第6話 消えない映像
一睡もできなかった。
朝の光が部屋に差し込んでいるのに、健太は昨夜の服のままソファーの上で固まっていた。セーターの袖を引っ張り、手を覆うようにして体を丸めている。喉は乾き、筋肉は緊張で硬直していた。四つん這いの影。冷蔵庫の赤い容器。カメラに映った病室の自分。美咲の不在。これらはすべて疲労と不安が生み出した幻覚なのか、それとも……
部屋の温度は一段と下がっていた。暖房は最大にしているはずなのに、呼吸のたびに白い息が漏れる。窓ガラスの内側には、霜の結晶が複雑な模様を描いている。二月の東京でこれほどの冷え込みは異常だった。
スマートフォンが振動した。美咲からのメッセージだ。
「おはよう。今日は午後から会えるね。体調はどう?」
彼女のメッセージを読んだだけで肩の力が少し抜けた。昨日の電話でのやりとりなど微塵も感じさせない内容だったが、彼女だけが唯一の心の支えだった。
「大丈夫。少し寝不足」
短く返信した。立ち上がろうとして、左足に体重をかけた瞬間、ナイフで刺されたような痛みが走った。息を呑み、足首を見る。特に外傷はないように見えるが、くるぶしの辺りの赤い線がより鮮明になっている。
部屋を見回すと、壁の質感が少し変わっているように感じた。白い壁紙が、わずかに薄く透けて見える場所がある。手を伸ばして触れてみると、壁は冷たく固いはずなのに、指先には別の異質な感触があった。まるで壁の向こう側に何か別の世界があるかのように。指を引っ込め、自分の感覚を疑った。
「気のせいだ」
そう自分に言い聞かせた。
キッチンに向かい、コーヒーを入れようとケトルに水を注いだ。水面に薄い氷が張りかけていた。冷蔵庫を開けると、牛乳もオレンジジュースも凍っていた。そういえば、冷蔵庫の前に落ちていたはずの赤い容器がない。床にこぼれた痕跡さえない。
テーブルの上を見た。昨夜あったはずのカメラがない。デスクの引き出しも開けてみたが、封筒に入っていた雪山の写真も消えていた。
一旦落ち着こうとリビングに戻り、ソファに深く沈み込んだ。突然、テレビの画面が自動的に点灯した。健太は驚いて体を起こした。リモコンには触れていないはずだ。
画面に映し出されたのは不鮮明な映像だった。静電気のようなノイズの中から、徐々に何かの輪郭が浮かび上がってくる。病院の廊下のようにも見える白い通路。その映像に健太は言いようのない不安を覚えた。
「何だこれは……」
見たくないという強い衝動に駆られ、リモコンの電源ボタンを押した。反応がない。もう一度、強く押す。画面は変わらず、むしろ映像がより鮮明になっていくようだった。
焦って何度もチャンネル切り替えボタンを押す。チャンネル表示の数字は確かに変わっていくが、映し出される映像は同じままだった。どのチャンネルに切り替えても、白い病院の廊下が映し出されている。
「おかしい!消えろ!!」
パニックになりながら、健太は何度もリモコンのボタンを叩いた。その間も、映像のカメラは少しずつ前進していく。まるで誰かが廊下を歩いているかのような視点で、ゆっくりと奥へと進んでいった。
やがて映像は病室のドアに到達し、それを通り抜けると、中には白いベッドが見えてきた。ベッドには人が横たわっている。カメラはその人物に向かってさらに近づいていく。
健太の手は震え、リモコンを落としてしまった。恐怖で体が固まり、目を背けたいのに視線が画面から離れない。カメラは容赦なくベッドに近づき、そこに横たわる人物の顔をクローズアップしていく。
汗と憔悴で青ざめた顔。それは紛れもなく自分自身だった。
「これは……」
眼球が乾いたように感じ、瞬きを繰り返した。テレビを消そうと立ち上がり、本体の電源ボタンを必死で押した。何も起こらない。画面内の光景は続き、ベッドの傍らに医師と看護師が立っていた。
「高橋健太さんはまだ昏睡状態です」
テレビから医師の声が漏れた。
「一週間経過しましたが、意識の回復の兆候はありません……」
恐怖に駆られて電源コードを壁から引き抜いた。だが信じられないことに、画面はまだ点いたままだった。医師は診断結果を説明し続け、看護師はカルテに何かを記入している。画面の隅には現在の日付が表示されていた。それは今日の日付ではなく、一年前のものだった。
「いや!」
叫びながらテレビに投げつけるために何かを手に取った。それは山岳部の集合写真だった。ガラスが割れ、額縁ごと床に落ちた。ひび割れたガラスの間から、写真の中の顔が見える。歪んでいてはっきりしないはずの顔たちが、全員こちらを見つめているように見えた。
インターホンが鳴った。飛び上がるほど驚き、玄関ドアを見つめた。美咲だろうか。約束の時間より早いが、今は彼女の存在が必要だった。
急いでドアを開けると、そこには配達員が立っていた。小さな荷物を持っている。
「高橋健太様宛てのお荷物です」
配達員は表情一つ変えずに言った。
「ありがとう」
とりあえずサインをし、荷物を受け取った。
差出人の名前を見て、血の気が引いた。斉藤剛とある。
震える手で荷物を開けた。中には古い登山用ナイフが横たわっていた。刃には赤茶色の染みがある。白い紙の緩衝材が赤茶色の染みを一層鮮明に浮かび上がらせていた。
ナイフを取り出そうとした瞬間、それは手から滑り落ちた。床に落ちたそれは、血に染まったように見えた。血だまりが広がり、やがて床を染め上げる。まばたきをすると、それは普通のナイフに戻っていた。
頭がめまいを起こしたように揺れた。これは幻覚なのか、それとも記憶なのか。現実なのか夢なのか判断できなくなっていた。
午後、美咲が来たときには、健太はソファに座り動けずにいた。部屋は極度に冷え込み、暖房をつけていても効果はなかった。左足は重く、氷の塊のようだった。
「健太、大丈夫?」
彼女は心配そうに言った。
「その後連絡がなかったから心配したわ」
朝のメッセージには返信したものの、その後の彼女からの連絡には応答していなかったことを思い出した。斉藤からの荷物を受け取った後、ずっと呆然としていたのだ。
「ごめん……考え事をしていて」
美咲は静かに部屋に入ってきた。彼女は異常に冷え込んだ室内に足を踏み入れたが何も言わず、白いダウンコートを脱いでソファの端に置いた。コートの下はいつもの青いワンピースだった。二月にワンピース一枚というのは薄着だが、彼女はまるで寒さを感じていないように見えた。壁に現れた奇妙な模様を視界に捉えたように見えたが、わずかに眉をひそめただけで、すぐに普段通りの表情に戻った。
部屋が変だと思わないかと尋ねたい衝動に駆られたが、言葉は喉の奥で凍りついた。彼女にも異変が見えているのか確かめたかったが、その答えを聞くことが怖かった。もし彼女に何も見えていないのなら、自分は本当に狂気に陥っているのかもしれない。もし見えているのに平然としているのなら、それはそれで恐ろしいことだった。
言葉に詰まったまま、健太は部屋の中を見回した。ふと思い出したように、先ほどの混乱で床に落として割れていたはずの写真立てを片付けようと視線を向けた。しかし驚いたことに、写真立ては元の棚に無傷で戻っていた。困惑してテレビを見ると、そこにもひび割れはなかった。しばらく前に興奮して投げつけて壊れたはずのものが、何事もなかったかのように元通りになっている。あの破損は幻だったのか。あるいは今見ている無傷の状態が幻なのか。
美咲は健太の混乱に気づいたのか、わずかに首を傾げた。
「何があったの?」
彼女は尋ねた。
「顔色が最悪ね」
「斉藤さんから荷物が……」
言いかけて止まった。部屋の隅から、かすかな動きが見えた気がした。
混乱する頭で、もう一度確かめずにはいられなかった。
「美咲、前にも聞いたけど、俺たちはどうやって出会ったんだっけ?」
彼女の目に一瞬、困惑の色が浮かんだ。先日のカフェでも同じ質問をしたばかりだ。彼女は少し考え込んだように見えたが、すぐに表情を柔らかくした。
「また忘れちゃったの?大学のサークルよ。私が写真部で、あなたが山岳部」
「写真部?」
言葉を反芻した。
「でも先日は病院で出会ったと言ったじゃないか。看護師として私の担当だったと」
美咲の瞳孔が一瞬だけ開いたかのように見えた。顔の表面がほんの僅かに硬直し、すぐに緩んだ。
「救助された後、病院で看護師として働いていたわ。大学は写真部だったの。記憶が混乱してるのね」
首を横に振った。頭の中で矛盾する記憶が衝突している。
「先日のカフェでは、大学の話はなかった。病院で会ったと言ったはずだ」
美咲は黙ってこちらを見つめた。唐突に、彼女の外見の完璧さに違和感を覚えた。髪型も化粧も服装も、いつ会っても整いすぎていて、人間らしい乱れが見当たらない。昨日も今日もいつ見てもまるでテレビで見る芸能人のようだ。彼女が美咲であることに変わりはないのに、その不自然なまでの完璧さが、かすかな不安を掻き立てた。
「健太、あなた疲れてるのよ」
美咲の声が遠くに聞こえた。
「それは凍傷の後遺症と、低体温症の影響かもしれない。一度病院に行きましょう」
頭を振った。混乱と恐怖で思考が乱れていた。壁はさらに変質し、輪郭が曖昧になり、現実感が失われていくように見えた。四角い部屋が丸みを帯び、天井が低くなるような錯覚。窓の外からは風の唸りが聞こえ始めた。
「あなたはまだ回復していないのよ」
「記憶が混乱してるだけ」
美咲の声が続いた。
「俺は……一年前に救助されたんだ」
「今は東京で、普通に生活している」
自分に言い聞かせるように言った。
美咲の顔が揺らぎ、その背後にある何かが透けて見えた気がした。まるで彼女の顔が薄いマスクのようで、その下に別の表情が隠れているかのように。そして彼女の背後、部屋の隅に何かが蠢いていた。初めは単なる影のようだったが、次第に人のような形が床から壁に向かって這い上がっていく。
「そうよ、だから心配しないで」
彼女は言った。
雪を切り裂く風の音が不自然なほど大きく聞こえてきた。窓の外に目をやると、そこには白い世界が見えた。視界がほとんど効かないほどの猛吹雪。そこは東京ではなく、雪に閉ざされた山の風景だった。
「美咲……」
震える声で言った。
「背後の窓の外は……」
窓の方に背を向けていた美咲は、これだけの音がしているのに、振り返ろうとしなかった。彼女の眼差しは健太から離れず、まるで窓の外を見ることを避けているかのようだった。
「大丈夫よ、ただの雪よ」
「あれは東京の雪じゃない」
健太は窓に近づこうとして立ち上がった。膝が震え、体が傾いた。
「あれは……雪山だ」
左足に激痛が走り、床に倒れ込んだ。足を見ると、くるぶしから先が霞んでいた。靴下を通して床の模様が透けて見えるようだった。
「足が……消えてゆく」
恐怖に声を震わせた。
美咲は足を見つめた。
「私には普通の足にしか見えないけど」
彼女は冷静に答えた。
壁から這い出てきた影が床に降り、四つん這いでゆっくりと近づいてきた。痩せ細り、四肢が異様に長く、顔の部分は暗く沈んでいた。
突然、部屋全体が揺らぎ始めた。壁が溶け、天井が低くなり、床が冷たく固くなる。空間が別の空間へと変容していくのを恐怖をもって見つめるうち、意識が闇に飲み込まれていった。




