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k-06 誰も走れない道

元ネタは原付転生の『reverse100 本当の答え合わせ』を読んで頂けると意味がわかります。

 名古屋市南区、笠寺。


 この街の深部へと足を踏み入れた旅人は、一様に困惑し、やがて悟る。

 ここは、地図という概念がその機能を放棄した「迷宮」なのだと。


 古くから観音様の門前町として栄えたこの地には、昭和の地層がそのまま露出したような細い路地が、毛細血管のように張り巡らされている。

 車はおろか、自転車ですらハンドルを斜めにしなければ通れないほど窮屈な路地が、どこへでも続いている。

 軒先をかすめるように歩けば、隣の家の夕飯の匂いや、住人のひそひそ声、さらには時代に取り残された古いお地蔵様の静かな視線が、物理的な圧力となって迫ってくる。


 最新のGPSナビゲーションでさえ、ここでは無力だ。

 青い自車位置マークは迷走し、行き止まりの壁の前で立ち往生を強いる。

 一歩間違えれば、二度と元の表通りには戻れないのではないか——そんな錯覚すら抱かせるほど、笠寺の路地裏は深く、昏い。


 だが、その迷宮の最も深い場所。

 かつて町工場だった建物の名残を留める古い軒先に、黄金色の灯火を灯す場所がある。


 ライダースカフェ「アハロ」。


 誰も走れないこの道で、今日も奇妙な「物流」の戦いが始まろうとしていた。


   *


 三月。


 クレアおばさんが加入して宿泊部門が安定したことで、モト子はアハロをUberに登録した。


 テイクアウトメニューを拡充して、デリバリーで笠寺周辺にも届けられるようにする。

 それがモト子の次の一手だった。


 しかし。


 注文が入るたびに、端末の画面には同じ文字が虚しく光り続けた。


『配達員を探しています』


「またね……。花ちん、悪いけどモトラ出して。あっちの踏切、今開いてるはずだから」


「了解です! タルタルが寄らないように安全運転で行ってきます!」


 マルシンの出前機を揺らしながら、路地を抜けていく花。

 これが、アハロのデリバリーの現実だった。


 笠寺の迷宮は、プロの配達員たちの間で「地獄エリア」として知られているらしかった。

 Uberのアプリで笠寺周辺の注文が表示されると、ベテランほど素早く画面をスワイプして別の注文へ移る、という話をクレアおばさんが笑いながら教えてくれた。


「この路地、軽自動車でも入れないところが半分以上あるのよ。バイクでもひやっとするわ」


「じゃあ、私たちは永遠に自分で届けるしかないんですか……」


「まあ、そういうこと」


 モト子が腕を組んだ。

 解決策が見えない問題というのが、世の中にはある。


   *


 ある日の昼下がり。


 注文が入った瞬間だった。


 端末から、聞き慣れない音が鳴った。


「あら? 珍しい。〇・一秒で決まったわよ」


 モト子が端末の画面を二度見した。


『配達員が決定しました』


「きっと何も知らない新人ですよ」


 花が厨房から顔を出した。


「笠寺の迷宮に捕まって、泣きながら電話してきますよ、きっと」


 二人が顔を見合わせた。


 数分後。


 路地の奥から、乾いた二ストロークエンジンの音が近づいてきた。


 見覚えのある音だった。


 SUZUKI モレ。

 その荷台には、真新しいグリーンのUberバッグが誇らしげに鎮座していた。


 ヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭いながら、クレアおばさんが無表情に、でも少しだけ得意げに言い放った。


「……お待たせ。ピックアップに来たわよ」


 モト子が、手に持っていた伝票を落としそうになった。


「クレアおばさん……、何やってんのよ」


 クレアおばさんはスマホをシュッと操作して「店に到着」のボタンを押した。


「私も、配達員登録してみたの。店長が時給をくれるのはありがたいけど、この店の注文が滞るのは損失でしょ? 私がUberのバッグを背負えば、店長は確実に届けられるし、私は配達報酬ももらえる。これ、Win-Winじゃない」


「でも、どうして!?」


 花が厨房から身を乗り出した。


「やっぱり笠寺は迷宮として、プロの配達員たちには知られてるから、誰も取らないでしょ。これからはアハロの注文は、私が一滴も外に漏らさないわ」


 そう言うと、クレアおばさんは手際よくバッグに温かい弁当を詰め込み、モレのキックを踏み抜いた。


「じゃ、行ってくるわ。三分で戻るから、次の注文、ちゃんと奪い取っておきなさいよ」


 モレのエンジン音が、路地の奥へ消えていった。


 モト子と花が、引き戸の前でしばらく立っていた。


「……本当に三分で戻るのかしら」


「クレアおばさんなら、戻ると思います」


 三分後、モレが戻ってきた。


   *


 ある日の午後。


 Uberの端末が鳴った。

 またも即時マッチングだ。


 今日のピックアップにやってきたのは、自転車に乗った二十代の青年だった。

 近隣の大学に通っているらしく、笠寺の路地には慣れているのか、迷わずアハロの前に自転車を停めた。


 彼が密かにアハロに通い始めたのは、開設して間もない頃だ。

 最初はただの好奇心だった。

 でも、気づけば週に何度もUberのアプリで笠寺周辺の注文を探すようになっていた。


 理由は、自分でも薄々わかっていた。


 厨房の中にいる、静かな目をしたコックさんのことが、頭から離れないのだ。


 今日こそ、と思っていた。

 ポケットには、連絡先を書いたメモが入っている。

 ピックアップの待ち時間に、渡せるかもしれない。


 青年が引き戸をくぐると、厨房で花が真剣に料理と向き合っていた。

 その横顔を見た瞬間、胸が跳ねた。


「……えっと、今日、忙しいですか?」


 切り出そうとした。


 その瞬間。


 ガサガサ、という音とともに、モト子が郵便受けから戻ってきた。

 赤いレターパックを振りながら、店内へ入ってくる。


「花ちん! 本田くんからレターパック届いてるわよ! ほら、いつもの生存確認じゃない?」


 厨房の花の手が止まった。


「えっ、本田くんから!?」


 今まで見たことのないような輝いた目で、花がカウンターへ駆け寄ってきた。


 青年の耳に、その言葉が届いた。


 本田くん……男からの手紙……?


 花がレターパックの封を切った。

 プチプチに包まれた「何か」が、姿を現した。


 青年には、それが何なのかわからなかった。

 ボロボロで、変色していて、ずいぶん古いものに見えた。


 でも、花がそれを包みから出す時の手が、かすかに震えていた。

 愛おしそうに、両手で包むように持ち上げて。


「……おかえり」


 花が、微笑んだ。


 その表情を見た瞬間、青年は悟った。


(あ、これ、俺が割り込める場所じゃないわ)


 あれは、間違いなく恋する乙女の顔だった。


 青年はポケットの中のメモを、静かに奥へ押し込んだ。


 完成した料理をバッグに詰めながら、平静を装って言った。


「……お疲れ様です、行ってきます」


 悟りを開いたような顔で、青年は路地裏へ自転車を走らせた。


 路地の石垣を抜けながら、ペダルを漕ぎながら、思った。


(告らなくて良かった……)


 笠寺の迷宮が、今日だけは青年に優しかった。


   *


 夜の営業が終わった。


 モト子が厨房を覗いた。

 花が後片付けをしながら、さっきから何度か、カウンターに置いた荷物の方を見ていた。


「花ちん、今回は本田くんから何が送られてきたの? また何かプロ野球カードか何か?」


 花が振り返った。


 にこやかな顔だった。

 昼間よりもさらに、何かが満ちている顔だった。


 花はレターパックの中身をモト子に見せた。


 古いミミズが這ったような文字で書かれた手紙。

 それと、ボロボロの地図柄の長財布。


「花ちん、このボロボロの財布は何なの? それに、この渋すぎる手紙はなんて書いてるの?」


「たぶん言っても信じてもらえませんよ」


 花が、財布をそっと両手で包んだ。


「でも、私にとっては最高の報せでした」


 モト子が、花の顔をまじまじと見た。


「なんだか花ちん、恋する乙女みたいな顔してるね」


「はい!」


 花は満面の笑顔で、引き戸の外を見た。


「モト子さん、今夜も月が綺麗ですね」


 モト子が引き戸のガラス越しに空を見上げた。


 西之門の路地の上に、冬の終わりの月が出ていた。

 丸くて、静かで、まるで誰かに向けて輝いているような月だった。


 モト子は花の横顔を見た。


 花は、その月を見ていた。

 どこか遠い場所を思っているような目で。

 でも、とても穏やかな目で。


「……花ちん、誰かに恋してるの?」


「はい」


 即答だった。


「……遠い人?」


 花が少しだけ考えてから、笑った。


「とても遠い人です。でも、ちゃんと生きていることがわかったので、それだけで十分です」


 モト子は何も言わなかった。


 聞くべきことは、もう何もない気がした。


 花が月を見ながら微笑んでいる。

 その顔が、答えの全部だった。


 笠寺の路地に、春の夜風が通り抜けた。

 石垣の上の柿の木が、新しい芽を少しだけ膨らませていた。


 アハロの灯りが、迷宮の奥で今夜も静かに輝いていた。



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