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雪山の幻影【AI作品】  作者: マツリカイツカ


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第3話 這う影

 同僚たちと居酒屋に飲みに来ていた健太は生ビールをただ眺めていた。泡がゆっくりと消えていく。周囲の会話も遠くで聞こえるような感覚。意識はまだ昨日のカフェでの美咲との会話に引きずられていた。

「高橋くん、元気ないね」

 隣に座っていた女性社員が声をかけてきた。

「ああ、少し疲れてるだけだよ」

 と生返事をする。彼女の名前が思い出せなかった。最近、同僚の名前さえ時々忘れることがあった。

「斉藤さんのこと聞いた?」

 彼女は少し酔っているようだった。

「山下さんが言ってたよ」

 健太は思わずビールを置いた。斉藤という名前が出るたび、胸が締め付けられる感覚がある。

「何を言ってた?」

「生きてるんじゃないかって。山で見かけた人がいるらしいよ」

 彼女は小声で言った。またか。佐藤も同じことを言っていた。単なる噂話なのか、それとも根拠があるものなのか。

「そんなはずはない」

「あの状況で生きてるわけがない」

 健太の声は低く、固かった。

「でも遺体は見つからなかったんでしょう?」

 彼女は食い下がった。

「雪山だ。遺体が見つからないことはよくある」

 健太は理屈で返した。

「春になれば、雪解けと共に……」

 健太は言葉を途中で切った。雪解けと共に見つかるはずだった遺体。しかし春が過ぎ、夏も過ぎ、秋も過ぎた。それでも斉藤の遺体は見つからなかった。なぜだ。

 考えを遮るかのように彼女が質問してくる。

「あなたはどう思うの?一緒に遭難したんでしょう?」

 なぜ彼女はこうも執拗に聞いてくるのだろう。健太はトイレに行くと言い、席を立った。


 男性用トイレで、水を出したまま鏡に映る自分の顔を見つめる。顔色が悪い。目の下の隈は深くなるばかりだ。

「斉藤さんは死んだ。生きてるはずがない」

 自分に言い聞かせるように呟いた。

 その言葉が虚しく響く。斉藤が死んだという確信はどこから来るのか。実際に死ぬ場面を見たわけではない。記憶にないのだから。健太は蛇口の水に手を伸ばし、冷たい水で顔を洗った。

 そうだ、記憶にない。遭難中の三週間の記憶は大部分が欠落している。なぜ美咲は、斉藤さんの亡くなるところを俺が見たはずだとと言ったのか?考えても答えは出てこない。

 蛇口を閉め、ペーパータオルで顔と手を拭き、鏡に映る自分の顔を見ると、白い息を吐いている。それから、先程まで閉まっていたはずの個室のドアが開いていることに気がついた。

 健太は振り返った。ドアは確かに開いている。

 気になったので近づいてみると、中には誰もいなかった。

 トイレから出る前にもう一度振り返ると、なぜかドアは閉まっていた。

 酔ったのだろうか。健太は首を振った。疲れているのだ。もう帰るべきだ。


 席に戻ると、話題はすでに別のものに移っていた。健太は残りのビールを一気に飲み干し、山下に近づいた。

「すみません、お先に失礼します」

「もう帰るのか?」

 山下の顔には少し残念そうな表情が浮かんだ。

「まあ、無理するなよ」


 駅に着くと、最終電車にはまだ時間があった。ホームで電車を待つ間、美咲に電話をかけようかどうか迷った。この時間、彼女はまだ起きているだろうか。病院勤務だから、勤務シフトによっては眠っているかもしれない。

 結局、電話はかけなかった。とその時、目の前を人影が通り過ぎた。見覚えのある後ろ姿。斉藤に似ている。健太は思わず後を追いかけた。

 男はホームから改札方向へと階段を上っていく。健太も後を追う。ホームを離れ、駅の構内通路へ。人通りが少なくなっていく。男の足取りが妙に不規則だ。引きずるような、もたついた歩き方。

 構内通路の照明の下、健太は男の姿をはっきりと捉えた。黒いコートに包まれた痩せた後ろ姿。それは間違いなく斉藤に似ていた。

「斉藤さん」

 と呼びかけてみた。

 男は立ち止まった。ゆっくりと振り返る。顔がはっきり見えない。照明の死角に立っているからだ。

『健太、お前……』

 かすれた声。

 そのときホームからアナウンスが聞こえてきた。最終電車の発車時刻。健太はホームの方を振り向いて一瞬迷った。

 男の方を向くと、すでに男の姿はそこにはなかった。さらに改札方向に進んだのか。健太は走り出し、改札を抜けて駅の出口へ。

 外に出ると、わずかな人通りがあったが、男の姿はどこにも見当たらなかった。健太は息を切らしながらしばらく周囲を見回した。

「気のせいだ」

 と自分に言い聞かせた。似た人を見ただけだ。

 急いでホームに戻ると、電車はまだ出発していなかった。滑り込むように乗り込むと、座席に座らないで、扉の窓に額を寄せた。窓ガラスが冷たい。健太は目を閉じた。

 頭の中に雪山の映像が浮かぶ。テントの中。限られた食料。そして斉藤の声。

『高橋、俺はもう……』

 その先の言葉が思い出せない。何を言おうとしていたのか。


 マンションに帰宅してから、テレビをつけて音量を上げた。一人暮らしの部屋に人の声を充満させたかった。静けさが怖かった。静かになると、雪山での記憶が浮かんでくる。

 スマホが鳴った。美咲からだった。

「飲み会どうだった?」

「途中で帰ってきた」

「みんな楽しそうだったけど、俺には……」

「無理しなくていいのよ」

 彼女の声には温かさがあった。

「体調はどう?」

「大丈夫」

 健太は答えた。実際は違ったが、彼女を心配させたくなかった。

「じゃあ金曜日、家に行っていい?」

 美咲が言った。

「ああ、いいよ」

 健太の声に生気が戻った。

 彼女の声を聞くだけで、部屋の冷たさも和らいだような気がした。今日一日の疲れや不安も少し軽くなる。

「ゆっくり休んでね」

 美咲の声には笑みが含まれていた。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 電話を切った後、健太はソファに深く沈み込んだ。不思議なことに、部屋の温度が少し上がったように感じた。美咲の声を聞いただけで、冷え込んでいた空間が徐々に温かさを取り戻していくようだった。彼女の存在が、どれほど彼を支えているか。金曜日にまた会える。その思いを胸に、健太はベッドに向かった。

 久しぶりに安らかな眠りに落ちることができた。悪夢も、幻聴も、不安もなく、ただ静かな眠りの中で休むことができた。美咲の声が、彼の心と体を癒していた。

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