『トリック・オア・婚約破棄!』~ハロウィンの夜、吸血鬼の父と死神の妹が元婚約者に請求書を届けに来ました~
オレンジ色の蝋燭の炎が、くりぬかれた巨大カボチャのギザギザの口元でゆらゆらと揺れている。
今宵は十月三十一日。異国の収穫祭と悪霊祓いが混ざり合った、年に一度の奇妙な祝祭「ハロウィン」の夜だ。人々は悪霊の目を欺くために魔女や吸血鬼、幽霊の格好をし、街中が浮かれ騒いでいる。
そしてここ、王都きっての豪壮なロシュフォール侯爵邸の夜会ホールもまた、仮装した貴族たちで埋め尽くされていた。
「はっぴはろういん! 皆のもの、今宵は無礼講だぞ!」
ホールの中心、一段高くなった壇上で上機嫌に盃を掲げているのは、わたしの婚約者であるヴィンセント侯爵令息だ。彼は金色に輝くマントを羽織り、頭には大仰な吸血鬼のシルクハットを載せていた。
その腕の中には、胸元をこれでもかと露出させたピンク色の「小悪魔」ドレスをまとう、男爵令嬢のミーシャが収まっている。
「まああ、ヴィンセント様ぁ! 吸血鬼の格好、とっても凛々しくて素敵ですわ! わたくしの首筋、噛みついてくださってもよくってよ?」
「ははは! 可愛い子猫ちゃんめ。今夜は朝まで離さないからな!」
二人は周囲の視線も憚らず、べたべたと鼻先を擦り合わせている。
本来なら、ヴィンセントの隣に立つべき正婚約者のわたし――クラリス・フォン・ベルンハルト伯爵令嬢はといえば、ホールの隅の柱の陰で、冷めきったオレンジパンチをちびちびと啜っていた。
わたしの今夜の装いは、極めて簡素な黒い修道女のローブ。悪霊に怯える村娘の役どころといったところか。
ヴィンセントは今夜の舞踏会にわたしをエスコートする約束をすっぽかし、ミーシャを連れて馬車で颯爽と乗り込んできたのだ。あげく、わたしを見つけるなりこう言い放った。
『クラリス、君のその陰気な顔はハロウィンの夜に相応しくないな! 今夜の主役は、太陽のように可憐なミーシャだ。君のような融通の利かない女との婚約は、近いうちに白紙に戻させてもらうよ!』
公衆の面前での婚約破棄宣言。
普通なら令嬢が涙を流して卒倒するか、怒りに震えて平手打ちを見舞う場面である。
だが、わたしはグラスを置き、そっと扇の陰で口角を吊り上げた。
「……白紙に戻す、ですか。ええ、望むところですわ」
わたしが懐から小さなカボチャ型の懐中時計を取り出し、パチンと鳴らす。時刻はちょうど午後八時。
その瞬間、ホールの巨大な両開き扉が、地響きのような重低音とともにギギギ……と軋んで開いた。
「おい、なんだ?」
「誰だ、あの格好……?」
ざわめく貴族たちの視線が、エントランスに集中する。
冷たい秋風とともにホールへ滑り込んできたのは、異様な気迫を放つ四つの影だった。
先頭に立つのは、全身を包帯でぐるぐる巻きにした身長二メートルの大男――ミイラ男。
その隣には、黒いマントを翻し、妙に所作が優雅すぎる本物の風格を漂わせる白髪の老吸血鬼。
後ろには、青白い顔にボロボロのフリルドレスをまとった、凄惨な美しさを誇る貴婦人の幽霊。
そして最後に、真っ黒なローブに巨大な本物の切れ味を誇る大鎌を担いだ、死神。
死神が、カツン、と大理石の床に大鎌の柄を突き立てた。
澄んだ少女の声が響く。
「トリック・オア・トリート! お菓子をくれなきゃ、容赦なくいたずら(破滅)しちゃうぞ!」
死神のフードの下から現れたのは、わたしの可愛い妹、十四歳のリリアンだった。満面の笑みだが、担いでいる大鎌は我が家の宝物庫から持ち出してきた本物の戦斧改造品である。
「な、なんだあいつらは! 衛兵! 悪趣味な余興の芸人を追い出せ!」
ヴィンセントが泡を食って叫ぶ。
すると、ミイラ男がズシン、ズシンと地響きを立てて歩み出た。
包帯の隙間から覗く筋骨隆々の肉体。彼は胸元の包帯をバリバリと豪快に引き裂き、中から分厚い書類の束を取り出した。
「ふはははは! 芸人とは手厳しいな、ヴィンセント君!」
バリッと顔の包帯を剥ぎ取ったのは、我がベルンハルト伯爵家の長男であり、近衛騎士団の副団長を務める怪力無双の兄、レオンハルトだった。
「ひっ、レオンハルト義兄上!? な、なぜミイラの格好を……!?」
「古代の呪いを届けに来たのさ! ほら、これが我がベルンハルト家がロシュフォール侯爵家に融資していた、三千万ラトの即時返還請求書だ! お前が『新事業の香水開発』と偽って、その男爵令嬢に買い与えていた宝石やドレスの領収書も、全部綺麗に回収して添付しておいたぞ!」
バサササッ!と、ヴィンセントの顔面に叩きつけられる領収書の嵐。
「ぎゃっ!? な、なんでそれを……!?」
「まあ、ヴィンセント様ったら、わたくしにくださった首飾り、ご自分のお金じゃありませんでしたの!?」
ミーシャがサッと二歩後ずさる。
「続いては、わたくしからの『いたずら』ですわぁ……うふふふふ」
すすり泣くような不気味な笑い声を上げながら、貴婦人の幽霊がすうっと滑るように近づいてくる。青白い顔に血塗られたようなリップを塗ったその人は、我が母、エレオノーラ伯爵夫人だ。社交界の裏情報をすべて握る、別名「歩く情報神殿」。
「義母上まで!? な、なんの真似です!」
「ミーシャ男爵令嬢、ごきげんよう。あなたの実家の商会、ずいぶんと怪しげな密輸に関わっていらっしゃるのね? 王宮警察のお友達にちょっと相談したら、今夜あたり男爵邸に『トリック・オア・トリート』しに突入するって言ってたわよ? ほら、これが令状の写し」
ヒラヒラと掲げられた羊皮紙を見た瞬間、ミーシャの血の気が引いた。ピンク色のチークの下が、本物のゾンビのように土気色に変わる。
「う、嘘……! お父様の密輸がバレた……!? ひ、ひいいっ!」
「待て、待てミーシャ! 俺を置いていくな!」
取り乱すヴィンセントの背後に、影が落ちた。
「我が家の至宝である愛娘クラリスを、公衆の面前で愚弄した罪……血を吸うだけでは生ぬるいな」
冷徹な声とともに、本物の貴族の威厳を放つ老吸血鬼がマントを広げた。現職の財務卿にして、我が愛する父、ベルンハルト伯爵その人である。牙のつけ心地が悪いのか、時折ペロリと舌で気にしているのがたまに瑕だが、その眼光は鋭い。
「お、大伯爵様……!?」
「侯爵家の放蕩息子よ。我が娘がお前の尻拭いのために、どれほど無駄な帳簿整理と根回しをしてきたか、その頭詰まりの脳みそでは理解できんかったようだな。今宵のハロウィンを機に、貴殿と我が娘の婚約を完全に破棄する。これは国王陛下の裁可もすでに下りている」
父が懐から取り出したのは、国王の親筆と玉璽が押された、正式な婚約破棄承諾書だった。
「そ、そんな……! 親父に知られたら、俺は廃嫡されてしまう……! クラリス! クラリスはどこだ! おい、クラリス、悪霊祓いなんて嘘だと言ってくれ!」
ヴィンセントが取り乱し、蜘蛛の子を散らすように逃げる貴族たちを押し退けて、わたしを探し回る。
わたしは静かに柱の陰から歩み出た。
黒いローブのフードを脱ぎ捨て、手にした小さなカボチャのバスケットを傾ける。
「ごきげんよう、ヴィンセント様。ハッピー・ハロウィン」
「クラリス! 頼む、家族を止めてくれ! 悪ふざけが過ぎるぞ! いたずらなんて、子供のすることだろう!?」
必死の形相ですがりつこうとするヴィンセントの鼻先に、わたしはカボチャの形をした黄色いアイシングクッキーを一枚、スッと差し出した。
「ええ、ですから最初に申し上げたではありませんか。『トリック・オア・トリート』と。お菓子をくだされば、いたずらはしませんでしたのに」
「え……? お、お菓子……?」
「わたくしが欲しかった『お菓子』は、誠実さと敬意という名の甘いお心遣いでしたわ。ですが、貴方がわたくしにくださったのは、不実と浪費と侮辱という、酷く苦い泥ばかり。……お菓子をいただけないのなら、いたずら(報復)をお受けいただくのが、この祭りの絶対の掟です」
「そ、そんな屁理屈……!」
「さあ、お姉様! 仕上げだよ!」
死神姿の妹リリアンが、パチンと指を鳴らした。
その合図とともに、天井のシャンデリアからバササササッと無数のコウモリ(の形に切り抜かれた、ヴィンセントの悪行を暴露する告発ビラ)がホール全域に降り注いだ。
さらに、ミイラ男の兄が背負っていた麻袋を豪快にひっくり返す。中から転がり出たのは、大量のカボチャ――ではなく、ヴィンセントがツケで購入していた高級酒や貴金属の「未払い請求書」の丸めた紙玉だった。
「うわああああっ! やめろ、拾うな! 見るなああああっ!」
床に散らばる恥部を必死に手でかき集めようと、這いつくばるヴィンセント。
だが時すでに遅し。周囲の貴族たちは扇で口元を隠しながら、クスクスと、あるいは冷酷な蔑みの目で彼を取り囲んでいた。
「まあ、ヴィンセント様、ずいぶんと派手にお散らかしですこと」
わたしは足元に転がってきた請求書の紙玉を、ドレスの裾でトンと軽く蹴飛ばした。
「三十数年……いえ、これまでずっと良い子で公爵家や侯爵家の不始末を片づけてまいりましたけれど。もう『回収人』はおしまいです。ご自身で散らかした悪夢は、どうぞお一人で綺麗にお片づけあそばせ」
「クラリスぅぅぅぅぅっ!!」
情けない絶叫を背に、わたしは優雅に踵を返した。
横に並び立つ、ミイラ男の兄、幽霊の母、吸血鬼の父、そして死神の妹。
家族全員が、最高の笑顔でわたしを迎えてくれる。
「クラリス、最高のフィナーレだったぞ!」と包帯を揺らす兄。
「あらあら、ヴィンセント様のあの顔、肖像画にして飾りたいくらいですわ」と扇を揺らす母。
「よく言った、クラリス。さあ、帰って温かいカボチャスープでも飲もう」と牙を外して微笑む父。
「お姉様、お菓子いっぱい貰って帰ろうね!」と抱きついてくる妹。
わたしはふふっと声を立てて笑い、家族の手をとった。
悪霊を追い払い、新しい収穫を祝う夜。
わたしの人生から最大の悪霊が綺麗さっぱり退散した今夜は、間違いなく、これまでで一番晴れやかで楽しいハロウィンの夜だった。




