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k-05 春の燕

 MISIAが去った翌朝。


 西之門の路地の引き戸に、一枚のポスターが貼られた。


『スタッフ募集

 時給1,500円相当 社会保険完備 フレックス応相談

 ライダーハウス管理スタッフ(近隣にお住まいの方優遇)』


 モト子が閉店後に一時間かけて書き上げたものだ。


「花ちん、これだけ出せば、まともな人間が一人くらい釣れるはずよ」


「笠寺でこの条件は破格だと思いますよ」


「そうでしょ。ご近所さんで、ちゃんと動ける人が来てくれればそれでいいの。変な人だけ来ないようにね」


 花が頷いた。


 今のアハロは、宿泊部門の管理がどうしてもモト子と花の手に余るようになっていた。

 謎の満室が続いている三月を乗り切るには、もう一人の手が必要だった。


   *


 ポスターを貼った翌日の昼前だった。


 路地の奥から、乾いた二ストロークエンジンの音が近づいてきた。


 SUZUKI モレだ。


 ヘルメットを脱いだ女性は、驚くほど無表情だった。

 四十代くらいだろうか。

 スッと背筋が伸びていて、目が静かに動いている。

 品が良い、とも言えるし、何かを見極めている、とも言える顔だった。


「求人を見てきたのですが、まだ募集していますか?」


 モト子が「はい」と答えた。


   *


 面接はカウンター席で行われた。


 モト子が条件を告げた。


「手取り十八万。朝の数時間と、夜は二十一時三十分まで。急な中座も相談に乗るわ」


 普通の主婦なら目を輝かせる条件だ。

 しかし目の前の女性は、眉一つ動かさなかった。


「……わかりました。それで結構です」


 それだけだった。


 モト子は内心で即断した。


(この女、お金に困ってるわけじゃないわね。なにかしら、この余裕。合格よ、即採用!)


「いつから来られる?」


「明日からでも」


「決まりね。よろしく」


 二人が握手した。


 花が厨房から顔を出して「よろしくお願いします」と頭を下げた。


 女性が、初めてわずかに口角を上げた。


「こちらこそ。クレアと呼んでください」


   *


 翌日の夕方。


 早速エプロンを締めたクレアおばさんが、宿泊名簿をペラペラとめくり始めた。


 モト子が横から説明した。


「ご覧の通り、何故か三月に入ってから急に全ての部屋が満室なのよ。バレンタイン前後に予約が一気に入って、原因がわからなくて困ってたの」


 クレアおばさんが名簿から顔を上げた。


「店長。これ、理由わかってて予約を受けたの?」


「……え?」


「三月からのバンテリンドームのオープン戦、それから公式戦。全部重なってるわよ。相手チームのファンも、遠征組はみんなここを狙ってる。うち、立地が『勝ち確』なのよ」


 モト子と花が、同時に固まった。


「バンテリンドーム……ってなんですか?」


 花が恐る恐る聞いた。


「野球場よ。ここから電車で7分、地下鉄で18分ところにある、ナゴヤドームの新しい呼び名。プロ野球の試合があると、電車も駅も周辺の宿も全部埋まるの。それがうちの予約と丸ごと重なってる」


 モト子が名簿をもう一度見た。

 日付と、バンテリンドームの試合スケジュールが、頭の中で重なっていった。


「……じゃあ、三月の満室の理由って、ずっとそれだったの?」


「そうよ。これが九月まで続くわよ。……覚悟しなさいね、店長」


 クレアおばさんが、余裕の笑みを浮かべた。


 モト子は、返す言葉が出なかった。


 花が「わあ……」と小さく声を漏らした。


 アハロが開業した時から、勝ち確の立地にいた。

 ただ、誰もそれに気づいていなかっただけだ。


   *


 夕方になると、宿泊客がチェックインを始めた。


 クレアおばさんは初日から、滑らかに動いた。


 旅人一人ひとりを部屋へ案内しながら、施設の説明を淀みなくこなしていく。


「お客さん、こちらがコインランドリーとコインシャワーよ。両替が必要なら一階のカフェで二十二時三十分までなら可能よ」


「夜中でも使える?」


「他のお客さんに迷惑にならないならね。でも、そこは貴方も旅人ならわかるわよね?」


「カフェは俺らでも使えるの?」


「もちろん。ただ、店内が混んでいても、二階のロビーでも食事やコーヒーが頼めるわよ。宿泊者特権ってヤツね。そこのダムウェイターのインターフォンから注文が可能なの。他に聞きたいことはあるかしら?」


 旅人たちが「ありがとうございます」と言って部屋へ消えていく。

 次の旅人が来る。

 また同じように案内する。

 でも、同じ言葉でも、相手に応じて微妙に角度が変わっていた。


 モト子が少し離れたところから、その様子を見ていた。


(この人、接客の経験がある。それも、相当な)


 クレアおばさんが来て初日から、宿泊部門が静かに整い始めた。


   *


 クレアおばさんが働き始めて一週間が経った。


 アハロの動きが、明らかに変わっていた。

 モト子はホールに集中できるようになり、花は厨房に戻っていられる時間が増えた。


 その日の夕方、モト子が予約表を見ながらクレアおばさんに声をかけた。


「クレアおばさん、今夜の宿泊客のこの人なんだけど、到着した時に私か花ちんに教えて欲しいの」


「この方は……あら? 個室扱いなのね?」


「そうなの。今夜から個室も解放しようと思ってね。たまたま知り合いが泊まりに来てくれるから、感想を貰おうかと思って」


「それなら、到着した時に必ず知らせますね。明日からまたバンテリンドームでオープン戦ですもんね。三月十日と十一日、十八時スタート。今夜の宿泊客のほとんどがライダーじゃなくてプロ野球ファンでしょうね」


「そうね。私の知人はライダーなのよ。だから野球とは無縁のはずよ」


 モト子が少し照れたように言った。


 クレアおばさんが静かに頷いて、また名簿に目を戻した。


   *


 夜営業が始まった。


 常連客がちらほらと来店して、カウンターが少しずつ埋まっていく。

 宿泊客がチェックインを済ませて、クレアおばさんに案内されて二階へ消えていく。


 いつもの夜が流れていた。


 そこへ、アハロの前に三輪の原付が停まった。


 HONDA ジャイロX。

 独特の走行音が、西之門の路地に響いて止んだ。


 モト子が花に声をかけた。


「花ちん! 来たわよ」


 花が厨房からホールに出てきた。

 引き戸が開いた。


「ミルミルさん! お久しぶりです!」


「きゃあ! 花ちゃん! 元気だった!?」


 五十代の女性が、ヘルメットを抱えながら飛び込んできた。

 笑顔が満面だ。


「本当に来てくれたのね! しかもジャイロで!」


 モト子が嬉しそうに声をかけた。


「キャノンボールに比べたら群馬県から愛知県なんて近いわよ〜」


「本当にそうよね〜。ミルミルさんならそう言うと思ってた!」


 ミルミルがカウンターに座りながら、店内をぐるっと見渡した。

 浮世絵の飾られた壁、木のカウンター、ガレージスペース。

 目が、じわりと輝いた。


「モト子さん! 本当にいい所に宿屋を構えてくれたわ! 今後はちょくちょく泊まりに来るからね!」


「え? ちょくちょく? 群馬から? まさか、旦那さんと上手くいってないの?」


 ミルミルが笑い出した。


「違うわよ! 明日は何の日か知らないの?」


 モト子と花が首を傾げた。


 そこへ、カウンターの端でグラスを拭いていたクレアおばさんが口を挟んだ。


「店長。明日のオープン戦は中日とヤクルトですよ」


「え? ヤクルトって野球チームがあったの?」


 ミルミルとクレアおばさんが、顔を見合わせた。


 二人が、同時に笑い出した。


「ミルミルさん、うちの店長とコックは野球の知識が残念ながらこれっぽっちも無いのよ。私でよければ後で飲みにでも行って野球を語りましょうか。お互い近年の不甲斐なさで辛い年を過ごしましたからね!」


「ますます、いい宿ね! 野球バカにはたまらない宿よ、モト子さん!」


 モト子と花は苦笑しながら、二人のやり取りを眺めていた。


(野球を知らないことで、こんなに盛り上がれるなら、もう知らないままでいいわね)


 モト子はそう思いながら、ミルミルの荷物を二階の個室へ案内した。


   *


 大まかなチェックイン業務が落ち着いた夜。


 クレアおばさんとミルミルは、アハロから徒歩五分のところにあるTall Boys Brewingへ向かった。


 二〇二二年にオープンしたマイクロブルワリーで、店内の醸造スペースで作られたクラフトビールをその場で飲める店だ。

 カウンターにはタップが並んでいて、今夜も数種類の自家醸造ビールが出ている。


 二人はカウンターに並んだ。

 ムーンライトグリルのホットサンドをつまみながら、グラスを傾けた。


「明日のスワローズ、期待できるかしら」


「中日だって負けてばかりじゃないわよ」


「そうはおっしゃっても、近年は……」


「わかってる。でも、明日は内野席で観るのよ。結果より現場が大事でしょ」


「それはそうね!」


 二人が笑った。


 グラスがまた傾いた。


 自家醸造の苦みと香りが、笠寺の夜に溶けていく。


 ミルミルは、クラフトビールを一口飲みながら思った。

 ジャイロXで群馬を出て、名古屋まで走って、こんな夜が待っていた。

 旦那に無関心にされるたびに、どこかへ行きたいと思っていた。

 でも、どこへ行けばいいかわからなかった。


 ジャイロXがあった。

 キャノンボールがあった。

 モト子がいた。

 そしてアハロが、バンテリンドームまで30分以内で来られる路地の奥にあった。


 これが、繋がるということだ。


「来年も、シーズン通して予約、入れていいかしら?」


 ミルミルがクレアおばさんに向かって聞いた。


「もちろん。私が直接管理するわよ。安心して」


 クレアおばさんがグラスを持ち上げた。


「乾杯しましょ。中日とスワローズのシーズンに」


「乾杯!」


 二つのグラスが、笠寺の夜に鳴った。


   *


 3日後。


 ミルミルはチェックアウトの前に、クレアおばさんにシーズン中の予約を全部お願いした。


 クレアおばさんは手帳を開いて、試合日程と照らし合わせながら、一つずつ日付を押さえていった。


 西之門の路地に、朝の光が差し込んでいる。


 ジャイロXのエンジンがかかった。


「また来るわよ!」


「待ってます。今度はAランチを食べてから行ってください」


「約束するわ!」


 三輪の走行音が、路地を抜けて旧東海道へ出た。

 遠ざかっていく音を、モト子と花とクレアおばさんが引き戸の前で聞いていた。


 音が消えてから、クレアおばさんが口を開いた。


「シーズン、長いわよ。九月まで、気を抜かないでね」


「わかってるわよ。でも、なんか楽しくなってきた」


 モト子が言った。


「野球のことは何もわからないけど、この店にいろんな人が来てくれる理由は、わかった気がする」


 クレアおばさんが眼鏡の奥で目を細めた。

 花が微笑んだ。


 笠寺観音の鐘が、朝の一打を鳴らした。

 三月の開幕は、もう始まっていた。







SUZUKI モレ


型式 A-FA14B

最高出力 6.8ps / 7,000 rpm



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