第4話 凍てつく部屋
会議室の窓から見える東京の空は曇り空だった。健太は会議資料に目を通しながら、上司の山下の話を半分だけ聞いていた。新しいクライアントのプレゼンについての話し合いだ。
「高橋、このターゲット層の分析を担当してくれ」
山下が彼の方を見た。
「はい」
簡潔に答えた。具体的に何をすべきか、頭に入っていなかった。後で佐藤に聞こう。
会議が終わって席に戻ると、デスクの上に茶色の封筒が置かれていた。差出人の名前はない。健太は周囲を見回した。誰が置いていったのだろう。
封筒を開けると、中には一枚の写真が入っていた。雪山の写真。遠くにテントが見える。その場所を健太は知っていた。自分たちが遭難した谷川岳だ。写真の裏には手書きの文字。
『覚えているか』
その一文を見て、健太の胸に冷たいものが広がった。これは誰かの悪い冗談なのか。それとも……
「高橋さん」
佐藤の声に顔を上げた。
「山下部長が資料を欲しいと」
「ああ、わかった」
急いで写真をデスクの引き出しに入れた。
佐藤はこちらの様子をじっと見ている。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「ちょっと寝不足でね」
健太は立ち上がった。資料を取りに行かなければならない。
コピー室に向かう途中、廊下の突き当たりに人影を見た。背中を向けて立っている。斉藤に似ていた。健太は足を止めた。
「斉藤さん?」
思わず声が出た。
人影は反応しなかった。ただ立っている。健太は一歩近づいた。もう一歩。確かに斉藤さんの体格だ。肩幅、背丈、わずかに猫背気味の姿勢。
そのとき、人影の膝が折れた。
ゆっくりと、まるで糸が切れたように。まず片膝が床につき、次にもう片方の膝。それから両手が前方の床に伸びた。立っていた人間が、目の前で四つん這いの姿勢に崩れていく。 その動きには苦痛も慌てもなく、最初からそうなることが決まっていたかのような静かさがあった。
健太は凍りついた。
背筋に冷たいものが走った。たった今まで立っていた人間が、四つん這いで床を引きずるように動き始めた。顔は見えない。昼間にもかかわらず、その周囲だけが異常に暗い。
さっきまで斉藤さんに見えた後ろ姿。それが今、人間離れした四肢の動きで床を這っている。同じ存在なのか。健太の喉が締め付けられ、息ができない。
「誰だ......」
言葉を発しようとしたが、恐怖で声が掠れ、かすかな囁き程度しか出せない。
その存在の不自然な動きは、どこか人間離れしていた。四肢が関節から外れているかのような折れ曲がり方で、床を引きずるように進んでくる。床を這う音が廊下に反響し、その音だけが異常に鮮明に聞こえた。カリカリと爪が床を引っかく音。ズルズルと何かを引きずる湿った音。
健太の足は恐怖で地面に根を下ろしたかのように動かない。逃げろという脳からの命令が、麻痺した神経に届かない。視界の端が白く霞み始め、意識が遠のきそうになる。
逃げなきゃ......繰り返しそう考えるが、体が応じない。代わりに、古い記憶の断片が閃光のように脳裏に浮かぶ。雪山。暗闇。そして何かが雪の上を這う音。
その存在がさらに近づき、照明の光が少しずつその姿を照らし始めた。黒い何かの塊。人の形をしているが、どこか人間離れしている。顔のあるべき場所が暗く沈んでいて、そこから何かが滴り落ちているような錯覚を覚えた。
「高橋さん?」
背後から声がした。
その声に健太は跳ねるように振り向いた。心臓が喉元まで飛び出しそうになる。視界が一瞬白く明滅し、膝から崩れ落ちそうになるのをかろうじて踏みとどまった。そこには佐藤が立っていた。いつからそこにいたのだろう。足音は聞こえなかった。
再び廊下を見ると、そこには誰もいなかった。だが、あの変容は何だ。斉藤さんに見えた人影が、目の前で四つん這いに崩れ落ちた。あの光景だけが、あまりにも鮮明に網膜に焼きついていた。
「あの、資料……」
佐藤は不思議そうな顔で言った。彼の表情には明らかな困惑があった。健太の様子がどこかおかしいことに気づいているようだ。
健太は必死で呼吸を整え、震える手を隠すためにポケットに突っ込んだ。口の中はカラカラに乾燥し、冷や汗で濡れたシャツが不快に肌に張りついている。
「ああ、今取りに行くところだ」
健太は動揺を悟られないように平静を装ったが、自分の声が不自然に高く響くのが分かった。
コピー室で必要な資料を取り、山下のデスクに持っていった。普段通りに振る舞おうとしたが、先ほどの出来事が頭から離れなかった。あれは幻覚だったのか。それとも本当に何かがいたのか。
「高橋、これでいいよ」
山下は資料に目を通した。一瞬、健太の顔に視線を移し、眉をひそめた。
「それと、体調はどうだ?目の下のクマがひどいぞ」
「大丈夫です」
いつもの返事。いつもの返事? 健太は自分の口から出た言葉に引っかかった。この会話を前にもしなかったか。同じ言葉、同じ間合い、同じ場所で。
「本当か?」
山下は真剣な顔で言った。
「無理するなよ」
その口調まで前回と同じだった。健太は山下の顔を見つめた。心配そうな表情。
「問題ありません」
健太は断固とした口調で言った。休みたくなかった。仕事をしている間は、妙な考えや幻覚から逃れられる。
デスクに戻り、引き出しから写真を取り出した。確かに自分たちが遭難した山だ。しかし、この写真はいつ誰が撮ったのか。また、なぜ自分のデスクに?
差出人を突き止めるべきか。それとも無視すべきか。健太は写真をポケットに入れた。昼休みにでも考えよう。
昼休みになり、社員食堂に行った。味噌汁を一口飲むが冷たかった。おかしい。つい今しがた受け取ったばかりだ。
写真のことを考えていると、
「どこか調子が悪いの?」
同僚の女性が話しかけてきた。名前が思い出せない。
「いや、大丈夫」
健太は言った。
「ちょっと寝不足で」
「無理しないでね」
彼女は心配そうに言った。
「あと、これ」
彼女は小さな封筒を渡してきた。
「何だ?」
「さっき廊下で拾ったの」
と彼女は説明した。
「高橋さん宛だったから」
封筒には確かに自分の名前が書かれていた。ペンの字体は先ほどの写真の裏のものと同じだ。
「ありがとう」
健太は封筒を受け取った。
彼女が席を離れるのを待ってから封筒を開けた。中には小さな紙切れ。そこには『屋上』とだけ書かれていた。
健太は食事を中断し、屋上に向かった。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。心臓が早鐘を打っている。屋上に何があるのか。誰が待っているのか。
コートも取らずに屋上のドアを開けると、冷たい風がスーツの隙間から入り込んだ。誰もいない。健太は一歩踏み出した。東京の街並みが一望できる。空はどんより曇っている。
「誰かいるのか?」
声をかけた。
返事はない。屋上の端まで行き、ぐるりと見回した。本当に誰もいない。これは悪い冗談なのか。それとも……
戻ろうとした瞬間、何かが目に入った。屋上の隅、室外機の影に何か小さな物体が置かれている。近づくと、それは古いデジタルカメラだった。
カメラを手に取り、電源を入れてみる。写真を確認すると、一枚だけ入っていた。雪山の写真。先ほどのものと同じ谷川岳だ。しかし違う角度から撮影されている。
画面をズームしてみると、テントの中に何かの影が写っていた。暗がりの中でわずかに捉えられた不自然な形。床に伏した何かの輪郭が、四つん這いのような姿勢で静止している。薄暗いテントの中で、その姿のシルエットだけがぼんやりと浮かび上がっていた。
「高橋さん」
突然の声に、健太は驚いて振り返った。
佐藤が立っていた。また佐藤だ。廊下でも、ここでも、必要なときに必ず現れる。まるで健太の行動を常に把握しているかのように。
「山下部長が探してましたよ」
「ああ、すぐ行く」
健太はカメラをポケットに入れた。
「何か見つけたんですか?」
佐藤は尋ねたがその顔には何の感情もなかった。
「いや、何でもない」
オフィスに戻る途中、健太はカメラの存在が気になった。誰がこんなものを置いたのか。そして写真の中の四つん這いの影は何なのか。
業務に戻ろうとしたが、集中できなかった。デスクの上の書類が目の前でぼやけた。健太は目を閉じ、深呼吸した。
「高橋、大丈夫か?」
山下の声がした。
目を開けると、山下が心配そうに立っていた。先刻とまったく同じ表情で。
「ええ、ちょっと目が疲れただけで」
「無理するな」
また同じ台詞だ。健太は背筋がうすら寒くなるのを感じた。
「今日はもう帰っていいぞ」
帰りたくなかった。家に帰れば、あの異常な冷え込みが待っている。しかし、今の状態では仕事にならないのも確かだった。
「すみません」
健太は降参した。
荷物をまとめ、エレベーターホールに向かう途中、振り返ると、佐藤がデスクからこちらを見ていた。目が合うと、佐藤はすぐに視線を落とした。何でもない仕草のはずだが、健太の胸にかすかな不安が残った。
エレベーターに乗り込む前、廊下の突き当たりをもう一度見た。何もない。昼間見た四つん這いの影は幻だったのだろうか。
電車の中、健太はポケットからカメラを取り出した。もう一度写真を確認する。確かにテントから何かが出てきている。四つん這いの姿。ブレて輪郭がぼやけており、顔は見えない。
写真をさらにスクロールすると、もう一枚あることに気づいた。先ほどは気づかなかったその写真には……
健太は息を呑んだ。そこには白い雪原に赤い染みが広がっている写真。不鮮明ではあるが、赤い染みの上に座る人物の姿が写っている。その手には何かを持っているようだ。長細い物体。ナイフのようなもの。
人物の顔は見えない。撮影角度に加え、動きによるブレのせいだろう。その体型は一瞬、自分自身のように見えたが、よく見れば違う。
カメラの電源を切った。心臓が激しく鼓動している。自分ではないはずだという確信があるが、それでも、言いしれない不安が胸を締め付けた。




