第3話 日常
少年、翁長素馨は、吸血鬼である。
突拍子もない告白だが、事実である。
正確には、吸血鬼と人間の間に生まれた、半吸血鬼というべきか。
ただ、非常識なその事実はひた隠しにされ、知るものは、限られている。
隣人や学友は言うにあらず。親友であろうと、そして、たった一人しかいない肉親であろうと、彼は、自分の正体を明かしたことはない。
天の夜虹橋高校の中というなら、生徒会長の天鐘院宮后。そして、彼女の側近が精々である。
だが、その正体が隠されているにも関わらず、彼は、知らぬ者がいない有名人だった。
理由として分かりやすいのは、その容姿である。
何しろ悪魔的とすら証される、整った顔立ちだ。
如何に二枚目で名を馳せる俳優でも、彼が隣に並べば、醜男同然。これで目立つなと言うのが、無理な相談である。
更には、一目で魅入ってしまう瞳も、名が売れている理由の一つだ。年齢や性別を問わず、目が合っただけで彼に傅く者は、後を絶たない。
だが、彼の実態を知るものは、そういった分かりやすい特徴は語らない。溜息と共に、こう言うのだ。
「“残念シスコン”?」
素馨を取り囲む三人が、顔を見合わせる。
「見た? 見たか、この、心底不思議そうな顔をさあ!」
「自覚なしだよなー」
「なっ! お前だよ、お前のこと!」
突きつけられた指をやんわりと払いつつ、
「そうか。生憎だな。何一つ分からん」
きっぱりと断言するのは、件の素馨少年である。
不思議と、生徒会室で見せたような圧力を感じない。
些か圧迫感のある雰囲気は残るが、近寄れないほどではない。そうでなければ、今のように友人達が、彼を取り囲むのは不可能に違いなかった。
そのことを知る由もなく、彼を囲む友人達は、これ見よがしの溜息を漏らすばかりであった。
「だってよー、シスコンじゃんよー。お姉さんに対しての」
「揃いも揃って、人を見たら同じ事ばかり言う。まるで蓄音機だな」
同じ事を繰り返されれば、誰しも苛立ちを覚える。素馨もまた同じく、些かの不快感を声に滲ませていた。
シスコン=シスターコンプレックス。
和製英語の、そのまた派生語である。
意味は、姉または妹への強い愛着。
どちらかというと、偏執的な意味を、強調する形で使われることが多い単語だ。
それは、素馨にとって、受け入れられない評価だった。
「俺には、姉貴しか家族がいないんだぞ。しかも、あいつは体が弱い。かかりっきりになっても、仕方がないだろう。どうだ。おかしいところがあるか」
「いや、分かってる。じゅーぶんすぎるほど、それは分かってる」
「いつもそう言ってるもんなー」
「だけど、シスコン」
見事な三段落ちに、素馨の目付きが剣呑さを増した。
ちなみに、魅入ってしまうような輝きは、完全になりを潜めている。少し怖いだけだ。自分の力を、十全に制御できている彼ならではである。
「いい加減にしろよ。仕舞いには窓から投げるぞ」
「怖っ。こいつ、ほんとに今、やりかねない目付きをしているぞっ」
「ああ、痛いんだ、あれは」
「既に投げられた奴がいる……?!」
どこからともなく告げられたとんでもない事実に、素早く一歩後退する友人達。
それを見て、溜飲を下げたか。冷たい目付きを緩めて、素馨は軽く笑う。
「そんな目付きをした覚えはないぞ。ふふふ。なあ?」
「……さわやかさが、逆に恐怖を呼ぶなんて、美形の表現は幅広いな」
「捕食寸前の虎が、笑っているみたいなもんだろ」
「笑うという行為は、本来攻撃的なものであり――――ってことか」
どこかで聞いたような台詞を吐く一人を軽く流し、素馨は気になっていたもう一つの事柄に水を向けた。
「残念とは、どういう意味だ。馬鹿にしているのか」
「いや待て、怒るな! 今から説明する」
慌て気味に、友人の一人が指を二本立てる。
「なんでも、二つの意味があるって話だ」
「一つは、俺ら男子から。妬ましいまでに優れた容姿と能力を、モテるために生かしておらず、勿体ないから、だなー」
「阿呆か。下らん」
一瞬の逡巡すらない、見事な一刀両断だった。
「てめええぇぇぇ! その下らないとお前が思っていることに、どんだけ俺たちが命がけか分かっての狼藉かぁぁあああ!」
こちらも反射的な、怨嗟の声だ。
だが、素馨は鬱陶しそうに手をひらひらさせるだけである。
「早くもう一つの意味を言え」
これには毒気を抜かれ、
「お前、本当に下らないって思ってんのな……」
「ああ」
やれやれと友人達は、三人揃って肩を竦めた。
「正にそれ。その態度なんだよ」
「なんだ?」
「二つ目の理由だよ。女子がな、飛び抜けた優良物件が、決して自分に好意を向けないから、残念って事なんだよ」
「優良物件か」
気怠げな反応に、またも友人達は殺気立つ。
「どうせ自分なんか優良物件じゃないとか言い出すぜ」
「ひでー。持っている奴には、持っていない奴の気持ちなんか、一生分からないよなー……」
我が意を得たりと、素馨は頷く。
「確かに分からないな」
三人は、気持ち的に、ぐはっと血を吐いた。
「言う? 普通言うかー?」
「誰か助けて。こいつは今、俺たちに止めを刺しに来ている」
「視線で人を殺す力を、今僕に……っ!」
錯乱の余り、邪心への祈りを捧げつつある友人達を、素馨は落ち着けと宥める。
「逆だ、馬鹿共。お前達の方が、余程持ってるから、そう言っているだけだ」
なにを言っているんだこいつと、三人は素馨に視線を集中させる。
「まず猛だ。毎日、靴がすり切れる位に走り込みやってるだろう。次の大会は、代表になるらしいな。
次。一は、気に入る一瞬を撮影できるまで、泥に塗れようが埃に埋もれようが、じっと粘っているな。動物との超接近写真が、雑誌で取り上げられていたのを見たぞ。
勉、お前だって、家族から反対されていたにも関わらず、今では連載を持つ漫画家だ」
三人が聞いていることを確認して、素馨は続けた。
「なにもしていない、俺に比べて実に素晴らしい成果を持っているじゃないか。充実している奴らめが。羨ましく思うのは、間違っているのか」
皮肉げな笑みを浮かべて、素馨が言う。それが彼の本心だと直感したのか、一瞬、喧しかった友人達が、揃って口を閉じた。
かと思うと、一斉に彼に飛びかかった。
「テメエ! このこの! 急に持ち上げやがって!」
「大体、なにばっちりこっちのこと把握してんだっ。イケメンか、こいつ! 見た目イケメン、心もイケメンって、最強過ぎるだろうが!」
「くっつくな。むさ苦しい、止めろ」
相手は、同い年の男子高校生である。頭をなで回されても、肩をばしばし叩かれても、素馨は何一つ嬉しくない。一瞬だけなら、バカをしている高揚感もあるが、続けばただの嫌がらせだ。
もみくちゃにされる彼は、初めこそ「やめろ」とか「服が破ける」と口で窘めていたが、一向に収まる気配がないものだから、段々と表情が冷めていく。
「…………」
三人で飛びかかったのが徒になった。気を大きくした彼らは、引き際を誤ったのである。
「馬鹿が」
「うええっ?!」
変な悲鳴が上がるが、それも仕方がなかった。素馨が、おもむろに立ち上がり、彼ら全員を纏めて頭上に持ち上げたのだ。
体格的には自分と同じか、より大きい三人だというのに、発泡スチロールよろしく、軽々としたものである。端から見ると、軽く現実離れしていた。
「おい、誰か窓を開けろ。これを放り投げる」
「うおおおおお! 待った、待った! ここ三階! 三階だから! 悪ふざけが過ぎた! 謝る! 謝るから、許してくれっ」
「寧ろ誤った後というー」
「誰が上手いこと言えと」
「お前ら死にたいのか?! 呆けてる場合じゃねえだろっ。跪けなくても、命乞いはしろ!」
「謝罪はないか。よし、数えてやろう。三、二、一」
「死の秒読みが、短すぎるぅっ」
とまあ、騒がしい四人組だが、周りは気にする様子もない。
それもその筈。
「またやってらあ」
この程度は、誰かの呟きが示すように、いつも通りの馬鹿騒ぎ。今更、危ないだのなんだのと騒ぎ立てるほどではなかった。
尤も、その馬鹿な日常も、飛び込んできた男子生徒の言葉で中断されることになった。
「そけー! いるか?!」
「ここだ。どうした、逸」
「……なにやってんだ。いや、それはどうでもいい」
「どうでもよくないぞ?!」
持ち上げられたままの猛の言葉をあっさりと無視し、息を切らせた少年は言う。
「素馨、お前の姉ちゃん、また発作だ」
「すぐ行く」
「ぐげっ」
持ち上げていた三人を、外ではなく教室内にぽいと放り投げ、素馨は走り出す。
「教室だぞ! 姉ちゃんの!」
「分かった。知らせてくれて、助かった」
「へへ。礼なら、またなんか食わせてくれりゃいいぜ」
逸は、脱色した髪や、大きく着崩した制服など、一般的な不良像に近い格好をしているものの、どこか憎めない感じの少年だった。
「行ってくる」
逸に軽く後ろ手を振ると、素馨は、一陣の風となり教室を跳びだした。
素馨がいなくなった後、大きな安堵の溜息が、教室に響き渡った。
「あー……助かったあ」
「あの慌てようがなー」
「やっぱ、シスコン」
命の危機から脱した三人組だが、今ひとつ反省が見えない。
再度の仕置きの時は、近いと思われた。
***
素馨には、姉が一人いる。
名前を茉莉花という。
幼少の頃より、健康に大きく障害を抱える少女でもある。
最も酷い時には、日の光を浴びるだけで、肌が焼けただれる程であった。
光や匂いなど外部からの刺激があると、体が過敏に反応し、最悪細胞が壊死を起こし始めるという、特異な奇病であった。
今のように昼間に出歩けるようになったのは、ほんの数年前に、劇的な症状改善が見られてからである。
ただ、劇的といっても、あくまで、それまでの症状に対してである。
太陽に当たっても、すぐに命に関わる事態にならなくなったというだけで、病弱さはしっかりと残っている。
比較的体調のいい日でも、急激な動き一つで卒倒するのがざら。悪ければ、即入院である。前を見ないで歩いていた生徒と、曲がり角でぶつかっただけで卒倒・入院したこともあり、その病弱さは、推して知るべしである。
(今日はどっちだ)
彼女が倒れる度に呼び出される素馨は、走りながら予想を立てる。
重篤か、否か。
後者であって欲しいと逸る気持ちを抑えつつ、廊下を音もなく、しかし、素早く駆け抜ける。
廊下を走る人影に、咎めるような視線を送る何人かがいたが、それが彼だと知ると、すぐに注目をやめる。
またか。周りがそう認識するほど、これも日常茶飯事の出来事であった。
ただ、関係がなければ、そんな一言で済ませられるが、本人達にとっては、毎回が一大事だった。周囲からは小さな事でも、茉莉花にとっては、生死に関わるのだから。
教室に辿り着いた素馨が見たのは、座り込んだ姉と、その傍にある少なくない量の吐血の跡だった。
「姉貴っ」
「あ……ほら、茉莉花ちゃん、素馨君が来てくれたよ」
吐血跡からなるべく茉莉花を離して、口元を拭い、背中を擦っていた女子生徒が、彼女に弟の到着を告げる。
それを聞き、茉莉花の真っ青な顔が上がった。
瞬間、世界が凍り付いた。
茉莉花の美貌が、そんな幻想を引き起こした。
人知を越える美しさだ。傾国の呼び名が、これほど似合う少女もいない。
顔の造形の美しさは、言うに非ず。烏羽色の長髪は、腰までありながら、枝毛一つない。黒色の絹糸と言ってもよかった。
長いまつげの瞼が、半分ほど落ちているのは、貧血と気分が優れないからと見えるが、色を落とした白い肌色と合わさり、絶対不可侵の儚い美しさを醸し出していた。
儚さと同時に、異様な存在感も持っている。
服のせいもある。白ではなく黒のブラウスが、白鳥の群れに一羽混ざった黒鳥のように、とにかく彼女を目立たせる。
頻繁に吐血をするため、血が付いても目立たないようにした結果、普段がより目立つことになったのは、皮肉である。
だが、明らかにそれだけではない。言葉にできない、天性の素質が、彼女の存在感となって顕れていた。
素馨が、人をひれ伏させる支配者であり、宮后が、人を導く先導者であるといったが、茉莉花は、ものが違う。
彼女は暴力でも能力でもなく、限りない重力で、ただ、全てを引きずり込んでいる。
限度を超えた重力が、時空を歪めて暗黒天体を作るように、彼女を中心に世界が落ち込んでいるのだ。
(これだ)
周りに分からぬ程度に眉を寄せ、素馨は姉を見る。
彼女の特質は、良いも悪いも引き寄せる。それが、手に負えないものでも、お構いなしにだ。
彼女を見る度に、素馨は、ますますそんな確信を深める。
(僅かでも切っ掛けがあれば、宮后や自分が関わる世界が、彼女に落ち込んでいく。あやふやな予感じゃない。きっと、いずれそうなる)
彼女が近付くのではない。全てが、彼女に近付くのだ。
それは、とても看過できない。茉莉花は、きっとそうなった時に、対処ができず即座に命を散らすに違いないのだ。
だからこそ、
(例えなにがあっても、俺が姉貴を守る)
ぐ、と素馨は拳を握り込む。
姉は、茉莉花は、子供の時から、持っていた美貌と重力を、更に増している。
しかし、素馨だって漫然と日々を過ごしたわけではない。
宮后との付き合いもあり、茉莉花の重力が引き寄せたものに対抗できるだけの力を身につけている。
(姉貴を守ることが、俺の義務だ。そのためなら、世界を敵にしても構うものか)
重い、固い誓いである。
だがその決意は、決して表には表れない。彼の内心に隠されたものである。
外界に表れるのは行動。姉を心配する、一人の弟の姿だけだった。
「姉貴、大丈夫か?」
「――――……ぁ」
問いかけから少し間をおいて、茉莉花が小さく口を動かした。そして、外見通りというべきか。消え入りそうなか細い声を発する。
「そーちゃん……?」
「ああ。大丈夫か?」
「……軽い発作よ」
「いや、いつもより重そうだ。病院は?」
「要らないわ」
首を振りながらの言葉。
だが、あれだけの吐血だ。普通なら病院行きである。
嘘を言っているとは思えないが、素馨は、その顔を覗き込んで再度問いかけた。
真正面から、相手の目を見据える。
「本当だな」
「この体とのつきあいは長い方よ」
「他に使っている奴がいたら、その方が怖い。……分かった。少し待ってくれ」
言うが早いか、途中で引っ掴んできた掃除用具で、彼は吐血の痕を素早く片付けようとする。しかし、それは流石に周囲の上級生が止めた。
「待った。それは、こっちでやる。早く帰って、安静にさせてあげなさい」
「いいのですか」
「ああ。本来なら、とっととやっておくべきだったんだ……。兎も角、任せてくれ」
「お手数をかけます。あかりさんも、姉の様子を見て下さり、感謝します」
いつもは尊大な態度を隠さない素馨も、この時ばかりは片付けを申し出てくれた男子生徒と、看病をしていた女子生徒=あかりに丁寧な礼を述べる。
そして彼は、茉莉花を担ぎ上げた。
膝裏と背中を支える、いわゆるお姫様だっこである。
素馨の細い体つきとは裏腹に、不安定さは微塵もない。抱えられる方も慣れたもので、大樹に寄り添うように、安心した表情で彼に持ち上げられていた。
女子生徒の何人かは、持ち上げられる彼女に、羨ましそうな表情をするが、二人はそれに気付かない。
「苦しくないか」
「いいえ。いつも通り。大丈夫よ」
「そうか」
短い言葉のやりとりに、周囲は入り込めない雰囲気を感じる。
壊してはいけない、静謐さを感じたのである。
「……けっ」
二人きりの空間が破れたのは、上級生の一人が、そんな声を上げた時だった。
素馨が見やれば、そこにいたのは、見るからに素行不良な男子生徒だ。
逸と格好は似ているものの、彼の憎めなさをとことん取り去ればこうなるという、端的に言えば、近付きたくない少年だった。
何を思ったか。その少年は、机を蹴り飛ばして、悪態をつき始めた。
「ったく、いつもいつも、所構わず倒れやがって」
言っていることが理解できない。そんな視線を教室中から受けながら、不良少年の暴言は止まらない。
「おい、黙りか! ええ?! 誰も言わねえから言ってやるよ!
迷惑も迷惑、大迷惑なんだよ、茉莉花さんよぉ! 倒れる度に大騒ぎ、挙げ句の果てには所構わず吐きやがって。きったねえたらねえぜ。
そんなに、血が有り余ってんなら、献血にでもやったらどうだよ、ええ? ああ、お前の血なら要らねえか。入れたら逆に死んじまうよな」
「なんて酷いことを言うの?! 謝りなさいっ」
「ああ?」
「聞こえなかったの?! 茉莉花ちゃんに謝れって言ったのよ!」
暴言を吐く少年に、あかりがいきり立つ。恐怖か、それとも堪えきれない怒りからか、声が震えていた。
だが、相手に睨み付けられても、一切引くことなく逆ににらみ返す胆力を彼女は持っていた。
そして訪れる一触即発の時間。
誰もが、遠巻きに状況を見守る。
膠着は長くは続かなかった。、茉莉花を抱えたままの素馨が動いたのだ。
暴言少年とあかりの間に体を割り込ませる。
「おう? どうしたよ、シスコンの弟さん。ちっとばかり顔が良いだけで、調子に乗ってんのか、ああ? 言いたいことがあるなら、言ってみろよ、コラ!」
「………………」
「ビビってんのか、おい。口もきけねえか。上級生に、何ガン付けてやがるんだ、てめえ」
止めどなく浴びせられる罵声に、素馨は――――なにも言わなかった。
しかし、怖がっている様子など、微塵もない。
ただ、黙って立っていただけである。
時間にして、ほんの数十秒。
そのくらい経った時である。
唐突に変化が訪れた。
「――――っ?! っひ! ひいいぃぃ!」
突如として、不良少年が顔を真っ青にして、情けない悲鳴を上げたのだ。泡を食ったように、教室から飛び出した彼の姿を、みんなぽかんとして見送った。
「情けない奴だ」
一連の出来事に、付いていった人間は、素馨以外には誰もいない。
一体なにをしたのかと、誰もが思いながらも、聞くことができなかった。
と思いきや、
「……ええと、素馨君?」
あかりが口を開いた。誰もが、聞くのかよ! と心の中で突っ込む。
ただ、止めない。彼女の英雄的行為を、黙って見守った。
「なんでしょう。あかりさん」
「なにを、したのかな?」
「なにもしていません。ご覧の通りに」
薄い笑い。その瞬間、あかりを含めた全員が、追求を諦めた。
小さい時に、感じたことがあるだろう。お風呂場で、髪を洗おうと目を閉じた時に感じる恐怖感――――それを、何倍にも膨れあがらせたような寒気が、背中に張り付いたからだ。
何となく、怖い。言葉にしたらその程度のことで、人は止まるのだ。
ややあって、掃除を代わり出た上級生が、素馨と茉莉花の二人に頭を下げた。
「済まない。気分を悪くさせた。あんな酷い暴言を止められなくて、本当に済まない。
だが、彼が言っていたことなんて、誰も思っていない。これは本当だ。信じてくれ」
その姿を見て、即座に同調の声が上がった。
「そうだそうだ。あいつがおかしいだけだって!」
「まつりんも、れっきとした学級の一員っ。迷惑なんて思ったことないよ」
「寧ろ、校内一の美少女といられるだけで、十分ご褒美的な」
「あんたは鼻息荒くてキモい! 下がれ! 地平線の彼方まで下がれ!」
「それは、言い過ぎじゃあないですかね」
――――等々。素馨達に、優しい言葉がかかる。
暴言への衝撃か、それとも体調が本格的に悪くなってきたのか、茉莉花は一言も発しなかったが、素馨が代わりに応えた。
「ありがとうございます。大丈夫です。気にしていません。皆さんを信じていますので。では、失礼します」
くるりと向けられた背中に、もう誰も一言も掛けられなかった。
家に帰るまで、茉莉花は無言であった。
勿論、崩れた体調から気分が優れないこともあろうが、やはり、一番はあの暴言だろうと素馨は考えていた。
だが、迂闊に触れない。
思い返すのも、思い返させるのも、良い感じがしない。茉莉花自身が、心の整理を付けてから話そうと、彼は決めていた。
夕食を食べ終わり、適当な番組を流して寛ぐ時間帯に差し掛かった。
やがて、その時が訪れた。
「……そーちゃん。やっぱり、わたし、みんなの邪魔かな」
来たと思った。だが、素馨は焦らない。言い聞かせるように、優しく言った。
「いいや。そんなことはない」
「でも」
「でもも、だってもない。そんなことは、絶対にない」
彼には珍しく、熱の籠もった言い方だった。更にまくし立てる。
「邪魔な訳がない。他の人達も言っていただろ。一緒にいられるだけご褒美だってな」
「……ふふ。それは、ごく一部の人ね」
ほんの少し笑顔が戻ったのを見て、素馨も相好を崩す。
宮后が笑うのを見た者はが少ないと言ったが、彼のこんな無防備な笑顔もまた、見られる人間は稀である。
それなりに表情を変えているように見えるが、どこか一線引いたところが、彼にはあるのだ。
そこで、茉莉花がああと思い出したように声を上げた。
「そーちゃん、よく我慢したわね」
「ん、なにをだ」
「ちょっと前だったら、あんなことを言う人がいたら、問答無用で張り倒していたでしょう? ちょっと怖い一睨みしたみたいだけど」
「さて。どうだったかな」
空々しくとぼけるが、かつて茉莉花を突き飛ばした相手を、「生まれてきてごめんなさい」と言うまで、殴り通したこともある少年である。
茉莉花の言葉は、間違いではなかった。
「それはともかく、だ」
わざとらしい咳払いをして、茉莉花の裏に回る素馨。
「大丈夫だ。あんな言葉は、気にしなくていい。姉貴は、みんなに溶け込んでいるよ。ましてや俺にとっては、大事な家族だ。家族が邪魔だなんて、とんでもない。だろ?」
彼女の肩に手を置いて、強く宣言する。茉莉花も「ありがとう」と言いながら、彼の手に自分の手を重ねた。
姉弟であると考えれば、若干倒錯的であったが、双方の容姿もあって、実に絵になる光景だった。
しかし、その時の素馨の目付きを見る者がいたら、背筋が凍ったであろう。
「そうだ……邪魔だなんて、とんでもない」
繰り返された呟きは、間近にいる茉莉花の耳にも届かないほど小さい。
素馨の目は、ぎらぎらと赤く輝いていた。
明くる日のことである。
素馨は、電話を肩で挟みながら、料理をしていた。
相手は、あの白い生徒会長、天鳳院宮后である。
【君に突っかかるなんて馬鹿が、まだいたなんてね。正直信じられないよ】
「望むなら、相手にも顔を貸して貰った上で詳細に話してもいい」
【止めてくれ。貸して貰う顔は、きっと物理的にって冠詞が付くんだろう。流石にそこまでの処理は、ちょっと面倒臭い】
「そうかい。まあ、どっちでもいい」
鍋に具材を放り込む。油が激しく沸き立った。
落ち着くのを待ってから、素馨は続けた。
「それで、昨晩は仕置き静止の電話だったが、今晩の用事は」
【ああ、それだ。昨日、君のお姉さんに暴言を吐いた、ふすぐどぅんだがね】
「お嬢様とは思えない単語が混じったな」
【あれのせいで、余計な仕事が増えたんだ。それくらい許して欲しいね。で、そいつ、小っ恥ずかしいことに、君の一睨みで対人恐怖症になったらしい】
「軟弱な。姉貴を罵倒するなら、殺されても文句は言えないだろうに」
【うん? ……うん、まあ、そうかな】
火を弱めながら、素馨が低い声を出す。
「反論があるなら聞こう」
【いや、やめておく。例の馬鹿の話に戻そう。
兎に角ビビりまくって、今の学校に行くのは嫌だ、転校するの一点張りだったらしくてね。親が揃って学校に怒鳴り込んできたんだ。家の子をこんな目に遭わせた奴を出せってね】
「分かりやすい蛙の親だ」
【正直に君のことを言うわけにもいかない。さりとて、ちょっと追い返したところで、話を追えば、いずれ君の所に辿り着くだろう。
だから……まあ、両方の仕事先に、ちょいちょいと小細工をね。なんだかんだで、本土に送還した。明後日着任しないと、多額の負債を追わせる形にしたから、血相変えて学校からいなくなってくれたよ】
「悪いお嬢様がいるようだ」
【良いお嬢様の間違いだ】
電話の向こうで、薄い胸を張っている様子が容易に想像でき、素馨は小さく笑った。
「手間をかけたようだ」
【大したことではないさ。……あ、いや、今のは嘘だ。ちょっと疲れたぞ。うん】
「なにを焦っている。まあ、こちらの面倒がなかったのは確かだ。手間賃を次の仕事の報酬から差し引いていい」
【えぇ……。そこは、ほら、次はただで良いという所じゃないかい】
素馨は鼻で笑うと同時に、鍋を煽った。
「生活があるのでね」
【主夫だね。ホント】
「好きに言え。そろそろ切る」
【え? もう少しくらい――――】
返事を待たずに、電話を切る。更に電源まで落とす。
時をほぼ同じくして、茉莉花が顔を出した。
或いは、彼女の接近を察知したからこそ、電話を終えたのかもしれなかった。
「電話は終わったの? 今の、みーちゃん?」
「ああ。宮后からだったよ。大した用事ではなかった。
丁度よかった。料理がそろそろできる。大皿を一枚出してくれ」
「その量なら……これでいいかしら」
「ありがとう」
黙々と料理を盛りつけて、運び始める素馨。
献立は、レバニラや、小松菜のおひたしなど。吐血した茉莉花を意識してか、鉄分の多いものだった。
なお、昔の彼女は、余り普通の食事を取れなかったが、今では大抵のものは食べられるようになっている。
だから、食卓に着いた茉莉花は、気怠げな目を、この時ばかりは輝かせていた。
「今日も美味しそう。そーちゃんは、立派な旦那様になれるわね」
「相手がいればな」
「きっといるわ。羨ましい」
「弟の、いもしない嫁を想像して嫉妬するなよ」
苦笑しながら、素馨は箸を茉莉花に渡す。
「いただきます」
「どうぞ」
茉莉花が、小さな口に料理を運び、モクモクと咀嚼する。美味しいという気持ちの表れか、表情が緩まり、顔が小さく上下する。
それを認めた後、素馨も食事を開始した。
(うん。まあまあ、上手くできたか)
美貌の少年、素馨が意外と料理上手であるのは、限られた人間しか知らない。
時間が空いた割に進んでいません。
申し訳ない。
修正しました。(2014/12/21)