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k-03 指揮者(コンダクター)

 二月十四日の朝。


 西之門の路地に面した引き戸のガラスに、一枚のポスターが貼られていた。


 手書きで、こう書いてある。


『2月14日 バレンタインデー

 男子ココア無料 (16:30〜START)』


 モト子が昨夜、閉店後に一時間かけて仕上げたものだ。


「今夜は男性客にはココア無料よ。花ちん、ココアって少しめんどくさいけど頑張ってね!」


「はい! でも、私はココア作るの嫌いじゃないですよ。焦げないようにペーストを捏ねてる時って、なんか集中できるんです」


「さすが、私が見込んだだけはあるね! 最高のパートナーだわ! もしもこの店に花ちんが来てくれなかったらと考えると、ゾッとするわね……」


 モト子は朝のうちにメニュー表一枚一枚に、こう書いたチラシを挟んでいった。


『本日限り バレンタインデーにつき、男子はココア無料です』


   *


 俺の名前は健太。二十歳のフリーターだ。


 アハロに通い始めたのは開業してすぐの頃で、最初はただ安くて近かったからだ。

 でも、気づけば週に何度も顔を出すようになっていた。


 理由が厨房の中にいることは、自分でもわかっていた。

 花ちゃん、という名のコックさんがいる。

 静かな目をしていて、包丁を持つ姿が妙に様になっていて、たまに厨房から出てきて料理の説明をする時の声が、なんというか、聴いていたくなる。


 ただそれだけの理由で、俺はここに通っていた。


   *


 バレンタインの夜。


 カウンターの端の定位置に座って、俺はあえてブラックコーヒーを注文した。

 無料のココアには手を出さない。

 それが俺なりのこだわりだ。


「……すげぇな、今日」


 思わず声が出た。


 店内は、むさ苦しい男どもで溢れかえっている。

 テーブルもカウンターも全部埋まって、立って待っている客まで出始めていた。

 厨房からは、花ちゃんがカカオペーストを練る「カチャカチャ」という音が絶え間なく聞こえてくる。

 花ちゃんは一度も厨房から出てこない。


 客の目当ては、あの中にいる人のはずだ。

 なのに今、この店を回しているのは、目の前の「鉄の女」だった。


「はい、お待たせ。ココア三つ、お熱いうちにどうぞ。……そこの君、通路に足を投げ出さない。他のお客様の邪魔よ」


 モト子さんの声が、店内を切り裂くように通った。


 彼女は一人で、ホール、レジ、ドリンクのドリップまで全部こなしている。

 しかもそれだけじゃない。


 入り口に大きなバックパックを背負ったライダーが現れると、彼女は一瞬で「宿泊客」だと判断して、伝票を書く手を止めずに声をかけた。


「宿泊ね? 二階のC-1。階段上がってすぐ左よ。荷物置いたらすぐ降りてきて。……花! ココア十杯追加、回せるわね!?」


「は、はいっ! 頑張りますぅ!」


 厨房からの悲鳴に近い返事を聞き届けると、モト子さんは風のように宿泊客を二階へ案内しに上がっていった。


   *


 その隙を見計らったように、レジの前に会計待ちの行列ができた。


 厨房からおろおろと花ちゃんが出てきて、不慣れな手つきで古い手打ちレジに向かった。


「ええと……八百円と、ココアは無料で……(ポチ……ポチ……)」


 花ちゃんの指が迷うたびに、レジからは頼りない音が漏れる。

 行列の野郎どもは鼻の下を伸ばしているが、俺は知っている。

 このままじゃ店がパンクする。


 その時だった。


「どきなさい、花。火を止めちゃダメでしょ」


 階段から舞い戻ってきたモト子さんが、花ちゃんの肩を優しく、かつ力強く押しのけた。


 そこからの光景は、もはや芸術だった。


 ガガガガッ! チンッ!!


 重厚な鉄の塊が、悲鳴のような、しかし小気味よいリズムを刻み始めた。

 モト子さんの指は、キーボードを叩くピアニストのそれだ。

 手書きの伝票を一瞬で読み取り、お釣りを用意して、同時に「次の方!」と声をかける。


 ガガガッ! チンッ! ガガガガガッ!!


 その音は、行進曲のドラムみたいだった。

 モト子さんがレジの前に立つだけで、淀んでいた空気の回転が速くなる。

 会計を終えた客が吸い出されるように店を出て、空いた席に新しい客が滑り込む。


 彼女は、ただテキパキしているんじゃない。

 客の視線、厨房の進捗、宿泊客の動線。

 そのすべてを、あの古いレジのキーを叩く指先でコントロールしていた。


 俺は、自分の手元にある「バイトを辞めようか悩んでいた理由」が、急にちっぽけに思えてきた。

 人間関係が面倒だの、仕事が細かいだの。

 目の前で、ペン一本と古いレジ一台で、このカオスを支配している人に比べたら、俺の悩みなんてただの甘えだ。


「……モト子さん、コーヒーおかわり」


 俺がカップを差し出すと、モト子さんは一瞬だけメガネの奥の瞳を俺に向けた。


「いいわよ。でも健太くん、今日は長居は無用よ。外にまだ待ってる子たちがいるんだから」


 冷たい言葉だ。

 でも、その合理的な判断が、今はたまらなく格好良く見えた。


「わかってますよ。これ飲んだらすぐ出ます。……俺、明日からちゃんとシフト入りますわ」


 俺の小さな宣言に、モト子さんは「当たり前でしょ」と鼻で笑いながら、また鮮やかな手つきでドリッパーをセットした。


   *


 最後の一人が店を出た。


 モト子がOPENの看板を裏返して、引き戸の鍵を閉めた。


 店内には、カカオの甘い名残りと、花の疲れ切った溜め息だけが漂っていた。


「……はぁ〜〜〜……!! モト子さん、本当にお疲れ様でした。今夜は今までで一番忙しかったんじゃないですか? 私、もう腕がパンパンです……」


 花はカウンターに突っ伏して、マシュマロのようにふにゃふにゃになっていた。

 厨房で数百杯のペーストを練り続けた今夜の奮闘は、まさに戦いだった。


 しかしモト子はといえば。

 乱れた髪ひとつなく、いつもの冷徹なまでに正確な手つきで、最後のレジ締めをこなしていた。


「ん? ……そう? 別にいつも通りでしょ」


 モト子は顔も上げずに答えた。

 札束を指先で弾き、伝票の山を整理するその姿には、疲労の「ひ」の字も見当たらない。

 彼女にとって、あの怒涛の数時間は「支配」の範疇に過ぎなかったのだ。


「ええっ! あんなにレジに行列ができて、宿泊のお客さんまで重なったのに……。モト子さん、やっぱり超人ですよ」


「超人じゃなくて、合理的と言って。無駄な動きを削れば、時間は余るものよ」


 ガチャン、とお金の詰まったドロアーが閉まった。


 モト子は眼鏡をクイと押し上げて、ようやく花の方を向いた。

 その瞳には、もうすでに「今日」の数字は残っていない。


「それより花、今日の無料ココア、全部で何杯出したかわかってる?」


「え、ええと……たしか二十杯くらい……?」


「二十六杯よ。原価計算は済ませてあるわ。……言っておくけど、私はボランティアでこの店をやってるわけじゃないの」


 モト子の口角が、わずかに、そして不敵に上がった。


「いい? 今日の無料分は、一ヶ月後のホワイトデーで一気に回収するわよ。逃がした魚には、それ相応の利息をつけて帰ってきてもらうんだから」


「り、利息……?」


「そう。ホワイトデー限定メニュー。今日ここでココアを飲んだ男たちが、お返しを口実にお金を落とさずにはいられないような、とびきり罪深いスイーツを考えなさい。期待してるわよ、花」


 モト子はそう言い残すと、売上金の入ったバッグを抱えて、颯爽と奥の部屋へと消えていった。


 残された花は、カウンターで一人、ぽかんと口を開けていた。


「……モト子さん。忙しさに気づいていないんじゃなくて、もう来月の財布の中身を見てたんだ……」


 窓の外では、笠寺の冷たい夜風が吹いている。

 柿の木の枯れ枝が、夜空に向かって伸びていた。


 アハロのレジの中だけは、次の勝利を確信した熱が、まだ微かに残っていた。



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