第2話 天の夜虹橋高校
硝子一枚向こうでは、蘇鉄が風と陽炎で揺らいでいた。
夏の沖縄である。
亜熱帯と呼ばれる気候だけあり、湿度は高く、吹き付ける温風には重さすら覚える。その風の中には、動植物の匂いが、雑多に溶けていた。
そして、暑い。南北に長い日本列島の中でも、赤道により近い土地柄、太陽の光が極端に強い。
外に出て肌を晒せば、針で刺されるような痛みを感じる。暑さの証明とでも言うべきか、頑強な道路の舗装も、太陽光の強烈な熱で溶けてしまい、指で押せば凹む程柔らかい。
かといって建物に入れば、屋内の照度に慣れるまで、暗さで目が眩む。
そんな一種、冗談染みた気候だった。
私立、天の夜虹橋高校。
その学校の一室は、悪夢のような屋外を尻目に、全くもって快適だった。
空調による温度管理は万全。加えて、印加電圧で透明度を変化させる窓硝子が、適度に外光を制限する。湿度も適当で、不快な汗をかくことはない。数々の文明の利器が、惜しみなく投入されてできた楽園である。
贅沢なことに、その楽園には、一人の少年と二人の少女がいるだけだった。そのどちらもが、制服を着込んだ学生である。
話しているのは少年の方だ。彼が今朝見た夢の話だ。少女達は口を挟まず、黙って話に聞き入っている。
「姉貴が離れていくのに、全く手が届かない。勿論夢だ。ただの夢だ。……なのに、妙な喪失感がある。現実と勘違いするほどに、真に迫っていた――――。だから、少し気になっている」
「だが、夢だったのだろう?」
「そうだ。……くく。我ながら、馬鹿馬鹿しいとは思っているよ」
自嘲しつつも、憂うように溜息を吐く。そんな動作一つさえ、どこか様になっていた。
それは、少年の美貌のためだった。死者の目すら覚ますだろう、美しい顔である。美少年などという言葉では括りきれない、魔性の美だった。
美しさだけではない。深々と椅子に腰掛け、ゆったりと組んだ両手を足の上に置いているだけの少年は、その眼前でひれ伏してしまいたくなる重圧を感じさせるのだ。
悪魔のように、酷く美しく、恐ろしい少年の名は、翁長素馨という。
烏羽のように深く黒い髪、沖縄では珍しく透き通るほど白い肌、そして、すらりとした手足――――どれも、彼を表すには足りない。
彼を、彼たらしめるのは、その鳶色の瞳だった。
大きく、瑞々しく、透き通っている。どれも間違いないが、ありのままを描写するだけでは、全容は伝わらない。
それは、魔性の瞳である。
文字通り魅入る/吸い込まれる色香を持っている。
例えるなら、三日間水を探し求めた砂漠で、ようやく見つけたオアシスだ。
喉が干物となれば、オアシスの水を貪ることしか考えられなくなるように、一目で、心を根こそぎ奪われてしまう、恐ろしい目だった。
凡夫なら百人居れば、百人とも従える目である。
少年は、そんな恐ろしい目を持て余すでもなく、炯々と輝かせて、泰然と構えている。
「以上だが。満足したか?」
と、口にするだけでも、どこか圧倒される。
しかし、凡夫を従える目にも、その言葉にも屈しない人間がいた。素馨と正面から相対する少女である。彼女は、何事もないかのように、
「ふぅん。そうかい」
などとさらりと言ってのける。
こちらもまた、余りにも、美しい少女であった。
切り揃えられた、黒真珠色のおかっぱは、清廉でありながら、その髪からちらりと覗くうなじには、生唾が湧くような淫靡さがある。
細く切れ上がった目は、向けられるだけで、心を揺さぶられる。そして、相対する相手の奥を全て見通す、強い力も秘めていた。
その他にも、つんとした形のいい鼻や、慎ましく膨らむ唇などが、小さな細面に整然と配置されており、美の極致を思わせる。
その少女が、ふうと息を吐いた。自然に行われたそれこそが、彼女が素馨の瞳に魅入られていない証拠である。
素馨の目に魅入られたのであれば、こうはいかない。完全に我をなくし、唯々諾々と彼に従う。そういうものである。
それに対して、少女は、完全に自然体である。
魅惑の瞳に対抗できる理由は、恐らくは彼女の天性の才にある。
彼女もまた、素馨に並ぶ資質を持っているのだ。人が、知らずの内に頭を垂れてしまう、王者の風格とも言うべきものをである。
ただしそれは、素馨に相対した者が抱く感情とは、種類が違う。
素馨の雰囲気は、凶暴である。逆らえば、死ぬ。そんな本能的恐怖に訴える【支配者】だ。
だが、少女の雰囲気は、至って穏やかだ。ただ、飛び抜けていると直感に訴えて、人を素直にさせる。優れた【先導者】である。
重苦しい素馨の重圧を、真正面から打ち消す清浄な存在感がある。二人揃っているが故に、部屋の空気が凪いでいるのが、その証拠だ。
そして少女は、立ち居振る舞いも洗練されていた。育ちの良さが、黙っていても分かるというものだ。
完璧な少女である。
少なくとも、ここまでは。
そう前置きせざるを得ないほど、彼女には、奇妙な点があった。
着衣である。男生徒用の学ラン、しかも詰め襟を、彼女は着用しているのだ。
学校の校則ではない。その証拠に、彼女の奥に控えるように立つ、もう一人の女子は、細かい装飾は別として、ありがちなブラウスとスカートの組み合わせだ。
少女は、なにかの手違いで、男生徒用の学ランを着ているわけではない。
この学校の制服に、彼女の着ている【白い学ラン】などない。
通常の制服は、素馨が着ているように、夏服なら白いシャツに黒いズボンである。冬服も、黒い詰め襟だ。
万が一、手違いで手配されても、そのいずれかになるだけだ。少女のように純白の制服は、特別に手配しなければ、手に入らない。
奇矯な点はもう一つある。採寸が、丁度良すぎるのだ。
素材か仕立屋の腕か、動きを阻害していないらしいが、制服は、彼女の肢体に隙間なく密着していた。体の線が艶めかしく浮き上がり、やや発育不良な胸部も、くっきりと分かる。
純白の詰め襟。張り付くかの採寸。
しかし、驚くべきは、それらをひっくるめて、尚、彼女が倒錯的な美を魅せていることかもしれなかった。
その類い稀なる美貌が、
「はああぁぁぁ……」
今、頭痛を堪えるように歪んでいた。
「どうした。具合でも悪いのか」
「まあ、ね。頭の中で、気の抜けた音楽が流れているものでね」
「頭の中で繰り返される音楽は、一度最後まで終わらせれば良いというが」
いけしゃあしゃあと言う素馨に、少女は鋭い視線を向けた。
「違う。誰のせいだと思っているんだ。
いつもと違う様子を心配していたら、夢の中でお姉さんといちゃついていた話を聞かされるとは思いもしなかった。やれやれ。君の姉好きには、頭が下がる思いだよ」
少女の悪態を、素馨は鼻で笑う。
「謂われのない中傷を……。そもそも、話す必要などないと、最初に言っておいたはずだ。無理矢理聞き出したのは、どこのどいつだ」
「ここにいる、この僕さ。残念ながら、しっかりと覚えているよ。
しかしね、友人が憂鬱そうな顔をしていれば、心配するのは当たり前だろう?」
「余計なお世話だ」
肩を竦めて、溜息を吐く少女に、少年は冷たい。
無論本気ではない。お互いに、じゃれているだけだ。
だが、この場にいる残りの一人にとっては、そうでなかった。刺々しい声が、少年に飛んだ。
「――――翁長素馨。貴様、お嬢様が、わざわざ優しくしてやったというのに、なんだその言い様は! 付け上がるなよっ」
素馨と話していた少女の後ろに立つ女生徒であった。
苛立ちを隠しもせず、口元を細かく震わせている。その目は、閉じているように細い。
木刀を佩いているところが変わっているが、白い学ランよりは、ずっと普通の女子制服である。
顔も決して悪くない。この部屋では平凡以下に見えるが、外であれば、それなりに人目を引く器量だった。
そんな少女に叱咤され、しかし素馨は、目も向けなかった。
「生徒会長、天鐘院宮后殿。そちらのお子様は、大層気分が悪いそうだ。席を外させてはどうだ」
如何にも慇懃無礼な物言いである。そして、彼が口にした名前を他の人間が聞いていたら、目を剥いたに違いなかった。
この世界には、世にある富の半分以上を支配下に置き、いずれの国でも最上級の国賓待遇で迎えられる一族がいる。
世界を牛耳っているという言葉が、決して過言にならないその一族は、【天鳳院】という。
宮后は、その天鳳院の分家である、【天鐘院】の長子であった。
たかが分家、ではない。その権力範囲は、天鳳院に次ぎ強大だ。単なる大金持ちの範囲には、留まらない。
公にはされていないが、大国の長であっても、彼らの意向は無視できないといえば、その権勢も分かるだろう。
彼らの機嫌を損ねれば、即座に失脚、首をすげ替えられる……などと、各国首長の間では、まことしやかに噂される。
そんな一族の次期代表者を前に、素馨は、まるで対等であるかの喋りである。
彼を咎めた少女でなくても目を剥き、或いは、不快感を抱く人間は多いに違いなかった。
尤も、天鐘院の名を持つ当の本人は、全く気にしていない様子である。
「まあまあ。彼女は心配性でね。僕を守るのに尽力してくれているんだ。邪険にしないでくれ」
「邪険にしているのは、寧ろそちらのお子様に見えるがね。
それより、この部屋の中では、目を抑えないことにしている。耐えられない奴が、おっかなびっくりで目を閉じて居座っていては、今ひとつ気が抜けないんだよ」
「お、おっかなびっくりだと……!」
少女の頬が、真っ赤に染まる。怒りから来るものだけではなく、図星から来る恥辱も含んでいた。
素馨の言うとおりだ。彼女は、彼の目に飲まれないように目を閉じているのである。
「ぐ、ぐ、ぐううぅぅ」
女の子らしくない歯ぎしりをする彼女は、流石に不憫であった。
「なあ、余り虐めてくれるな、素馨君。まゆは、他の誰も引き受けられない仕事を熟すのに必死なんだ。そうだろう?」
「き、恐縮です、お嬢様」
「くく。名前は猫なのに、絵に描いたような忠犬ぶりだな。時代錯誤さが、驚くほど似合っている。
そうだ宮后、演劇部の助っ人に出してやってはどうだ。奴ら、手が足りないと嘆いていたぞ」
「なんだと貴様っ!」
瞬間湯沸かし器の如く、まゆは素馨に噛みつく。
だが、宮后は成る程と頷いた。
「そうだねえ。まあ、器量も動きもいいから、見応えはあるだろうね」
「お、お嬢様ぁ……?」
身内からの不意打ちに、まゆは、へにゃりと目尻を下げる。目を閉じているというのに、器用なことであった。
素馨の口撃は、更に飛び火した。
「そこの猫の器量がどうこうなど、笑わせる……器量なら、お前が群を抜いているだろう。いっそ、主従揃って舞台に立てば、さぞ面白いことになるだろうな」
かちんと、宮后が固まる。
「む。むむむ。君は、唐突にそういうことを言う」
「どうした。褒め言葉など、言われ慣れているだろう」
「いや、その、むう。その通り、なんだが。しかしなんだね。君からそんな言葉を聞くと、少しむず痒い」
それまでのやりとりでは、一切動かなかった静謐の表情が崩れる。まゆとは違う理由で、頬がほんのりと赤く染まる。口元には、はにかみ気味な笑みまで咲いた。
まゆは、主人のそんな姿に、口を尖らせた。勿論、目を閉じて後ろにいるため、表情は見えないが、声の調子から予想は付いたのだ。
普通の少女であれば、異性に容姿を褒められて恥ずかしがるなど、ありふれた言動である。だが、天鐘院宮后という少女にとって、それは非常に珍しい。
超然とした笑みを見せこそすれ、感情を露わになど、終ぞしない。年頃の少女めいたことなどしない、俗世から隔絶した人間。彼女をそう思っている者は、少なくない。
事実、警護のために、幼い頃から一緒に居るまゆですら、宮后が自然に笑うところなど、殆ど見たことがない。
だから、まゆは不満である。口を開けば、主や自分をおちょくるようなことしか言わない、無礼な少年=素馨が、宮后の心の扉を開いたと認めるのは、癪だった。
口にこそしないが、心中ではいつもこう叫んでいる。
(なんだってこんな奴が! お嬢様の笑顔なんて、誰が美辞麗句を並べても、見れるものではないんだぞっ)
実の親、親交の深い知人、容姿に優れた俳優、そのいずれにおいても、宮后はそうそう笑顔を見せない。しゃれた表現をするなら、秘境の花とか、そういった所だ。
だが素馨は、その事実を知らない。彼は単に宮后を、一人の女の子と扱っているに過ぎないのだ。
だから、“いつも通りに笑ったな”と、少し口角を上げて応えるのみである。
この状況、傍目から見れば、無頼漢の褒め言葉にうろたえるお嬢様と、それをむかむかと見守る付き人といったところだった。
「あー……コホン」
と。停滞しかけた空気を破るように、宮后が、口を開く。
「一つ、聞いてもいいかな」
「ああ」
「君のお姉さんは、夢で見た時分から今まで、ずっと吸血鬼に会いたいと言っているのか」
そう問われ、今まで余裕であった素馨の表情が動いた。思うところがあるのか、ややあってから答えた。
「そうだ」
苦々しい表情だった。それを見る宮后も、何とも言えないように口をへに曲げる。
「なあ、いい加減に言ってやればどうだ」
「……」
「……はぁ」
「なんだ」
「お姉さんのことになると、途端に子供っぽくなるな。君は。
いいじゃないか。ばらしてやれば。日の光も平気で、半分だけだが、あなたの探している吸血鬼は、“目の前にいる”と」
――――途端。
椅子を軋ませて、素馨が体を起こした。
それだけで、なぜか、部屋の温度が、数度落ちた。
それだけではない。適度に外光を取り込んでいた部屋が、明らかに暗くなった。
「おい」
僅かに暗くなったからこそ、素馨の大きな瞳がより目立った。視線が、真っ直ぐに宮后を射貫いていた。
「っと……。虎の尾を踏んだかな、これは」
表面上に変化はないが、彼女は緊張を増していた。
無理もなかった。素馨の瞳には、激情が籠もっていた。
そして目の色が、文字通り変わっていた。鳶色ではなく、僅かに赤い。
虹彩の色素が、丸ごと赤色に置き換わっているのだ。
色つきのコンタクトレンズを使うでもなしに、瞬時に目の色を変える――――人間業ではなかった。
更に、爪までミシミシと音を立てて伸び始めていた。
見る間に爪が伸びるのもまた人間業ではないが、形も尋常ではない。先が尖り、厚みがある。まるで猛獣の爪であった。
こつん、
こつん、
音が鳴る。
素馨が、猛獣の爪先で軽く机を打っているのだ。たったそれだけで、堅い木の机に小さな穴が開いていく。
もしそれが、人に向けられたらどうなるか。火を見るよりも明らかだった。
明確な威嚇行為に、まゆが動いた。
「脅すか! 貴様、下がれ!」
木刀に手をかけて警告する。先ほどまでと違い、目を開けていた。しかし、その手は震えていた。
素馨の迫力に、完全に飲まれているのだ。
障害にもならない――――端から彼女を無視して、素馨は宮后に問いかけた。
「今更、姉貴を引き込もうと?」
「いつまでも隠し事をする方が、きついだろう。お節介なのは承知だが、親切心だよ」
「本当にお節介な奴だ。忘れたのか。姉貴は、荒事に耐えられる体じゃない」
「勿論、そんなことは知っているよ。君と同じことをしろなんて、言ってないだろう。考えてもいないさ。
……ただ、君が隠していることを話してやったらどうかと、言っているだけだ。これは、君のためを思って言っている」
「駄目だ。一旦知ってしまえば、こちら側と縁ができる。縁ができれば引き寄せる。望まずとも、拒否ができなくなる」
懇願の色を含んだ言葉を、素馨はきっぱりと拒絶した。
それでも宮后は、心配の声を上げた。
「なぜだ。君達は、姉弟だ。家族じゃないか。一方的に重い隠し事を背負って、君が潰れるなんておかしい。そんなの見ていられない! 重荷を下ろすんだっ」
「断る」
「なんで、そこまで……」
渾身の訴えも、素気なく切り捨てる。
それ以上に言葉はない。双方が、意思を込めて睨み合いを始めた。
たまったものではないのは、すっかり蚊帳の外となったまゆである。
「う……うう……」
完璧な空調管理がされている筈の部屋が、彼女には真冬のように寒く感じられた。
だが、素馨と宮后は睨み合いを止めない。
沈黙の時間が過ぎる。
五分か十分か。
或いはもっと短かったかもしれない。
永遠に続くかと思われた睨み合いは、突如、あっさりと終わった。
宮后が、すっと視線を逸らしたのだ。そして、溜息交じりに言う。
「仕方がない。この話はまた今度だ」
「今度はない。蒸し返すことは許可しない」
鬼のように恐ろしい少年の目を、逆ににらみ返しながら、宮后は言う。
「問題を先送りにしているだけだ。いいことはないよ。遅ければ遅いだけ、しっぺ返しが強くなる」
そして、すっかり冷めてしまったお茶を飲み干した。
「まゆ。悪いが、お茶のお代わりをお願いしてもいいかい」
「……え? あ、はい。あ、あの」
まゆは、今更ながら自分が硬直していたことを知った。咄嗟に木刀を下ろすも、直前までの素馨の行動から、宮后に心配げな目を送った。
「よいのでしょうか」
「大丈夫さ」
主にそう言われてしまえば、もうなにも言えない。
後ろ髪を引かれつつ、慌て気味にお茶の支度にかかる。愛らしい小動物めいたその行動に、僅かに癒やしを感じながら、宮后は、素馨に向き直った。
だが、どことなく冴えない。普段であれば、いつでもぴんと胸を張って経つ少女が、なぜか、少し気弱であった。
声にもそれは現れた。どことなく、おずおずした感じだったのだ。
「……な、なあ」
「どうした」
「その……まだ、いてくれるのかい」
「出て行けと?」
「い、いや、そういうことじゃあないんだ、けど……」
「不器用な奴だ。後悔するくらいなら、初めからあの話をしなければいい」
素馨は、呆れたように言う。だが、宮后は軽く顔を左右に振った。
「言わずには居られないんだ。君の気持ちを、無にするようなことであっても。君のことが心配なんだ。ただ、今回は流石に見捨てられるかと思ったよ」
「嫌がらせのためなら、すぐにでも出て行っただろうな」
素馨は、既に目をいつもの鳶色に戻している。爪も同様だ。直前までの異形の姿は、どこにもない。夢の話をしていた時と、何一つ変わるところはなかった。
机に残る無数の爪痕だけが、先ほどのことが夢ではなかったという証拠である。
どことなく、重圧は刺々しかったが、彼は、部屋から出て行く素振りを見せない。
それどころか、手をひらひらと振って、話を続けろと促す程だった。
ぶっきらぼうだが、言葉にも態度にも出ない優しさが、見え隠れする。
勇気づけられたのか、宮后の声に張りが戻る。
「そ、そうか。うん。分かった。前置きが長くて悪かった。さて、今日の仕事だが」
「ああ」
「まゆ、あの紙を」
「こちらです」
宮后は、お茶に引き続き、まゆから、綺麗に折りたたまれた紙を受け取る。それを、素馨に手渡した。
「悪いが、また荒事だ」
「最近続くな」
「全くだ。なにか、よからぬ動きがあるのかもしれないね」
「よからぬ動きか。具体的には?」
紙を開き、内容に目を通しながら、素馨は問いかける。
「え? いや、言ってみただけだ。僕の立場的に、そう言うと面白いだろう?」
僅かに空白の時間が流れた。
「……洒落になっていないな」
宮后の思わぬ冗談に、さしもの彼も毒気を抜かれたようだった。まゆに至っては、目を閉じるのも忘れ、驚愕の顔である。
余りといえば、余りの二人の態度に、宮后もむうとむくれた。
「……僕だって、冗談ぐらい言う権利はある」
「ああ、そうだな」
さらりと答えながら、素馨は紙に目を落とした。
中身に目を通したのも束の間。すぐに紙を宮后に返した。
「もういいのかい?」
「さして覚えるものでもない。出向く。片を付ける。それで終わりだろう。時間と場所だけで結構」
「頼もしいな」
言いつつ彼女は、受け取った紙を近くにあった花瓶に差し込む。透明な花瓶の中に張られた水に、紙が溶けていく。
紙が完全に形状崩壊したのを見届けて、おもむろに彼女は言う。
「では、妖怪退治をよろしく。“吸血鬼”翁長素馨君」
「所詮は半端者だ。喧嘩には十分だがな」
「妖怪調伏を喧嘩扱いとは、恐れ入るよ」
宮后の前にいるのは、少し前までの少年ではなかった。
目は、先ほど言い合った時以上に赤くぎらつき、唇も紅を塗ったように赤い。
顔の作りは変わっていないはずなのに、口元に湛える不敵な笑みは、どこか人間離れしたものを感じさせた。
「必要ないだろうけど、一応。気をつけてくれよ」
「拝領しよう」
いつの間にか、赤く染まっていた部屋の中で、少年の影法師がずるずると伸びる。
得体の知れない獣が、内に潜んでいるような、深い漆黒である。
そして、にいと笑う彼の口元には、下唇を突く、長い犬歯があった。
「では征って来よう」
「いってらっしゃい」
「いっそ、そのまま帰ってくるな」
他の生徒は知る由もないが、これが私立天の夜虹橋高校、生徒会室のごく日常的な一幕であった。
修正しました。(2014/12/21)