第7話 白い迷宮
健太は暗闇の中で目を覚ました。
最初に感じたのは強烈な消毒液の匂い。次に意識したのは冷たさ。そして視界に広がる白い天井。病室だった。
体を起こそうとすると、驚くほど容易に動いた。点滴の針が腕からなくなっている。体中に痛みはなく、左足もしっかりしていた。
ただ、どこか冷たい。足元から膝にかけて、感覚が薄い。
「どうして...…」
つぶやいた。
部屋を見回すと、それは明らかに病室だったが、普通の病室とは違っている気がした。壁が白すぎ、天井が高すぎる。ベッドの両側には複雑な医療機器が並んでいるが、それらはどれも電源が入っていないようだった。唯一の光源は廊下から漏れてくる光だけ。
「看護師さん?」
声をかけたが、返事はなかった。
時計を見ると午前三時十分を指していた。
夜勤のナースが休憩中なのだろうか、それとも...…
なぜ自分はここにいるのだろう?マンションにいたはずではなかったのか?美咲と話していたのが最後の記憶だった。
意識が混濁し、記憶が泡のように浮かんでは消える。
ベッドから降り、おそるおそる廊下に出た。冷たい床を素足で歩く。
まるで自分の足ではないような、どこか切り離された感覚。
「誰かいませんか?」
声を上げたが、静寂だけが答えた。
廊下は異様に長く、両端が闇に溶け込んでいるように見えた。ナースステーションは無人で、パソコンの画面だけが青白い光を放っていた。
スクリーンに映っていたのは、「高橋健太 - 重度凍傷 - 左足切断」という文字だった。
寒気が背筋を走った。
背後から物音がした。振り返ると、廊下の奥から何かが動いてくる気配。床を這う音と、それに伴う冷たい空気の流れ。
「誰かいるんですか?」
震える声で尋ねた。
返事はなかった。だが廊下の闇から形が現れ始めた。それは人の形をしていたが、通常の歩行ではなく、四肢で床を引きずるように動いていた。その姿が光に触れても、はっきりとした輪郭は見えなかった。ただハードシェルを着たような痩せた人影であることだけがわかる。顔は暗く、目は窪み、うつろに見えた。
視界が狭まる。心臓が狂ったように鼓動を打ち始めた。足に力が入らず、廊下に倒れそうになる。
廊下の向こうからさらに闇が広がってくるようだった。不気味な存在感が廊下全体を満たしていた。
パニックに襲われ、反対方向に走り出した。足音が異様に響く空っぽの病棟。曲がり角を曲がり、なおも走り続ける。背後からは不気味な気配が迫ってくる。
「誰か!助けて!」
叫びながら走った。
廊下の突き当たりに緑色の非常口のサインを見つけた。
非常階段だ。
無我夢中でドアを開け、階段へと飛び込んだ。
冷気が階段に充満していた。上を見上げると、階段は霧のように白く霞んでいる。下を見ると、階段は闇に飲み込まれていた。凍えるような寒さが体を包んだ。
「どっちだ...…」
迷っていると、背後のドアが開く音がした。四つん這いの影が階段に入ってきた。
暗闇の中、その影は人の形をしながらも、どこか人間離れした動きをしていた。明確な顔は見えない。何かを探し求めるような姿勢。
恐怖に突き動かされて上へ向かって走り始めた。階段を二段、三段と駆け上がる。だが階段は終わりなく続くようで、何階分上がっても上階のドアに行き着かない。
影は不自然な速さで追いついてきた。その動きはぎこちなく、不規則に壁を伝いながら迫ってきた。速度は尋常ではなかった。まるで重力や物理法則に縛られていないかのように、壁から壁へと移動する。
手すりに掴まり、さらに上を目指した。振り返ると、影はもう間近だった。光の当たらない部分に身を潜めているため、詳細な姿は見えない。
だが存在感だけは明らかだった。冷気を伴う。冬の山から切り取られた闇。
「何なんだ!」
階段を駆け上がりながら叫んだ。
影から伸びた手が健太の足首に触れた。その指先は冷たく、凍えるような感触が左足首に伝わってきた。
触れられた瞬間、激痛が走った。
「離せ!」
足を振りほどこうとした瞬間、体のバランスを崩した。手すりに掴もうとしたが、指は空を切った。
体が宙に浮く。そして落下が始まった。
階段を転がり落ちる。壁と床に叩きつけられる痛み。頭を強く打ち、視界が白く閃いた。落下は永遠に続くようだった。各階の踊り場を過ぎるたび、風景が切り変わる。病院の階段、ビルの非常階段、急な山道、そして雪の斜面。
最後に見えたのは、階段の上から覗き込む影。その形は人の輪郭を持ちながらも、誰なのか判別できない。哀しみと諦め。言葉にならない感情が、その存在から漂ってくる。
健太は闇の中へと落ちていった。
「美咲...…」
落下の中で、彼女の名前を呼ぶ。だが返ってくるのは、風の唸りと雪の音だけ。
脳裏に雪山の記憶が断片的に浮かぶ。登山。突然の吹雪。テントの中での極度の寒さ。食料が尽きた。そして取り出されたナイフの冷たい輝き。
意識が途切れる直前、これらの記憶の断片が波のように押し寄せ、そして引いてゆく。捉えられない真実。記憶と幻想が渦を巻く中、健太は深い闇へと沈んでいった。




