし沼の闇に落ちていった。
どれだけ時間が経ったか。
昔から知る暖かさが、頬を緩やかに撫でた気がして、意識が再び半覚醒状態に傾いた。
(姉貴?)
「そーちゃん」
更に声が聞こえた。間違えようもない、姉のものだった。
「そーちゃん、いえ、わたしの弟は、まだこのままなんでしょうか」
「申し訳ありません。彼は、召喚の対象者ではありませんので、転移術式により尋常ならざる損傷を受けております。現状で下手に保存術式を解除してしまえば、体が粉々に割れてしまうことでしょう。故に手出しができないのです」
「いつ聞いても、そればかりです。どうにかしてと聞いても、きっと同じ答えなんでしょう」
「回復を試みてはおりますが、受け付けないのです」
「……どうして。どうして、そーちゃんだけがこんな目に」
かつて聞いたことがないほどに固い姉の声だった。それが自分のせいだと思うと、いても立ってもいられない気持ちになる。
体が粉々に割れてしまう? そんな馬鹿な。いや、例え本当にそうなっても、素馨にとっては関係ない。
俺は大丈夫だ。問題ない。そう伝えたかった。
だが、そんな僅かな言葉さえも、気持ちが先走るだけで、結局一言も発せなかった。
(くそ……)
それからもしばらく、彼女は誰かと話していた。しかし話はすれ違うまま。
遂には彼女が、再び自分の頬を撫でて、悲しげな声で言った。
「ごめんね。そーちゃん。お姉ちゃんが、きっと何とかするから。だから待っててね」
慈愛に溢れた姉の声は、霞んだ視界でも、遠い声でも、はっきりと届いた。
嬉しかった。
何もできない状況で、絶望が心をむしばむ中、彼女の言葉は一筋の光に等しかった。
しかし、それ以上に感じるものがあった。
それは、彼女の隣から伸びて、絡みつく悪意だった。
(これは)
余りにもどす黒い感情だった。こちらを全く対等としてみていない。
言うなれば、道具を見る目。どう使い潰すかだけを考えている。冷たい思考が、空気を伝って伝わってくるようだった。
理由はなかったが、そいつが、全ての元凶だと素馨は直感した。
(姉貴、そこにいたら、ダメだ。そいつから離れろ。俺はいい、早く、逃げろ)
必死に思う。だが思うだけ。心の声は届かない。
だから、姉が、全ての元凶を頼るという、屈辱的な場面を止められなかった。
「どうか、あの子を助けるための手伝いをして下さい」
「御心のままに」
そこでまた、意識が途切れた。
一体何日が経過しただろうか。既に時間の感覚はなくなっていた。
意識がいつ浮上して、いつ落ちたのか。それすら分からないまま、素馨は日々を過ごしていた。
そんな中でも、幾度となく傍に来る気配の区別はできた。
姉である茉莉花は当然だった。来る度に、必ず頬を撫で、その日の天気や最近の出来事を話してくれる。
発作は、ここに来た時からぴたりと止んだようで、それだけは安堵した。
彼に会いに来る人間は、もう一人いた。
来る度に、視界の曇りを少しだけ取る人物だ。決まって嘆きの声を上げるので、学習能力がないのかと少し呆れる。
「今日も目が曇ってる。うう~、勿体ない」
そいつは、来る度目のことばかり口にする。
「最初に見たときは、これだぁって思ったね」
(知らん)
素馨には思い出せないが、初めて会った時に、目線を交わしたらしかった。聞いてもいないのに、そいつはべらべらと話し続けた。
(変な奴だ。趣味が、普通じゃない)
始めは理由が分からなかったが、ここまで繰り返されると、流石に素馨も分かった。
こいつが頻繁にここに来るのは、自分に会いに来るためではなく、自分の目を見るためなのだ。
(眼球フェチといったところか)
ちなみに、決まりごとなのか、眼球フェチは、いつも別の気配と共にあった。
そっちは、一言も発さない。そして、目のことを熱く語る眼球フェチから、常に一歩引いた位置で立ち止まっていた。
(監視か。しかし、どこか雰囲気がおかしい。対象は、俺だけじゃないのか)
今の意識で分かるのはそこまでだった。雰囲気を察するだけで、はっきりと頭を巡らすことはできなかった。
「じゃあね。また来るよ」
(お前は、来なくて良い)
僅かに浮上した意識がまた落ちた。
今日の記憶は、そこまでだった。
ある日のことである。
眼球フェチは、一人だけで現れた。これまでにない変化だった。
「ふへへ。あたし聞いたんだ。この道具が、お前を固めてるんだってさ」
曇った視界ではよく見えないが、細長い棒を持っているようだった。
「長かったぁ。誰も教えてくれないから、あの目この目を潰してやっとだよ?」
不穏な言葉だった。
(あの手この手を尽くしてではないのか。こいつ、まさか)
眼球フェチは、どこかおかしい人種だと察していた。
だが、まさか自分の目を見るためだけに、取り返しのつかないことをしでかしたというのだろうか。
素馨は、表情が動いたなら眉を顰めただろう心持ちで、続きを聞いた。
「あんな汚い目に触りたくないってのにさあ。チェ、流したのに、まだ感触が残ってるや。気色悪っ。生きが悪いと、べしゃっとすんだから、嫌なんだよね。でーも、分かったからよし」
眼球フェチは、喜色を声に乗せて喋り続ける。まるで、ご褒美を待ちわびた子供だった。
「姫様はさぁ、お前をそのままにしておけって言うんだ。でも嫌だね、そんなの。勿体ないったらない」
声が近付いた。目鼻の先にいるはずだった。感覚は遠いままだが、何となく分かった。
「あの女が自発的に言うことを聞くように、お前は氷付けにしとけとかさあ。無駄ったらないよねえ。どうせあいつも操っちゃうくせに、ばっかみたいな理由!
あ、でも、あれの目も綺麗だし、一個だけでもくれないかなあ。んー? あれの名前なんだっけ」
少しだけ考え込む素振りを見せたが、すぐに、まあいいやと呟く。思い出すのは、諦めたらしかった。
「さ、て、と。解凍開始」
それだけ告げて、棒を振る。変化は劇的に現れた。
(これは……?)
素馨の意識が、はっきりと覚醒に向かい始めたのだ。
段々と五感が戻る。視界の曇りが取れ、遠かった声が近くに寄ってくる。遂には、体を壁に繋ぎ止めている帯の圧迫感すら感じるまでになった。
そこで、変化が止まった。すいと、再度棒が振られたのだ。
「危ない危ない。戻しすぎたら動いちゃうや。これ以上はばれちゃうから、このぐらいで止めておいてっと……。アア、やっぱり綺麗な目だねえ」
溜息を鼻に感じる。視界の曇りはなくなったが、今度は近すぎて見えないほど、眼球フェチの顔が接近していた。そして指が視界を埋め尽くす。
(やはり、目を触られていたのか。くそ。眼球フェチで正しかったな)
目を指で触られているというのに、体の自由が戻っていないため、瞼を閉じることもできなかった。痛みはないが、不快である。
「うふ。ふふふ。いいなあこれ。いいなあこれ」
喜色をこれでもかと声に乗せて、鼻歌でも歌い出しそうな勢いで、眼球フェチは素馨の目を触り続けた。
更には舌を小さく出して、顔を近づけてくる。大写しになる舌に、素馨は怖気を覚えるが、結局なにもできない。そのまま、ぺろりと目を舐められる。
今になって理解した。時折少しだけ曇りが取れる時も、こうされていたのだ。
(人が動けないのを良いことに……! もう少しだ。もう少しで動ける筈だ。動きさえすれば、こんな奴)
素馨の内心も知らず、眼球フェチは、彼の目を眺め、触り、舐め続けた。
「ん、ふ。れろ。あふ。……ふふふ」
息を荒げながら、恍惚の時間を過ごしていた眼球フェチだったが、ふと、夢心地のままに漏らした。
「んん……ふ、う。……あー。思い出した、あれの名前。確か、茉莉花とか、なんとか」
ぼうとしたままの、どうでもよさげな呟きが、素馨にとっては起爆剤だった。
(こ、いつ、ら……!)
眼球フェチは、名前を思い出す前に、“その女”を最終的には操ると言っていた。
それが、姉のことだという。
半ば気付いてはいたが、改めて答えを聞くと体に熱が灯った。僅かな氷を溶かすには、十分な熱量だった。ぎちぎちと、凍っていた血が、音を立てて巡り出す。
「くかっ」
「え?」
「あ……ねき、を、どうする、って」
「げ、ヤベ。再凍結――――!」
眼球フェチが棒を振る。
素馨は再び、先ほどと同じ無感覚状態に戻り始めたのを感じた。このままでは拙いと直感が叫ぶ。体を縛る帯を幾つか引きちぎりながら、素馨は闇雲に手を振った。
「くぅぅうううぁぁああああ!」
「ぎっ!?」
僅かな衝撃。そして、悲鳴と水っぽい音。
何かしらの痛手を相手に与えることができたのか。かつんと音を立てて、眼球フェチの持っていた棒が地面を転がった。
それが契機になった。素馨の体に纏わり付いていたなにかが弾け飛んだ。壁に繋ぎ止めるための帯だけではない。体を凍らせていたなにかが、諸共なくなったのだ。
そうするとどうか。急激に全ての感覚が戻り始めた。
聴覚が、嗅覚が、触覚が、視覚が。久しぶりに取り戻した感覚情報が、怒濤の勢いで素馨に押し寄せた。
「ぐ、うう」
いつも感じている情報は、こんなにも多かったのかと、眩みすら覚えた。それでも素馨は、感覚情報の津波に耐えきった。体を繋ぎ止めていた全ての帯を引きちぎり、しっかりと両足で地面に降り立った。
些か乱暴ではあったが、それ故に彼は思った。
――――体が粉々になる気配は、微塵もない。
声と気配しか知らない元凶が、やはり姉を謀っていたと確信するに足りる事実だった。
「あれは、生かしておけんな」
激情もそのままに呟く。
しかし、半分だけ吸血鬼という生まれがそうさせるのか、激情はそのままに、思考が晴れていく。我に返った彼は、薄暗い石造りの部屋にいることを知った。
「ここは一体、どこだ」
「うううー、あああぁぁあぁああ」
答えは期待していなかったが、返るのは呻き声だけだった。
声の主を見てみれば、顔を押さえて蹲っていた。手を伝って血が床に落ちている。
そこで素馨は、自分の指にもなにかが引っかかっていると気付いた。どうやら、手をがむしゃらに振り回した時に、引っかかったらしい。
引っかかっているものの先は丸い。丸いそれから、赤やら黄色をした紐のような物が伸びて、自分の指に絡まっている。
これはなんだろうと、素馨は手を持ち上げた。だが、答えは、すぐに蹲る相手からもたらされた。
「ぐ、くぅ……よ、よくも、あたしの、あたしの目をぉ……!」
なるほど。これは目玉だったのか。
奇妙なことに、それ以外の感想はなかった。姉を謀った者達への激情とは裏腹に、心まで凍らされたように、感情が動かなかったのだ。
(いや、逆か)
感情が動かないのではなく、本性がむき出しになろうとしているのだと、素馨は考えた。
常人の感覚であれば、他人の臓器を刳り出したりすれば、忌避感や嫌悪感を感じる筈だ。だが、自分はそうではないというだけ。
これも恐らくは、自分に流れる血の半分の影響だろうと素馨は判じた。
「ふん。だからなんだ」
常人とかけ離れた感性など、どうでもよかった。半分人でなしの自分なら、ありえることだった。
だが、人でなしにも大事なことは、ある。
「姉貴を、助けなければ」
一歩目は、足を引きずるようなぎこちないものだった。それも、直ぐに滑らかになる。
茉莉花の居場所は、今のところ分からない。分からないが、このままここにいても良くないと直感が告げていた。
足早に立ち去ろうとした素馨だったが、一歩遅かった。
「てめえ……!」
幽鬼のごとき足取りで、眼球フェチが、立ち上がっていた。
「てめえ、やりやがったなっ。あたしの目をよくもぉ!
返せっ、ついでにお前の目も寄越せっ」
空洞になった片目から、血涙がだくだくと流れていた。そこを抑えることもせず、眼球フェチはなぜか匙を両手に持っていた。とても武器には見えないものを持っているだけなのに、凶悪な迫力があった。
放たれる怒気と殺気。眼球フェチは、体が何倍の大きさにも見えるほど強烈な感情を表していた。
そして、妙な現象も起きていた。眼球フェチの体の周りを、赤いもやが覆っているのだ。
恐らくは、それが眼球フェチの迫力を増す要因だと、素馨は一目で見抜いた。
しかし、彼の歩みを止めるには、足りなかった。
「迫力が増した。それがどうした」
互いの距離は狭まり、やがて、手が届く程になる。眼球フェチは、意外なほど小さかった。自然と素馨が見下ろす形になる。
見下ろしたまま、傲岸に言い放った。
「どけ」
「んだと」
相手の威圧感が増したが、構いはしなかった。
訳も分からず、妙な場所に連れ攫われて、早何日か。その間身動きを封じられて、放置された。
そして、自分にそんな仕打ちをして、姉の表情を曇らせた奴らだ。こちらがへりくだってやる理由など、一欠片もない。
素馨の目が、妖しい輝きを増し、寧ろ相手の気迫を飲み込んだ。
まるで水を掛けられた炎のように、眼球フェチの赤いもやが小さくなった。
「う、うあ……」
「どけ。こんなものが欲しければ、いくらでも返してやる」
汚物でも払うように、眼球の付いた指を動かす。遠心力で、目玉が勢いよく素馨の手から飛んだ。
「……なあっ!」
一瞬遅れて、眼球フェチがその軌跡を追った。そして、素馨の視界から消える。
「ふん」
鼻を鳴らし、歩き出す素馨。
既に眼球フェチへの興味は失せていた。中学校にでも通っていそうな女の子だったか。感想はその程度だった。
「くそっ! くそくそくそっ! ふざけやがって! あ、あああ、あたしの目を、なんだと思ってやがる……んだ……」
唐突に、眼球フェチの激怒の声が止んだ。
しばらくして再度上がった声には、はっきりと喜色があった。
「あ、ああ? なんだ、なんだなんだ、これ。おい、いいじゃん、すっげーいいじゃん。ふへぇ、気に入った、やべえ、綺麗じゃん」
えへ、えへと奇妙な笑い声。気色が悪く聞き続けるのは辛いが、眼球フェチの少女が、素馨への興味を失ったらしいのは、寧ろ幸いだった。
「じゃあな」
悠々と部屋を出る彼を止めるものは、誰もいなかった。
題名にあるのに、作中に名前が登場しない不憫な娘。