k-10 カッパのレモン・ハート
日曜日の昼下がり。
ランチタイムを終えたアハロに、いつもの中休みの静けさが戻ってきた。
賄いのテーブルを囲みながら、おもむろにモト子がロッカーから紙袋を取り出して、カッパの前に置いた。
「カッパ、これ入学祝い」
カッパは固まった。
職場の人から入学式の祝いをもらえるなんて、考えたこともなかった。
「え? 良いんですか?」
紙袋を開けると、箱が入っていた。
箱を開けると、タブレットとキーボードが一体になった、見慣れないPCが姿を現した。
「こ、これ! パソコンじゃないですか!」
「うん。高校生にもなればPC位は欲しいでしょ? うちのオーナーと私からよ」
オーナー、という言葉を初めて聞いた。
カッパが不思議そうな顔をすると、モト子が続けた。
「カッパはまだ会ったことないんだけど、ここはVタックさんという人が資金を出してくれたのよ。Vタックさんが一応ここのオーナーなの。そのうち顔を合わせると思うから、その時に改めて紹介するわね」
「店長がここの社長じゃないんですか?」
「代表取締役は私だけど、オーナーは別にいるのよ。まだよくわからないよね? オーナーは店のことは口出ししないから、カッパは気にしなくて大丈夫。ただの暇なおじいちゃんだと思って接すれば良いわ」
カッパはそのタブレットPCを改めて見た。
ASUS ROG Flow Z13。
キーボードが着脱式で、タブレットとしても使える。
画面に触れると指紋が残るほどの精細なディスプレイが、光を受けて静かに輝いていた。
新品で買えば二十万円は下らないものだと、後で調べて初めて知ることになる。
モト子と、会ったこともないVタックというオーナーが、自分のために。
「……ありがとうございます」
カッパの声が、少しかすれた。
*
次に、花がずっしりと重い袋をカッパの前にドサッと置いた。
「カッパちゃん、これは私からの入学祝い。私のバイブル」
袋の中をのぞくと、漫画が入っていた。
単行本のタイトルには『レモン・ハート』と書かれていた。
「これは? 漫画ですか?」
「うん! レモン・ハート! 私、漫画が大好きなんだ! これ凄く面白いよ」
モト子が呆れた顔で花を見た。
「花……カッパはまだ未成年よ? レモン・ハートってお酒の漫画だよね?」
「は? お酒の漫画……」
「うん、お酒の漫画なんだけど、飲食店で働く人に必要なことが全部詰まってるから!」
カッパは単行本を一冊手に取って、パラパラとめくってみた。
絵のタッチが古い。
出てくるのは琥珀色のグラスと、蝶ネクタイのマスターと、難解なカタカナの酒の名前ばかりだ。
あまり好きになれそうにないな、と思いながらも、ありがたく受け取った。
*
賄いを食べ終えると、カッパはいつものように一度家に帰ることにした。
入学祝いのことを母親に報告しようと思っていたが、帰宅すると家には誰もいなかった。
この時間にいないということは、心当たりがあった。
カッパは自転車に乗って、走り出した。
*
名鉄の踏切が、遠くで物悲しく鳴っている。
JR笠寺駅周辺のロータリーからわずか数百メートル。
そこには、戦後の残り香が染み付いたような、低く、暗い路地が広がっていた。
「笠寺横丁」と書かれた錆びたアーチをくぐった突き当たりに、その店はある。
『スタンド キューカンバー』。
かつては「カラオケスナック 演歌」という名だった居抜き物件だ。
外壁は長年の排気ガスと湿気で煤け、コンクリートのひび割れに蔦が絡みついている。
しかし、入り口の脇だけが妙に新しく、浮いていた。
真新しい電飾看板。
貧困にあえぐ母娘を見かねた大家さんが、契約のお祝いに無料で新調してくれたものだ。
白地に映える、少し安っぽいフォントの店名。
その隅には、真っ赤なキリンビールの聖獣ロゴが誇らしげにプリントされていた。
カッパが店の扉を開けた。
「お母さん、看板……電気ついてるよ」
慣れた手つきでスイッチを切ると、ジジ……と不機嫌な音を立てて看板が消えた。
扉は重い木製で、防音のために分厚いクッション材が貼られている。
その隙間から、母親が準備する食器の音と、少しだけカビ臭い、それでいてどこか安心する「夜の匂い」が漏れていた。
周囲の店は、もう半分以上がシャッターを下ろしたままだ。
コロナ以降、客足はサッパリ戻ってこない。
人の流れもまばらな、忘れ去られたような路地裏。
それでも、この『キューカンバー』の白い看板だけが、カッパと母親にとって、消えそうで消えない小さな灯台のように見えた。
「お母さん、アハロの人から入学祝いでパソコンを貰っちゃた。あと漫画も」
「へぇ〜。随分、気前が良いのね」
「うん。なんか、あの店は店長だけじゃなくてオーナーっていう人もいて、そのオーナーと店長が買ってくれたんだってさ」
「あら、そうなの? そのオーナーさんは店長さんのお父さんなのかしらね?」
「そうかも……おじいさんだって言ってたから……」
母親が嬉しそうに笑った。
カッパはその横顔を見ながら思った。
父親からの養育費は、いつも遅れてくる。
来ない月もある。
母親は何も言わないが、カッパにはわかっていた。
だからこそ、バイトを始めたかった。
アハロで働いて給料をもらえる。
毎回、バイトの度に花が賄いを作ってくれている。
それだけで、かなりの助けになる。
(花さんには、ちゃんと恩返ししなきゃ)
そう思いながら、カッパは夜営業に向けて店を後にした。
*
夜営業が始まると、クレアおばさんからも入学祝いが渡された。
「カッパちゃん、これ。ハーゲンダッツの商品券よ」
クレアおばさんが、にっこり笑って手渡してくれた。
高校なんて行きたくなかったはずだった。
でも今は、進学して良かったと思っていた。
こんなふうに祝ってもらえるとは、思っていなかった。
*
その夜も滞りなく仕事を終えて、二十一時十五分になった。
厨房で賄いを食べながら、花が調理を続けている。
「カッパちゃん、明日から学校だよね? 何時頃に家を出るの? 通学に一時間かかるから、十五時の電車に乗るのかな?」
「はい、明日は初日なので十四時三十分には家を出ようかと思ってますよ」
「それなら、駅に行く前にアハロに顔を出してよ。サンドイッチ作っておくからね。明日からは毎日、学校に行く前に店に顔を出してね。毎日お弁当作るから」
カッパは箸を持ったまま、動けなくなった。
毎日。
お弁当。
特売の安いパンや、冷えたおにぎりで朝を済ませてきた日々を思った。
母親が仕事で疲れていると、朝ごはんがない日もあった。
涙が出そうになるのを、唇を噛んで堪えた。
「……ありがとう……。花さんのお弁当、凄く楽しみです」
精一杯の声で、言った。
花が振り返らずに答えた。
「うん。楽しみにしてて」
鍋の中身を混ぜながら、そう言った。
それだけだった。
それだけで、十分すぎた。
*
家に帰ると、母親はまだスナックで働いてるのか留守だった。
カッパは部屋に入って、花から貰った袋を開けた。
古本独特の甘い紙の匂い。
「レモン・ハート」の一巻を手に取って、ベッドに寝転んだ。
「……なに、この絵。……ちょっと古臭いかも」
パラパラとページをめくる。
出てくるのは琥珀色のグラスと、蝶ネクタイのマスターと、難解なカタカナの酒の名前ばかりだ。
お酒は、カッパにとって「お母さんの服から漂う、少し寂しい匂い」でしかなかった。
でも、三巻を読み終える頃には、ページを捲る指が止まらなくなっていた。
(……このマスター、すごい)
カッパが釘付けになったのは、酒の銘柄ではなかった。
失意のどん底にいる男に、何も言わず最高の一杯を差し出す。
傲慢な客の鼻を明かすのではなく、その無知を優しく包み込むように教えを説く。
マスターの言葉一つひとつが、まるでモト子の「一打入魂」という言葉のように、胸に突き刺さった。
「接客って……ただ注文を聞いて運ぶだけじゃないんだ」
お酒が飲めないからこそ、カッパの視点は純粋だった。
お酒は、客とマスターが対話するための「道具」に過ぎない。
大事なのは、その道具を使って、いかにお客さんの人生を少しだけ明るくして帰すか。
この物語の真髄が、そこにあることに気づいた。
「……あ、これ。昨日のレジの時のお客さんの顔に似てる」
読み進めるうちに、漫画のキャラクターが、アハロに来る常連客と重なり始めた。
あのおじいちゃんは、きっとこの孤独を抱えているのかもしれない。
あのお姉さんは、誰かに自分の頑張りを認めてほしいのかもしれない。
最初は苦手だった絵のタッチが、次第に「信頼できる職人の手つき」のように見えてきた。
一冊、また一冊と読み終えるたびに、カッパの中で「飲食店」という場所が変わっていった。
単なる労働の場から、誰かの人生が交差する場所へ。
深夜。
スナックの仕事から帰ってきた母親が、居間で漫画の山に埋もれて目を輝かせている娘を見て驚いた。
「どうしたの、そんなに熱心に」
「お母さん。私、アハロでもっと頑張りたい。……いつか、このマスターみたいに、お客さんの今の気持ちがわかるようになりたいんだ」
母親が、娘の顔をじっと見た。
この子が、こんなふうに目を輝かせているのを、いつ以来見ただろう。
そっと、頭を撫でた。
何も言わなかった。
でも、それで全部だった。
*
翌朝。
カッパは予定より十分早く家を出た。
カジュリーリラックスのハンドルを握る手に、昨日よりも少しだけ違う感触があった。
アハロへ向かう。
花がサンドイッチを作って待っている。
春の朝の笠寺を、オートライトが白く照らしながら、カッパは走り出した。




