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雪山の幻影【AI作品】  作者: マツリカイツカ


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第8話 包帯の下

 全身が脈打つような痛みで目覚めた。

 少しずつ意識が戻ってくる。まず感じたのは、体を覆い尽くす重い布の感触。包帯だろうか。顔も覆われ、わずかな隙間から視界が開いているだけだった。次に気づいたのは、体が鉛のように重く、意思とは無関係に固定されているという事実。手足はまるで石のように動かない。

 喉から弱々しい音が漏れた。

「あ、意識が戻りましたね」

 女性の声。視界の端に白い制服が見える。看護師だ。

「ここは......」

 かすれた声でなんとか言葉を絞り出した。

「集中治療室です」

「状態が急変して、緊急処置を行いました」

 彼女の声は専門的かつ冷静だった。

 緊急処置?なぜ?混乱する記憶の中で、階段からの転落が最後の記憶だった。だがそれは病院の階段だったのか、それとも雪山の斜面だったのか。両方の記憶が重なり合う。

「何が......起きたんですか?」

 看護師は一瞬躊躇した。その表情には、言いよどむような間があった。

「発作が起きて、全身に痙攣が生じました。転倒による外傷も加わり、包帯が必要になりました」

 発作?転倒?頭の中は霧に覆われたかのようで、説明が空虚な言葉のように響いた。

「なぜ動けないんですか?」

「怪我の悪化を防ぐためです」

 看護師は淡々と説明した。しかし目は健太の顔をじっと観察している。

「しばらくは安静にしていただく必要があります」

 部屋は異常に寒かった。呼吸のたびに白い霧が広がる。ICUにしては明らかに冷えすぎている。点滴の液体が不自然に粘り気を帯び、白く濁っていく。それは病院の点滴液ではなく、凍りつきそうになった水のように見えた。

 奇妙なことに、この極度の寒さが健太に安心感をもたらした。どこにいても、何が現実で何が夢なのか混乱していても、この冷気だけは一貫して健太を取り巻いていた。不可解な状況の中で、寒さの継続性だけが精神的なアンカーとなっていた。少なくとも、これは確かだと健太は思った。自分が狂気に陥っていることを自覚できたことが、逆説的に落ち着きを与えていた。麻酔の効果もあったのかもしれない。恐怖が薄まり、ただそこに存在することを受け入れられる静かな心境。

「美咲は...…?彼女に連絡してくれますか?」

 必死に尋ねた。

 看護師の表情に変化が走った。困惑、そしてそれ以上の何か、哀しみにも似た感情。

「美咲さん...…ですか?」

「恋人です。」

 答えた。

「彼女は...…私が倒れたことを知らないはずです」

「わかりました。確認してみます」

 看護師はそう言ったが、どこか曖昧な返事だった。言葉と表情が一致していない。


 看護師が部屋を出た後、天井を見つめた。白い天井に微細な模様が無数に広がっている。最初は単なるひび割れのようにも見えたが、よく見るとそれは何かの跡のようにも思えた。人の指先、あるいは爪が引っかいたような跡が、網目状に広がり、中央に向かって収束していく。

「なんだよ...…」

 掠れた声が漏れた。

 部屋の隅で影が動いた。天井の中央から何かが滴り落ちるように、闇の粒子が集まっていく。それは最初は小さな黒点だったが、徐々に形を成していった。人とも動物ともつかない輪郭が、部屋の暗がりで蠢き始めた。

 心臓が狂ったように鼓動した。瞳孔が恐怖で開き、呼吸が浅く速くなる。叫ぼうとしたが、恐怖で喉が締め付けられ、かすれた悲鳴しか出せなかった。

「お前...…」

 言葉を絞り出すのが精一杯だった。

 影は動きを止めた。それは音もなく、ただそこに存在するだけで部屋の空気を凍りつかせていた。

 脳裏に断片的な映像が走った。雪。暗闇。痛み。そして何かの取引のような記憶。思い出そうとすると、激しい頭痛が頭蓋骨を内側から割るように襲った。記憶の断片が波のように押し寄せ、そして引いていく。捉えられない。

 その黒い人型はゆっくりとベッドに向かって動き出した。床を引きずる音が不自然に響く。影が一歩近づくごとに、部屋の温度が更に下がっていくようだった。

 体を動かしたくても包帯のせいで微動だにできない。動けない。逃げられない。全身の毛穴から冷たい汗が噴き出し、心臓は胸を破るほどの勢いで打ち付けていた。口を開いて叫びたくても、声が出ない。ただ小さく喉が震えるだけ。

 影がさらに近づき、ベッドの端にまで到達した。意識が恐怖で白く明滅する。

「近づくな!くそっ、誰か来てくれ!」

 ついに絶叫が喉から絞り出された。

 そのとき、部屋のドアが開いた。別の看護師が入ってきた。影は瞬時に消え去ったが、部屋の温度は依然として異常に低いままだった。

「どうしました?」

 看護師が尋ねた。

「何か必要なものは?」

「あっ......そこに......何か......いた......」

 息を切らせながら言葉を紡ぐ。

「お願い......ここに......いてくれ......一人は......嫌だ......」

 健太の震える声と血走った目に、看護師は一瞬驚いたように見えた。だがすぐに専門家の表情に戻り、穏やかな声で応じた。

「大丈夫ですよ。ここにいます」

 彼女は健太の脈を測りながら言った。

「少し興奮していますね。楽にしてあげましょう」

 看護師は点滴のチューブを確認し、壁の医療機器のダイヤルを静かに調整した。

「これで楽になりますから」

 健太は何かを言おうとしたが、急速に意識が朦朧としてきた。モルヒネだろうか、それとも鎮静剤か。部屋の輪郭がぼやけ始める。

「美咲......彼女に......」

 言葉が途切れた。

「休んでください」

 看護師の声が遠のいていく。

「先生がもうすぐ来ますから」

 薬の効果が急速に広がっていく。最後の明晰さの瞬間に、健太は自分の状況を認識した。完全に動けない。身を守れない。そして何かが、この病室の中で追いつめている。影は去っていない。それは健太が意識を失う瞬間にも、部屋の隅で再び形を成し始めていた。

 美咲は来てくれるのだろうか。記憶の断片が閃光のように脳裏に浮かぶ。雪山。テント。斉藤さん。そして恐ろしい選択。

 意識が闇に沈みゆく中、最後に彼が見たのは、天井のひび割れが人の指のように動き、健太に向かって伸びてくる光景だった。


 ICUの薄暗い照明の中、健太は鎮静剤の効果が切れて再び目を覚ました。ハッとして、例の影を目で探すが見当たらない。安堵のため息が漏れる。包帯に覆われた全身が痛み、部屋の異常な冷え込みは以前より強くなっていた。

 点滴のボトルには明らかな氷が張り、呼吸のたびに白い霧が漂う。

 何かが違う。部屋の温度だけでなく、空気感そのものが変質していた。先ほどの看護師による医療行為。点滴に追加された薬。それらの記憶が徐々に戻ってきた。

「薬で眠らされた?なぜだ?」

 その瞬間、記憶の断片が急に鮮明になった。雪山。テント。そして......何か恐ろしい出来事。断片的に蘇る記憶の中で、何かが繋がり始めた。


 部屋の隅から、かすかな動きが感じられた。壁の暗がりから黒い靄のようなものが湧き出し、徐々に形を成していく。それは人のようでもあり、動物のようでもある四肢を持つ存在だった。床を這うように移動し、その動きには何か不自然さがあった。

 影は床を這ったまま、ベッドに向かって近づいてきた。その動きは不規則で、時折ピクリと痙攣するように四肢を動かす。顔のあるべき場所は暗く、ただ輪郭だけが認識できる程度だった。

 影がベッドの下に到達すると、病室の温度がさらに急激に下がった。点滴液が完全に凍りつき、金属部分に霜が花のように咲いた。

 突如として、影がベッドを登り始めた。四肢を使って器用に、しかし不気味な動きでシーツを伝い、ベッドの端から健太の方へと這い寄ってきた。

「近づくな!」

 叫んだが、体は依然として動かない。全身を覆う包帯が鎖のように健太を縛りつけていた。

 影は構わず進み、ついに胸の上に達した。そこで直立するようにして上半身を持ち上げ、腕のような先端を首に伸ばしてきた。

 冷たい感触が喉を締め付けた。その感触は氷のように冷たく、しかし確かな重さがあった。呼吸が困難になり、健太は必死で空気を求めた。

 その瞬間、左足に激しい痛みが走った。まるでナイフで切り裂かれるような、骨を砕かれるような激痛。足首から先が炎に包まれたように熱く、同時に氷のように冷たかった。

「うっ......」

 息ができない。視界が白く点滅し始める。

 このまま死ぬのか。この理解できない存在に殺されるのか。その思いが脳裏をよぎった時、突然の閃きがあった。

「夢だ......そうだ、これは夢だ」

 その認識が、健太の意識に明確に浮かび上がった。これは現実ではない。どこからが夢でどこからが現実かはわからないが、きっと自分は病院のベッドで昏睡状態なのだ。

「お前は俺の頭の中にいるだけだ」

 その言葉と共に、健太は意識の力で腕を動かした。包帯に覆われていたはずの腕が、意外にも動いた。全力で影の腕を掴み、首から引き離した。

「出ていけ!」

 怪異の体が揺らぎ始めた。その形状が不安定になり、輪郭がぼやけていく。健太は力を振り絞って体を起こした。

「これは俺の夢だ。すべて、俺が決める!」

 健太は直感に導かれるように、影の胸めがけて手を突き刺した。手が影の内部に入り込む冷たい感覚。

  突然、影が輪郭を取り戻し始め、人の形がはっきりと現れた。健太の手が影の胸を貫いたまま、影は悲鳴のような音を発し、体全体が霧のように消えていった。

 健太は深く息を吐き出した。左足の痛みは残っていたが、不思議と鋭さは失われ、鈍い痛みに変わっていた。心の重荷が一つ取れたような感覚があった。恐怖は消え去り、かわりに穏やかな疲労感が押し寄せてきた。残ったのは静寂だけ。異常な冷気も、奇妙な影も、すべて消え去っていた。病室は普通の病室に戻り、機械の規則的なビープ音だけが響いていた。

 ベッドに横たわり、天井を見上げる。もはやそこには不気味な模様も引っかき傷も見えない。ただの白い天井だった。

「美咲......」

 健太は小さく呟いた。彼女の存在について考える余裕はまだなかったが、少なくとも今はこの悪夢から解放されたのだ。

 深く安堵の息を吐き、静かに目を閉じた。今度は穏やかな眠りが訪れるだろう。そして目覚めたとき、真実が何であれ、それに向き合う準備はできていた。

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