k-09 カッパの初出勤
土曜日の朝。
更衣室の鏡の中に立っていたのは、自分であって自分でないような、どこかの国の物語から迷い込んできた「家政婦」だった。
足首まで隠す漆黒のロングドレス。
動くたびにずっしりとした生地の重みが伝わってくる。
その上に重ねたエプロンは、驚くほど真っ白で、妥協のないアイロンがけによってピンと張り詰めていた。
首元までボタンを留めた黒いブラウスが、十六歳の華奢な喉元をきゅっと引き締めている。
「……似合ってるじゃない。カッパちゃん」
モト子に背中を押され、カッパはおずおずとホールへ踏み出した。
ボブカットの髪が、カチューシャ型のヘッドドレスの下で丸く内側にカールしている。
「あ、あの……お待たせいたしました……っ」
トレイを持つ指先が、緊張で小さく震える。
コーヒーカップを運ぶその仕草は、まだぎこちない。
でも、背筋をピンと伸ばして歩くその姿には、十六歳の少女特有の純粋さと、クラシックメイド服の気品が奇跡的なバランスで同居していた。
派手な飾りはない。露出もない。
白い襟元から覗く、赤らんだ頬。
伏せられた長い睫毛。
一生懸命に「本物」を演じようとする、背伸びした少女の愛らしさ。
客席で新聞を読んでいた常連客が、思わず手を止めた。
*
ランチタイムが始まった。
しかし、モト子が優秀すぎた。
ホールの流れを完全に掌握しているモト子の動きに、カッパは追いつけない。
気がつけば、自分の出番がないまま時間だけが過ぎていく。
(私って、必要なの?)
手持ち無沙汰になったカッパは、厨房へ向かった。
花が一人で動いている。
せめて洗い物だけでも、と流しの前に立った。
「カッパちゃん、ありがとう」
花が短く言ってくれた。
その一言だけが、ランチタイム中の救いだった。
*
中休みになった。
事務所の硬いパイプ椅子に座ったカッパの前に、白い陶器の皿が置かれた。
そこに乗っていたのは、断面が眩しいほど鮮やかなフルーツサンドだった。
使い切れなかった苺、少し熟れすぎたキウイ、昨夜のデザートの残りというオレンジ。
それらが、真っ白なホイップクリームと、濃厚な山吹色のカスタードクリームの二層に抱かれて、しっとりと白いパンに挟まれている。
「……いただきます」
カッパは細い指先で、壊れ物を扱うような手つきでそれを持ち上げた。
一口、かじった。
「…………っ」
言葉が出なかった。
まず驚いたのは、パンだった。
ホームベーカリーで焼かれたというそのパンは、指の跡がつくほどにしっとりしていて、噛む必要がないほど口の中で溶けていく。
パンそのものが、まるで優しい毛布のようにクリームを包み込んでいた。
続いて、果実が弾けた。
残り物だなんて、信じられない。
クリームと和えられたことで、熟した果実の甘みが最高潮に引き出されている。
瑞々しい果汁が、ホイップの軽やかさとカスタードのコクと混ざり合って、カッパの口内を贅沢に満たしていった。
「……ふえ、っ……」
カッパの目から、不意に大きな涙がこぼれた。
皿の上に、一粒落ちた。
美味しい。
ただ、美味しいだけじゃない。
(……私、こんなに、大切にされてる……?)
今まで食べてきた食事を思い出した。
特売の安いパン。
冷えたおにぎり。
お腹を満たすためだけの、味気ない日々。
でも、目の前のこれは違う。
花の腕前で、「余り物」が「宝石」に変わっている。
クラスの隅で「余り物」のように扱われてきた自分が、この場所なら価値のあるものに変われるかもしれない。
そんな無言のメッセージのように、感じられた。
「……おいひ……です……。こんなの、初めて……」
カッパは涙を手の甲で拭うこともせず、夢中で頬張った。
頬をクリームで白く汚しながら、必死に、その甘さを心に刻み込む。
花が優しく笑って、カッパの頭を撫でた。
「よかった。カッパちゃん、おかわりもあるからね」
「……はい、っ! はいっ……!」
カッパの返事は、今日一番、力強かった。
*
「カッパ、中休み中は一度家に帰っても良いんだよ。夜営業までに戻ってきてくれれば良いから。ちゃんと休憩中も時給は発生してるから安心してね」
モト子に言われて、カッパは帰り支度を始めた。
更衣室で自分のリュックサックを背負い、外へ出ようとすると、厨房から花が紙袋を持って追いかけてきた。
「これ持って行って。お母さんの分だよ。パンも果物も使い切りたいのよ」
紙袋を開けると、さっき自分が食べたばかりのフルーツサンドと、食パン一斤が入っていた。
「これ、貰っても良いんですか?」
「気にしないで」
モト子が笑った。
「ウチはこうやって旅人にも在庫を渡してるのよ」
カッパは少し戸惑ったが、丁寧に頭を下げた。
自転車のカゴに紙袋を入れて、路地を走り出した。
*
家に着いた。
母親が台所にいた。
「お母さん、これ食べてみてよ」
紙袋を手渡すと、母親は中を覗いて目を丸くした。
カッパに促されて、フルーツサンドを一口食べた。
「美味しい……。どうしたの、これ」
「今日の賄いだってさ。凄く美味しいよね」
カッパは久しぶりに、笑顔で母親と話していた。
母親も笑顔で答えた。
「良い職場で良かったね」
カッパは自分が着ているクラッシックタイプのメイド服を母親に見せて、スカートの裾を摘む仕草をしてみせた。
「うん、良い職場! でも、こんなに長いスカートは生まれて初めて!」
二人が、腹を抱えて笑い合った。
久しぶりの笑い声だった。
この家に、こんな声が響いたのは、いつ以来だろう。
カッパは笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
気づかれないように、顔を背けた。
*
夜営業が始まった。
ランチタイムとは違い、夜はカッパに様々な仕事が割り振られた。
クレアおばさんにチェックイン作業を教えてもらった。
モト子からはレジの操作を教えてもらった。
不器用で、友達が一人もいないカッパにとって、少しずつ出来ることが増えていくのが、たまらなく嬉しかった。
*
ディナータイムがピークを迎えようとした頃、カッパはレジカウンターの前に立たされた。
目の前にあるのは、液晶画面など一つもない、無骨なテンキーと紙ロールが剥き出しになった古いキャッシュレジスターだ。
「いい、カッパちゃん。このレジは嘘をつかないわ。あなたが叩いた数字がそのまま紙に刻まれる。一度間違えたら、ロールを巻き戻して赤ペンで修正しなきゃいけない。……一打入魂よ」
モト子の静かな、けれど逃げ場のないプレッシャーに、カッパの喉が鳴った。
そこへ、三人組の男性客が伝票を差し出した。
「あ、会計別々でお願いします」
「…………っ!」
カッパの脳内で、小さなパニックの火の手が上がった。
個別会計。それは、アナログレジにおいて計算ミスと打ち間違いのリスクが三倍になることを意味する。
「……は、はい。お一人目の方、失礼します……」
震える指をテンキーにかけた。
ボブカットの横顔から、一筋の汗が流れて白いエプロンの襟元に吸い込まれた。
『ガチャン! ジー……ッ、ガチャン!』
重い打鍵音が店内に響いた。
一人目。日替わりディナーA、千二百五十円。
二重打ちにならないよう、慎重に、かつ正確に。
二人目。コーヒーとアップルパイ、千百円。
レジロールが「ジジッ」と音を立てて回るたび、カッパの心臓も跳ねた。
三人目。ここでカッパの指が、隣のキーに触れそうになった。
「落ち着いて。指を浮かせて、真上から叩くの」
背後からモト子の涼やかな声が届いた。
カッパは深く息を吐いた。
視界をクリアにした。
三人分、合計三回の会計。
小銭の受け渡し。
ジャーナルに刻まれた数字と、トレイの上の現金を何度も照らし合わせた。
「……あ、ありがとうございました……っ!」
最後のお客さんが扉を出て行った瞬間、カッパはその場に崩れ落ちそうになった。
ジャーナルを確認した。
赤ペンのチェックが、一つもない。
綺麗な数字の列が、静かに並んでいた。
「……完璧ね。お疲れ様、カッパちゃん」
モト子が、その細い肩をそっと叩いた。
十六歳の少女の顔に、今日初めて、安堵と達成感が混ざり合った本物の笑顔が浮かんだ。
クラシックメイド服の重みが、今は少しだけ誇らしく感じられた。
*
二十一時十五分。
「カッパ、もうそろそろ上がって良いわよ」
モト子の声がかかった。
法律で、未成年は深夜に働けない。
ようやくレジ操作に慣れてきたのに、もう終わりか、とカッパは少しがっかりしながら更衣室へ向かった。
その背中に、厨房から花の声が追いかけてきた。
「着替えたら厨房においで! 賄い食べてきなよ!」
カッパは止まった。
(夜も賄いが食べられるんだ)
むしろ早めに上がれることが、嬉しくなった。
カッパは勢いよく普段着のジャージに着替えて、厨房へ駆け込んだ。
*
花が本日の日替わりディナーBを仕上げていた。
ホールで何度も運んだメニューだ。
給仕をしながらずっと食べてみたかった。
花が調理を終えると、照り焼きチキンプレートをカッパの前に並べた。
芳醇な醤油と砂糖の焦げる匂いが、厨房に満ちていた。
「カッパちゃん、お疲れ様。はい、今日の賄いよ」
カッパがナイフを入れた瞬間、静かな厨房に皮が弾ける快音が響いた。
驚くほど軽やかな食感のあと、閉じ込められていた熱々の肉汁が溢れ出して、甘辛いタレと溶け合って舌の上で踊った。
ライスはチキンの濃厚さを引き立てる、さっぱりとしたピラフ。
付け合わせのポテトサラダは、驚くほど滑らかで、ジャガイモの素朴な甘さが今夜のパニック寸前だった心を解きほぐしていった。
「……んんっ、おいひい……っ」
コンソメスープを一口啜った。
雑味のない黄金色の液体が、乾いた喉に染み渡った。
デザートのニューヨークチーズケーキは、どっしりと濃厚で、クリームチーズの酸味が今日の疲れを記憶ごと塗り替えていくようだった。
最後にネーブルオレンジの生搾りジュースを口にした。
フレッシュな酸味と弾けるような果実の香りが鼻を抜けた瞬間、カッパの瞳に明日への光が宿った。
(……明日も、またこれが食べられるんだ)
ボブカットの毛先を少し揺らしながら、カッパは空になった皿を見つめた。
明日は日曜日。
今日よりも忙しくなるかもしれない。
またあの気難しいレジと格闘するかもしれない。
でも、ここにはこの味がある。
自分を「カッパちゃん」と呼んで、こんなにも美味しい一皿を作ってくれる花がいる。
「花さん……ごちそうさまでした! 私、明日も……明日も全力で頑張ります!」
花が笑った。
「うん。待ってるよ」
*
路地に出ると、冬の終わりのような夜の空気が頬に当たった。
カジュリーリラックスのオートライトが白く点いて、石垣の道を照らしている。
カッパはペダルを踏み出した。
今日の全部が、頭の中を流れていった。
クラシックメイド服の重さ。
洗い物の泡の冷たさ。
レジのジャーナルに並んだ、間違いのない数字の列。
モト子の「完璧ね」という言葉。
フルーツサンドの甘さ。
それから、お母さんと二人で笑い合ったこと。
あんなふうに笑ったのは、本当に久しぶりだった。
笑い方を忘れていたわけじゃなかった。
ただ、笑える理由が、ずっとなかっただけだ。
ペダルを漕ぐ足に、少し力がこもった。
西之門の路地が、後ろへ流れていく。
笠寺観音の屋根が、夜空の向こうに見えた。
カッパはまだ、ここが自分の居場所だと確信できるほど大人じゃない。
でも、今夜だけは、そうかもしれないと思えた。
カジュリーリラックスのオートライトが、笠寺の夜道をまっすぐに照らし続けていた。




