第1話 暗がりの部屋
始まります。
この家には、三つの条件を満たさなければ入れない、特別な部屋がある。
一つ目。部屋の前にある、小部屋に入ること。
二つ目。小部屋の扉をしっかりと閉じること。眼前に翳した指も見えない暗闇となるが、怯んではいけない。
三つ目。部屋の扉を叩き、入室の許可を得ること。
難しいことはない。たわいもない条件である。
***
大部屋の前に、一人の少年がいた。心なしか、緊張の面持ちである。
入室のための条件は三つ。しかも、それぞれ大したことはない。顔を強ばらせる程ではないはずである。
少年が緊張するのは、彼が過去に間違いを犯したためである。
簡単であることは、簡単であるが故に、人は怠りがちである。彼もうそうであった。一度だけ、小部屋の扉を開けたまま、部屋の扉を叩いてしまったのだ。
果たして、入室の許可は下りた。部屋の扉は開いた。なんだ、手順を守る必要はないのかと、少年は思った。
だが、大きな誤りだった。
小部屋の扉が開いていると知った部屋の主は、酷く驚き、今すぐ出て行き扉を閉めなさいと、強い口調で言った。これに、少年は衝撃を受けた。“彼女”は滅多に声を荒げない。彼にとって、彼女からの初めての叱咤が、それだったのだ。
それから一週間ほど、少年は部屋の主に会うどころか、口も聞いてもらえなかった。
少年は悔やんだ。二度とそんな失態を犯すまいと、固く誓った。
だから今日も、一つ一つ噛みしめるように手順を踏んだ。改めて、小部屋の扉が、然りと閉じていることを確認し、部屋の扉を叩く前に、少しだけ深呼吸をする。
「……起きているかな」
呟きつつ、こつ、こつと、扉を打つ。すぐに返事があった。
「どうぞ」
少年は、口内に溜った唾を飲み込み、声を出した。
「開けるよ」
重厚な扉を、体重をかけて開く。そこには、小部屋と同じく漆黒の闇が広がっていた。
違いと言えば、そこが小部屋とは比べものにならないほど広いことと、人の息遣いが感じられることだった。
「遊びに来たよ、お姉ちゃん」
その呼吸の主こそ、少年のたった一人の肉親=彼の姉だった。
「いらっしゃい。そーちゃん。待ってたわ」
暗がりから返る声は、場にそぐわぬほど明るい。
だからこそ、その明るさに、いつも助けられる。そーちゃんと呼ばれた少年は、そう感じている。
引っ込み思案な彼は、話を切り出すことが苦手だった。それでも、彼女から声をかけられることで、自然と話ができる。今もそうだった。
「僕も、お姉ちゃんに会うのを楽しみにしてたよ」
「嬉しいわ。ね。顔を見せて。今、蝋燭を付けるから」
燐寸を探り当てるまでの時間は僅かだった。すぐに、ぱちりと弾ける音があり、細い火が立った。それはすぐさま、傍の蝋燭に移る。
ぼんやりと明かりが広がり、部屋の漆黒が、橙色に様変わった。
「これでよし、ね」
浮かび上がった真白い少女。少年は息を飲む。
相手は自分の姉である。当然、見慣れた顔である。それでも、そういう反応になってしまうのは、いわば仕方のないことだった。
少女は、美しすぎた。
溶けた蝋を塗り込んだかの白い肌。対照的に、漆よりも艶めく黒い髪。睫毛は長く、僅かに瞼が下りている目を、それでも大きく魅せる。鼻梁はすっと伸び、桜色の唇が瑞々しく輝いている。
実際には小学校の中学年だというのに、その微笑みは、既に傾国の蠱惑を備えていた。
白と黒の狭間にいる少女は、現実離れした美を感じさせるのだ。
(綺麗だなあ……)
少女に見惚れる少年は、彼女より更に幼い。だから、自分が抱く感情の意味を、よく理解できないまま、ぼんやりと姉を見つめるだけだった。
ただ、もっとはっきり、彼女を見たいという気持ちはあった。
「お姉ちゃん、蝋燭なんて点けなくても、外は明るいよ。カーテンを開けようよ」
少女は首を横に振る。
「窓は全て板で打ち付けられているわ。もし、板がなくても……いいえ、なかったならカーテンを開けたら駄目。お姉ちゃんが死んじゃうわ。眩しすぎて」
「なんで駄目なの。死んじゃうって、なに?」
「こうやって、お話しできなくなるってことよ」
「どうして窓を開けたら、お話しできなくなるの?」
「太陽が苦手なの。当たると倒れて動けなくなっちゃうから、ごめんね」
彼女は言い聞かせるように、少年の頭を撫でる。
実際の所、これまでにも同じやりとりは繰り返してきた。それでも彼は、なお諦めきれないのだ。
「どうしても?」
「駄目よ」
ぷくりと少年は頬を膨らませる。
「お姉ちゃんと、外に行けたらいいのに」
「そうねえ。……とっぷりと日が暮れてなら出かけられるわ。太陽がいないなら大丈夫よ」
「そうなんだ」
「そうなのよ。ふふ。まるで吸血鬼みたいでしょう? 匂いの強い食べ物も、少し苦手だから、ますますそうね。そーちゃんはどう思う?」
いつの間にか、話が変わっていた。だが、少年は気付かない。相手の調子に飲まれたまま、素直に考え込んだ。
(お姉ちゃんと吸血鬼……)
吸血鬼がなにかは知っている。映画で見たのだ。題名はよく覚えていないが、吸血鬼の特徴は、よく覚えている。
日の光を浴びられない。暗がりにひっそりと潜む。ニンニクが苦手。
翻って姉はどうか。
太陽には弱いらしい。いるのはいつもくらいこの部屋だけ。彼女自身も言っているが、臭いのある食べ物は苦手なのも知っている。
そこまで考えて、なるほどと頷いた。
「そうだね。似ているかも。吸血鬼みたい」
軽い気持ちで同意したのだが、なぜか少女は嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわ。そーちゃんなら、分かってくれると思った」
「他の人は、そうだねって言ってくれなかったの?」
「そうよ。そーちゃんが、初めて。だから、もう一つ聞いてみようかしら」
「うん」
「吸血鬼さんと、友達になれると思わない?」
きょとんと首を傾げる少年。
「誰が?」
「わたしが」
「誰と?」
「吸血鬼さんと」
「……なんで?」
理解に苦しむ言葉だった。
少年が映画で見た吸血鬼は、最後に人の手に討たれる悪役であった。そんなものと友達になろうなど、少年は考えもしなかったのだ。
「なんでそんなこと言うの? 友達になんてなれないよ。怖いんだよ、吸血鬼って」
「そうかしら。もしかしたら、優しい吸血鬼もいるかもしれないわ。それなら、友達になれるかもしれないでしょう」
妖艶さから一転。無邪気に笑う彼女は、それまでの雰囲気を一瞬で霧散させていた。
「……もしかして、からかってた?」
「まさか。本当に思っていることよ」
「笑ってるもん」
「あら」口元を触る姉。「本当ね」
「うん。変な話じゃなくて、もっと面白い話をしようよ」
「変かしら」
「吸血鬼と友達になれるかもなんて、変だよ」
「わたしは、いいと思うけど、そーちゃんにとっては、お姉ちゃんは変なのね。
でも、そういうことを言うなら、わたしは太陽が怖いから、そこで遊べるそーちゃんの方が変だと思うわ」
そう言いながら、彼女は厚い遮光カーテンに目をやった。
遮光カーテンの奥には、先ほど彼女が言ったとおり、更に仕切りがある。蟻の子一匹入る隙間もない、鉄壁の締め切りだ。
それは余りに分厚いため、外の光はおろか、外の音も聞こえない。二人とも黙ってしまえば、聞こえるのは、換気扇の回る音だけだ。
少しの沈黙の後、ぽつりと少女が呟いた。
「……いいな」
「お姉ちゃん?」
「そーちゃんから見た私は、ただ変なだけ。でも、わたしから見たそーちゃんの変は、ちょっと羨ましい、いい変」
「ねえ、どうかしたの?」
「……外に行けるなんて、いいな」
俯き、呟く彼女が、なぜか儚く見える。ベッドのシーツを握りしめ、嗚咽を堪える姿が、今にも消え入りそうだった。
思わず、少年は手を伸ばす。
腕一本分も離れていないはずの距離である。すぐに届く程度の間に過ぎない。
そのはずだった。
なのに、少年は少女にはいつまでも触れられなかった。それどころか離れ始めたのだ。
どんどん、どんどんと。
限りある部屋のはずなのに、端が地平線のように伸びていた。
そして少女もまた、ベッドごと離れ始めた。
「お姉ちゃん!」
慌てて椅子から立ち上がり、走り出す。
同年代の誰よりも速い足だ。追いつけないはずがないと思い、走った。
すぐに追いつく。今に追いつく。
だが、駄目だった。
追いつけない。どれだけ走っても無駄だった。足の速さが、なんの役にも立たない。
見る見るうちに、少女との距離が開いていく。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
――――なにかが違う。
理性が、囁く。
自分は、【今】の自分は、こんな呼び方をしていただろうか。
(今? ……!)
自覚すると、雷のように意識が先鋭化した。
そうだ。違う。【今】の自分なら、彼女をこう呼ぶ。
「待ってくれ、姉貴!」
結局追いつくことなく、彼女は光の中に消えていった。
***
ぱっと光景が弾けた。
僅かに圧迫を感じる目元。目は閉じられていた。
瞼を開く。初めは、ぼんやりしていた視界が、次第にはっきりとしていく。やがて見えたのは、何年も見慣れた、いつの通りの天井だった。
綺麗な木彫の表れた、板張りの天井。所々の黒い木目が、文字通り目のように自分を睨んでいるようにも感じる。
その天井目がけて、腕を伸ばした。小学生の時分より、ずっと長い。しかしさっきの状況では、恐らくこの腕でも、遠ざかる姉を捕まえることはできなかっただろうと思う。やがて、力なくゆっくりと腕を下ろした。
ゆっくり見渡せば、日光が漏れ始めたカーテンが目に付く。外から聞こえる音は、雀の鳴き声よりも、熊蝉のけたたましい鳴き声の方が勝っていた。
今日も暑いのだろう。
未だ本調子でない頭でも、なんとなしに予感した。
額に手をやる。驚くほど汗で濡れていた。体も同じように汗まみれで、ぐっしょりと濡れた服が肌に張り付き、気持ち悪さを主張していた。
もう一度瞼を閉じる気にもならない。彼は、体を起こして呟いた。
「懐かしいだけで、済ませておけばよいものを」
顔を手の平で覆いながら呟く。今まで見ていた、夢へのほんの僅かな愚痴であった。
これからよろしくお願いします。
修正しました。(2014/11/30)