第9話 雪山の真実
目を開けた。
雪の音。風の轟音。骨までしみこむような寒さが、彼の存在を侵食していた。
見上げた天井は白い病室のものではなく、ボロボロに破れたテントの内側だった。麻痺した両手で顔を触る。凍えた指先には感覚がほとんどない。ハードシェルジャケットの袖が手首まで下がり、手袋はどこかに失くしていた。全身を覆っていたはずの医療機器もない。だがその代わり、左足に鈍い痛みがあった。感覚の大部分は既に失われているのに、痛みだけが残る不思議。
「夢...…?」
ひび割れた唇から、かすれた声が漏れた。
「ど、どっちが...…夢...…」
思考が断片的に浮かんでは消える。頭の中は綿で満たされたようにぼんやりとしている。たった今、病院のベッドで黒い影と対決したはずだ。なのに、目を覚ましたのは破損したテントの中。
体が言うことを聞かない。指先、手足、顔面の感覚は鈍く、凍傷の灰色の痕が広がっている。目も霞んで焦点が定まらず、一つの物を見つめるのにも集中力が必要だった。かろうじて上半身を起こし、力尽きたように座り込む。それだけで呼吸は荒くなり、頭がふらつく。
テントの隅に人影があった。背を向けたまま、小さなポータブルストーブの上で何かをかき混ぜている。その動きはぎこちなく、弱々しい。手首の骨が異様に突き出ているのが見えた。口の中でブツブツと言葉を繰り返している声が聞こえるが、意味は理解できない。
「サ...…イ...…ト...…ウ...…さ...…ん」
言葉を発するのに異常な努力を要した。
返事はない。ただストーブの青白い炎の揺らめきだけが、彼の骨ばった存在を照らしている。
健太は少しずつ周囲を見渡した。意識が断続的に途切れる。小さな空間。破れたテントは何とか岩棚の上に固定され、隙間は雪で埋められていた。冷気は絶え間なく流れ込み、呼吸のたびに白い霧が漂う。隅には破損したザックが転がり、中身が半分出されている。空になった水筒、ビニール袋の残骸、かじられた革製の手袋、そして...…グラビア雑誌。
その雑誌の表紙は、水に濡れてしわくちゃになっていたが、それでも見覚えのある女性の姿が判別できた。桜の木の下でポーズを取っている長い黒髪で整った顔立ちの女性モデル。青いワンピースを着た彼女の姿は、脳裏に浮かぶ顔と完璧に重なる。
「ミ...…サ...…キ」
小さく呟いた。その名前を口にするだけで、胸が張り裂けそうだった。
意識が明滅する中で、全ての記憶が断片的に蘇った。週末の登山のはずだった。しかし予想外の猛吹雪に捕まり、一ノ倉沢で全員が滑落。山下と佐藤はそのまま奈落へと消えた。
夢の中の山下と佐藤は、見た目こそ似てはいたが、現実の二人とは全く違っていた。現実の二人は間違いなく死んでいることだろう。
健太と斉藤は途中の雪の棚に引っかかり九死に一生を得た。だが健太の足は岩に激突して複雑骨折。無線機も滑落時に破損し、機能しなくなっていた。
岩棚は意外に広く、平らだった。辛うじて破損したテントとザックの中の限られた装備だけで、二人は猛吹雪の中、岩棚の上で生き延びようとしていた。滑落後、二人でどうにかテントを設営して、救援を待つつもりだったが、深い谷の岩棚という場所柄、上空からの発見は絶望的だった。
ふと、斉藤の様子に目がいった。彼は調理に集中して身を屈め、ストーブの上の鍋に手を伸ばすために四つん這いのような体勢で作業していた。ダウンジャケットが不自然なほど体に沿わず、だぶだぶと余っている。細身の女性が男性用の服を着たような、ちぐはぐな印象。フードの隙間から覗く顔は、頬骨が鋭く突き出している。病院での怪異の記憶が蘇る。四つん這いで迫ってきた影。それは斉藤の姿だったのか。
斉藤の骨ばった手にはナイフ。刃に赤茶色の染みがついている。そして自分の左足に目をやると...…
膝から下はあるが、足首から先がない。粗雑な包帯で覆われた切断部位。乾いた血の茶色と、壊死組織の黒が混じり合っている。
目の前の光景と共に、残りの記憶も押し寄せてきた。限られた食料は計画的に使っていたが、救助の見込みがないまま二週間が経過。極度の低体温と飢餓状態が続き、健太の骨折した足は壊死の兆候を見せ始めていた。三週間目に入ったある日、極限状態での絶望的な判断。そして生存のための恐ろしい決断。
『生きるため...…選択...…』
自分が言ったのか斉藤が言ったのか、もはや区別がつかない言葉が脳内に響く。
「足は...…」
かすかに記憶が蘇る。
「私の足は...…」
脳が拒絶する恐ろしい真実。
健太の胸に激しい後悔と恐怖が押し寄せた。無謀な計画を立てた自分の傲慢さ。脳が断片的に機能するなか、家族の顔が浮かんでは消える。すまないという言葉が胸の奥で呟かれた。
飢えで幻覚が見え始めた時、雑誌のモデルが話しかけてきた。美咲は実在しなくとも、その幻想が自分を救ってくれた。絶望の淵で希望を与え、生きる力を維持させてくれた。ありがとうと心の中でつぶやいた。
テントの外で何かが動いた音がした。単なる風とは違う、何かの確かな気配。厚い雪を踏む音。動物か。それとも幻聴か。
ふいに、健太の胸にかすかな温かさが広がった。理屈ではなく、何かが自分を呼んでいるような感覚。
斉藤は振り返らない。ただ小さな皿に何かを盛りつけていた。その皿の中身は、健太の視点からは見えなかったが、想像するだけで胃が収縮した。
健太はもはや何も考えられなくなっていた。ただ本能だけが体を動かす。震える手足を使って、包帯が巻かれた左足を引きずりながら、テントの入り口に向かって這い始めた。
その動きに気づいた斉藤は、作業の手を止めて振り返った。彼の目が初めて健太と合う。異様に大きく見開かれたうつろな目。頬はくぼみ、皮膚は死人のように灰色がかっている。何も言葉を発しないが、その目には複雑な感情が宿っていた。恐怖と疲労。そして何か言い知れぬ悲しみ。
健太はテントの入り口のジッパーに手をかけた。凍えた指がうまく動かず、何度も滑る。外からの風の音が強まり、吹雪の冷気がテント内に流れ込む。
斉藤はただ見つめるだけだった。深く沈み込んだ目から、何か液体が流れ落ちる。涙なのか、それとも単なる融解した霜なのか。
健太は最後の力を振り絞り、テントのジッパーを引き下ろした。凍りつくような外気が一気に流れ込み、骨の髄まで達する。
そして、吹雪の中、わずかに見える光に向かって、手を伸ばした。
(完)




