第4話 暗転
青い月明かりの鳴き声が聞こえる。そう錯覚するほどに静かな夜だった。
熱気に炙られながらも、生命の息吹があちこちで感じられた昼間とは打って変わり、生き物全てが、息を引き取ったかの完全な静寂だった。
ほどよく暗く、涼しく、静か。凡そ、眠るのには絶好の条件である。
しかし、実際は逆であった。
(……いやに、静かすぎる)
煩くないために、目が冴えるというのは、素馨も初めての体験だった。
亜熱帯性気候の沖縄では、夜になってもそれほど気温が下がらない。お陰で虫達は活発に動き、ざわめきが彼方此方から聞こえるのが普通であった。
発光ダイオードが、一般的な照明である今でこそ、家に寄ってくる虫は少ないが、電球や蛍光灯が全盛の時期は、羽虫と家守が網戸を覆い尽くす勢いで押し寄せるのが当たり前であったほどだ。
それが、どうしたことか。
今晩に限っては、冷ややかなほど涼しく、虫の声も全くない。
「まるで音がないと、逆に耳鳴りがするか」
無音過ぎることに耐えられず、素馨は独り言を漏らす。
どことなく尋常ではない。
これが明晰夢であれば、目を覚ますのを待つだけで良い。しかし、この状況は、聴覚以外の五感が、現実だと教えていた。
窓を開ければぷんと香る筈の庭の花も、今晩はなぜか匂いが薄い。
虫といい花といい、まるでなにか大変なことが起こり、それに巻き込まれまいと存在を消しているようだ。
そんな、おかしな妄想に捕らわれた。
その時であった。
――――ちょっと羨ましい、いい変。外に行けるなんて、いいな。
「……姉貴?」
唐突に。実に前ぶりなく、例の夢が蘇った。
手を伸ばせども、幾ら走れども届かない、姉までの距離。それがはっきりと思い出され、強烈な悪寒を伴って、背筋を引っ掻いた。
(馬鹿な。あれは、ただの夢だ)
理性では分かっているのに、感情が追いつかなかった。
姉の存在を確認したい。無事な姿を見たい。そんな思いが膨れあがる。
幸い彼女の部屋は隣だ。行こうと思えばすぐである。
だが、時間は午前二時を回っていた。彼女が、寝ているのであれば、邪魔以外の何物でもない。
「あれは、夢だ。分かっている。……だが、もし、本当になったら?」
馬鹿馬鹿しいと自分で一蹴しながらも、不安は尽きない。
散々悩んだが、最終的には、壁に耳をつけて隣の様子を伺うことにした。
(誰かに見られてたら、変態のそしりは免れないか)
冷静な部分が、現状を分析するが、行動は止めない。
感覚は研ぎ澄まされている。壁は厚いが、寝息を聞き取れる自信があった。
息を殺し、ひんやりする壁に、耳をつける。
正にその瞬間に、声は聞こえた。
「んー……。そーちゃん、起きてたら助けてー」
蚊が鳴くような、それでいて気の抜ける要救助の呼びかけ。
一も二もなく、素馨は飛び起きた。そして、自分の部屋の扉を文字通りにぶち破り、隣の部屋に駆け込んだ。
「どうしたっ、なにがあった?!」
寝言の可能性もあるというのに、彼は、茉莉花が助けを求めていると確信していた。
そして、それは的中していた。
「夜遅くにごめんね、そーちゃん」
「いや、そんなことより……」
茉莉花の右手がない。
ぶわっと胸の奥から喉元までを、強烈な熱が焼いたように、素馨は感じた。
抑えの利かない激情が、脳内を蹂躙していた。
宮后の前で激昂した時とは違い、目こそ赤くなってはいなかったが、凶暴性はその時の比ではない。この場に茉莉花以外の人間がいたのなら、即座に叩き潰していたに違いなかった。
「姉貴の手を、一体誰が……」
犯人を捜そうとする素馨の目は、あるものを目にした。中空にあいた、黒い穴である。
そう。幸いにも、茉莉花の右手は切られたのではなかった。中空に、ぽっかりと空いた穴に、丸々飲み込まれているのだ。
だが、意味の分からない状況は、なにも変わっていなかった。
「なんだ、それは」
茉莉花も事情が理解できていないらしく、傾国の美貌をただ傾げるばかりであった。
「分からないの。これ、なにかしら。誰かが呼んだ気がして、手を伸ばしたらこうなっちゃったの」
「痛くはないのか?」
「大丈夫よぅ」
茉莉花の穏やかな表情から、それは嘘じゃないとしれた。素馨はひとまず安堵する。
しかし、次の一言でその安堵は吹き飛んだ。
「でも、段々引き込まれているの」
「早く言え!」
咄嗟に茉莉花の腕を掴んだ。細い腕だ。素馨が掴めば、軽く一回りする。
それを掴まえると、確かに彼女が穴に引き込まれている感触があった。
慌てて強く掴み直し、穴から抜き出そうとする。しかし、向こう側がどうなっているのか、腕はビクともしなかった。
「くそ!」
ビクともしないだけならともかく、ゆっくりと飲み込まれていく腕に焦る。
足下が滑るため、絨毯を蹴り飛ばしてから踏ん張るが、対抗も空しく腕は持って行かれ続けた。
「なんだ、これは!」
先ほど同様の言葉だが、素馨には珍しく焦りが見えた。
引き込む力が強すぎるのだ。勿論、男子高校生三人を軽々と持ち上げた素馨なら、更に力を込めることはできる。だが、下手に力を込めると、現時点でも眉をしかめている茉莉花を害する可能性があり、実行を躊躇っていた。
しかし、事態は彼に構うことなく、徐々に進行していく。
「ん~!」
「ぐ、ぐ、ぐ」
二人で合わせて引っ張っても、次第に引き釣り込まれる。最初に部屋に飛び込んだ時には、飲み込まれているのは肘辺りまでだったが、今では肩付近まで来ていた。
「埒があかん。ならば、これで」
「あ、ベッド……」
「後で、新しいものを用意するっ」
言うや否や、素馨は茉莉花を掴んでいる右手をそのままに、左手だけでベッドの柵を、本体から引きはがした。引きちぎったと形容できる強引さであった。手近な長いもので、穴の中を突こうと考えたのだ。
だが、がっちりと固定されている筈の柵を、道具も用いず、力任せに折り取れるのは、恐ろしいまでの怪力であった。彼が持った部分は、拉げてすらいる。
筋骨隆々な男性がやるならともかく、細身の素馨がやってのけるのだから、この光景を見る者がいたら、目を疑うに違いなかった。
しかし、この行動にかかった一瞬。それこそが、命取りだった。
「あら?」
「なにっ?!」
素馨が、穴に向ける意識を緩めたのは、ほんの僅かだと言っていい。目は逸らしていないし、警戒も怠ってはいない。
だが、その僅かな緩みを狙ったように、穴は爆発的に大きくなり、茉莉花に覆い被さったのだ。
もう、穴を突く次元ではない。即座に判断した彼は、穴に飲み込まれる姉に追いすがった。
引き込む力は、先ほどまでの比ではない。あっという間に、茉莉花の姿が消えていく。
「姉貴!」
「だめ! そーちゃん。あなただけでも逃げてっ」
「誰が離すか! 死んでも聞かんっ」
押しのけるようにして距離を取ろうとする茉莉花とは対照的に、素馨は彼女の体を、両手で抱え込んだ。なにか衝撃があるなら、それから彼女を守ろうという思いからの行動だった。
穴は、そんな二人に構うことはない。音もなく、二人に覆い被さった。頭も、体も、足も、全て飲み込んだ。
(沈んだ、のか?)
穴の中は、外から見ていたのと同じく、一切の光がない漆黒の闇であった。
そして、茉莉花が言っていたように、素馨もまた、飲み込まれた体に痛みを感じることはなかった。
しかし、感覚が少しずつ薄くなっていくのを感じていた。かっちりとかみ合っていた体と意識が、くさびを入れられたように剥がれていくのだ。
薄くなった感触を埋めるように、茉莉花を掴まえる腕に力を込めたが、本当にそうできたかどうかも、もう分からなかった。
(姉貴……)
例え、彼女の腕を引きちぎることになっても、思い切り引っ張るべきだったか。
それが、彼の最後の意識だった。
翁長素馨と翁長茉莉花。
二人は、この日の晩を境に、一切の消息を絶ったのであった。
***
「お嬢様」
「いたかい。いや、手がかり一つでも良いんだ。なにか、なかったか」
「すみません。残念ながら何一つ……」
「そう、か」
後日、素馨達の家には、白い生徒会長がいた。
二人揃って登校しない。それだけなら、良くあることだが、連絡がなにもないというのは、今までにない。ましてや、電話をしても繋がらず、家の呼び鈴を幾ら鳴らしても、一切の反応がないとくれば、異常事態である。
余り褒められた手段ではないが、宮后は、素馨達の家の扉をこじ開けて上がり込んだのだ。
そこで見たのは、荒れた茉莉花の部屋。なにがあったのか、ベッドは無残に柵が折れて、絨毯はあらぬ場所に固まっている。
宮后は、知らず唇を噛んだ。
素馨が、誰かに良いようにやられる男ではないと信じている。
だが、それは茉莉花が絡まなければの話だ。
彼女は彼の泣き所である。同時に、軽々しく手を出せば、烈火の如き怒りを買う逆鱗でもあるが、弱点なのは間違いない。
(しかし、だとすると、この部屋の様子はなんだ?)
茉莉花に何かがあり、彼が激怒したなら、この部屋の荒れ方は、甘い。
だが、激怒した彼を、この程度の被害で押さえ込める相手など、果たしているのだろうか。
彼は、半分とは言え吸血鬼。その力は、人知の及ぶところではないのだ。
「なにか。なにかないのか……」
白い学ランに皺が寄るほど、強く腕を抱きながら、宮后は部屋の隅々まで目をやる。
「………………?」
と。それは、何気なく、呼吸をした時である。
彼女は、この部屋の空気が、どこかおかしいと気付いた。
(なにがおかしいんだ。息がし辛い、ような……そんなに換気が悪いのか?)
確かに窓は閉まっているが、入り口の扉は開いている。そもそも普通の住宅で、酸欠になるとは思えない。
「いや、待て。本当にし辛いのは、息なのか?」
崩れていたパズルが、自分の一言で休息に組み上がっていく。
「そうか。すぐに感じないなんて、どうかしている。それだけ気が動転していたのか」
「お嬢様?」
側にいたまゆが、訝しげな顔をする。構わず、宮后は言った。
「まゆ。この部屋の魔力残存量、やたら少なくはないかい」
魔力。科学で守られた部屋にいた生徒会長らしからぬ物言いだったが、まゆは何ら問い返すことはなかった。それどころか集中するためにしばらく瞠目し、再び目を開けた時には、こう言った。
「……言われてみれば、確かに」
「やはり僕の勘違いではないらしい。となれば、時間との勝負だ。
すぐに、重力波を観測している研究家に連絡を。それと、うちの陰陽寮にも。僕は、この場所を固定する」
「え? あ、はい。只今っ」
まゆが返事するも、美貌の生徒会長は、既に彼女を見てはいなかった。強い光を取り戻した目で、部屋の中央を見ている。
そこは丁度、素馨と茉莉花が黒い穴に飲み込まれた場所であった。
まるで、なにが起こったのかを理解したように、宮后はそこをじっと見ていた。
「悪ふざけが過ぎる。命知らずかい? 僕の大事なものに手を出したんだ。ここは一つ、覚悟して貰うよ」
強い口調で宣言する彼女は、人の指導者たる風格に満ちあふれていた。
前がかなり急ぎ足だったので、少し見直しました。