表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/17

k-04 Amazing Life on the アハロ

 三月一日。


 笠寺駅のホームは、朝から人で溢れていた。


 改札を出るたびに人波ができて、駅員が誘導に出るほどだ。

 いつもの日曜日とは、明らかに違う空気だった。

 ダウンジャケットに大きなバッグを抱えた人たちが、ガイシホール方面へと流れていく。


 アハロの前の路地にも、その余波が届いていた。


「モト子さん、今日はランチが凄いことになりそうですね」


「そうね……。でも、それより今月の宿泊がなぜ全部埋まってるのか、そっちが気になって仕方ないのよ」


 モト子がメニュー表を補充しながら、眉をひそめた。


 バレンタインデーを過ぎた頃から、宿泊部門の予約が止まらなくなった。

 普段は空いたままの女子エリアの屋根裏まで、二月中に三月の予約で全部埋まってしまった。


「花ちん、今日のガイシホールでMISIAのコンサートがあるから、その前後が混むのはわかる。でも、関係ない日も全部埋まってるのは、どう考えても説明がつかないのよね」


「私もわからないんですよね……。とにかく、そろそろパート募集しないとまずくないですか?」


「うん。今日のランチタイムが終わったら、ポスター作るわ。求人サイトは使わない。ご近所さんに来てほしいから、ポスター募集だけにしておく」


 謎は謎のまま、今日も営業が始まった。


   *


 予想通り、ランチタイムは戦場だった。


 コンサート前に腹ごしらえをしようという人たちが次々と来て、テーブルもカウンターも満席になった。

 モト子が動き回り、花が厨房で動き続けた。


 十四時を過ぎると、人の流れが一気にガイシホール方面へ向かい始めた。

 十四時二十分には、店内の全席が空になった。


 モト子がCLOSEのプレートを持って引き戸へ向かった。


 その瞬間、引き戸が内側に開いた。


   *


 入ってきた女性は、独特なオーラを纏っていた。


 漆黒のオーバーサイズパーカーのフードを軽く被り、その下から鮮やかなオレンジ色のターバンが覗いている。

 首元には、分厚いグレイのストールが要塞のようにぐるぐると巻き付けられていた。

 大きな黒縁の眼鏡の奥で、少し疲れたような、でも満足げな瞳が細められている。


 彼女が動くたびに、マヌカハニーとハーブの混ざったような、プロ特有の香りがふわりと漂った。


 モト子が「なんだか重装備な人が来たわね」と思う間もなく、女性はストールを少しだけ緩めて、掠れた、しかし芯のある低い声で言った。


「……こんにちは。お腹、空いちゃった」


 その一言だけで、厨房の花が包丁を止めた。

 その声の響きが、狭い店内の壁に反射して、不思議なほど心地よく耳に残ったからだ。


「まだ、いいかしら」


「もちろん、どうぞ。ただ、ラストオーダーは終わってますので、本日のAランチは品切れです。Bランチしかないですが、よろしいですか?」


「おまかせするわ。でも、ラストオーダーを過ぎてるのに、本当にいいの?」


 モト子は笑顔で答えた。


「はい! もちろん迷惑ですよ?」


 女性が少し目を丸くした。

 モト子が続けた。


「というわけで昼営業は終わってますので、お客さんの貸切です。私らも勤務外なので、私らのことは気を使わずにごゆっくりどうぞ」


 女性が、ニッコリと笑った。


「ありがとう」


   *


 花が厨房でBランチを仕上げた。


 大判の鶏もも肉をHoneys8のアカシア蜜で下処理して、衣をつけて揚げる。

 南蛮酢にも蜂蜜を加えて、揚げたての肉をジュワッと潜らせる。

 タルタルソースには粗みじん切りのゆで卵と玉ねぎとピクルスにマヨネーズ、隠し味にアカシア蜜を一回し。


 丼から溢れんばかりに積み上げた鶏肉の上から、黄金のタルタルがナイアガラの滝のように落ちていく。


 横には、Honeys8のアカシア生蜜とレモンのドリンクを添えた。

 カップを両手で包んで飲めるよう、少し大きめのマグカップで出す。


 女性がカウンターに座った。


 チキン南蛮を一口頬張った瞬間、彼女の目が見開いた。


 それから、黙って食べ続けた。


 二切れ、三切れ、額にうっすらと汗が浮かぶ頃には、器があっという間に半分以上空になっていた。


 ドリンクを一口飲んだ瞬間、小さな溜め息が漏れた。


 モト子はレジの前で伝票を整理しながら、横目でその様子を見ていた。


 あんなふうに食べてくれる人を、久しぶりに見た気がした。


 お腹が空いていた、というだけじゃない食べ方だ。

 何かを補給している食べ方だ。

 自分に必要なものを、体が知っていて、それがちゃんとここにあった、という食べ方だ。


   *


 食事が終わると、花がデザートを出した。


 市販のパイシートを薄く伸ばしてキャラメリゼしたクリスピーパイ、一晩かけて水切りした濃厚なヨーグルトにアカシア蜜を混ぜたクリーム、三月の苺とキウイ。

 それを三層に重ねて、仕上げに客の目の前でHoneys8のアカシア蜜を細い糸のように上から回しかける。


 とろりと落ちる黄金色を、女性は静かに見つめた。


 スプーンを差し込むと、パイがサクッと小気味よい音を立てた。


 一口食べて、目を閉じた。


 しばらく、そのまま動かなかった。


 それから喉の奥から、無意識にハミングが漏れた。

 あまりにも自然な、夜明けの光のような旋律だった。


 モト子が伝票から顔を上げた。


   *


 女性が最後の一口を飲み込んで、立ち上がった。


 サングラスをかけ直して、モト子と花に太陽のような笑顔を向けた。


「ごちそうさま。最高に力が湧いてきたわ。……次は、売り切れてたAランチも凄く食べたくなったわ」


 一千円札を差し出した。


「はい、一千円ちょうどお預かりします。ありがとうございます! ウチは夜も営業してますので、また来てくださいね!」


 女性はニッコリと笑って、満足した顔で引き戸を出ていった。


 西之門の路地が、静かに戻ってきた。


 モト子がレジを閉めながら、花に言った。


「……ねえ花ちん。あのお客さん、凄くない?」


「わかります。なんか……ただの疲れたお客さんじゃなかったですよね」


「声よ、声。あの人、あのハミング……普通じゃなかった」


 花が少し考えてから、頷いた。


「確かに。なんか、壁に反射した感じがしましたよね。こんな狭い店なのに、広く聞こえたっていうか」


 二人はしばらく、引き戸の方を見ていた。


 ガイシホールの開演時間まで、もう少しだった。


   *


 夜営業が始まると、十九時三十分頃から一気に客が増えた。


 コンサート帰りの人たちだ。


 笠寺駅のホームはコンサートが跳ねるたびに麻痺するほど混雑する。

 その人波がそのままアハロに流れ込んできた。

 財布の紐が緩んでいて、顔が上気していて、まだ音楽の余韻の中にいる人たちだ。


 モト子と花は無言で動いた。

 昼のランチラッシュで体はすでに一度消耗している。

 それでも手は動き、足は動き、アハロの夜は続いた。


 二十一時三十分を過ぎた頃から、コンサート帰りの波が引いていった。

 入れ替わるように、顔見知りの常連たちが戻ってくる。

 いつもの夜の店内に、少しずつ変わっていった。


 モト子がラストオーダーの札を裏返そうとした。


 引き戸が開いた。


   *


 昼間の女性だった。


 首元のストールも、オレンジのターバンも、昼間と同じだ。

 ただ、少しだけ目が柔らかくなっていた。


「まだ、いいかしら?」


 モト子は昼間の会話を思い出した。

 Aランチが食べたいと言っていた。

 今日のAランチは、黒酢豚だ。


「花ちん、こちらのお客さんのために今日のAランチ、黒酢豚、作れる?」


「大丈夫ですよ! 少しお時間いただきますけど、いいですか?」


 女性がカウンターに座りながら言った。


「ラストオーダーを過ぎてるのに、悪いかしら?」


「はい! すごく迷惑ですよ?」


 モト子がニヤリと笑って、眼鏡の奥の目を光らせた。


「でも、もう勤務外ですからね。私たちも気楽に接客しちゃいます。だから、お客さんも私たちのことは気にしないで。ゆっくりしていってください」


 昼間と同じやり取りだった。

 女性も昼間と同じように、くすりと笑った。


   *


 厨房から、ジュージューと黒酢豚を作る音が響き始めた。


 花の鼻歌が漏れ聞こえてきた。


「もしも翼が〜♪ 僕らにあれば〜♪」


 モト子が精算の準備をしながら、微笑んだ。

 花が料理しながら鼻歌を歌うのは、機嫌が良い証拠だ。


 カウンターで待っていた女性が、カップのお茶を両手で包みながら、静かに目を閉じた。


 次の瞬間、自然に、吸い込まれるように声が重なった。


「旅をして〜 世界は一つと気づくだろう〜♪」


 店内の空気が変わった。


 ただの鼻歌のはずなのに、音が重なった瞬間、アハロ全体が巨大な楽器になったかのように共鳴し始めた。

 天井の低い木造の建物が、その音を四方から受け止めて、増幅させて、温かく返してくる。


 モト子が手を止めた。


 鳥肌が立った。


 歌が上手い、という次元ではなかった。

 魂が震える音、としか言いようのない何かが、この狭い路地裏の店に満ちていた。

 モト子は自分の腕を見た。

 鳥肌が、じわじわと肩まで上がってきていた。


 厨房から花が顔を出した。

 お玉を持ったまま、固まった。


 自分の鼻歌にハモってくれた女性を見て、何も言えなくなった。


(まさか……ご本人……?)


 カウンターの女性が、二人の顔を見て、くすりと笑った。


「私も勤務外なの。お二人さんも、気にしないでね!」


 そう言って、また鼻歌を続けた。


 モト子は精算の手を動かした。

 花は厨房に戻って、フライパンを握り直した。


 でも二人とも、その鼻歌を聴いていた。


 西之門の路地は静かな夜だった。

 でもアハロの中だけは、笠寺の冬が終わって春になろうとしているような、そんな温かい音に満ちていた。


 厨房でフライパンが鳴る。

 カウンターで鼻歌が続く。

 レジで伝票がめくられる。


 みんな違う場所から来て、みんな違う理由でここにいる。

 でも今この瞬間、この屋根の下では、全部がひとつだった。


 笠寺の夜が、静かに更けていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ