k-04 Amazing Life on the アハロ
三月一日。
笠寺駅のホームは、朝から人で溢れていた。
改札を出るたびに人波ができて、駅員が誘導に出るほどだ。
いつもの日曜日とは、明らかに違う空気だった。
ダウンジャケットに大きなバッグを抱えた人たちが、ガイシホール方面へと流れていく。
アハロの前の路地にも、その余波が届いていた。
「モト子さん、今日はランチが凄いことになりそうですね」
「そうね……。でも、それより今月の宿泊がなぜ全部埋まってるのか、そっちが気になって仕方ないのよ」
モト子がメニュー表を補充しながら、眉をひそめた。
バレンタインデーを過ぎた頃から、宿泊部門の予約が止まらなくなった。
普段は空いたままの女子エリアの屋根裏まで、二月中に三月の予約で全部埋まってしまった。
「花ちん、今日のガイシホールでMISIAのコンサートがあるから、その前後が混むのはわかる。でも、関係ない日も全部埋まってるのは、どう考えても説明がつかないのよね」
「私もわからないんですよね……。とにかく、そろそろパート募集しないとまずくないですか?」
「うん。今日のランチタイムが終わったら、ポスター作るわ。求人サイトは使わない。ご近所さんに来てほしいから、ポスター募集だけにしておく」
謎は謎のまま、今日も営業が始まった。
*
予想通り、ランチタイムは戦場だった。
コンサート前に腹ごしらえをしようという人たちが次々と来て、テーブルもカウンターも満席になった。
モト子が動き回り、花が厨房で動き続けた。
十四時を過ぎると、人の流れが一気にガイシホール方面へ向かい始めた。
十四時二十分には、店内の全席が空になった。
モト子がCLOSEのプレートを持って引き戸へ向かった。
その瞬間、引き戸が内側に開いた。
*
入ってきた女性は、独特なオーラを纏っていた。
漆黒のオーバーサイズパーカーのフードを軽く被り、その下から鮮やかなオレンジ色のターバンが覗いている。
首元には、分厚いグレイのストールが要塞のようにぐるぐると巻き付けられていた。
大きな黒縁の眼鏡の奥で、少し疲れたような、でも満足げな瞳が細められている。
彼女が動くたびに、マヌカハニーとハーブの混ざったような、プロ特有の香りがふわりと漂った。
モト子が「なんだか重装備な人が来たわね」と思う間もなく、女性はストールを少しだけ緩めて、掠れた、しかし芯のある低い声で言った。
「……こんにちは。お腹、空いちゃった」
その一言だけで、厨房の花が包丁を止めた。
その声の響きが、狭い店内の壁に反射して、不思議なほど心地よく耳に残ったからだ。
「まだ、いいかしら」
「もちろん、どうぞ。ただ、ラストオーダーは終わってますので、本日のAランチは品切れです。Bランチしかないですが、よろしいですか?」
「おまかせするわ。でも、ラストオーダーを過ぎてるのに、本当にいいの?」
モト子は笑顔で答えた。
「はい! もちろん迷惑ですよ?」
女性が少し目を丸くした。
モト子が続けた。
「というわけで昼営業は終わってますので、お客さんの貸切です。私らも勤務外なので、私らのことは気を使わずにごゆっくりどうぞ」
女性が、ニッコリと笑った。
「ありがとう」
*
花が厨房でBランチを仕上げた。
大判の鶏もも肉をHoneys8のアカシア蜜で下処理して、衣をつけて揚げる。
南蛮酢にも蜂蜜を加えて、揚げたての肉をジュワッと潜らせる。
タルタルソースには粗みじん切りのゆで卵と玉ねぎとピクルスにマヨネーズ、隠し味にアカシア蜜を一回し。
丼から溢れんばかりに積み上げた鶏肉の上から、黄金のタルタルがナイアガラの滝のように落ちていく。
横には、Honeys8のアカシア生蜜とレモンのドリンクを添えた。
カップを両手で包んで飲めるよう、少し大きめのマグカップで出す。
女性がカウンターに座った。
チキン南蛮を一口頬張った瞬間、彼女の目が見開いた。
それから、黙って食べ続けた。
二切れ、三切れ、額にうっすらと汗が浮かぶ頃には、器があっという間に半分以上空になっていた。
ドリンクを一口飲んだ瞬間、小さな溜め息が漏れた。
モト子はレジの前で伝票を整理しながら、横目でその様子を見ていた。
あんなふうに食べてくれる人を、久しぶりに見た気がした。
お腹が空いていた、というだけじゃない食べ方だ。
何かを補給している食べ方だ。
自分に必要なものを、体が知っていて、それがちゃんとここにあった、という食べ方だ。
*
食事が終わると、花がデザートを出した。
市販のパイシートを薄く伸ばしてキャラメリゼしたクリスピーパイ、一晩かけて水切りした濃厚なヨーグルトにアカシア蜜を混ぜたクリーム、三月の苺とキウイ。
それを三層に重ねて、仕上げに客の目の前でHoneys8のアカシア蜜を細い糸のように上から回しかける。
とろりと落ちる黄金色を、女性は静かに見つめた。
スプーンを差し込むと、パイがサクッと小気味よい音を立てた。
一口食べて、目を閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。
それから喉の奥から、無意識にハミングが漏れた。
あまりにも自然な、夜明けの光のような旋律だった。
モト子が伝票から顔を上げた。
*
女性が最後の一口を飲み込んで、立ち上がった。
サングラスをかけ直して、モト子と花に太陽のような笑顔を向けた。
「ごちそうさま。最高に力が湧いてきたわ。……次は、売り切れてたAランチも凄く食べたくなったわ」
一千円札を差し出した。
「はい、一千円ちょうどお預かりします。ありがとうございます! ウチは夜も営業してますので、また来てくださいね!」
女性はニッコリと笑って、満足した顔で引き戸を出ていった。
西之門の路地が、静かに戻ってきた。
モト子がレジを閉めながら、花に言った。
「……ねえ花ちん。あのお客さん、凄くない?」
「わかります。なんか……ただの疲れたお客さんじゃなかったですよね」
「声よ、声。あの人、あのハミング……普通じゃなかった」
花が少し考えてから、頷いた。
「確かに。なんか、壁に反射した感じがしましたよね。こんな狭い店なのに、広く聞こえたっていうか」
二人はしばらく、引き戸の方を見ていた。
ガイシホールの開演時間まで、もう少しだった。
*
夜営業が始まると、十九時三十分頃から一気に客が増えた。
コンサート帰りの人たちだ。
笠寺駅のホームはコンサートが跳ねるたびに麻痺するほど混雑する。
その人波がそのままアハロに流れ込んできた。
財布の紐が緩んでいて、顔が上気していて、まだ音楽の余韻の中にいる人たちだ。
モト子と花は無言で動いた。
昼のランチラッシュで体はすでに一度消耗している。
それでも手は動き、足は動き、アハロの夜は続いた。
二十一時三十分を過ぎた頃から、コンサート帰りの波が引いていった。
入れ替わるように、顔見知りの常連たちが戻ってくる。
いつもの夜の店内に、少しずつ変わっていった。
モト子がラストオーダーの札を裏返そうとした。
引き戸が開いた。
*
昼間の女性だった。
首元のストールも、オレンジのターバンも、昼間と同じだ。
ただ、少しだけ目が柔らかくなっていた。
「まだ、いいかしら?」
モト子は昼間の会話を思い出した。
Aランチが食べたいと言っていた。
今日のAランチは、黒酢豚だ。
「花ちん、こちらのお客さんのために今日のAランチ、黒酢豚、作れる?」
「大丈夫ですよ! 少しお時間いただきますけど、いいですか?」
女性がカウンターに座りながら言った。
「ラストオーダーを過ぎてるのに、悪いかしら?」
「はい! すごく迷惑ですよ?」
モト子がニヤリと笑って、眼鏡の奥の目を光らせた。
「でも、もう勤務外ですからね。私たちも気楽に接客しちゃいます。だから、お客さんも私たちのことは気にしないで。ゆっくりしていってください」
昼間と同じやり取りだった。
女性も昼間と同じように、くすりと笑った。
*
厨房から、ジュージューと黒酢豚を作る音が響き始めた。
花の鼻歌が漏れ聞こえてきた。
「もしも翼が〜♪ 僕らにあれば〜♪」
モト子が精算の準備をしながら、微笑んだ。
花が料理しながら鼻歌を歌うのは、機嫌が良い証拠だ。
カウンターで待っていた女性が、カップのお茶を両手で包みながら、静かに目を閉じた。
次の瞬間、自然に、吸い込まれるように声が重なった。
「旅をして〜 世界は一つと気づくだろう〜♪」
店内の空気が変わった。
ただの鼻歌のはずなのに、音が重なった瞬間、アハロ全体が巨大な楽器になったかのように共鳴し始めた。
天井の低い木造の建物が、その音を四方から受け止めて、増幅させて、温かく返してくる。
モト子が手を止めた。
鳥肌が立った。
歌が上手い、という次元ではなかった。
魂が震える音、としか言いようのない何かが、この狭い路地裏の店に満ちていた。
モト子は自分の腕を見た。
鳥肌が、じわじわと肩まで上がってきていた。
厨房から花が顔を出した。
お玉を持ったまま、固まった。
自分の鼻歌にハモってくれた女性を見て、何も言えなくなった。
(まさか……ご本人……?)
カウンターの女性が、二人の顔を見て、くすりと笑った。
「私も勤務外なの。お二人さんも、気にしないでね!」
そう言って、また鼻歌を続けた。
モト子は精算の手を動かした。
花は厨房に戻って、フライパンを握り直した。
でも二人とも、その鼻歌を聴いていた。
西之門の路地は静かな夜だった。
でもアハロの中だけは、笠寺の冬が終わって春になろうとしているような、そんな温かい音に満ちていた。
厨房でフライパンが鳴る。
カウンターで鼻歌が続く。
レジで伝票がめくられる。
みんな違う場所から来て、みんな違う理由でここにいる。
でも今この瞬間、この屋根の下では、全部がひとつだった。
笠寺の夜が、静かに更けていった。




